空に浮かぶは、真円の月。
かすかに肌寒さを感じて、一護は息を吐き出しながら、身を竦める。
見上げれば、寒々しいほどに晧晧と輝く月がある。
尸魂界で見る月は、現世で見るそれと大きさが違う。
明らかに大きいのだ。
それ故に、そしてその純白の輝き故に、今宵のような肌寒い夜には一層の寒さを体感させる。
「……さむ」
「何をしている」
声とともに降ってきたのは、柔らかな布。
「風邪を引く」
その言葉で振り返り、一護は小さく笑った。
「やっぱり白哉か」
「……やはりとは」
「今日宿直は六と十一で、剣八んところは今ごろ宴会だから」
用意された言葉に、朽木白哉は目を細めた。
「……兄は私を待っていたのか」
「違うけどさ。俺がうろちょろしてたら、出てくるのは白哉だと思った」
さらりと告げて、一護は自分の首元に柔らかく巻かれた暖かなものを握った。
薄く、柔らかな生地。
白哉を見れば、その首元にいつもある薄絹が見えなくて。
一護は自分の首元からそれを取ろうとするが、白哉の声がそれを留めた。
「構わぬ」
「いや、俺がいやだって」
その価値は、恋次に聞いたことがあった。
とてつもなく価値があるもので、流魂街にあっては一生(魂魄に一生があるのかと、突っ込みたかったけれど)遊んで暮らせるそうだ。
「……兄が風邪を召す」
「バカは風邪を引かないって言うぜ?」
「兄はバカではない」
断ずるように強い口調で告げて、白哉は背を向けた。
「兄は子供ではない。だが、子供でもある。それはいつでもよい。私は帰る」
そして、姿を消す。
一護は薄絹を握り締めて、小さく笑った。
「………なんだよ、そりゃ」
月は輝く。
静かな夜の瀞霊廷に。
薄絹を抱えたまま、立ち尽くす一護の上に。
「あ?」
不機嫌そうな答え、首だけで振り返れば一角が首を竦めた。
「いや、だから……」
「一角、はっきり言った方が隊長にはわかりやすいと思うけど?」
弓親の言葉に、剣八の表情が一層不機嫌になる。
「なんだ、一体」
「いや、だから…最近、玄鵬隊長じゃなかった、玄鵬さんが来ないなぁと」
「それがどうした」
「……いや、言っただけっす」
「ふん」
再び歩き始めた背後で、一角と弓親がひそひそと言葉を交わすのが気に入らなくて、剣八は足を止めた。
「なんだ、一体。千早がどうかしたのかよ」
「…いやあ、妙な噂が聞こえてきたんで」
「あ〜、じれったい!」
弓親が言い出せない一角の足を踏めば、一角が思わず身体を揺らし、弓親はその隙に自分の身体を押し込んで、
「隊長、直球で聞きますけど」
「おい、弓親!」
「なんだ、さっきから」
「玄鵬さん。おめでただそうですよ、だから最近屋敷にこもりっきりだって。もしかして、子供の父親って」
「知るかよ」
弓親の問いも直球なら、剣八の答えも直球だった。
一瞬にして返されて、弓親も言葉を失う。
「え?」
「知るかよ。あいつがガキ生もうと、どうしようと俺は知らねえ」
「あれ?」
弓親は首をかしげながら、ようやく言葉を探し出す。
「でも、玄鵬さんと隊長、すごく仲良しですよね?」
「……あれを仲良しって言えるお前を、俺、尊敬するよ……」
一角が嘆息混じりに言う。
顔を付き合わせればいがみ合うところしか、記憶にない。
数ヶ月に一度は、鬼道衆に結界を張って貰って、真剣勝負をやらかす仲が、『仲良し』と言い切る弓親の意見にどうしても賛成できなくて、剣八に聞けなかったのに、弓親は端的に問う。
「そうですかねぇ……てっきり僕は」
「知るか……そうか、最近顔を出さねえのはそのせいかよ」
ふんと鼻で笑って、剣八は背を向けた。
少し前に、交わした言葉。
恋仲の男女が交わすような、甘い言葉ではなかった。
『お前がそれでいいなら、俺もそれで構わねえよ』
『そう、ありがとう』
それは甘い会話ではなく、むしろ契約だった。
剣八と、彼女が交わした契約は、誰にも知られることはない。
もしかしたら、永遠に日の目を見ない契約となるかもしれない。
だが、剣八はそれでもよかった。
「………まあ、いいさ」
小さな呟きは、背後の二人までは届かなかった。
聞こえてきたのは、幼い頃よく耳にした童謡。
筆を持ったまま、一護が視線だけを泳がせれば、開け放たれた扉の向こうに、鼻歌を歌いながら通り過ぎる、少女の姿。
少女の鼻歌に、一護は今日が何の日か理解する。
「ああ、そっか」
「一護……先にこちらに目を通して」
理靜に促されながら、書類に目を落としてから、一護は恐る恐るお伺いを立てた。
「あのさ、理靜」
「だめ」
あっという間に却下されて、一護が小さくぼやこうとしたときだった。
「ダメだよ、一護。少なくともあと5枚の申請書には目を通してもらわないと。その後、お休みするのは自由だけどね」
「え?」
「ほら、あと5枚」
ぽんぽんと書類を執務机の上に並べて、物分りの良い従兄はにやりと笑った。
「七夕、だからね」
「お、おう」
「ささのは、さらさら〜、おちばにゆれる〜」
「………落ち葉かよ」
織姫の鼻歌に、一護は思わずツッコんだ。
織姫が振り返り、小首を傾げる。
「あれ、違う?」
「落ち葉、じゃなくて軒端、だろ」
「のきば?」
「おう。軒先って意味じゃねえのか?」
「そうなんだ、ふ〜ん、ずっと不思議だったんだよ。落ちてる葉っぱとお星様の歌って変だなぁって」
「変だって自覚はあるのか」
「?」
「まあ、いいさ」
一護は織姫が手を伸ばす笹を見上げた。
「でかいな、この笹」
「今日七夕だって言ってたら、ちょうど白哉さんが通りかかって。手配してやろう、って」
白哉の声色をまねしたような低い織姫の声に、一護は苦笑する。
「あいつが、かよ」
「えっと、尸魂界は季節がないから……」
織姫が続く言葉を思い出そうと空を見上げる。
その言葉を接いだ者がいた。
「季節がない故に、季節の行事は趣があってよろしいから、行えばよいと父上は仰ったな」
「朽木さん!」
「何か飾りになりそうなものを持ってきた。これは使えるか?」
ルキアが両手いっぱいに抱えてきた飾り紙を見て、織姫は目を輝かせる。
「うん!」
女子二人が楽しそうに笹を飾りつけるのを、一護は一歩下がって見ていた。
「参加、しないのかい?」
「ん?」
振り返れば、物分りの良い従兄が苦笑しながら立っていた。
「参加したいから、サボりに行ったんだとばかり思ってた」
「まあな……だけどさ、楽しそうだからさ」
「そうか」
「なんかさ、遊子と夏梨が七夕とかクリスマスとか飾り付ける時もこんな感じなんだよ」
「にぎやかだな、同世代の女性がいると」
「同世代、ねぇ」
霊王廷の中庭に据えられた笹は、色とりどりの飾りをその中に含みながら、サワサワとたおやかな風に揺れていた。
「出来た、な」
「うん!」
「そういえば」
ルキアは笹を見上げている織姫を見た。
「七夕は織姫と彦星が一年に一度の逢瀬を楽しむ日、ということだったな」
「そうだよ」
「井上、お前の名前は織姫から来ているのか?」
「ん?」
小首を傾げる織姫に、ルキアが言う。
「素敵な名前だとは思うが…違うのか?」
「うん、多分そうだね。あたしの名前をつけたのは、お兄ちゃんだから」
かわいそうな、子。
父親にも、母親にも愛されない、可愛そうな子ども。
でも忘れないで。
兄さんは、織姫を愛しているからね。
「……あたしね、生まれた時にお母さんに捨てられたんだって」
「え」
織姫は少し伏目がちに言う。
「お父さんにとっても、お母さんにとっても、あたしは要らない子どもだったんだって」
「井上……」
「でもね、お兄ちゃんはあたしを守ってくれたの」
生まれたばかりの妹をかいがいしく世話をしたのは、年の離れた兄だった。
時折気まぐれのように繰り返された両親の暴力からも、無関心からも、妹を守り続けた兄・昊だった。
織姫、という名前を選んだのも兄だった。
『昊』にある幾億の星の中で、兄が選んだのは美しい女性、一途に恋人を待つ星の名前。
おりひめ?
そうだよ、織姫。その星には、たった一人の女性が住んでる。
一年に一度、鵲が渡す橋を渡って来る恋人を待ってるんだよ。
? いっかいしか会えないの? さみしくないの?
どうかな。でも、きっと思ってるよ。会えなくても、気持ちは通じているって。
だからね、織姫。待つ強さだけじゃなくて、信じ続ける強さも大事だよ。
しんじつづける、つよさ?
「井上」
「信じることって、大変だね。でもね、お兄ちゃんがあたしの名前を決めた理由を教えてくれた時に思ったんだ。強くなりたいって」
強くなりたい。
信じ続けることができるように。
「それは…大変なことだな」
「そうかな」
「………だが、お前には出来る。そんな気がする」
ルキアの言葉に、織姫は一瞬キョトンとした表情を浮かべて、やがて満面の笑みを浮かべて。
「ありがとう!」
「ルキア、井上!」
遠くで一護が手を振る。
「星祭りの宴会だと! 来いよ」
「ああ」
「は〜い」
揺れる笹葉に結び付けられた短冊。
『がんばるよ、お兄ちゃん』
サワサワと、笹葉とともに夜風に揺れていた。