第1章〜第4章(1919〜1924)



無敵




「…なんだと?」
『あ、あれ? 先生のところに話、行ってないんですか?』
【弟子その2】が慌てて、言い訳をしている。
もしかして、自分の方が早く連絡をしてしまったのではないか、とか。
イズミのこめかみに、青筋が浮いているのをアルフォンスが思い出さないはずはないのだ。
『……先生?』
「アル」
『はい!』
「アレク…だったな、奥さんは。どうだ、子どもも順調か?」
『ええ、まだ仕事するって走り回ってるんですけど、安定期に入ったから悪阻もずいぶんと楽になったそうです』
こんな会話を、アルとする日が来るとは。
不意にそう感じて、イズミは苦笑する。
『あの…先生?』
「アル。このこと、エドには言うなよ。身体の具合もいいから、セントラル、近いうちに行く。奥さんにも会いたいし」
『わかりました…』
兄弟でも弟の方は、とにかく察しがいい。
その言葉だけで、師匠が企んでいることが何か判ったのだろう。
『じゃあ、お気を付けて』
「うむ」
イズミは穏やかに、受話器を置いて。
隣の厨房で包丁を研いでいた、夫のシグに声をかける。
「あんた」
「聞こえた…明日から1週間なら店を閉めてもいい」
「さっすが、あんただね〜」
イズミはにんまりと笑って。
だがすぐに表情を変える。
「さて。不肖の弟子を、躾し直さないとね…」



え? 聞いてないんですか?
姉さん、明後日結婚するんですよ?



「やばい、やばいよ。絶対やばいって〜〜〜」
静かに受話器を置いて、アルは思わずリビングを走り回った。
冷や汗が、止まらない。
困った。
絶対、先生は何かする。
姉さんは、きっと忘れてるだけなのに。
「アル?」
大きなお腹を撫でながら、アレクがリビングに入ってくる。まるで迷った子犬のように、クルクルとリビングを周りながら絶叫している夫を思わず心配しない妻はいないだろう。
「もしもし、アル?」
「アレク〜、どうしよう。姉さんが」
「ん? エドがどうかしたの?」
「……先生に、殺されちゃうよ    
「……は?」



「う〜ん、まあ、個性が強い人だって言うのは、なんとなく知ってたけどね。でも、アル。そこまで心配しなくても」
ボロボロボロボロ。
涙をこぼしながら、如何に師匠が無敵な存在であるか、説明する夫を苦笑ながらアレクは落ちつかせようと試みるが、
「だってさ。僕らは」
「ア〜ル〜」
よほど子どもの頃の修行が辛かったのか、かつてエドも身を竦めながら【師匠の恐ろしさ】を訥々と語っていた。
だが、アレクはアルの話がエドの話と違うことを思い出す。
「ねえ…でも、確か準備を始めてすぐに、師匠に電話したけど居なかったって言ってたよ。あの人は煩いから、必ず連絡しないと後が怖いって…それにおかしいでしょ? 招待状を送ってるはずなんだけど」
「あ」
そうだ。
結婚式の準備にとりかかってすぐ、招待状を書いてエドは送っていた。
世話になった人には来て欲しいからと、ずいぶん遠方の人間にも送っていたし、電話も頻繁にかけていた。
なのに、
それも、
よりによって、
イズミ?



「おはようさんです〜…って、あれ? メイスンさんだけかい?」
「ん? あはは〜、店長と奥さん、また旅行に行っちゃったからね」
にこやかに告げる留守番のメイスンに、郵便配達人は天を仰ぐ。
「そりゃいかんな…さて、どうしたものか…」
「え? なんか、あるんですか?」
郵便配達人は何通かの郵便物をメイスンに渡して、脇のバックからもう一通を取り出した。
「これなんだけどね、実は奥さんに謝らないといけないんだよ。こちらの手違いで、先月届いてたのに、ほったらかしだったんだよ」
メイスンは不思議そうにその上等な紙を使っている封筒を受け取り、裏の送り主の名前を見た。
「あ」
「ん?」
「あちゃ〜…エドちゃん、ついてないねぇ…」



師匠へ。
元気ですか?
俺、今度…ロイ・マスタングと結婚することになった。
で…アルとその奥さんのアレクが、結婚式しろってうるさいし、ちゃんと晴れ姿見てもらいたい人には招待状を書けってうるさいし…。
えっと、師匠にはお世話になったんで。
来てください。
では。
エドワード・エルリック。



その手紙を、イズミが開封するのは結婚式のあとになる。



「え?」
「のようだよ。おめでとう…大佐」
「……ホントに?」
「そんな嘘をついて、どうするんだね?」
思わず切り換えされたアレクの言葉に、軍医は苦笑する。それもそうだ。診断結果を嘘で教えて、軍医に得など何もない。
「それはそうだね…」
「準備、してるんでしょう? 買い足さないといけないねぇ」
「ですね…」
穏やかに、アレクは自分の腹部を撫でる。
正直、出産経験のないアレクでも、このお腹は大きすぎると思っていた。
レイシアも、7ヶ月のアレクのお腹を見て、
『これは一人じゃないわね』と指摘した。
それでなくても、軍服は既に着用出来ず、上官、つまりロイの許可を得て、私服での軍務を許されていた。
だが、二人入っているとするなら、もっと大きくなるだろうし、何より。
「そうだよね…アルは、一人のつもりでせっせと準備してるし」
二人になれば、子育ても倍の忙しさになるだろう。
苦労は、たくさんある。
けれども、アレクは一人苦笑して、呟いた。
「喜びも、二倍だね…」
そして、そっと腹部を撫でた。



「ここでいいから」
「でも、大佐」
「あなたも勤務があるでしょ。あたしはここで買い物をして、帰るだけだから」
今日は午前中勤務で、午後は軍病院での定期検診。
あとは帰るだけなので運転手をしてくれるラツィオを勤務に戻したくて、アレクはデパートの前で下ろさせたのだ。
「ホントにいいんですか?」
「うん。タクシーでも拾うから」
「…わかりました。あ、タクシーも捕まらなかった時は電話下さいね。誰か来てもらうようにしますから」
「はいはい」
双子だとしたら、買いそろえてはいるベビー用品をもう少し買い足しておかなくては。
それに家具も、手配をした方がいい。
アルがいたならば、それを自分で運ぶつもりなのか、と怒られそうだとは感じながら、アレクはデパートに入っていく。
何度かアルと訪れたベビー用品売り場はすぐに見つかって。
入ろうとした時、阻まれた。
正確には壁があって、入れなかったのだ。
壁。
というほど、身長が高く、何より筋肉の山だった。それはアームストロング中佐を連想させる壮年の男だった。
「あの…」
アレクがおそるおそる声をかけると、男はゆっくりと振り返り、低い声で言った。
「何かね?」
「すみません、入りたいので通して貰えませんか?」
「む?」
そこで男は初めて、自分が通路をふさいでいたこと、自分に声をかけたのが妊婦であることに気付いて、明らかに態度を変えた。
「これは失礼…通れますかな?」
小さく小さく。隅に寄ってくれたおかげで、アレクは何とか通路を通り抜け、笑顔で男に振り返る。
「ありがとうございます」
「いやいや」
そのとき、アレクは奇妙な既視感を感じた。
にこやかに微笑んでいる、この第二のアームストロングとも言うべき男。
どこかで会ったことがある。
どこだろう?
そのとき、近くでがさごそと探っていた女性が声をあげた。



「あんた。どっちがいいかね?」
「む?」
小さくなっていた男は、女性が差し出す乳児用の服を見比べて。小さく言う。
「俺には、さっぱりだ」
「はは、聞いたあたしがバカだったね。あ、あんた」
突然、女性に指差されて、アレクは周囲を見回すが、再び女性がビシッと指差すので思わず自分を指差しながら、
「あたし?」
「そう、あんた。あんただったら、どっちが欲しい?」
「どっちって…」
この人はなんのつもりだろう。
ベビー用品売り場で、全くの他人に、乳児用衣服を選ばせる女性。
すぐ後ろには困り顔の店員もいるというのに。まさしく、他人への贈り物を、見ず知らずの他人に選ばせているという事実に、彼女は気付いているのだろうか。
「ほら、どっちだよ?」
きりりとした眥の女性が差し出すのは、右手に半袖の乳児服。左手に長袖の乳児服。アレクはおそるおそる聞く。
「あの…今、何ヶ月のお子さんなんですか?」
「え? さあ…確かまだ生まれてないね。この前電話で安定期に入ったから、悪阻が落ちついたって」
「お客様。そのお洋服は生後5ヶ月くらいからのお召し物ですから、悪阻が落ちついた頃だったら、半袖のお召し物の方が」
「あんたには聞いてない」
ずばりと、店員の助け船を切って捨てて。女性はずずいとアレクに接近して。
「妊婦のあんたに、聞きたい。どっちがいい? あんたの意見を尊重させてもらう」
それって、丸投げっていうんだけど。
つっこみたくなって、でも今はさっさと答えを与えた方が、この少しきつい表情の女性は満足するだろうと考えて、半袖を指さす。
「あたしはこっちですね。自分の子供がそのぐらいの時に、必要なのは半袖なんで」
「あっそう。じゃあ、これ包んでね」
あっさり決めて、レジに向かう無敵な女性を、しかしアレクは先ほどの男と同じく、既視感を感じた。
どこかで。
会っている。
ふと、そう思い。
そして、思い出す。



『俺達に体術と、錬金術と…命の重さを教えてくれたのは、師匠だったよ』
穏やかに、しかし懐かしそうに微笑む、エド。
『……先生に、殺されちゃうよ    
全て本気な、アルフォンスの怯え。
『まあ、飾っておいても損なんて無いからな。ていうか…魔よけだな』
ケラケラと笑うエドの執務机に飾られた、写真。
筋肉もりもりの男と、それに比べて小柄な女性。
本当に幸せそうに、写っていた写真。
それは、イズミ・カーティスとシグ・カーティスの写真だった。



「あの…もしかして、イズミさん?」
「む?」
思いもしなかった呼びかけに、包装のためしばし待たされたイズミは振り返る。
先ほど無理を言って、アルへの祝いを選んでもらった妊婦が驚いたように立っている。
しかし、なぜこの妊婦が自分の名前を知っているのだろう?
「そうだが?」
「やっぱり。写真で見たから…思い出せなくて、すみません。私、アレクサンドライト・エルリック・ミュラーです。アルの…アルフォンスの」
「奥さんかい?」
「ええ」



「は?」
『は? じゃなくて。デパートで一緒になったから、うちに来てもらってるのよ。いけなかった?』
妻の電話越しに落ちついた口調からは想像つかない言葉に、アルは絶句する。
アレクが午後から検診に行くことは、朝出勤前に聞いていた。
だから、検診結果が気になって電話したのだが、最初は帰っていないようで出ない。
数度かけたあと、新妻はおっとりと電話に出て、とんでもない事実を告げたのだ。
『カーティスさんご夫妻にきてもらってるの』
カーティス。
それが誰の名前なのか、アルは数瞬考えて、恐ろしい可能性に行き着いた。
「それって…イズミ・カーティスとシグ・カーティスって名前?」
『他に誰がいるのよ。エドのこと、あたし説明しておいたから。そしたら、軍司令部に乗り込むなんてことはしないから…代わりにロイとエドを至急、早退させてでも連れてきてくれない? 結構怒ってらっしゃるからね。急いだ方がいいわよ』
おっとりとした口調で、アレクは緊迫感を感じさせない。
だがその一方で最後に言った。
『あ、そうそうイズミさんが来てることは言わないで、連れてきてほしいんだって…あたしのことでもネタにしていいから』
なかなか、個性の強い、先生だわね。
穏やかに笑っているアレクには【先生の暴力】は向かっていないようで。
あたりまえだ。
アレクが妊婦なことは、先生も知っているはずだから。
アルは慌てて立ち上がり、荷物をまとめ。
「アルフォンス・エルリック、早退します!」
研究員が顔を上げた時には、研究所長の姿は既になかった。



「は? なんだよ、それ」
「だからさ、姉さん…僕を助けてよ。アレクがなんか企んでるんだとは思うけど。とにかく姉さんと少将…兄さんにもすぐに、早退してでも来て欲しいって」
アルは、なんとかいい理由を考えつけず、とりあえず広域司令部の姉の執務室に飛び込んで頭を下げたのだ。
明日の結婚式から1週間、休みをもらうつもりでエドは結婚式の準備を進めながら、いつもより多い、つまり上司達の嫌みで押しつけられた仕事を、すごい勢いで片づけ終わり、一息ついていた時に、弟が駆け込んできたのだ。
姉さん、アレクがうちに来て欲しいって!
「…またアレクのことだから、なんかだとは思うんだけどな。まあいいや。ちょっと待ってろ」
エドは小さく溜息をついて。受話器を持ち上げた。
「ああ、大尉? うちの無能、仕事、進んでる? あれ、それはすごいね…もし早退させてもいい? うん、アレクが呼んでるらしいんだ…」
一瞬苦い表情をしたエドだったが、一つ深呼吸をして、
「少将。あのさ、アレクが今すぐ家に来て欲しいって言ってるらしい。アルが呼びに来た。早退できるか? は? ああ、じゃあ待ってる」
「どうだって?」
答えは分かっているけれど、アルは聞いてしまった。エドは難しい表情を浮かべて、
「まったく! すぐに飛んでくるよ。多分…ハボック中尉が車回してくれるみたいだけど」
エドはバタバタと荷物を片づけ、自分の部下に声をかける。
「明日の式、全員来れるんだよな?」
「はい、伺います」
「おう。ああ、休みの間、書類は第1研究所のうちの弟…こいつに回してくれよ」
「わかりました」
てきぱきと休みの間の指示を出しながら、片づける姉の姿を、アルは呆気に取られて見ていた。
こんな、姉を見たことがなかった。もともと指揮官に向いていることは知っていたし、アレクもそう言ってきたけれど、実は想像したこともなかった。
優秀な軍人で。
優秀な指揮官な、エドを。
そんなアルの耳に、何かが疾走する音が聞こえてきて。
同じく聞こえていたのだろう、エドが眉をひそめる。
「あの無能…引き継ぎ、ちゃんとしてきたのかよ」
「……したんじゃない? あの、扉を開けておいた方がいいん」
じゃないか。
そう続けたかったけれど、その前に開けるはずだった執務室の入り口のドアが勢いよく開いた。
そこに立っていたのは、息せき切って立ち尽くす男。
「エ、ド…」
「ばっかじゃないの! ハボック中尉と一緒に車で待ってればいいじゃんか」
明日には婚姻を交わす、しかしきつい新妻の言葉にめげずに少将はアルの両腕をつかむ。
「アレクに何かあったのか!」
「え、あ、そうじゃないんですけど…」
「おい、少将。そういう話じゃないって。そう言う話なら、アルが真っ先に帰ってるはずだろ?」
確かにエドの言うとおりで。
【兄】は深く溜息をはく。
「わかった…」
「まったく、このバカ。荷物も何も持たずに来たのか…あ、ブレダ中尉」
少し太り始めた身体を、汗だくで運びながら少将の部下が、少将が放り出して行った荷物を少将に渡す様子を見遣りながら、アルは内心呟いた。
アレク、やっぱり僕、可愛そうだよ…兄さんと姉さん。
でも…言っちゃダメなんだよね。
脳裏に浮かぶのは、穏やかな微笑みを浮かべながら拳をポキリポキリと音をさせている師匠の姿で。
ああ……2人とも、ゴメン!



「アレクさん」
「はい」
「あんた…幸せそうだね」
アレクはおっとりと頷いて。
「アルと結婚できて、あたし、本当に良かったんです」
「子どもは、予想外だったんじゃないのかい?」
イズミの言葉に、アレクは苦笑する。
「正直言うと」
「……まったく、アルもぶっ飛ばさんといけないか」
「起こったことを咎めるよりも、起こったことにどう対処するかが大事ではないですか?」
穏やかに、穏やかに夫に対する【躾】を止めようとする妻の姿勢に、イズミは少なからず感心した。
「アルは…いい奥さんをもらったね」
「恐れ入ります」



かつて。
イズミは、自分に宿った子どもを、小さな命を生んでやることができなかった。
それ故に。
錬金術師として高い能力を持ち、それを完璧に御せると思っていたために。
我が子の人体錬成を行い。
自分の内臓を。
再び子どもを生む能力を。
喪った。
そして、自分の弟子たちが同じことを行うのを、止められなかった。
その命の重さを、弟子たちに伝えきれなかったことを悔いて、イズミは賢者の石で身体を取り返した弟子達にどんなに勧められても、自分の身体を人体錬成しようとはしなかった。
世界のすべては、等価交換では説明できない。
けれども、等価交換でなくてはならないものもある。
自分は、等価交換の定めにおいても、人体錬成を行うには相応しくない。
何より、自分に戒めを忘れさせないためにも、今の状態でいい。
だが、アルが結婚と妻の妊娠を電話で告げた時、涙を流して喜んだ。
そして感謝したのだ。
アルを受け入れてくれた、アレクサンドライト・ミュラーという女性に。
それを言葉にしたくて、イズミは中央まで来たのだ。



「アレクさん」
「はい?」
「アルと…一緒になってくれて、ありがとう」
「え?」
無敵な女性の、殊勝な言葉にアレクは小首を傾げて。それでもイズミは続けた。
「アルもエドも、間違いを犯した。人体錬成は、世界の禁忌。それは恥とすべき、錬金術師の暗部だ…あれたちは、それを自覚せぬまま、母を錬成した。そして…それを今でも後悔している…それは私も同じだから」
「イズミさん」
気付けばイズミの背後で、巨大な筋肉の塊、いや、シグがイズミを見守るように立っている。イズミは続ける。
「だから、エドも迷い続けたことを私は知っている。アルが恋愛に臆病だったところがあったのも、知っている。それでも、最後は相手なのだ。だから…私は、あなたに感謝する……アルを受け入れてくれて、ありがとう」



玄関の呼び鈴が鳴ったかと思うと、アレクが出ようとする間もなく、少将が飛び込んできた。
「アレク! 何が…」
「アレク? げ」
「……先生、お久しぶりです」
事情が飲み込めない少将、カーティス夫妻を確認して言葉を失うエド、項垂れているアル、お茶をすするアレク、ニヤリと笑っているカーティス夫妻。
それぞれの感情が錯綜していた。



「あんた、綺麗だねぇ」
「ああ。まあ、お前の方が綺麗だけどな」
「いやだ、あんた!」
バッシとツッコミと手が出るが、そのぐらいでは夫は動じない。
イズミは、指輪を交換する少将と、黄金の花嫁を見つめる。
昨日。
当然、結婚式の連絡が遅れたことを怒られると思ったエルリック姉弟だったし、【師匠の怖さ】を聞かされていた少将も幾ばくかの恐怖を考えていたけれども、イズミは結局誰も怒らず。
ただ明日の結婚式への出席と、少将へ一言。
『エドを…頼む』
少将は、黙って頷いた。
「ねえ、あんた」
「ん?」
「……アルんところの子ども、双子らしいよ」
「む?」
「生まれたら、また見に来ようね。アレクが…是非とも、見に来てくれって言ってくれたから」
エドとアルにとって、お二人は親代わりなんですよ。だから…遠慮せずに、いつでもおいでてください。
お待ちしてますから。
優しい言葉は、既に母親のもので。
イズミは白いドレスのエドと、その傍らに立った少将とアル、そして大きなお腹を抱えているアレクを見て微笑んだ。
「あたしらの、子どもが旅だったってことかね」
「今度は孫、ってことか」
「いやだ、あんた。あたしら、まだまだ孫って歳じゃなあないよ」
「それもそうだ」



無敵の女性の、莞爾。
それは幸せな日の、違う幸せを示すもの。


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初宵




エドはとにかく、かなり照れくさかった。
原因は色々あるけれど。
数週間前から同居している男が、今日から夫という関係になったこと。
そして、結婚式をあげたのが今日の昼間で、ヒューズ大佐に散々、
『今夜が初夜か〜』
とからかわれたこと。
義妹のアレクは、にこにこと微笑みながら、兄同然のヒューズを窘める。
『マース、初夜だなんて』
『だってさ』
『もう同居して2週間でしょ。何もなかったはずないじゃない』
どちらが極悪か、判ったものではない。
アレクはけろりとした表情で、ヒューズに言う。
『マース、いつかはエリシアだってこうやってお嫁に行くんだからね』
やっぱり、一番の極悪はアレクだ。
がっくりと項垂れるヒューズを横目に見ながら、エドは苦笑した。
新居として少将が用意したのは、将軍クラスの官舎の中でも広い。それは夫妻2人共が国家錬金術師で、かなりの蔵書を持っていることを考慮し、ホークアイ大尉が申請してくれたおかげだった。
引っ越しは既に終わっていた。
場所も中央司令部に車で10分。
アルとアレク夫妻の官舎まで徒歩で5分。
そんな理想的な新居のリビングで、エドは困っていた。
何を、話そう。
初夜だから、特別しなきゃいけない事なんて何もないからね。
グレイシアとアレクがそう言ったけれど。
「エド」
背後から声をかけられて、エドは思わず肩を竦めた。
「な、なに?」
「……いや、私の書斎に君の蔵書が紛れていたから、渡した方がいいと思っただけだが…どうかしたのか?」
不思議そうに自分を覗き込む、夫の視線を真っ直ぐに受け入れられず。
エドは視線をそらしたまま、
「なんでもない」
「そんな風には見えないなぁ…ああ、そうか。マースか」
ヒューズがエドをからかい、アレクによって撃沈されたあの場所に、エドをエスコートしながら少将もいたのだ。
「…改めてすることなど、何もないな」
「そうなんだよなぁ…」
ようやく肩の力が抜けて、エドはソファに横になる。少将は持ってきた書物をエドの寝転がるソファの前に置かれたテーブルに置いて。
「アレクがな。面白いことを言っていた。シン国の東に小さな国があるだろう?」
「ウルーシェ…だっけ?」
何を言うのか、興味があった。興味津々で身を乗り出してきた新妻を見遣って、少将は苦笑しながら話を続ける。
「ウルーシェは貴族制だろう? そのうえ、あそこは女系家系で、女性は実家で生活するんだそうだ。中でも貴族の結婚は日にちを選んで、夫が妻の寝所に夜だけ通うそうだ…。3日連続」
「へぇ…」
「で、3日目にはようやく朝までいることを許される。そこで食事を取ることができたら、その夫は妻の家族に認められたことになるそうだが…ある美人が、男を試すためだったのか、自分に1000日通ってくれたら、正式に結婚してやると言って、男は999日通ったそうだ」
エドはうんうんと頷いて、話の続きを促す。
「で?」
「男は999日通って、病気になった。ところが1000日目には男はちゃんと通ってきたのに、朝の食事には姿がなかったそうだ…美人が調べさせると、男は自分の家で死んでいたという。さて…この話を、どう思う?」
少将の謎かけに、エドは頭をひねる。
いろいろと考えつく。
例えば、男は1000日目にどうやって美人のもとに行ったのか、とか。
1000日も通わせる女は、ひどいとか…。
「よくわかんないけど…1000日も通わせてれば、女の人も少しは譲歩してもいいかな…って」
「ほう。この話を聞いた時、私はこう思った。1000日目に通う時、男はきっと心だけを飛ばしたんだ。美人の元に。そうしてでも、彼女の下に行きたかったんだろうと」
少将の応えに、エドは数瞬考えて、
「ああ、そうとも考えられるな」
「アレク曰く、これに正解も不正解もないのだろうということだった。そして、これに応えさせることで、相手がどういう人間か少しだけかいま見ることができるといったな…ということは、エドは男のために、譲歩してやってもいいということだな」
「……あんたはどうなんだよ」
悔しくて、エドが切り返すと、少将はしれっとした表情で応えた。
「私は何年も、思い人を待った人間だからな。応えもそうだろう?」



出会いは、ひどいものだった。
エドは、もちろん少将も覚えている。
片腕をもぎとられ、包帯が痛々しく少女の身体を覆っていた。
だから、男は彼女をその男名から【男】だと、思ったのだ。



禁忌を、おかした報いだった。
『等価交換』で、エドは腕を、足を、無くした。
絶望、していた。
蘇らせることができなかった、母。
身体を無くした弟のために、巨躯の鎧に魂を定着させた。
人の命を、魂を、自分は弄んだ。
それも、母を、弟を。
身体を喪った痛みと共に、エドは底知れぬ絶望をその身に感じていた。
あの時、絶望の海から自分をすくい上げてくれたのは、ロイ・マスタングという名前の光だった。
軍の狗になることと、身体を取り戻すための研究と資金。
提示された可能性に、エドは飛びついた。



忘れるはずがない。
国家錬金術師の可能性と限界を提示した時の、黄金の双眸の輝き。
それまでは怪我の所為か、痛みの所為か、どんよりと朽ち葉色にしか見えなかった輝きは、みるみるうちに黄金に、太陽の輝きを照らしていた。
少将は、純粋に少年が楽しみな人材で、優秀な人材を軍に入れることで自分の味方を増やすことができると考えたのに。
それが、いつの間にか守りたい、愛しい存在に変わった。
だが、少将はそれを押し隠した。
隠さねばならなかった。
自分は14歳も年上であり、
相手は幼い少女であり、
自分と弟の身体を取り戻すという、誓いの為に国家錬金術師になったのだから。
自分の思いだけで、少女を籠の鳥にするのは、あまりにも惨いと思った。
そして、少将は沈黙を守り続けることになる。
愛しき、少女のために。



「…なあ、ロイ」
「む?」
「あのさ。ロイは…いつ、俺のこと、好きになったんだよ?」
「?」
「俺、聞いたことないんだよな」
「……そうだったか?」
少将はしばらく考えるが、確かにエドにそのことを告げたことはない。
「…そうか」
「なあ、どうして?」
「…私に話をさせるということは、エドも同じ話を私にしないといけないが…いいんだね」
「う…」
一瞬言いよどんだ新妻は、やがて頬を染めながら小さく頷いた。
「わかった…」
「じゃあ、私から言おう。あれは」



エルリック姉弟が、まだ【鋼の兄弟】と呼ばれていた頃。
中央司令部に移ったばかりの、マスタング大佐は、中央司令部内で道に迷っていた。
認めたくはないけれど、迷っていたのだ。
それは今思えば、国家錬金術師専用の国立図書館第2分館へ続く道で。
何度も通った道だったのだが、なぜ迷ったか、なぜそこに至ったのかすら覚えていない。
なぜなら、そのあとの記憶が鮮烈過ぎて。
とにかく、眩暈がするほど忙しい時期だった。嫌がらせのように仕事が舞い込み、それを簡単にこなしているように見栄を張るのに、神経はすり減っていって。ホークアイ中尉が何度も、休みを取るように言ったのに無理をおして仕事をしていた。
そのせいか、極度に疲れていたのは、間違いないのだ。
あの時、高熱で世界が回っていたのも覚えている。
『お? 大佐じゃねえかよ』
声は聞こえた。
だが定まらない天地、揺れる世界の中で黄金の双眸だけが、視界をよぎる。
『……鋼の…』
そのまま足腰に力が入らず、座り込んでしまう。
『お、おい! ちょっと大佐、大丈夫かよ?』
『すまない…少し、このままで』
『そりゃいいけど…あんた、顔が紅くないか?』
ひんやりと冷たい左手が、額に触れて。
『おい、熱あるんじゃねえ?』
『…構わないから、このまま…』
『…俺、面倒なんて見れないぜ?』
冷たいな、鋼の。
普段だったら、そう切り返すのに、それも出来ず。大佐は苦笑することが精一杯で。
そのとき、先ほどよりもひんやりとした感覚が額を覆う。
目を見開くと、視界を灰色が覆っていて。
『こんなぐらいしか出来ないからな。少し落ちついたら、中尉を呼ぶよ。まったく…こんな熱のある身体で仕事するなんて、やっぱり無能じゃねえか』
毒づく少女の、それでも機械鎧の右手は心地よく冷たくて。
大佐は思わず、微笑んで小さな声で呟いた。
『ありがとう…』



「……弱ってる時って、たいしたことされてなくても良かったって思えちゃうんだってな…」
「エド。そういう否定の仕方はよくないと思うぞ」
少将の言葉に、エドは顔をしかめて、自分の首筋を撫でる。
「だってさ。熱があるときに、機械鎧が冷たくて、良かったんですなんて言われても、俺、困るし…今機械鎧、ないしさ…」
「だから、きっかけの話をしていたんじゃないのかね。私は、そのとき、君を自分が意識していると感じたんだ。だが…それを君に伝えなかっただけだ」
「ふぅ〜ん…」
「で?」
ずずいと身体を乗り出す少将の勢いに、エドは思わず身を竦めた。
「な、なんだよ」
「約束しただろう? エド。君はいつ、私を好きだと感じたんだね?」
「……それは…」



エドは、その年月日まで覚えていた。
1918年、6月18日。ヒューズ大佐が重傷を負う事件の、前日。
マスタング准将の下で働き始めて、既に3年。
それは何気ない、准将の一言だった。
『鋼の。君は本当に、可愛いことをするな』
それは死刑執行直前のテロリストの妻のたっての懇願で、まだ一度も面会したことのないテロリストとその娘を会わせてやったことだった。
戸籍上の関係が認められないと、面会は出来ない。
決死の思いでテロを決行するために、テロリストは事件の前に妻と協議離婚していた。
だが、そのあとで妊娠が発覚。生まれた娘を、テロリストはその名前と成長を写真の中だけで見つめてきたのだ。
それ故に、よけい哀れだった。
テロリストと戸籍上関係のない娘が会うのは、不可能。
まして、処刑は翌日に差し迫っており。
直訴に駆け込んだ妻に、エドは処罰覚悟で、幼い娘を抱えて刑務所に【視察】に入った。
直接2人を会わせることはできなかったが、独房の中から死刑囚は涙ながらに娘の名前を呼び、娘も『パパ?』と声をあげた。
処罰は、免れた。少女を抱えて刑務所視察を行っただけに、処罰を与えるのは間違っていると准将もアレクも援護してくれたからだ。
そして、先ほどの准将の一言。
エドは言葉の意味を数週間の間考え続け、准将の視線に気づき…。



准将の、視線は優しくて。
そして熱くて。
その意味は、一つしかないことに、エドは気付かされ。
悩んだあげく相談した弟には、
『鈍感なのにも限度がある…誰だって気づいてた』
あまりの話に愕然とする。
『その、つまり、知らなかったのは…』
『目の前にいる、バカ姉だけ』
あまりの弟のきつい一言に、エドは必死に弁解する。
『でもさ、みんな聞かないじゃんかよ』
アルは冷めた視線を1人でパニックに陥っている姉を見やって、
『あのね。姉さんには言えないじゃない。あんな優しい目で焔の准将が見つめているのに、何年たっても気づかないドンカンには。だから准将に言うんだよ。そしたら准将は必ず言ったらしいよ。鋼のには黙っておいてくれって。アレクから聞いた』



「本当に、君という…人は」
苦笑しながら、いつの間にか少将が隣に座っていた。
エドも苦笑しながら、
「うん。すっごい鈍感だった。というか、もしかしたらどこでロイの気持ちに気付いて、自分で自分を騙していたのかもしれない…そんな気がする時もあるんだ。アレクが時々そう言うんだ。エドは、自分に正直じゃない時がある。自分で自分を覆い隠してしまっているって」
「ほぉ?」
「うん…でも、気付けてよかった」



それは、エドの、本心。
満面の笑みを浮かべる新妻を、ロイは抱きしめる。
「ちょっと、ロイ…」
「私は幸せだな…君という存在を知って、愛して、待って、受け入れてもらって…」
「ずっと…一緒にいてくれるかい?」
「あたりまえだろ? そのために、俺たちは結婚したんだから」



夜は更ける。
2人の時間を、優しい闇で包み込んで。


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