久しぶりの、帰郷だった。
カタン、コトンと揺れる列車の振動が心地よいのか、双子はぐっすりと寝入ってくれて、アレクはずいぶんと楽で、楽しい里帰り旅行を楽しんで…いるわけではなかった。
「ねえ、アレク」
「ん?」
「…旅行に行く時くらいは、研究、やめておかない?」
アルが苦笑しながら、アレクが読む研究書を取り上げる。
「あ、アルってば」
「昼にはイースト・シティにつくじゃない。たまにはゆっくり、研究もお休みして、ね」
「…そうだね」
正直、旅行も賛成したわけではなかったのだ。
出産に続く育児は、アルが本当によく協力してくれるけれども、それでもやはり母親であるアレクの負担は大きく、研究も滞りつつある。
アレクは、国家錬金術師機関長なのだ。
もし、機関長が研究不足による資格剥奪になんてなったりしたら、洒落にもならない。
とはいえ、育休中は資格査定の評価は行われないのをアレクはわかっているのだが。
「ねえ、アレク。僕さ…やっぱり育休取ろうと思うんだ」
「え?」
「ほら、アレクに調べてもらったでしょ。男性でも育休はとれるって」
国家錬金術第1研究所所長であるアルは、実は国家錬金術師機関長のアレクの直属の部下にあたる。そのために、一度アレクに調べてもらうと、男性でも育休を取ることは可能なことはわかっていた。だが、未だかつて育休を取った男性がいないので、アレクはアルに育休を取ってもらうことを強要するつもりなどなかったのだが。
「でも、アル?」
「ん?」
満面の笑みで小首をかしげられると、アレクは負ける。
育休取っちゃうと、いやなイメージを持つ人間もいるだろう、とか。
もしかしたら出世の査定に響くかも、とか。
言いたいことはたくさんあったけれど、そんなことにこの夫が動じることなど決してないということを、アレクが一番に理解しているのだから、今更改めて言う必要もないだろう。
アレクは小さくため息をついて、ほほえんだ。
本当に、久しぶりの再会だった。
「元気そうだね」
「伯父様も。ご無沙汰しています」
イースト・シティ駅に出迎えにきた老人に、アレクは深々と頭を下げた。
それは丁重という名の、アレクの予防線だと、アルは双子をベビーカーに座らせながらちらりと老人を見る。
老人の名前は、ハラルド・ヴァースタイン。
アレクの父、グレアム・ヴァースタインの兄にあたる。祖父レオナイト・ミュラーを亡くしたことで、アレクにはもう血縁上の親戚はこのハラルド老人しかいなくなった。だが、決して近しい間柄ではなかった。アルはアレクからその理由を聞かされている。
決してハラルド老人が悪いわけではない。優秀とはいえないが、それなりの錬金術師であるハラルド老人は、アレクの父グレアムと同じで研究をしていればそれで全て満足できる人間だ。だが、ハラルド老人の妻ミランダと、その3人の息子にはミュラー家の財産がとにかく魅力的に見えたのだろう。レオナイト・ミュラーが死亡したことで、ミュラー家に自分たちが入り込む隙が生まれたと感じた時から、ミランダと息子たちの暗躍が始まったのだが、そこは幼くも洞察力が鋭いアレクである、結局ミランダたちを財産管理人たちに仕立て上げたが、実際は祭り上げられただけで一銭も自分たちの懐に入れることができないシステムを作り上げた。
そのことに、ミランダたちが気づいた時にはもう遅く。
ミランダはそのことで意気消沈したのか、アレクが中央で国家錬金術師になった頃に、病死した。だが、相変わらずハラルド老人の3人の息子たちは、何かあればミュラー家の財産を自分たちのものにしようと画策しているのだという。
『でもね、あの人たちには悪いけど、ちょっとでも何かモーションを起こせば、すぐにばれるのよ。だって、あの人たちが住んでいるイースト・シティの本邸ね、使用人は全部あたしがいた頃の使用人だし』
けらけらと笑いながら、アレクは息子たちの稚拙な画策を、簡単に打ち砕いてきた。
とはいえ、アレクも楽しんでやっているわけではないんだ。
血縁上は、従兄たちなのだから。
「お話しましたが、こちらが夫のアルフォンス・エルリック。それから息子のテオジュールとレオゼルドです」
アレクの紹介に、アルは笑顔で挨拶する。
「アルフォンス・エルリックです」
「ああ…鋼成の錬金術師どのか。もちろん、知っているよ。しかし君たちがそういう関係だとは、この田舎に住んでいるとなかなか聞こえてこないな」
「そうですか? 私たちはそれほど有名人ではないですよ」
楚々と笑うアレクは、いつもと明らかに表情を変えていて。
だがあえてアルはそれについて何も言わず、にこにこと手を振る双子の手を握ってやる。
「さて、迎えの車がきているのだ。行こうか」
「伯父様がお迎えにいらっしゃるとは、思ってもいませんでしたわ」
穏やかなアレクの言葉に、おそらくはマッキンリー大総統と同じくらいの年齢だろう、ハラルド老人は苦笑して、
「だめだったかね?」
「いいえ、うれしいですわ」
確かに、決して心を割って語り合ったことのない、親戚だ。
だが自分の財産管理人をお願いしている以上、非礼があってはならないと、アレクは折に触れて連絡を入れ、自分の結婚と妊娠も早い段階で連絡していた。だがそれでも、他人に近い身内、なのだ。
「いや、本当は少し違うのだ…実は本邸では話しづらいので、迎えに出ることを口実に来たのだが」
用意されていた迎えの車に乗り込み、アルは両手でにこにこと微笑む双子を抱えて、あやすことに専念する。アレクはまともに見たことのないハラルド老人の白いあごひげを見つめて、
「口実?」
「ああ。こんなことを君に頼むのは、実は意外なことかもしれない。だが…私はもう十分なのだ。君の、親戚として私を遇してくれたことに、感謝する。それ故に、もう…財産管理人を辞めたいのだ」
意外な言葉に、アレクはさすがに驚いて濃紺の双眸を見開いた。
「伯父様?」
「意外だったかね? 確かにハインリヒや、エルガーはこの話を聞けば、烈火のごとく怒るだろうな。だが…これは息子たちのためでもある。ミュラー家の財産はアレクサンドライト、君のためのもので、息子たちのためのものではないのだ。私は、明日にでもサクラメントに帰るよ。財産管理人権放棄の書類にサインをしてある。執事のエウレスに渡してあるから、受け取りなさい」
告げられるのは、実は衝撃の事実で。
しかし、告げる老人は淡々と事実だけを述べて。
少しの間、呆然としていたアレクはしかしすぐに気を取り直して、ゆったりと頭を下げた。
「ありがとうございました…あと、お疲れ様でした」
数年に渡って続いてきた、ミュラー家の財産獲得の争いは、争いとして生まれる前に、ハラルド老人によって幕引きされたのだった。
「ほんとに、あるんだよな? ロイ」
「間違いない。確かに、私は見たことがある。そんなに…私の言うことが信じられないのかね」
わざとらしくため息をつく少将をちらりと見て。
「あてに、ならん」
「ひどいな」
「グレイシアさんは、見たんだよね?」
エドの問いかけに、グレイシアは頷く。
「マースと一緒に本邸に行った時に、一度ね。間違いないと思うわよ」
空々しい嘘泣きをしている少将を無視して、エドは話を進める。
「じゃあ、やっぱりアルにはそれを持ってきてもらった方がいいと思うけど…連絡はどうしよっか」
「エド」
「?」
さっきまで嘘泣きしていた少将がにっこりと微笑んで、
「私がいい方法を思いついた」
「は?」
「ハイマンを覚えているかい?」
ハイマン・オークマン。ウォルフェンブルグで執事をしているハイマンは、代々ミュラー家の執事をしている家系で、ハイマンはイースト・シティの本邸の執事を務めるエウレス・オークマンの弟にあたるのだという。
「じゃあ」
「ああ。あの鋭いアレクの勘も、オークマン兄弟の連絡の取り合いなら何も感じないだろうから、大丈夫だよ」
「わかった、じゃあロイ。連絡してくれよ」
「了解」
計画は、密かに進行する。
本当はアルとアレク、二人に内緒にして進めたい話だったけれど、どうしても勘の鋭い二人を同時に気づかせないのは無理がある。
エドは考えに考えて、アルには本当のことを教えることにしたのだ。
弟は、真実を聞かされて満面の笑みで笑ってみせて、協力を約束してくれた。
あまりに乗り気ではなかったアレクを説得して、里帰りに引っ張り出したのも、計画の一端だった。
「今頃、ついてるかな…」
「む? ああ、今頃はイースト・シティだろうな」
エドはにっこりと微笑んで、
「楽しんで、くるかな?」
「楽しむ、というより」
楽しむ、というよりアレクにとっては、精算しなくてはいけない過去、がある。
アレクは旅立つ前に少将とマースにだけ、告げていった。
『これは、きっとテオとレオの、母親になるための、儀式のような気がするのよ』
確かに休暇を言い出したのは、アルだ。
だが、アレクはその行き先をしばらく渋ったけれど、いつかは乗り越えなくてはならない、過去に向かい合う決意ができたのだ。
アルは、確かにエドの【計画】に参加していて、イースト・シティ行きを思いついたのだけれど、実はずいぶんと言い出すのに悩んだのだ。
アレクの、東に残してきた苦悩を知っているから。
だけど、アレクの『儀式だ』という言葉に集約されているように、エルリック夫妻は決意した。
「ま……大丈夫だろ」
ヒューズ大佐は微笑む。
「なんとかなるさ、あの無敵な夫婦の前では、な」
もう、何年もここには帰っていない。
「おかえりなさいませ」
玄関先で迎えてくれたエウレスは、かつて同じように執事をしていた父親と同じ服装で。
「エウレス、ありがとう」
「いいえ。これが私のつとめであり、最上の喜びです…アレク様を再び、本邸にお迎えすることができて」
「……うん」
最後に帰ったのは、いつだったか。
10年前、祖父が死んだとき、まるでこの家の何かから逃げ出すように、家を出た。
ちょうど中央で、イシュヴァールから帰ってきた少将が精神的不安定を起こしていて、その看病をするために家を出て、そのまま国家錬金術師となり、軍に入隊した。
『アレク様は、何も悪くないんですよ』
そう電話で言ってくれたのは、エウレスとハイマンの父だった。
だが、自分が存在する場所はイースト・シティの家ではなく、軍にある気がしていて、どうしても足が向かず、財産管理人として伯父一家に本邸に住んでもらい、自分は【双域】の錬金術師として、キャリアを重ねてきた。
「フェルドのこと、残念だったね…」
部屋に案内するエウレスの後ろ姿を見つめながら、小さな声でアレクが言う。エウレスは顔だけ振り返りながら、足を止めずに、
「ありがとうございます。何せ突然でしたから…父もここで一生置いていただいて、感謝していましたよ」
「そう」
「お部屋は、昔のアレク様のお部屋を用意しましたけれど、構いませんか?」
「ええ」
「必要でしたら、アルフォンス様とお子様たちの部屋も用意できますが」
「いいわ。あたしの部屋に」
アレクがあまり見たことのない表情で、きびきびとエウレスとの話を進める様子を、双子を抱えたアルは感慨深そうに見ていた。
おそらくは、ミュラー家の人間として、この大邸宅を運営していくことがアレクには求められていて、アレクはそれを容易に行うことができるのに、あえて軍に入った。それをアレクは自分の居場所を見つけるためだったと笑って話してくれたけれども。
「アル?」
「ん? なんでもないよ」
「あるんですか、本当に」
「ええ、ありますよ。確かに、グレアム様がアレク様のために準備されたものです」
双子のミルクを作るために、厨房に降りてきたアルを呼び寄せて、エウレスが弟ハイマン経由のエドの【指令】を話す。
アルはほ乳瓶を握ったまま、小さくため息をついて、
「それって、その…お母さんは知ってたんですか?」
「フロー様ですか? もちろん、ご存じでしたよ。亡くなる少し前も広げさせて、アレクがそれを必要とするまで生きていたいと、レオ様におっしゃっていたそうです」
「……大丈夫かな」
アルの心配は、エウレスの心配であって。
エウレスも小さく頷いて、
「アレク様の心の傷は、私も存じ上げています…幼いアレク様が火傷の痛みに苦しむのを、この目で見てきましたから」
二人の心配。
それは、エドの【指令】によって得られたもので、アレクが【発作】を起こさないか、ということ。
発作は妊娠中も出産後も、一度も起きることもなく。
イースト・シティに至って、アレクは自分の発作を心配していたけれども、その気配もみせていない。だからこそ、アルは心配なのだ。発作が出ていないということは、それほど重篤な発作があるかもしれないという、可能性も持っているのだから。
「…考えてもしかたない。エウレスさん、僕たちが発ったあとに、発送してください」
「わかりました」
1週間ほど、滞在してエルリック一家はリゼンブールに向かい、それから中央に帰るつもりだった。
珍しくテオジュールがぐずった。
なのに、レオゼルドはもうすやすやと眠っていて、アルにレオゼルドを頼み、アレクはテオジュールを抱えて散歩に出ることにした。
晩春にあって、イースト・シティは暖かな夜を迎えていて、アレクはテオジュールを胸に子守歌を囁き歌いながら、灯りのともった廊下を進む。
夕食の席は、楽しかった。
久しぶりにミュラー家の食卓について、幼い頃のアレクを知る使用人たちが入れ替わり立ち替わり、双子をのぞき込んで、目元が生まれた頃のアレクに似ているだの、きっとやんちゃに成長するだろうと、声をかけてくれた。ヴァースタイン家の人間は、たった一人、三男の妻が挨拶だけに現れたくらいで、とはいえ夕食には家族に全てを話しておくとハラルド老人は言っていたので、何か反応があるかと思っていたけれど、特に何もなくて。
鼻歌のように、子守歌を歌う。
ぐずっていたテオはようやく寝息を立て始め、アレクはほっとして立ち止まり、
周りを見回した。
いつの間に、来てしまったのだろう。
そこは、
かつて、
母が夜な夜なアレクの手を引き、
愛するものを取り返そうと、アレクの背中を傷つけ続けた、
母の部屋の前だった。
母様、痛い…ごめんなさい……………。
かあさま。
せなかが、いたいよ。
カアサマ。
アレクノナカニナニガイルノ?
背中を汗が、つたう。
両手が震え始め、胸に抱く我が子を取り落とすまいと、アレクは必死に震えを押さえようとしながら、その場に座り込んだ。
久しぶりの、発作。
一気に温度を失っていく、自分の指先。
座り込んでも、地面が底なし沼に変わったような、不快な感覚。
なのに、発作を鎮めてくれる、アルはここにいない。
声にならない。
助けを呼ぼうとしても、声にならない。
そのとき。
小さく震えるアレクの胸の中心を、小さな小さな手が触れた。
アレクは震えながら、自分の胸に押し当てられた手を見る。
さっきまで眠っていたはずのテオが濃紺の双眸を見開き、まっすぐにアレクを見つめている。
何の迷いも、なく。
触れた手は、決して力が入っているわけでもないのに、アレクの震えを一瞬にして止めて。
テオはにっこりと微笑んで。
アレクはその微笑みに、ぎこちないけれど微笑みで返す。
「テオ…」
愛しい我が子を胸に抱きしめて、アレクの頬を一筋涙がこぼれた。
まるで、母の言った【ワルイモノ】が、テオが触れただけで姿を消したように。
アレクの発作は、おさまったのだった。
「まったく、おまえたちの話はいつだって突然なんだからな」
エドが中央駅に出迎えたのは、イズミと夫のシグだった。
エドは恐縮しながら、頭を下げる。
「すいません! 今回のことは、本当にごめんなさい。ただ、アレクのためにも、俺とロイとヒューズ大佐で準備した方がいいと思って」
「まあ、仕方ない。で、リゼンブールの面々は?」
「来ますよ。それはアルがうまいこと引っ張ってくるはずなんで。とは言っても、知らないのはアレクだけなんで」
エドは二人をホテルに送り届け、マスタング邸に帰り着く。
「ただいま〜」
「おかえり、エド」
笑顔で出迎える夫は、しかし複雑な表情をしていて。エドは問い返す。
「どうした? ロイ」
「さっきな、エウレスからその…ものが届いたんだが」
「え?」
「困ったものが同封されていてな…どうしようか、さっきマースに電話していたところなんだ」
「困ったもの?」
10日ぶりに帰ってきた、我が家だった。
1週間、本邸に滞在している間にハラルド老人は大反対する息子たちを押し切って、財産管理人を降りることを宣言して、自分の故郷サクラメントに引っ越していった。突然だったために、息子たちはあわてふためき、とは言っても財産管理人を父が辞めてしまった以上、本邸にいるのはおかしいと考える余裕はあったようで、アレクたちが滞在している間に、サクラメントの父の元に去っていった。
アレクは新しい財産管理人として、エウレスを指名し、リゼンブールに発った。
リゼンブールのロックベル家は暖かく、アレクと双子を迎え入れ…なぜか中央に帰ってくるエルリック家に付き添って、ピナコとラッシュバレーから帰っていたウィンリィまでついてきたのだ。
『え? だめなの?』
『いや…構わないけど……』
何か、たくらんでいる。
ウィンリィの表情と、アルの視線でアレクは感じたけれど、あえて追究せずに中央まで帰ってきたのだった。
ホテルにピナコとウィンリィを送り届けて、家に帰り着いてみればエルリック家の灯りはついていて、リビングにはエドが待っていた。
「エド?」
「お帰り、アル。アレク」
「ただいま…なに?」
エドはアレクの手を引き、リビングのすぐ隣の書庫に向かう。
「エドってば」
アルは黙って既に眠っている双子を部屋に運ぶ。エドと一度だけ視線があったが、ただ微笑んだだけだった。
「明日、アレクにはこれを着てほしいんだ」
書庫へつながる扉を開きながら、エドが言う。
最初、不審そうにしていたアレクの表情がすぐに驚きに変わる。
「これ…」
アルとアレク、二人の国家錬金術師が所蔵する書籍が収められる書庫だ。その広さはかなりあるけれど、その真ん中に、陳列された純白の衣装。
それは、去年、アレクが照れから渋るエドに笑顔で着せた、衣装に似ていたけれど。
「……これって」
「アレクが言ったんだぞ。アメストリスの女は人生で2回だけ、純白の衣装を着る……一度目は最初の産着、2度目は嫁ぐ時って」
そう。自分が言ったせりふ。
アレクは呆然と、義姉を見つめる。
「エドが…用意したの?」
「そりゃあさ、俺とロイの結婚式の時、ずいぶんお世話になったから。少しでも恩返しのつもりで、花嫁衣装を用意しようとしたんだけど、ヒューズ大佐が覚えててさ。アレクの親父さんが、アレクに花嫁衣装を作ってやったって」
「え?」
そんな話は聞いたことがなかった。
マースも、ロイも、祖父も、一度もそんな話をしたことがない。
まして、母はもちろんだが。
「じゃあ、これは…父さんがあたしに?」
「ああ。事故で亡くなる少し前に、作らせたものらしいな…それから」
エドは一通の封書を取り出す。
「なに?」
「これを、本邸のエウレスさん? に探してもらった時に、出てきたものらしい。一緒にしまわれていたらしいんだけど…宛名はアレクに、差出人は…フローライト・ミュラー・ヴァースタインになってた」
受け取ろうと差し出したアレクの右手がピタリと止まった。
アレクの顔に浮かんだ、物憂げな表情に、エドは何度となくアレク本人や、少将たちから聞かされてきた【アレクの心の傷】を思い浮かべるけれど、あえてそれを口にせず、アレクを促す。
「読めよ」
「…どうしても?」
「アレクのために、読んだ方がいいと俺は思うぞ…じゃあ、俺はリビングに行ってるから。何かあったら呼べよ」
心を鬼にして、エドは書庫を出る。
少しだけ振り返って見た、アレクの背中は、いつもより小さく見えた。
アレクサンドライト。
4歳の、幼いおまえを前にして、この花嫁衣装を理解させることは難しいだろう。
だから、未来のアレクサンドライトに手紙を送る。
これを読んでいるということは、私はもう…この世にはいないということだろう。それは国家錬金術師、軍に属する人間の、半ば運命であり、私はそれをあえて選択したのだから。
アレクサンドライト、おまえは幸せな花嫁かい?
きっと、この純白の花嫁衣装は、おまえの濃紺の瞳を一層美しく彩るだろう。それを見ることができないことだけが残念だが、
幸せに、なるんだよ。
私は、君のそばで見守っているから。
私は、君を愛しているのだから。
たった、一枚の黄ばんだ手紙。
だがその封筒にはもう一枚、手紙が入っていた。
アレクは開いて、息をのんだ。
それは、
母の、
最初で最後の、
手紙だった。
アレックス。
私は、あなたにたくさん謝らないといけません。
私は、あなたを傷つけて、
私は、あなたにつらくあたって、
そうして、自分を慰めていたのかもしれません。
グレアムが帰らないのは、誰のせいでもないのに。
許してください。
いいえ、私を許さなくてもいい。
でも、グレアムを、あなたの父を忘れないでいてやってください。
精一杯の愛を、
アレクサンドライト、
我が娘に。
日付は、母が息を引き取る前の日。
病床の母は、絶対安静を言われていたのに、本邸の廊下で動けなくなっているのを発見されたのが、亡くなる半日前。
そのまま、意識が戻ることなく、息を引き取った。
そうか。
母は、この手紙を、花嫁衣装の元にしのばせることで、命を縮めたんだ。
愚かな、母だった。
自分の心の平安を、娘を虐待することで得ようとしていた。
幼い娘は、それをあえて受け入れることしかできなかったというのに。
憎い、と感じたこともあった。
だけれども、何より母に対する感情は、憐れみが先に立った。
可哀想な、母。
だけど、愛しい、母。
愛してくれた、母。
愛してくれた、父。
精一杯の、愛を。
母は、何を思いながらそれを綴ったのか。
今となっては、わからないけれど、アレクは不意に微笑んだ。
母から、そんな言葉を受け取ることがあるとは思っていなかったから。
「アレク…」
密やかな呼びかけに、アレクは振り返った。
アルが扉を少しだけ開いて、のぞき込んでいる。
「姉さんに怒られたけど…アレクが心配で」
「アル」
アレクは穏やかな微笑みのまま、手にしていた手紙を差し出す。
アルが不思議そうに目を通して、複雑な表情で手紙をアレクに返した。
「優しい、お父さんだったんだね」
「うん…」
そのとき、アレクの両頬を、はらりはらりと涙が伝い始めた。
「あ、あれ?」
無理に笑顔を作り、両手で涙を拭くけれど、涙は収まらず。アレクは苦笑を浮かべながら、顔を拭く。
「なんで」
「いいよ」
何がいいのか、アレクはアルに聞こうとしたけれども、そのときには既にアルはアレクの眦に軽く口づける。
「アル」
「泣いて、いいんだよ。だって…これはうれしい涙でしょ? うれしい涙は、いくらでも泣いていいんだよ」
アルの優しい言葉は、アレクの心にしみこんで、
アレクは噛みしめていた唇をほどく。
「アル…」
「うん」
「母さんは、あたしのこと、嫌いだったんじゃなかったんだね…」
「そうだね」
「…うれしいよ」
「うん」
翌日。
純白の花嫁衣装をまとい、アレクは父親がわりのマースにエスコートされて、深紅の絨毯の上を歩く。
「マース」
「お?」
父グレアムは花嫁衣装だけでなく、それに関わるすべての装飾品も用意してあって、大粒の碧の宝石が胸元を飾る。その宝石が、【アレクサンドライト】という宝石であることを、この会場で知っているのはどれほどいるだろうか。
「あのね、ありがとう」
「おうよ。俺はアレクの兄だからな」
「そうじゃなくて、この花嫁衣装のこと、覚えててくれて」
「ああ」
不意に思い出した、記憶だった。
エドの純白のドレスを見たとき、いつか病床にいるはずのフローライトが、広げてみつめていたドレス。
それが脳裏に蘇って。エドがアルとアレクの結婚式をやるんだと言い出したとき、思い切って言ってみたのだ。
だが、それがアレクの記憶を、【発作】を招く可能性もあり、エドも、ヒューズですらどうすべきか、しばらく悩んだのだが。
最終的に結論を出したのは、アルだった。
『大丈夫。アレクは、もう大丈夫ですから』
「おい、弟。アレクを、まあ、改まって言うのもなんだけど、頼んだぞ」
ヒューズの言葉に、アルは微笑みながら力強く頷いた。それを見て、ヒューズはエスコートしていた手を差し出し、アルにアレクの手を渡した。
「確かに、渡したからな」
「はい」
手を取る、美しきもの。
アルに微笑む、愛しきもの。
2児の母となっても、初めて恋に、愛に気づいたあのときと、同じように、立っている。
交わされる、誓い。
常磐の誓いを交わして、アルフォンスはアレクサンドライトに優しく口づける。
一筋、頬を流れ落ちた涙を、アルは指先で拭って。
「うれしい涙は、こらえなくていいんだよ」
「うん、ありがとう…」
手を伸ばす、幼い手指をアルとアレクは満面の笑みで受け止めて。
胸で身動ぐ小さな小さな手は、抜けるように青い空に向けられていて。
それが、何を希求するのか、今はわからないけれども。
この子らに、与えられるもは少ししかないけれども。
それでも、
精一杯の、愛を。
あげるね。
精一杯の、愛を。
感じてね。