吐き気が、止まらなかった。
頭痛も、している。
エドワード・エルリック・マスタング大佐は、しかし出勤前には夫に状態の悪さを説明せず、少し青い顔色で中央広域司令部に出勤した。
「きもちわるい…」
「大佐、まだ二日酔いしてるんですか? もう宴会から1週間ですよ、大丈夫なんですか?」
副官のアーネスト・パッカード中尉が、胃薬を出してくれる。
「ありがと…」
「大佐って、そんなにお酒弱かったんですか? あれ、でも弟さんは底なしですよね?」
「あいつとあいつの奥さんは別格。話にならないからね」
エルリック家の夕食ではアルコールはほとんど出ない。少将が時折ビールを嗜むが、いつかエドがアレクに聞くとアレクはさらりと答えた。
「だって、わざわざのみたいとは思えないし、なにより飲み出したら大変だから」
アルかアレクが酒乱なのだろうと、納得したエドだったがそうではなかった。
先日、お偉方の好むバーではなく、場末の居酒屋での宴会に参加したエドは、そこでアルとアレクを見つけて、その酒量に愕然とした。
底が、ないのだ。
ビールを大ジョッキで5杯ずつ二人が空けたのは、エドも覚えているけれど、それ以上はエドの記憶がないのでわからない。とはいえ、アレクは
「あの日は…あたしは10杯くらいで辞めたよ。アルはもうちょっとやってたけどね。だって、エドを送り届けないといけなかったし」
そうなのだ。完全に沈没したエドは、アレクによってマスタング家まで運ばれたのだった。
それから1週間。
ずっと、気分が優れない。
そんなに後に残る酒の飲み方をしたつもりはないのだが、ここのところ体調不良が続いていた所為だろうか。
ここ何日か、少将によく効くからと胃薬を飲まされたけれど…効果はあまりなかった。
「大佐。一度、病院行った方がいいですよ。のむ前だって、具合悪そうだったし」
「う〜……休めない」
そうなのだ。広域司令部が抱える事案は、その名前の通り、広域にわたる。よって、情報が集まるのが遅い時が多く、情報が遅ければ遅いほど、広域司令部の仕事も遅れる…悪循環なのだが。
ここのところ、忙しすぎて休みもろくに取れていない。そのことが、体調不良の原因だろうと、考えられるのだが。
そういえば、夕べ。
少将が妙なことを言っていた。
『エド、熱でもあるんじゃないか?』
『え? ないけど?』
言われるまま体温計をくわえてみたけれど、平熱で。心配性の夫は首をかしげて、
『おかしいな…なんだか肌が熱い気がするのだが』
とはいえ平熱であるし、夫が熱だと言い出したその状況を他人に言うには、エドは恥ずかしすぎて。
だがすぐに思い当たる。
相談しやすい人間を。
「…いるじゃん、うちに。そうだよ、アレクに相談すればいいじゃんかよ」
アレクサンドライト・ミュラー・エルリック。
国家錬金術師機関長であり、もちろん【双域】の異名を持つ国家錬金術師であり、エドの親友であり、エドの弟アルの妻…ということで義妹であり…何より、今年に入って医師免許を取得した。
普段なら、国家錬金術師機関長と、国家錬金術師という仕事に大忙しでできないこと、つまり育休中に医師免許取得の勉強ができたらしい。もともと医療錬成も専門分野である。医師免許は改めて勉強しなくても簡単にとれたのだが、やはり形は形。
そういえば、先週アレクが言った。
何かあったら見てあげるから、おいで〜。
「…やっぱり、こういうときこそ頼るべきかな」
仕事を早めに切り上げて、内線電話を入れる。
『私だ』
低い声が出て、エドは思わず苦笑する。
「なんだよ、機嫌悪いのかよ」
『……今日は残業決定だ。大尉が、今日中に仕上げて貰うと背後で待ちかまえているのがいるので』
夫、ロイ・マスタングは決して【無能だけではない】のだが。
あえて言うなら、気分によって仕事をするので、仕事が滞るのだ。
エドワードと結婚して、ずっとその悪癖はなりを潜めていて、いつも定時で帰れるように、上層部の嫌がらせの仕事もあっという間に片づけてしまっていたのに、それでも追いつかない時は泣く泣く、残業をしている。
そのとき、小さな声が聞こえて少将が抗議する声が聞こえたが、電話の声は女性のものになった。
『エドちゃん』
「あ、大尉。仕事の邪魔するつもりはないから。ロイに伝えてくれよ。今日はアルん家に行ってるから、心おきなく残業してこいって。飯は準備しといてやるからってが食いたきゃ、アレクにお願いしないとな」
『わかったわ、伝えておきます』
素早く切れた電話の、受話器を見つめてエドはにっかりと笑った。
「さて、腰巾着もいないし〜、心おきなくアルん家、行こうっと」
「大尉…」
「急ぎの書類です。私もつきあいますから」
深いため息。
いつもの上層部の、嫌がらせだろう。
回ってきた書類は、今日中に出せというもの。その分量は、おそらく殴れば殺害凶器となるほどの分厚い書類の束。そして回ってきたのは、エドから電話がかかってくる10分前。
どんよりとした空気をまとっていた少将に、明らかに背後にブリックス山の真冬のブリザードを引き連れて、ホークアイ大尉が言った。
「早く、片づけましょう」
「しかし、大尉…」
がちゃり。
安全装置をはずす音に、大尉は思わずペンを握った。
「すぐ片づける!」
安全装置をかけ直して、ホークアイは一度執務室を出て、腕を組んで自分を待っていた夫を見やる。
「全く…敵が多い人は損ね」
「ああ。俺たちもそんな人にどこまでもついていくって決めたんだから、ホントに損な役周りだよな」
カカッと笑うハボックに、ホークアイは済んだ書類を渡して。
「ジャンは帰って。テレジアを迎えにいかないと」
「あ〜、そんな時間か」
時計を見遣れば、迎えに行くと言った時間が迫っていて。
「もしかしたら遅くなるから、食事も済ませておいて」
去年生まれた長女のテレジアを、ホークアイは育休が空けるとすぐに軍付属の託児所に預けて働き始めた。ハボックも暇を見つけてテレジアの送迎や、ホークアイが仕事で遅い時は食事や入浴まですませて、ホークアイが帰った時にはテレジアは健やかに寝息を立てて眠っていることも多い。
「わかった。あんまり遅くなるようなら、少将に送らせろよ」
「…私を誰だと思ってるの?」
ホークアイの名前から、軍随一の射撃の名手、スナイパーとして名を馳せたリザ・ホークアイは【鷹の目】と呼ばれることも多い。そのことを言いたかったリザだったが、夫から返ってきたのは、
「俺の奥さん」
「……少将にお願いするわ」
ここにも、奥さんにべた惚れの旦那が一人。
夕食も済み、アルが双子をお風呂に入れると言うので、エドは興味津々で覗き込む。
「へぇ…こんなのがあるんだ」
「おもしろいだろ? アレクがこういうの、見つけてくるんだ」
少し大きめの2つのバケツ。その中にお湯が張られ、アルは双子を一つ一つに入れる。
「このぐらいの子供用の、ちゃんとお風呂用に売られているものなんだよ」
アルがお湯をすくってテオの肩にかけてやると、にこにことテオがにぎやかな声を上げる。
「あ、姉さん。少し離れた方が…」
とアルが声をかけた時には既に遅く。
すぐ横のバケツの中でレオが、きゃきゃと声を上げながら、湯面を広げた両手の手のひらをたたきつけ。
辺りに湯が飛び散った。
「うわ」
「…だから言ったのに」
すっかり濡れてしまった服を脱ぎ、アレクから借りた服を着て、エドはリビングに現れる。リビングのテーブルにアレクが書類を広げてサインをしていた。
「うわ、仕事持ち帰り?」
「ん? まあ、滅多にしないけどね。双子のお風呂はアルが入れてくれるから、その間にね。でないと、アルが怒るんだ。仕事を家に持ち込むなって」
「あ〜、わかる気がする」
アルなら、怒りそうだ。
アレクはさらさらとサインを書いて。書類を片づけ始めた。
「さてと。エド、あたしに何か用事があったんでしょ?」
「へ?」
「それも、アルにもばれないように」
相変わらず。
この洞察力、というより推理の鋭さには頭が下がる。
エドは苦笑して、
「何でわかったんだよ」
「アルに会いに来るのに、わざわざ電話なんかしてこない。それに、夕食の時、あたしの方を何回か覗いていた」
「…ばれてたか」
「アルなら、双子が寝入るまでそばにいるから、しばらくは来ないよ。何の用事だったの?」
穏やかに微笑みながらアレクが問う。
エドは小さくため息を吐いて。
「あのさ、俺、何かの病気じゃないかって思って」
「病気?」
アレクが眉をひそめると、エドが慌てて手を振った。
「えっと、そんな深刻じゃないかもしれないし、俺の勘違いかもしれないし」
「どういう、症状があるの?」
アレクの問いかけに、エドが答える。
「二日酔いが、直らないんだよ」
「……は?」
「だから、この前。アルとアレクも来てた飲み会があっただろ?」
アレクは、少し混乱し始めた頭を整理しようとする。
「飲み会…あったわね」
「あれから、ずっと二日酔いがするんだよ」
「…ずっと?」
「そう、ずっと」
あれは確か1週間前だ。
エドが先に撃沈したので、仕方なくアレクが先に帰り、ヒューズ家に預けていた双子を引き取って帰った。
飲み会に参加していなかったロイが、玄関先で『まったくうちの奥様は』と穏やかに苦笑しながら、眠っているエドを抱えていたのを、アレクは覚えている。
間違いなく、1週間前だ。
普通……二日酔いは1週間も続かない。
「あ、それからさ。ロイのやつが、最近熱があるんじゃないかっていうんだよ。だけどさ、体温計で測っても普通だったんだけど」
続いたエドの言葉が、アレクの何かに触れた。
もしかして。
もしかしたら。
「………でも、それなら普通気づくもの? いや、待って……でも」
ぶつぶつと独り言を言い始めた義妹に驚いて、エドが声を上げた。
「おい、アレク」
「……エド、大事なことだから思い出してちゃんと答えてね……毎月、ちゃんと来てる?」
「は?」
「だから……」
アレクが言いたいことを、ようやく理解してエドはふと思い出す。
もともと、定期的に来る方ではない。
あったりなかったりで、新婚当時は、ずいぶん大狂いがあったことで子供が欲しいと言っていた少将は糠喜びに終わったこともあったくらいで。
確かにアレクに言われるまで忘れていたけれど。
ここしばらく、あの疼痛を経験していない。
そして、エドは思い至った。
「………え?」
顔を上げたエドと視線を合わせて、アレクは頷いた。
「多分、そうよ。おめでとう、エド。エドもお母さんになったんだよ」
「だって、二日酔い」
「それは二日酔いじゃなくて、悪阻。あたしもやったわ、かなりひどいのをね。悪阻が出てるってことは4ヶ月くらい入ってるかもしれないわね」
「………え?」
「多分、ロイが体温が高いんじゃないかって言うのも間違いないのよ。でもね、それは普通の体温計ではわからないくらいの変化なの。妊娠中は体温が若干高いものよ。さすが…というしかできないわね、ロイってば」
妊娠。
その言葉を、声に出さずに言ってみて、エドは思わず左手を口元に運ぶ。
わき上がる感情は、喜び。
そして……戸惑い。
本当は、うれしいはずなのに。
それをどう表現していいか、わからない。
そんな表情を、エドに見てアレクは小さく息を吐いた。
きっと、エドも感じている。
自分の中に、新しい、そして愛しい者とで作り上げた命が宿っていることへの喜びを。
そして。
その一方で襲われる、強烈な不安感と……罪悪感。
「エド。今日は…うちに泊まっていきなさい。その方がいいよ。ロイにはあたしから電話しておくけど・・・いい?」
「……え? ああ、うん……そうする」
「は?」
『は? じゃなくて、こっちに泊めるからね』
戸籍上は義妹。
でも実質は妹。
そんな複雑な関係で言い表すのが面倒な、アレクからの電話に少将は眉をひそめる。
日が変わる前には家に帰り着けたけれども、エドの姿はなく、『暖め直して食べろ』と書かれた食事が並べられていて、少将は涙ながらにそれを食して、エルリック家に電話をしたのだ。
いくらなんでも、エドの帰りが遅いから。
そこで聞かされたのは。
「泊まるなんて、エドは一言も」
『さっき電話した。でも司令部も出ないし、家も出ないし。だから電話かかってくるの待ってたけど、エド、もう双子と一緒に寝ちゃったから』
「……そんな」
『明日、エドは休みなんでしょ? あたしも休みだから、明日必ず送っていくから大丈夫』
それで妹の電話は切れてしまう。
無情だ。
そう思ったけれど、少将には反論する余地はなく。
さわやかな柑橘のにおいが鼻をくすぐり、エドはホッとため息をついた。アレクがベッド脇に座り、にっこりと笑う。
「これなら飲めるでしょ? あたしも妊娠中はずいぶんお世話になったから」
「うん…」
「柑橘系は比較的大丈夫みたいね。みんなそうみたいだから。でも、悪阻は人によって様々だから。あたしはジャガイモの蒸したにおいがだめだったのよね」
「ふ〜ん…」
エドの返事は、どこか他人事で。アレクは小さく、隠すようにため息をついて。
「ね、エド。明日、病院行こう。グレイシアがリチャードの時にお世話になった病院がある。すごくいい先生がいるらしいから」
「……でも、アレクはそこにしなかったじゃん」
「あたしは仕方ないよ」
アレクは軍病院の知り合いの軍医を主治医にして、双子を生んだ。
だがそれは、アルにすら言わない様々な理由のため。
最初はともかく、通い続けたのは何より、軍病院に出入りすることの多い、左官クラスを夫に持つ女性たちの噂をコントロールするためだった。
出世スピードの速い国家錬金術師を兼任する軍人は、キャリアである士官よりもその出世はダントツに早いのだ。そして、妬まれる可能性も高い。
アレクは国家錬金術師であり、女性であり、大佐であり、国家錬金術師機関長だ。
これは、女性たちには噂のネタにしかならず、それはアルにとっても決してよくない噂になりかねない。
そのために、アレクは自分が安心して生む、という女性ならではの願いもアルに言わないまま捨て去って、軍病院で双子を生んだ。それは士官夫人たちの噂するまでもなく、目の前で見せつけてやるという、アレクの気概でもあったんだが。
だが、エドにまでそれを望むのは酷だろう。
アレクはエドが入浴している間にグレイシアに電話をし、中央の路地裏にひっそりと立つというその病院を紹介してもらって受話器を置いた瞬間に、ロイから電話がかかってきたのだ。もちろんエドは既に寝た、と嘘をついて。
アレクはあえて自分のことを説明せずに、
「だって噂の的になるのって、エドは嫌いでしょ?」
「ん…」
エドの生返事を聞いて、アレクが苦笑する。
「そんなに、ショックだった?」
「え?」
「妊娠、したの?」
「……俺さ、この子、生んでいいのかなって」
エドはぽつりと言う。アレクはただ黙って、エドを見つめる。
「俺、ブリックスで殺した、ドラクマの兵隊、今でも夢に出てくるんだ。あいつの命を奪った。写真で見た家族が、きっとあいつが帰ってくるのを待ってたはずなのに、俺、あいつを殺してしまった……そんな俺が、子供生んで、幸せになっていいのかなって……。ドラクマの兵隊だけじゃない、俺は軍人になって、何人も何人も殺した」
エドの独白を、アレクは黙って、エドの力任せに握られた拳がどんどん白くなっていくのを見つめている。
「軍人になる前だって。俺は…母さんを錬成した。アルを錬成した」
「エド」
「禁忌を、人として、錬金術師としての禁忌を、犯して罰を受けなくちゃいけないのに、こんな幸せになっていいのかよ」
「エド」
両頬を伝うのは、熱い雫。
アレクはベッド脇に座ったまま、ベッドに向かってうつむいているエドのほどかれた細い髪に触れる。
金糸と見まごうごとくの、エドの髪を梳きながらアレクは呟くように言う。
「後悔、してる? ドラクマの兵隊を殺したこと。義母さんを錬成したこと…アルを、錬成したこと」
「してない。したことなんて……ない」
「そう。なら、エドには幸せにならなくちゃいけない、とあたしは思うよ」
強いアレクの言葉に、エドは顔を上げた。
濡れた黄金の双眸と、穏やかな濃紺の双眸が視線を合わせる。
「エドには、責任があるのよ。幸せにならなくちゃいけない、責任が。それはきっとドラクマの兵隊さんを殺した時に生まれたのよ、その人に代わって幸せにならなくちゃいけなくなったんじゃないかな、殺めた人の数だけ、エドは幸せになる責任がある。命を奪った者ほど、命の大切さを、尊さを知っているのだから、幸せを受け入れなくちゃいけない責任も大きいよ」
「……」
「これはね、きっと軍人で、前線に出たことのある女性なら、必ず思うことだよ。任務だとしても、自分は人の命を奪ったのだから。あたしも、そうだった。あたしは何より自分が母親になる資格なんてないって思ってたし、母親なんてできないって思ってた。自分が虐待された子供だったから」
「アレク」
「でもね、どんなに罪をおかしていても、それが許されない罪であったとしても、子供には…罪はないのよ。そして、罪は人が自分を戒めるために生み出されるものでもあるの。忘れないで、エド。エドは自分の戒めとして、アルの戒めとして、禁忌を犯したことを忘れてはいけないけれども、でもそれは幸せになる義務があって、戒めを後世に、つまりエドの子供や、双子たちに教えていく義務があるんだってこと。それはあたしだって、同じ」
「……そうか……」
「うん、あたしはそう思うよ」
「おめでとうございます。ちょうど20週に入られたところですね」
「へ?」
「……妊娠5ヶ月ってこと」
「普通はもっと前にわかるものですけれど、母体が小さいようだからでしょうかね」
こめかみがぴきりと動くのは見えたけれど、アレクはあえて無視して、医師に言う。
「予定日はわかりますか?」
「そうですねぇ…4月の終わり頃でしょうか」
医師は何か小さな装置を、ぱきぱきと音を立てながら動かして、
「4月の28日ぐらいでしょうか? まあ初産ですから、少しずれは生じますけども」
「そう、ですか」
エドがおそるおそる口にする。
「あの、先生…」
「はい?」
「俺……いや、私……妊娠してるのに気づかなくて、酒も飲んだし、その結構激しい運動も」
「アルコールはよくないですから、今後は控えてくださいね。適度な運動は必要ですけど、激しい運動はいただけません」
初老の女性医師は、カルテに書き込みをしてエドを見つめる。
「誰でも、そうです。妊娠がわかるまでは誰もが、お腹の子供にとってあれもこれも、よくなかったけれど大丈夫だろうかって不安になります。それでもお腹の子供は、がんばって生きています。後悔するよりも、先のことをみつめてあげてください。生まれて来たときのことを考えて。その先の将来のことを、考えてあげてくださいね」
「……はい」
力強く頷いたエドの表情は、夕べまでの戸惑いや不安は何一つ見えず。
アレクは思わず微笑んだ。
昨日以上に、仕事に勤しむ少将の姿に、どこか哀愁を感じていたホークアイは、部下たちのひそひそ声を耳にする。
「なあ、やっぱり背中が寂しいよな」
「そうそう、背中に【無能】って書かれている気がする……」
そんなひそひそ話の中、電話が鳴り、ホークアイは素早く応対に出るが、電話の主はよく知る人物だった。
「あら、エドちゃん。少将ならいるけれど」
『ん。いるならいいよ。あいつの仕事、定時であがれそう?』
時計を見遣れば定時の10分前。今のところ、緊急を要する仕事はない。ホークアイは答えた。
「ええ。代わりましょうか?」
『いいよ、帰ってくるなら。俺も帰ってるから』
奇妙な言い回しに、ホークアイは首をかしげる。
「どういう意味?」
『俺、夕べ突然だけど、アルん家に泊まったんだよ。だから』
「……少将が何かしたの?」
それはマスタング夫妻が起こす、時折の激しい夫婦げんかだとホークアイは思ったけれども、どうやら違うようで。
『けんかじゃないよ。ちょっと、俺の事情でさ…まあ、ロイのやつに伝えといて。俺、もう帰ってきてるからって』
「わかったわ」
チン。
受話器を置くと、ホークアイの目の前に、顔。
思わず反射的に銃を取り出してから、それが少将だと気づく。
「……大尉」
「はい」
「今のは、鋼のからの電話ではないのかね?」
鋭い。
というより、耳聡すぎる。
執務室と雑務室は隣り合っているけれども、もちろん電話の声など聞こえるはずもないのに。偶然通りがかっただけだろうか。
「違うかね?」
向けられた銃口を気にする様子もない少将の目は明らかにすわっていて。
ホークアイは決めた。
銃をホルスターにしまってから、
「そうですよ。今日はもう家に帰ってらっしゃるそうです。そう伝言してほしいと」
「ふむ……」
少将は少し考えながら、ホークアイに言った。
「その、だな……昨日は遅かったから」
「もうお帰りになっても構いませんよ。夕べは遅かったですからね」
あっさりと告げられた言葉に、少将の目が輝く。
「本当かね」
「ええ」
10秒で執務室に飛び込み、30秒で荷物をまとめ、2分で司令部を飛び出した。
あまりにも素早い動きに呆気にとられた部下たちだったが、ハボックだけが立ち直り、ホークアイに言う。
「珍しいな、早く帰らせるなんて」
「仕方ないでしょ。このままじゃあ、檻に閉じこめた落ち着かないライオンにいくら芸を仕込んでも、覚えないもの」
部下のすばらしいまでの暴言と、どこまでもハボックが勝てない、【無敵な奥様第一主義の旦那】に、部下たちは小さなため息を吐き出した。
「お帰り…って、ずいぶん早かったね」
「ただ、いま……」
息がきれる。
普段なら司令部から自宅まで車で10分の距離だから、ハボックに送迎してもらうのだが、後先考えずに自宅までの道を走り始めて。
結局15分で、駆け抜けて帰ってきて、愛しい奥様の顔を見て、少将はようやく一息つけた。思わずソファに座り込む。
「はい、水」
「ああ、ありがとう」
差し出されたコップの水を、一息で飲み干して。
少将はようやくエドを見つめる余裕が生まれて、エドを手招きする。
「なに?」
エドはそういいながらも、ソファに座り込んだ少将のすぐ前に来て、夫の艶やかな黒髪に触れて、
「まったく。そんなに慌てて帰ってくることなかったんじゃねえの?」
「……だって、君がいなかったからだよ」
答えになっていない答えを返されて、エドは苦笑する。
「なんだよ、それ」
抱き寄せられるまま、エドは少将の膝の上に座り。首筋に口づけられる。
「ちょっと、ロイ」
「アレクがずいぶんとつれなかったんだよ」
「……そうなのか?」
「ああ。だから、エドが帰って来ないかと思った」
暖かい首筋に顔を埋めて、少将は深いため息をつく。エドが少し身動いで、小さな声で夫を呼んだ。
「あのさ、ロイ……」
「む?」
「俺さ…それが、ね」
要領を得ないエドの言葉に、ロイは戸惑いを感じながらエドをソファに座らせて、自分はソファの下で跪いた。
「エド?」
「何から話したらいいのか……」
少し混乱しているエドの頬を、ロイがゆっくりと撫でた。
「いいんだよ。思いつくまま、言ってごらん」
「えっと……昨日、アルの家に泊まったのは…すごく混乱してて、アレクが泊まっていっていいって……アレクの時の話をいろいろ聞かせてくれたんだ…それですごく安心したんだ」
「そうか」
何の話だろう。アレクの時の、話とは。だが少将は無理に話に参加せず、エドに話を進めさせる。
「俺…すごく不安だったんだ。それに、幸せになっていいのか…わかんなかったけど。俺には責任があるって、俺は命を大切にしなくちゃいけないんだって、わかった。だから、今はすごくうれしいんだ」
「……エド」
「で、今日アレクに付き添ってもらって、病院行ってきた。ロイ」
黄金の双眸が喜びに包まれて、言う。
「妊娠5ヶ月だって」
「……は?」
「ちょうど20週に入ったところだって」
「……妊娠?」
「うん。少し悪阻が遅いけれど、もう少したったら収まるんじゃないかって」
「…妊娠ということは、子供?」
「当たり前じゃん」
夫がまだ状況を飲み込めていないことに、エドはようやく思い至り、眉をひそめる。
「わかってんのか?」
「……エドが妊娠しているんだな?」
「そうだって」
「……誰と誰の子供だ?」
エドは思わず絶句する。そして低い声で言う。
「ロイ・マスタングとエドワード・エルリック・マスタングの子供が、俺の腹の中にいたらおかしいかよ?」
「あ、そうだな」
「ロイ……」
自分もそうだった。
アレクに妊娠していると告げられても、実感など最初何一つ生まれなかったのだから。
結婚して半年目に、一度妊娠ではないかと思うことがあったけれど、結局違っていたことも少将にとっては【疑い】の原因の一つなのだろうが。
「おい、まだ信じられないのかよ」
「いや、その……」
ロイはエドの、まだまったくふくらみを感じられない腹部にそうっと手を伸ばそうとして、エドを見上げた。
「えっと、さわっても?」
「いつだってさわってるくせに……まだ、わからないと思うけど」
エドに言われても、ロイの手は優しく静かに、エドの腹部をゆっくりと撫でていて。
「そうか…子供が」
「うん」
「いつ生まれるんだ?」
「4月の終わりか、もしかしたら5月になるかもって」
自分の前に跪く少将の顔を覗き込めば、これまでにないまでに相好が崩れていて。
「そうか、子供が……」
そこで少将は不意に思い当たった。
「エド、怖いことを聞くようだが」
「なに?」
「先週から二日酔いだと言っていたのは」
「ああ、あれが実は悪阻だったらしい」
「……」
少将が黙ってしまったことに気づかず、エドは続ける。
「あとさ、おまえが熱があるって言ったろ? あれな、妊娠したらちょびっとだけ体温あがるけど、普通の体温計じゃあ測れないくらいの微妙な差だったらしいぞ。アレクが感心してた、さすがロイだって」
だが少将の頭の中では、ここ数ヶ月のエドの行動が、思い出されていた。
数回の飲酒。
確か、アルコールどころか薬も飲めないのだと、双子を妊娠中だったアレクが言っていた。
……二日酔いだと思って、数度の胃薬を飲ませたのは、自分だ。
過激な運動もだめなはず。
先月、練兵場で派手なケンカという名の錬金術戦をやらかした。
なんてことだ。
「おい、ロイってば」
「ああ、あの……その大丈夫なのか? いろいろとその、よくないことをしているんじゃないか?」
「うん…わかんないけど、あんまり気にしないことが一番だってお医者さんにも言われたんだ」
エドも思い当たる点は多々あるようで、一つ一つあれもやったし、これもやったし…と列挙しているのを見て、ロイは思わず苦笑する。
「なに?」
「いや…アルの気持ちがようやくわかったからな」
「アルの気持ち?」
「妊娠中のアレクにあれはダメ、これもダメってよく怒ってたじゃないか」
「あ……そういえば」
少将はエドを抱き寄せる。
そして耳元で囁いた。
「ありがとう」
ありがとう。
そして、おめでとう。
それは、エドに言ったのか、まだ見ぬ我が子に言ったのか、言った少将自身もわからなかったけれど。
だが、それは感謝と自分に訪れた幸せの証を実感する、最上の言葉で。
エドは微笑みながら、少将を抱きしめて。
「ロイ、ありがとうな」
「む?」
「俺に…子供を与えてくれて。俺と、幸せになってくれて」
分娩室の前で、ブリッグス山の熊のように右往左往する少将を、アルとアレクはみつめていた。
「ねえ、アル。双子の時、アルはあたしの手を握っていてくれたけど、気持ちはこうだったの?」
「ん? それどころじゃなかったでしょ。ほら母子ともに危険ってやつで」
「あ、そうだった」
あっけらかんと双子を抱えて待合室のベンチに座るアルとアレクに、落ち着かない少将は八つ当たりをしそうになる。
本当はアルのように、立ち会うつもりだったのだ。
出産予定日は4月28日。その前後2週間を軍を辞める勢いで、少将は有給休暇を勝ち取って。エドはアレクの出産前にアルに言われた『少将は軍を辞めて姉さんに生まれるまでべったりくっついて離れないよ』という言葉を思わず思い出した。
ところが、一向に生まれる気配もないままに、少将の有給休暇は終わり。
軍を辞めてでも、エドにつきそうと言い張る少将をエドが怒鳴りつけ、最後はホークアイの銃弾が少将の耳朶をかすめたことで、ようやく少将は出勤したのだ。そして、西方で起きた大規模テロの結果報告を聞いている軍議に少将が参加している最中に、エドは産気づいたのだ。
アルは第一研究所、アレクは休暇で双子と家にいて、エドが病院で陣痛が始まった時に立ち会えなかった。唯一立ち会えたのは、ラッシュバレーから様子を見に来ていたウィンリィだった。両親ともに医師であり、自分もかつて出産に立ち会ったことのあるウィンリィは冷静に、混乱するエドを叱咤しながら看護師を呼び、少将やアルに連絡を入れたのだった。
少将が病院に飛び込んだ時には、看護師につれなく『分娩中は入室できません』と拒まれて、こうして分娩室の前で右往左往する羽目になった。
時折聞こえるエドの絶叫に、少将一人が首をすくめるが、2年前に絶叫する側だったアレクはすやすや眠る双子を胸にして、
「う〜ん、もうちょっとかな」
などとのんびり言っているが、少将にしてみればどうしていいかもわからなくて。
「ロイ」
アレクが自分の隣のベンチをポンポンたたいて、
「座って」
「座っていられるか!」
「座りなさい」
明らかに低く怒りに満ちた声で促され、少将は浅く腰掛け、アレクをにらむ。
「何だ」
「少し、落ち着いて。これも父親になる一つの修行だからね」
「……わかった」
だがそのとき、聞こえてきた違う声に少将は思わず立ち上がる。
今度はアレクも咎めず、アルと穏やかに微笑み交わした。
「生まれたね」
力強い、泣き声。
それは2年前にアレクが聞いた、双子の泣き声と同じで。
ゆっくりと目を開くと、穏やかに自分の髪を梳いてくれる、夫が覗き込んでいた。
エドは安心して、微笑んだ。
「ロイ」
「エド、ありがとう。お疲れ様だったね」
「……痛かったんだからな」
「ああ」
「まだ人体錬成の時の方が、痛くなかったかも」
「………」
きわどい喩えに、少将は黙ってしまうけれど、エドは微笑んだまま、
「子供、見た?」
「ああ。髪は私と同じ黒だな、瞳はどうだろう? さっき見せて貰ったときはもう眠っていてね」
「俺だよ。俺と一緒の金色だった」
まだ生まれたすぐで、おそらく何も見えていないはずなのに、生まれたての我が子は黄金の双眸を見開いて、まるで母になったエドに挨拶するようにこくりと首を振ったのだ。
「そうか。黒髪金瞳はかなり珍しいな」
少し全身が痛むけれど、エドは口にせず、気になっていたことを聞く。
「なあ、ロイ。あの子の名前、ロイが考えるって言ってたけど……」
「む? ああ、そうだ…実はフェリックスにしようと思って」
少将が満面の笑みで言う。
フェリックス。
アメストリスの忘れられた古語。アメストリス古語は、しかし錬金術師が錬成陣を記すのに欠かせない言語で、『フェリックス』は『醇正』を意味する。
醇正とは、純粋なる真実を意味する。
エドはすぐに思い至って、穏やかに微笑んだ。
「フェリックス…いい名前だな」
フェリックス。
名前のように、おまえこそが俺とロイの、純粋なる真実。
過去、そして現前たる今、まだ見ぬ未来をつなぐ、存在。
きっと、幸せになれるよ。
生まれてきてくれて、ありがとう。