一護の帰還に先立つこと、数日。
喜助は黒猫姿の夜一から状況を説明されていた。
ばらりと広げた扇子で口元を隠して、小さく溜息を落として喜助が言う。
「あらあ、じゃあ一護さんでしたか」
「……知っていたのではないのか」
「確信はなかったですよ。まあ……千早さんが一護さんの中に、ザンゲツを入れたことは知っていましたけどね」
「儂は知らん」
「あたりまえですよ。夜一さんはどんと腰を据えるってことをしてなかったんですから。話ししたい時には、姿なし。そのことで誰かを責めることなんて、出来ませんよ」
ふんと鼻で笑って。
黒猫の夜一はとことこと歩を進め。
喜助の胡座の上に、座り。
にゃあと泣いた。
喜助が思わず瞬きをして。
「……夜一さん?」
「なんじゃ」
「で、それ以外のお話はないんですか」
「まあ、追々の」
溜息を落として、喜助は広げた扇子をゆっくりとたたんで、胡座の中にしどけなく伸びきった黒猫の背中を撫でた。
ゆっくりと。
そして、小さく笑った。
「そうっすね。もう事はなっちまったんだから。考えても、しゃあないっす」
「……一心どのとお主の放逐は解かれることになるじゃろうの」
「ああ、そうっすね」
本当ならば嬉しいはずなのに。
この先に待ち受けること、自分が成さねばならない義務と責任とを思って、喜助はまた溜息を落とす。
「帰ることになりますかねぇ、あっちに」
「嫌か」
「……嫌じゃあないですけどねぇ。ああ、でもマユリくんがきっと嫌な顔、するでしょうね」
「ふん。あやつか」
夜一は背中を撫でられながら、不穏当な台詞を吐いた。
「あやつの頭の良さは分かる。お主が後を託した者だということも分かるがな。千早もあの時、憐情などかけずにいっそ一思いに始末してしまえばよかったものを」
それは数年前、技術開発局現局長の涅マユリが引き起こした事件のことを指す。
引き起こされた事態に千早が激怒し、技術開発局を破壊し尽くしたということを現世にいた二人は聞かされていた。
困惑した笑いを浮かべながら、喜助が応える。
「勘弁してくださいよ、あれにはあたしも責任、あるんすから」
「そんなことは知らぬわ。千早があれほど激したのは先の事以外では……ああ、藍染惣右介が姿を消すときも随分と、激してはおったが」
「玄鵬一統は、優しいんですかねぇ……千早さんは最後まで藍染を切り捨てられなかったんでしょ?」
「藍染慎之介の唱えることも一理あり、と思うておったようじゃの。だが、それは権力を望む者の利己でしかないわ。ゆえに千早が心を煩わすことでもないのだが、千早は心根が優しいのじゃ」
「あたしや、夜一さんとは違いますねぇ」
「……そこで儂の名前が入ることには文句をいうわ」
と言いながら、ふくらはぎに痛みを覚えて喜助は一瞬言葉をのんだ。
「ちょ、夜一さん! どこで爪研いでんすか!」
「お主の足じゃ。少しばかり削れてもよかろう」
「いいわけないじゃないっすか!」
撫でていた背中を力任せに摘み上げて、喜助は夜一を自分の視線に上げた。
「痛いっす」
「……下ろせ。これも痛いわ」
「はいはい」
静かに床に下ろされて、夜一はちらりと喜助を見上げて。
「準備をしておけ。黒崎家と共に穿界門を渡ることになるぞ。なにせ」
夜一は静かに言う。
四楓院家の嗣人じゃからの。行かぬわけにはいかぬだろうが?
「……まあ、そうなんですけどね」
夜中とはいえないけど、客として訪うには幾分遅い時間に、喜助の姿は黒崎家にあった。
「どうも〜、一心さん♪」
「……今日は急患が多くて疲れてるんだ。おめえの相手をするのはたくさんだよ」
さりげなく返された『帰れ』の意思に動じることなく、喜助は広げた扇子で口元を隠しながら、
「そうっすか。夜一さんがいい話、持って来てくれたのに。聞かずに寝ちゃうんですかねぇ」
「………そう言う嫌味な言い方、治せって言っただろが」
「以後気をつけます〜。あのですね、わざわざお知らせに来たのは、息子さんのことです」
一瞬冷たい視線を送った一心だったが、
「なんだ。一護がどうした」
「はい。さっき夜一さんが帰ってきて。一護さん、正式に5代霊王になったそうですよ〜、峻至園に霊王廷まで出しちゃったらしいですから」
さらりと告げられた驚愕の真実。
だが、一心は渋面のまま。
「そうかよ」
「…………それだけっすか?」
「なんだよ、ほかにあるのかよ」
「普通は、うちの息子に限って! とか、そんなはずない〜とかあるんじゃないっすか?」
一人で百面相をしてみせて、それから喜助は首をかしげる。
一心は初めて苦笑してみせて、
「あほか、お前は」
「ええ、これって普通な反応だと思ってましたけど?」
「………覚悟は、してたんだよ」
千早の掌に輝くもの。
それがゆっくりと眠る我が子の胸の中に消えていくのを、一心は眉を顰めたまま見つめていた。
本当は、一護の中に例え害がないだろうと分かっていても、異物を埋め込むなど嫌だったのだ。
なのに受け入れた。
もし、いつかのように自分が傍にいない時に一護が襲われるような時があったら、その時一護の魂魄の中に埋め込まれたザンゲツは必ず一護を守ると約束してくれたのだ。
それを信じて、一心はザンゲツが一護の魂魄で眠ることを許した。
ザンゲツは、いずれ現世で生まれるはずの自分の持ち主を探すのだという。
『一兄。もしもだけど、一護がその持ち主だったらどうする?』
『はあ? おいおい、それはないだろ? だって、ザンゲツって言ったら初代霊王の斬魄刀だったんだろ? そんなの持つのって』
『うん。霊王になる可能性が出てくるわね』
さらりと返した妹の言葉に、一心は不機嫌そうに眉を顰めてみせて。
『可能性って、5代霊王は玄鵬からだろうが』
『玄鵬一統だったら、一護もありえるわよ……今思ったんだけどね』
冗談よ、と告げたけれど千早は幾分真剣な表情で、
『どうする、一兄』
「そういわれたとき、俺は返事できなかったんだよ」
「……まあ、そりゃそうっすね。我が子がまさか霊王だなんて、想像もつかねえのが普通っすから」
だけど、一護が長じるに従って、あどけない表情の中に、双子を守ろうという強い意志が見える時、時折思うようになった。
「こいつはどうなるんだって、な」
「……どうなるって」
「単純に、どうなるんだろうって」
「言ってる意味がわかんないですよ」
肩を竦める喜助がふと顔を上げた。
気配を察したのは、一心も同じ。
小さく苦笑してから、声を上げた。
「来てたのか、夜一さん」
答えは、猫の鳴き声だった。
「……なるほどな」
喜助が語らなかったことを補うような夜一の説明に、一心は嘆息して。
「うちの馬鹿息子が、そんなことになってるとはな」
「だから、あたし、さっきからそう説明してたじゃないですか」
喜助が幾分いじけたように声を上げるが、一心はちらりと喜助を見遣って、
「確認だ、確認」
「……なんかトゲがあるんすけどねぇ」
「気のせいだ」
「まあ、これで千早も決心がついたようだ。空鶴も岩鷲に定めた」
夜一の言葉に、一心が頷いた。
「玄鵬は理靜、四楓院は喜助、朽木がルキア、斯波が岩鷲ということか」
「うむ」
「準備万端ってことっすかね」
喜助の膝の上に猫姿の夜一が身軽く上がり、それから首を横に振った。
「穿界門の補強には、問題ないがな」
「………問題はほかにあるってか」
「黒崎、お主の息子の前には大きな壁が聳えておるやもしれぬ」
夜一の言葉に、一心は苦笑ともとれる笑みを浮かべて。
「さてね。俺には分からんよ。俺の役目は、霊王の父親じゃねえからな。それを全うしねえと顔向け出来ねえ」
誰に対してか、言わなかったけれど。その答えは喜助も夜一も分かっていた。
「……そうっすね」
「うむ」
「明日には、帰ってきますよ」
「おう。まあ、飯ぐらいは作っといてやるか」
一心の言葉に、夜一は再び猫声で応えて。
「まあ、とにかく。これからじゃな」