トポポポ……。
静かな大総統執務室に、かぐわしい香りが漂い始め、ジェームズ・マッキンリー大総統は穏やかに微笑んだ。
二客のコーヒーカップに淹れたばかりのコーヒーを注ぎ、一客を自ら選んだ。
一口含むと、その香ばしさと、何より強い苦みが口中を刺激する。
刺激に、マッキンリーは苦笑する。
「まったく……」
もう一客のコーヒーカップを見つめて、大総統は呟いた。
「君はこんな苦いだけのがよかったのかね?」
『コーヒーは苦ければ苦いほどよいではないか?』
隻眼の男はそう言って、半ばしか飲まずに席を立った。
飲み干さずに席を立つことなど、なかったのに。
そして、それがマッキンリーが隻眼の男を見た、最後となった。
キング・ブラッドレイとジェームズ・マッキンリーが士官学校の同期卒業であることを知っている者は少ない。
いや、ブラッドレイが士官学校にあった頃から、その存在は瑰麗であるとされ、知らぬ者はいなかった。その峻烈な輝きに、マッキンリーという僅かばかり優秀な存在はかき消される。
かき消されることに不満と不安を感じていたのは、マッキンリーの同期たちだった。マッキンリー一人が決してブラッドレイという存在を拒まず、あるがままに受け入れたことを、今となっては誰も知らない。
そして、そんなマッキンリーを守るために、ブラッドレイは決して表立ってはマッキンリーの傍らに立つことをしなかった。
その希有な存在故に、ブラッドレイには敵が多いことを彼は自覚していた。だからこそ、親しさを隠すことでジェームズ・マッキンリーという、自分にとって貴重な存在を守ろうとしたのだろう。
それでも、ブラッドレイは時折マッキンリーのもとを訪れて、コーヒーを所望した。
彼は濃く、苦いコーヒーを好んだ。
『ジェームズ。お前の出すコーヒーと、他のコーヒーはどうしてこうも味が違うのかね』
大総統になり、隻眼になっても、ブラッドレイはふらりとマッキンリーのもとを訪れた。
たった一杯のコーヒーを味わって。
そして、大総統は席を立つ。
『なあ、ジェームズ。マスタング、という男を知っているか?』
その日のブラッドレイは饒舌だった。その上珍しいことに、コーヒーのお代わりを所望したのだ。促されるまま、マッキンリーは2杯目を差し出した。そして紡がれた言葉に、マッキンリーは脳裏の辞典をひっくり返す。聞いたことがある、名前だった。
『ロイ・マスタング中佐、かい?』
『そうだ。焔の錬金術師だよ。あれは、面白い。末はなかなかの逸材になるやもしれぬな』
そう言って、ブラッドレイは2杯目を飲み干して、立ち上がる。
『また、来る』
軍人である以上、突然の別れはよくあることで。
だが、マッキンリーはあの穎才である存在が姿を消すなどとは信じられず。
1919年、キング・ブラッドレイ大総統の失踪。
その言葉を耳打ちしたのは、誰だっただろう。
『かつて、ブラッドレイ大総統は、次の大総統にするならばマッキンリー中将をと』
莫迦な、と反論する声もあったけれど、それは憶測でしかない噂だったのかもしれない。
あるいはこのような事態を予測して、あの不世出の男が仕組んだことだったかもしれない。
ジリード中将という存在が煙たくて、担ぎ出されただけだったのかもしれない。
マッキンリーは浮かんだ憶測を自分の淹れたコーヒーに投げ入れて、飲み込んだ。
引き受ける。
ブラッドレイが作り上げた、この国を。
いずれ、のびてくるだろう若芽に何一つ欠損させることなく、手渡すために。
決意しながら飲んだコーヒーは、ブラッドレイが好んだ濃く苦い、コーヒーで。
扉をノックする音にマッキンリーが応えると、補佐官が来訪者を伝える。
「お邪魔でしたか」
「いやいや、君も飲むかね? かなり苦いがね」
「いただきます」
促されて、初老の男はソファに座り、マッキンリーの差し出したコーヒーカップを受け取りながら、テーブルに置かれたコーヒーカップを見る。
「大総統、先客がいらしたのですか?」
「ああ、大総統としての先客がね」
マッキンリーの言葉に、クライバウム中将は数回瞬きをして、ようやく思い至る。
「ブラッドレイ、大総統ですか…」
ゲオルグ・クライバウムは、かつてマッキンリーの副官をしていた頃に、マッキンリーの穏やかな性格と、しかし情報分析にかけては比類なき能力を見せることを知っている。だが何よりもマッキンリーとブラッドレイの関係を知っていた。
『私は大総統になるよ、ゲオルグ。あいつが作ったアメストリスを、後世に余さず残すために』
その決意を、クライバウムは継ぐ。
マッキンリーの思いを、知っているから。
『君は……それでいいのかね?』
『私は私にできることをします。それが大総統の思いを知っている私だから出来ることですから』
「大総統」
「ん?」
「……何も仰らないのですね」
「……何を、聞きたいのかね」
返された言葉に、クライバウム中将は苦笑する。
「ご存じでしょうに」
先週、マッキンリー大総統の引退とクライバウム中将の大総統就任が発表された。マッキンリー大総統就任時の後継者争いも特になく、去年ぐらいから後継者はクライバウム中将と誰もが認めていた。
「君の聞きたいことは、次の後継者のことだろう?」
「はい」
「………私は何も言わないよ。特にその件に関してはね」
かちゃり。
僅かな音を立てて、中将はソーサーをテーブルに置いた。
「思う者は、いるんですね」
「いたとしても、君に伝える気はないよ……その名前を口にすれば、きっと君は無条件でその者を次の大総統に選ぶから」
「もちろんです」
マッキンリーの側近であり、マッキンリーを崇拝してきた男にとっては当然の答えだった。マッキンリーは苦笑しながら、
「それでは、君が大総統になる意味がない。君の目で見、君の耳で聞き、そして選びたまえ。君はそれができる。だからこそ、私は君を大総統に選んだのだから」
「…………私は大総統の思う者を選ばないかもしれない」
「それでも、構わない。私の信頼している、君が選ぶ者だ」
「………大総統」
「信頼、しているから任せられるんだよ」
かつて、まるで太陽のように燦然と輝く存在が、マッキンリーにはあった。
だがその存在は、決してマッキンリーの手をとって導くような、優しい存在ではなかった。
時折、マッキンリーの前に下りてきて、苦み走ったコーヒーを所望して、飲み干して、また駆け上がっていった。
マッキンリーもそれでいいと思った。
一杯の休息を与えられる存在。
そんな存在でいられることが、
マッキンリーにとっての
誇りだった。
『どうだね?』
『正直言って、配合の違いなど分かりませんが』
青年は言葉を選びながら応える。
『ただ美味しいのは、わかります』
ロイ・マスタング少将の答えを思い出す。追従も媚びも世辞もない。
素直な応えを思い出して、マッキンリーは微笑む。
エドワード・エルリック・マスタング大佐、アレクサンドライト・ミュラー・エルリック大佐、マース・ヒューズ大佐、アレックス・ルイ・アームストロング中佐…。
彼の下にはもう優秀な部下が揃っている。
ゲオルグ。
答えがあるとするならば、その答えはあまりにも明確に輝いている。
大丈夫、君なら見つけ出せる。
新たな時代の、大総統を。
そしてマッキンリーは誰も飲むことのない、冷めてしまったコーヒーカップを見つけて呟く。
「老兵は、去るか…もう、いいだろう? ブラッドレイ」
かつての友の、隻眼の男が応えたような気がした。
お疲れ。
よくやったな、ジェームズ。
たった5歩。
それだけしかなかったのに。
その5歩を踏み出すのに、一体どれほどの時間がかかったのか。
エリシアは後悔する。
もう2年。
立ちつくす、ヒューバード・カランドムとつきあい始めて、もう2年経つけれど、たったそれだけの距離を埋めるのに、
エリシアはあがいて、もがいて、
ヒューの気持ちを知らずに。
「ごめん、エリィ」
告げるヒューバードの声は、わずかに震えていて。
エリシアは、首を横にふることしか出来なかった。
「いいの、いいのよ…」
そして、あふれる涙。
それは哀しい涙ではなく。
ようやく、彼を理解できたという、喜びの涙だった。
ほぉ。
微かな溜息を、娘がもう何度も夕食の席でついているのを、グレイシアは気付いていた。
「エリシア」
「………………ん?」
「ご飯、もう少し食べなさい」
「………………もう、いいわ」
ナイフとフォークを置いて、エリシアが立ち上がればリチャードがちらりと姉を見遣って、母に問う。
「姉ちゃん、なんかあったのかな?」
「さあ……」
「来週の宿題、手伝ってもらいたかったんだけどなぁ…あの感じだとちょっと無理っぽい?」
「リチャード」
「ヒューとケンカでもしたのかな?」
エリシアに付き合っている男性がいることは、エリシア本人から聞いて知っていた。同じ大学に通う、4歳年上のヒューバード・カランドム。ウェスト・シティの富豪の跡取り息子ではあるが、いずれは法律家になろうと勉強しているのだと、聞かされていた。
エリシアは来月、大学を卒業する。卒業後は外交省に入省することが既に決まっていて、外交省に研修に訪れる回数も次第に増えていた。一方ヒューバードは法律家養成の国家最高機関・法科院に進むことが決まっているとも聞いていた。
順調に育まれてきた、愛情だった。
今までケンカの一つもしたことがない、ほどの。
とはいえ、大きな大きな障害がヒューズ家には存在する。
「ただいま…あれ、飯食っちゃったのか?」
【巨大な障害】が残念そうに軍服のまま、食卓に座った。リチャードが呆れたように声をあげる。
「父さん、軍服着替えてから飯にしろって、いっつも母さんに言われてるんだから、いい加減覚えろよ」
「お、リチャード。大人な台詞だなぁ。っと……エリシアはどうした?」
「姉さんなら元気なさそうに部屋に戻ったよ?」
「なぬ」
リチャードの言葉に、顔色を変えた夫にグレイシアは釘をさす。
「だから今顔なんて出さないであげてくださいね。少し、そっとしておくことも大事、ってこの前言ったでしょ」
「………………ちょっと」
「ちょっとだけもだめ」
小さくなってしまった父の背中を見て、リチャードは呟く。
「なんで、学習しないかなぁ…」
ふう。
またついてしまった溜息に気付いて、エリシアは苦笑する。
『君は、強いよ。僕なんかいなくても生きていけると…思ってたんだよ』
告げられた、真実。
いつだって、どこか遠いところにいるような、恋人だった。
いつも手をつないでも、気付けば離れた場所から自分を見守っている。
だけど、そんなヒューバードの暖かな視線が、自分を見持ってくれると実感できて、エリシアはそれでもいいと思っていたけれども。
その一方で、自分を理解して欲しい、ヒューバードを理解したいと望んでいた。
ジレンマは、続いていた。
この2年間。
だけど、今日。
ようやく、少しだけだけれどヒューバードを理解できた気がする。
『僕は…君の側にいていいのか、いつだって不安になる。君は強いんだ。側にいるとまぶしすぎて目が開けられなくなるほどに』
自信が、なかったんだ。
震える声で告げられた、答え。
この2年、どれほどエリシアが望んだ答えが、望んだ形でなかったとしても、エリシアは満足だった。
だけど、溜息があふれるのだ。
これからの、自分たちを考えれば。
『ヒュー。それでも、私はあなたの側にいたいし、あなたに支えてもらいたい。だって…私は強くないもの』
血縁関係はないけれど、父の【弟妹】たちのように峻烈すぎるほどの輝きと功績とに彩られた人生を送っているわけではない。
幼い頃から自分をかわいがってくれる、エルリック姉弟のように強い意志を持っているわけでもない。
ただ、ここにいるのは、
『私は、ただのエリシアだから。あなたのエリィだよ』
『……エリィ』
いつだって、残りの5歩を歩み寄るのはエリシアだった。
だけど今日はヒューバードから歩み寄る。
そしてゆっくりと抱きしめられて、エリシアは泣きながら微笑んだ。
たったそれだけの、変化だった。
だけど、それがすごくうれしくて。
エリシアは溜息を短くついて、小首を傾げる。
少し進めた、ヒューとの関係。
ということは、絶対に我が家の難敵がまたそぞろ頭をもたげるわけで。
「………………母さんと予防線、張らないといけないかな? 場合によっては、アレクおばさんも引っ張り出さないと…」
作戦を考えるエリシアの部屋を覗き込む、影一つ。
「あ、な、た」
影はグレイシアの密やかな声に、びくりと身動いでゆっくりと振り返り、ぎごちなく笑った。
「やあ、グレイシア。今日も綺麗だよ」
「あれだけ言ったでしょう? 少し様子を見なさいって」
「あ、そ、そうだな。じゃあ、俺はこれで」
そそくさと姿を消す夫をそのままに、グレイシアはマースが開けた部屋のドアをゆっくりと閉めながら、エリシアの後ろ姿を少し微笑みながら見る。
正直、心配したのだ。
リチャードの言うように、ヒューバードとケンカしたのかと思ったけれど。
今のエリシアの後ろ姿を見れば、グレイシアの予想とは違う、穏やかな背中で。
大丈夫。
きっと。
グレイシアは穏やかに微笑みながら、扉を閉めた。
数週間後、大総統執務室に駆け込んできたマースをロイは白い視線を向ける。
「で?」
「だからだ。娘の結婚相手は父親が選ぶ権利を認めろ。そういう法律を作れ」
「バカか、お前は」
「うるさい。このままだと、俺のエリシアちゃんが…………………」
これ以上なく、若き大総統は渋面をしてみせて、
「灼くぞ」
「おお、ぜひともヒューバード・カランドムを」
救いようのない親ばかに、ロイは小さく溜息をついて。
「ハボック、ブレダ。この大バカを放り出せ」
「はい」
「了解っす」
大総統府の外で、あまりにも哀しげな絶叫が聞こえていたのを、ちょうど研究所に出かけていたエドは知るよしもなかった。