第1章〜第4章(1919〜1924)



誕生




それは10月のはじめ。
すっかり大きくなったお腹を抱え、アレクはアルと一緒に散歩に出た。
「う〜ん、いいお天気」
「そうだね。最近、家の中にいてばかりだったから、いい気分転換になるかな?」
夫の言葉に、アレクは頷く。
「おかげで、裁縫に料理は上達したけどね」
もともと一度凝ると、極めたくなるという錬金術師の性である。
予定より早めに産休に入ると決めて、1ヶ月。
子ども達の身につけるものはすべて自分で縫い上げ、今まではどちらかというとアルが作っていた日々の食事も自分で作るようになっていた。
「アレクも出来れば、出来るのに」
なんでしないかな? 夫の言葉に、アレクは苦笑する。
「だって、家に帰れば至れり尽くせりでやってくれるから」
正直、結婚してから気付いたのだ。
アレクが実は東方で最大とも言われる大富豪ミュラー家の財産を受け継いではいるけれども、それを身内に任せて自分は軍人をしているという、実は隠されていなかった、事実に。
「そうだよなぁ……アレクはお嬢様なんだよねぇ」
「そうそう。だから、アルは逆玉の輿になるんだよ」
アレクの言葉に、アルはふむふむと頷いてみせて。
アルは手を出す。
「?」
「ゆっくりですけど、歩きましょうか? お嬢様」
「やだな、奥様、でしょ」
にこにこと笑うアレクの、その言葉の意味をアルは知っている。



4歳の時、父を亡くした。
同じ年、狂った母が死んだ。
アレクは母が遺した傷痕と戦いながら、祖父と少将とヒューズに守られながら生きてきた。
だからこそ、だろう。
家族に、憬れていた。
家族を作ることを、望んでいた。
その一方で、家族を作ることに、恐怖を感じていた。
自分が、妻となれるのか。
自分が、母となれるのか。
妊娠が発覚した時、一番喜んだのはアレクで、
一番恐怖したのも、アレクだったのだ。



アルもそうだ。
物心ついた時には、父はいなかった。
母の愛情を受けて育ったけれど、5歳で母は病没した。
幼い姉と二人、身よりもなく取り残され。
隣に住むロックベル家と、リゼンブールという田舎故に村人が何かにつけて気にかけてくれたおかげで、アルは育ったといってもいい。
だが、それでも寂しさはぬぐいきれず。
闇夜に深更まで姉と錬金術について語り合っても、姉はいつの間にか眠ってしまって。
苦笑しながら、暖かな姉のベッドに潜り込んで、眠りにつくまでのわずかな時間の、心に凍りつくような、悲しみ。
母さんがいれば、こんなこと、思わないですむのかな?
漠然と、少年は寝息を立てる姉のそばでそんなことを思いながら眠りにつくのだ。
アレクの涙ながらの謝罪のような告白に、驚きを感じて、戸惑いを感じて。
でも、何よりうれしかった。
父を知らない自分が父になるのだと、気づいたとき。
戸惑いよりも、何より喜びでいっぱいだった。
だからこそ、アレクに言ったのだ。
父親や母親に【なる】んじゃない。子供に【親として育ててもらおう】と。



「あ」
小さな声を上げて、アレクが足を止める。
アルが振り返ると、アレクが腹部を優しくなでながら笑顔で言う。
「ダブルで蹴った」
「え?」
アレクの中にいるのは、双子だとわかったのはエドと少将の結婚式の前日だった。
確かに出産経験者のグレイシアからは発覚前から絶対に双子だと言われていたし、少しばかり腹部のふくらみが大きいのではないかと、アレクとアルでも思っていたのだ。
「どれどれ?」
「わかる?」
どちらかが中から蹴っているのか、たたいているのはよくあるのだが、明らかに腹部の端と端で蹴られている感覚がわかるのは、滅多にないのだ。アレクもわからないだろうと思いながら、腹部に手を当てる夫を見やったが、
「あ」
「あ、今の?」
ポコンとポコ。
小さな振動だったが、自分の手を通じてわかったその振動にアルは目を輝かせた。
「すごいね」



エルリック家が双子の家系であることをアレクが知ったのは、エドの結婚式に出席するために中央に顔を出していたピナコ・ロックベルに初めて会った時に聞かされた話によってだった。
『ばっちゃん、僕の奥さん』
『おや、大きなお腹だね。双子かい? やっぱりエルリックは双子が生まれるねぇ』
実は。
フィリップ・ホーエンハイムとトリシャ・エルリックの間に生まれたのはエドとアルだけでなく、二人の前に女児の双子がいたのだという。だが、体が弱く1年もしないうちに早世した。かつてピナコはトリシャからエルリック家には何代かに必ず双子が生まれると聞かされたという。
その後に生まれたエドに男名をつけたのは、先に亡くした双子のことがあったのは間違いないだろうとピナコは言った。
無事に、育て。
たとえ迷信と夫に笑い飛ばされようとも、トリシャは譲らなかった。
我が子の、無事に成長できることを祈って。
我が子の、幸多からんことを祈って。



それは10月の終わり。
10月にしては珍しく暖かく。
その上、エドが珍しく有休でエルリック家を訪れ、午後の一時を過ごしている時、仕事を早く切り上げたアルが【身重の奥さん】を心配して帰ってきて、エドはそれを揶揄する。
「まったく、アルったら心配性だね」
「よく言うよ。姉さんが同じことになったら、少将は軍を辞めて姉さんに無事に生まれるまでべったりくっついて離れないよ、絶対にね」
「う…」
それが容易に想像できて、エドは眉をひそめる。
「アル、コート」
アルから受け取ったコートを軽くはたいて、アレクは寝室に続くクローゼットにしまう。
そのとき。
何か、奇妙な感覚を下腹部に感じて、アレクは行動を止める。
何が、あるのか。
想像つかない事態にアレクは少し身を前屈みにして、少し動かずに待っていたけれど、何も変化はなく。
アレクが気の所為かと苦笑しながら、一歩踏み出した瞬間。
太腿を何かが伝う感触に、一瞬にして凍り付く。
エドをからかうアルの声が聞こえているのに、どこか遠い。
その透明な液体に、アレクはようやく事態を把握した。そして一つ深呼吸して、自分の下腹部をゆっくりと撫でて、呟くように言う。
「もうちょっとだね。大丈夫、お母さんがんばるからね」
そしてゆっくりと歩を進める。
「…って、ロイが言うんだよ。まったく困ったもんだと思わねえか?」
「姉さん、そういう惚気はうちで言っても仕方ないよ」
アルはエドに返事をしながら、ゆっくりと深呼吸をしながら歩いてきて、ソファに深く座ったアレクの、少し緊張した表情を見逃さず。
「アレク、どうかした?」
「…ん? ああ、多分生まれるんじゃないかな」
あっさりと告げられた言葉の真意を、エルリック姉弟は理解できず。
数回瞬いて。
「あの、アレク?」
「今…生まれるって?」
「うん。もうすぐ陣痛も来ると思うんだ」
至極あっさりと衝撃発言を繰り返す妻に、アルは頭が真っ白になる。すでにコーヒーカップを握ったまま硬直してしまった姉は、小さな声で、
「うま…うま…」
呟く声が、パニックを表していた。
「アル、お願いがあるのよ」
「え?」
「いい。よく聞いて。陣痛が始まったら病院に行くから、車を準備して。それから病院に持って行く必要なものは、寝室のあたしのベッドの下に全部用意してあるから、持ってきて」
「あ、ああ…」
「エド。エド!」
強い口調で呼びかけられて、エドも我に返る。
「お、おう」
「病院に電話して。電話番号はそこに書いてあるから。それからロイと、マースと…グレイシアに電話してね」
「わかった」



少将とヒューズが病院に駆け込んだのは夕刻だった。
「遅い!」
涙目のエドがグレイシアに慰められながら、夫を責める。
「俺が電話したの、昼過ぎだったじゃんかよ!」
「すまない、会議中で」
「そんなに慌てなくても、子供は飛び出して来ないからなぁ」
ヒューズ大佐はすでに2人の子持ちだけあって、対して緊張していないようだが、グレイシアが首を振る。
「エドちゃんが電話してすぐに陣痛が始まったんだけど、間隔が短くなる前に破水したのよ。一人出てき始めているんだけど、破水が早かったから時間がかかってるんですって」
その説明で、ヒューズはすべてを察した。
「母体が危険になる可能性も覚悟してくれって、さっきアルくん説明されていたけど、アレクが絶対に生むんだって言い張ってるって」
そのとき、低い呻き声が響き、エドは身を竦ませて耳をふさぐ。
「いやだ、こんなの…」
「エドちゃん、しっかりして。私も、あなたのお母さんも、この痛みに耐えて、子供を産んだの…世界の原則が等価交換だっていうなら、これがそうよ。それでも、私はエリシアを、リチャードを生みたいと思った。そう、これは一つの、必ず通るべき道程なんだから」



「いいんだね?」
問い返しながら、アルはアレクの手のひらを強く握り込む。
涙と汗とで、ずたぼろだけれども、自分はちゃんとアルに笑顔を返すことができただろうか?
そう考える間もなく、アレクを陣痛の波が襲い、アレクは全身に力が入る。
「力を抜いて!」
助産婦の声に、無理だと答える気力もない。
「生ませて、ください。妻も望んでいます」
「…わかりました」
主治医の声が低かったことが意味することはなんだろう。
何かを考えようとするたび、陣痛に襲われ、アレクは声を殺して、アルの手を力の限り握りしめ、痛みをやり過ごそうとしていた。
「よし、頭が出た」
かつて母に虐待された時も、背中を火傷したときも、これほどの痛みを感じたことなどなかった。
「お母さん、力みなさい! 力いっぱい!」
助産婦の声に、アレクはアルの手を握りしめ、渾身の力を振り絞った。



力強い泣き声に。
分娩室の外に座り込み、顔を伏せていたエドがはじかれるように顔を上げた。
「…生まれた?」
「よっし、アレク! よくやった」
快哉をあげたのは、ヒューズだった。



第1子はあれほど痛みに耐えながら生んだのに、第2子は助産婦に『なんて親孝行な息子なんだろうね』と感心されるほど、あっけなく生まれた。産声は兄と同じく元気なもので、二人とも産湯につけてもらって安心したのか、小さな手足を動かしながら眠っている。
「ちっちゃいね」
後産までずっとアレクの手を握っていたアルが笑顔でアレクに言う。アレクも満面に笑みを浮かべながら、
「本当に…こんなちっちゃくっても、命なんだね」
自分の両脇に寝かされた双子の、本当に小さな小さな指に自分の指を添えてやると、力強く自分の指を握るのがわかった。
アレクはその感触を感じた瞬間、涙がこぼれた。慌ててアルが問う。
「アレク?」
「ううん、すっごくうれしいの…本当にうれしいの…生まれてきてくれて、ありがとうって言いたいの」
「そうだね。本当に…ありがとう」



「なあ、ロイ」
「む?」
病院の待合室に座り込んだエドは小さくため息をついて。
「俺さ。アレクに陣痛がきた時、アレクのそばにいたんだよ」
「……」
「アレクさ。できるだけ声を出さないようにしてたけど、すっごい痛がってた……。その、知識はあるんだぞ? 分娩のこととか、出産のこととか…でもさ、実際目の前でみたら、ショックで怖くて…グレイシアさんに怒られちまった」
「取り乱すことは、仕方ない。まして、エドにとっては近しいアレクだ…アレクが痛みに耐えてのたうち回る姿なんて……みたくはないからね」
少将の静かな言葉に、エドは決して高くはない天井を見上げて。
「でもさ…その……あのさ」
言いよどむエドを、少将はのぞき込む。
「どうか、したかね? エド」
「だからさ…その…」
顔を朱に染めて、エドが小さく呟くように言う。
「痛がってるアレク見たら、子供なんて絶対生まないって…その…思った、んだ、けどさ…」
「む?」
愛しい新妻が、何を言いたいのか少将にはわからない。優しい声で促すと、耳まで赤く染めた妻はあたりに誰もいないことを確認して、
「その、さ」
「なんだ?」
「……だから。双子抱いて幸せそうなアルとアレクを見て、さ…その…」
「む?」
子供、生みたいって思ったんだよ。
小さな声の、告白に。
一瞬何を言われたのか、理解できなかった少将は。
すぐに、満面の笑みを浮かべて答える。
「そうか。私も、すぐにでもそうしたいな」
「え?」
今度はエドが理解できない。
「なに?」
「帰ろう、エド。用事ができたからね」
「用事って…うわ」
急にお姫様だっこをされて、エドは暴れる。
「なんだよ、ロイ。おいってば! おろせよ!」
誰もいない待合室に、エドの声だけが響いていた。



見えているのだろうか、わからないけれど濃紺の双眸はアレク譲り。
少しくすんだ黄金の髪は、間違いなくアル譲り。
この3日で、驚くほど赤かった肌は白くなり、にこにことのぞき込む大人たちに愛嬌をふりまく双子は、首筋にほくろがあるかないかだけの相違しかないほど、よく似ている緑児で。
アレクの横に簡易ベッドを持ち込んで泊まり込んでいたアルが、久しぶりに自宅に帰り持ってきたのは、一枚のメモ。
「なに?」
「あけてみて」
笑顔で告げられて、アレクはゆっくりと折りたたまれたメモを開く。
書かれていたのは、二つの言葉。
テオジュール。
レオゼルド。
それがアルの筆跡なのは間違いなく。
「これ……」
「アレクも知っているでしょ? 東方に伝わる伝説」



かつてアメストリスを治めたという王。
王として専制的に振る舞うのではなく、自らに仕える騎士を友と呼び、順列をつけたテーブルで饗応するのではなく、円卓を以て合議の上で国政を執り行おうとした王。
王に仕えた騎士の中で、もっとも王の信頼篤く、もっとも知性にあふれ、武芸に秀でた仲の良い兄弟。
それがテオと、レオと、イオと、リオ。
東方では言う。
テオのように、レオのように、イオのように、リオのように育て。そう生まれた男児を祝福するのだ。



「…すてきな、名前ね。これをこの子たちに?」
「だめかな?」
「いい名前ね。テオジュール…レオゼルド…」
アレクが囁くと、双子はまるで当然自分の名前であると誇らしげにほほえんでいるようにすら見えた。
アレクもほほえんで、アルを見る。
「ほら、気に入ったみたいよ」
「そっか。じゃあ、テオジュールと、レオゼルドだね」
「…てことは、あたし、あと2人生まないといけないのね…イオとリオ?」
アレクの軽口に、アルは苦笑して。
「そうだね。家族は多い方がいいよ」



家族は、多い方がいい。
にぎやかな、家族を作りたい。
幼い頃に父親を亡くした父親と、
幼い頃に愛されなかった母親が、
子供を守ろうと、心に誓う。
そして、
エルリック家の、新たな1ページが開かれる。



1921年10月。
アルフォンス・エルリックとアレクサンドライト・ミュラーの第1子としてテオジュール。
第2子としてレオゼルド誕生。


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送葬




風が、渡る。
見下ろせば、そこは絶壁の上にあって。
切り立った峰のようになっているけれども、もともとはそこが本来の地面だったという場所で。
もっともこの街、アリュードで地盤が安定している場所であり、また古くから墓地として用いられてきた。
数々の墓石の中。
訪れるものも少ないであろう、その墓石には『フィリップ・ヴァン・ホーエンハイム』の名前が刻まれている。
アルは、手にしていた花束をその墓石の前に置いて、小さな声で呟いた。
「父さん…迎えにきたよ。母さんのところに…帰ろうよ」
そして、立ちつくすエドに振り返り。
「姉さん」
「……まったく、こんなところで立ち止まっていやがったのか…そりゃ、母さんのところまで帰れないわな」
苦笑する姉の瞳が潤んで見えたのは、きっと錯覚ではなくて。



「まさか、鋼の錬金術師と鋼成の錬金術師のお父様とは、露知らず」
あたふたと対応する地元の憲兵に、しかしエドは笑顔で返す。
「いや、こんな私的なことをお願いしてしまって…申し訳ない」
「いえいえ、こんな小さな街です。調べればすぐにわかりましたよ」
北方憲兵司令部に、アリュードにおける落盤事故を調査するように依頼したのは、夫のマスタング少将だった。それはエドやアルの知らない間に依頼され、アリュードに到着して父ホーエンハイムの墓参りの最中に、憲兵が現れて。事情と身分を説明すると、少将の依頼を聞かされたのだった。
確か、北方戦の翌年だった。
アルが貴重な文献を保存しているというアリュードの富豪の依頼によって、文献鑑定に訪れた際に、アリュードを大規模な落盤事故が襲った。
落盤事故は、アリュードでは珍しくない。
かつて金の産出で栄えたこの街は、その金鉱を目指してやたらに掘り進んだ結果として、その地下には把握できないほどの坑道があり、ちょっとしたきっかけで落盤を起こすのだ。アルが滞在中に起きた落盤事故も、数人の坑夫が取り残され、アルがその錬金術で坑夫を助け出したのだったが。
『いやあ、ありがとうよ。昔も、こうやって俺の兄貴を助けてくれた錬金術師がいたんだけどなぁ…あのときはひどい事故で、二重三重に事故が重なって、結局錬金術師さんだけが命を落としてなぁ』
助けた坑夫の一言が、すべてを動かした。



1902年。
それは父が乳飲み子のアルと、幼いエドをトリシャに託して、『じゃあ、いってくるよ』と声をかけてエルリック家を出て行った年。
おそらく、まっすぐに北に向かったのだろう。
途中の足取りは、憲兵たちでもわからない。
だが、少将の依頼によってアリュードでの父の痕跡は、その死という悲しい結末故に、多くの市民が覚えており、今度の調査に協力してくれたという。
アリュードの小さな宿に泊まった、ホーエンハイムはアリュードの坑道から産出される【パラムルド】について、調べていたという。それは稀少な鉱物で、夜になると仄かな光を放つが、素手で持つと皮膚がただれたようになるので【パラムルド】は嫌われていた。そんなものを調べて何になるのだと、話を聞かれた市民は奇妙に感じたという。
それでなくても、黄金の双眸に黄金の髪の男は目を惹いた。とはいえ、目の前で起きた小さな落盤事故を錬金術で処理してみせて、市民は男に感謝していたのだ。
そして起きた、大規模な落盤事故。
取り残された坑夫を救出に、男は坑道に入っていった。
そして、坑夫は救出されたけれど、男は崩れた巨岩に胸を圧迫されて、坑夫に見守られて息を引き取ったという。
憲兵が渡してくれた調査書には、父の最後の言葉が書かれていた。



トリシャ。
エドワード。
アルフォンス。



助けられた坑夫は、すでに亡く、最後の様子を聞かされてきた坑夫の娘は、憲兵に答えた。
『ホーエンハイムって人が、父さんを助けなかったら、あたしは生まれてなかったし、あたしの娘も生まれてなかった。感謝しても、しきれないんだよ。あたしたちにできることがあったら、なんでも言ってくれって、子供さんに言っておくれよ』



ここに、父の墓があると知って、墓を訪れることもなくアルはその日のうちにアリュードを出た。
まるで、父から逃げるように。
父という存在が、自分の中で構築できなかったから。
漠然と、フィリップ・ヴァン・ホーエンハイムという存在を理解しているようで、していなかった。
声を震わせて、アレクにエドに、電話をした。
『……そうか』
エドの答えは、短く。
『アル、帰っておいで。今は一人でいるべきじゃない。オヤジのことは、いずれちゃんとしなきゃいけないけど、今は…中央に帰って来い』



だけど、今なら父と向き合える。
自分も、父親になったから。
アレクは申し訳なさそうに、
『あたしも、お父さんを迎えてあげるべきなんだろうけど』
アレクの腕の中でテオが、アルの腕の中でレオが身じろぎする。アルはほほえんで、
『いいよ。リゼンブールに行った時に挨拶すればいいから…急がなくていいよ』
「なあ、アル」
「?」
「…こいつ、やっぱり母さんところに連れて帰ってやらなくちゃだめかな?」
姉の言葉に、アルは少し非難がましく、言葉の主をにらんだ。
「じゃあ姉さんは、ここに父さんをおいといてもいいって、思うんだ?」
「……たださ、ばっちゃんの話だと、元々放浪癖があったらしいじゃん、親父って」
「確かに、そういってたね」
エルリック姉弟の祖母とも言うべき、ピナコ・ロックベルはリゼンブールにふらりと現れたホーエンハイムを暖かく自宅に迎え入れ、やがて隣家のトリシャとホーエンハイムが恋に落ちたのを見守り続けた人物だ。トリシャと結婚する前のホーエンハイムは、あちらこちらと旅を続けていたようだと、ピナコは言っていた。アルが言う。
「僕らが…賢者の石を探して彷徨ってたのも」
「それは関係ないだろ」
「……だけど、母さんは待ってるよ。きっと」



優しい、母だった。
帰らぬ父を待ち続け、たった一人で二人の子供を育てたために、病弱であったトリシャの体は蝕まれ、倒れた時には既に治療が施しようがないほど病魔が巣くっていた。
『ねえ、ピナコさん。伝えてほしいの…あの人に。私があの人が帰るまで待っているって約束したのに、ごめんなさい、守れないわ』
穏やかな悲しい微笑みで、トリシャはピナコに告げて。
翌夕、息を引き取った。



待ち続けた、愛しきものは。
既に違う場所で、彼女を待っていたのに。
彼女は、知らなかった。
夫が既に、亡き人であったことを。
今は、多分知っているだろうけれども、それでも少しでもそばに迎えてあげたい。
母のために。
自分のために。
それは、アリュードに至る前に姉弟で話しあったはずだったのに。
エドは顔を背け、小さな声で呟いた。
「わかってる。わかってるけどさ…」



それはぬぐいようのない、消すことのできない記憶。
母は、父の名前を出すと、つらそうな、悲しげな、表情を浮かべていた。
だからエドは決めたのだ。
父を抹消しようと。
父を、忘れようと。
その幼い記憶が今でも、エドの胸に去来するたび、母の隣に父を迎えてもいいのだろうかと、迷ってしまう。
それが、母の思いではなく、自分自身の欺瞞だと気づいてはいるのだけれども。
…だからこそ、エドは顔を上げた。
「ああ、わかってる。親父を、連れて帰ろう。母さんの隣に。リゼンブールに」



アリュードの市民の手を借りて、墓石を掘り返すと白骨が現れた。背の高い、中年男性のものだった。
姉弟は、それを箱に収める。小さな骨の欠片も箱に収めて、アルは箱を懐いて囁いた。
「父さん、帰ろう。リゼンブールに。母さんが…待ってるよ」



真新しい墓石。
少し古ぼけた母の墓石の隣に、真新しい父の墓石。エドは、母が好きだった純白の百合を父の墓石の前に飾った。
そして、苦笑しながら墓石に話しかける。
「よぉ、親父。ようやく、帰り着けたな。母さんも待ちかねたんだ。ちゃんと、謝れよ。母さんに謝ってから、俺とアルにも、それからばっちゃんにも謝れよ」
「兄さんってば」
アルの制止も苦笑混じりだ。エドは続ける。
「リゼンブールに帰ってきたから、報告しておくわ。俺…結婚したんだ。アルもだ。アルは、もう子供が生まれた」
「双子だったんだよ。テオジュールとレオゼルドって名前。男の子なんだよ」
姉弟の言葉に、墓石が応えることはなかったけれど、姉弟には聞こえた気がした。
数十年ぶりに再会した夫婦の喜びと感謝の声。
そして、幸せを見つけた子供への祝福の声。



よかったわね、エドワード。アルフォンス。幸せになってちょうだい。
あんなに小さい子供だったのに…もう親になるのか。がんばれよ。そして、幾久しく幸せにな。



迎えた父の遺骨は、母の隣に納められ、改めて送る。
母とともに、眠るだろう。
どこまでもどこまでも青く澄み切った、このリゼンブールの空の下で。


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