「ねえ………………キリってば」
「なんだよ」
「もう帰ろうよ」
「なんで」
「だってさ…」
一つ年上の兄は、キリスルよりも少し病弱で。
いつも両親に大事にされているけれども、キリスルは元気溌溂でどちらかといえば、いつも大人しい兄を引き合いに出されて窘られる。
『キリ! どうしていつもお前は、アクのように大人しくできないの!』
兄のアクスルが嫌いなはずはない。
だけどもいつも引き合いに出されて、キリスルは少しずつアクスルに対して剣呑な態度を取り始めていた。
今日も、旧市街に行こうと言い出したのはキリスルだった。
『行こうよ、アク。あそこに綺麗な花が咲いてるんだ』
その場所は本当に、綺麗な花が咲く場所だった。だが、病弱なアクスルにとっては少しだけ、身体に負担がかかる場所にあって。
だからアクスルは二の足を踏んだのだ。
思いの外急傾斜で、足場の悪い坂道を見て。
「行くよ、アク」
「………………キリぃ」
「行くんだって」
煮え切らない兄の態度に腹が立った。
兄を振り返らず、キリスルは駆け上った。
声の様子から察するに兄は何とか弟を追いかけているようで。
一番高い場所まで上がって、弟は振り返り息も絶え絶えに昇っている兄に声をかけた。
「降りてろよ」
「いや、だ。キリが、行く、なら、僕も、行く…」
一歩一歩足を進める兄の頭を見遣りながら、キリスルは思う。
少し前。
アクやキリが生まれる前に、戦争があった。
二人の母方の祖父母はその戦争で死んでしまった。
父方の3人の伯父もそうだ。
幼い頃、戦争で片足を亡くした父親は穏やかに、アクやキリの頭を撫でながら、言う。
『戦争でメチャクチャだった頃は、家族もなかった。ただ、生きるのに精一杯だった。だから…アクスル、キリスル。兄弟仲良く暮らすんだ』
兄弟仲良く?
これぐらいの坂で息を上げる、そんな弱い兄を?
13歳になったばかりのキリは少し周りを見渡した。
ここは、旧市街。
そう言われるのは、ここはかつて、街だったから。
ここはかつて、イシュヴァールの民が生きた、街だったのに。
今は瓦礫の山で。
自分たちの肌や、眸のように紅い煉瓦が僅かに残る、旧市街。
見下ろせば自分たちが、イシュヴァールの民と呼ばれる民族が身を寄せ合って生活するテント群が旧市街の瓦礫の向こうに見える。
「………………キリ」
気づけば、足下に座り込み、息が上がってしまった兄がいて。
キリスルは何の感慨もなく、兄の上気した顔を見遣って言った。
「この先だよ」
「………………まだなの?」
「帰るなら、今だよ」
「………………行くよ」
弟のさしのべた手を、兄は取った。
その街はかつて、アドニアナと呼ばれた。
それ故にアドニアナに生まれ育ち、生活していた者たちは内乱と続く殲滅戦の後、ちりぢりになっても、やがて荒廃しきったアドニアナの郊外に集まり始め、そこにテント村を生み出した。
故郷への望郷の思いが強いからこそ、不自由なテント暮らしを強いられても帰ってきた者たちばかりだ。
それ故に、アドニアナを破壊した者たちに対する憎悪の念は尚のこと強かった。
突然現れた、アメストリス人の一団にエドニアナの住人は最初は身を潜めて一切の応対をせず、やがて投石を始めた。
しかし投げられた石が一人の女性の額にあたり、額を流れる紅い血を見て、不意に生まれた憎悪はしかし、不意に消えたのだ。
「何をしている!」
強い叱責に、住民が慌てて後ずさる。
額を怪我した女性は自分の手で止血しながら、強い叱責を行った初老の男性が自分に向けて歩んでくるのを見つめていた。
「手当を」
「あとでいい」
傍らにいた銀髪の女性の手を柔らかく断って、怪我の女性は進んできた初老の男性の前で、軽く頭を下げて言った。
「アドニアナにも導師がおられたか」
その所作はあまりにも手慣れたものだったけれど、それはアメストリス人がするものではなく。
導師と呼ばれた初老の男は眉を顰めた。
「……………あなたは、何者だ?」
「私は」
女性は額に手を当てたまま、応えた。
「エドワード・エルリック・マスタング。救援物資と医師団を連れてきた。食料と治療が必要なものは伝えて欲しい。必要なものを無償で与えよう」
すっくと赤茶けた地面に立つのは、金髪金眸の女性だった。
導師と呼ばれた初老の男は眉を顰めたまま、小さく女性の名前を繰り返して、瞠目する。
「マスタング、ということは、マスタング大総統の」
「一応、大総統夫人だがその立場で来たわけではない」
さらりと告げられた答えは、導師が自分の中で導き出した答えを肯定するもので。
導師は小さく息を吐いて、肩布に小さく触れて軽く首肯する。
「迎えよう、イシュヴァラに仕える者として」
小さく産まれたざわめきを、エドは理解していた。
村落で指導者とも言うべき導師がイシュヴァラの名を口にして歓迎の意を示された異人は、決して害されることはない。
それは、イシュヴァラの怒りを招くから。
「私のテントに」
促されるまま、エドワードは導師のテントに向かった。
夕方、家に帰り着くなり、アクスルは寝込んでしまった。
仄かに紅い額に触れた母親が、熱に気づいたのだ。
弟と共に家を出て行ったことを知っていた母親はキリスルを責めた。
しかし苦しい息の中で、自分が行くと言ったのだとアクスルに告げられては、母親は怒りの矛先を違う所に向けた。
「まったく、こんな時に来なくても!」
母親の言葉を理解できずに、キリスルが問う。
「何かあったの?」
「アメストリス人が来てるんだよ、まったく導師さまもなんで受け入れたのか!!!」
がしゃがしゃと賑やかな音を立てながら現れている食器を覗き込んで、キリスルはさらに問う。
「アメストリス人って…何しに来たの?」
「救援物資と医者だと。まったく、誰がアクをアメストリス人なんかに見せるものかね」
賑やかな音を立てつつ、しかし食器は一つも割れずに、欠けもせずにしまわれることになった。
「まったく、投石が始まれば普通は逃げるでしょう?」
僅かに蒼く輝く錬成光を、導師は忌み嫌うものを見るように見つめて、小さくイシュヴァラへの謝罪と祈りを捧げる。
銀色の髪の女性が行った錬成で、エドワード・エルリック・マスタングの額の傷は跡形もなく消えた。
「いや、血を見れば落ち着くかなと」
「普通は血を見たら人間も動物、興奮するのよ」
溜息混じりに、錬成陣を縫い取った手袋を外しながら、銀髪の女性は導師に向かって深々と頭を下げた。
「不快なものを見られたかもしれないですね。申し訳ありません」
「………………そう理解していただけるとありがたい」
イシュヴァラの民は、錬金術を忌み嫌う。
それは錬金術が本来あるべきはずの姿を人間の利己主義によって変えさせるからだという。
イシュヴァール地方がアメストリスに併合されて以降、こういった類の論戦は数限りなく行われてきたけれども、いつだって結論が出たことはない。
どうやらマスタング夫人も、銀髪の女性もイシュヴァールのことをある程度理解し、尊重しようとしているようだ。
「導師、彼女は俺…の、弟の妻だ」
「アレクサンドライト・ミュラー・エルリックです」
交わされた握手の僅かな間だけ、導師は顰めた眉をゆるめたけれど。
「私の記憶が確かであれば、二人とも…名を馳せた国家錬金術師であろう?」
「ご存じでしたか」
穏やかに微笑むアレクの様子に、導師は違和感を覚えて幾分強い口調で答えを返した。
「イシュヴァールで国家錬金術師と知れれば、命の保証はできない」
「ええ」
「俺たちはそれを理解した上で、ここに来た」
先ほどと同じように、まっすぐに黄金の双眸が導師を見つめる。
「託された、からだ。守って欲しいと。救って欲しいと頼まれたからだ」
「誰に」
「………………あなたは知っているはずだ、導師。かつてイシュヴァラの護り手だった、十字傷の男」
導師は瞠目する。
かつて。
まだ導師の地位になく。
イシュヴァラ神官見習いであった少年の、綺麗に剃り上げられた頭を撫でて、武僧風の十字傷の男は穏やかに言った。
『お前たちが導師となり、イシュヴァラの民を導く頃には…そうだな、少しは良い時代になっているかもしれぬ』
「………………」
「スカー。いや、ジェザームと言えばいいのか?」
導師は言葉を失った。
スカー。
アメストリスの言葉で傷を意味する、まさしく忌み名。
アメストリス人が、ましてや彼がイシュヴァールを守るために殺して回っていた国家錬金術師を勤めていて女性から、真名を聞くことになろうとは。
「………………どこで、その名前を」
「本人から聞いた。妻の名前はシレリアナ。兄はかつてイシュヴァラの大神官だったと言っていたな」
もう何度この話をしたことだろう。
イシュヴァールに点在するテント群を訪れれば、必ず指導者たる導師がいて。
その導師に、自分たちがここにきた理由を応えれば、導師のほとんどがジェザームとシレリアナの名前を知っていた。
そういえば、石に止められたのちに、ジェザームが言ったことがある。
イシュヴァールで自分たちの名前は『免罪符』だと。
「あの連中、先月はパントナに現れたそうだぞ。ちょうどさっき入った行商人が教えてくれた」
「パントナに?」
夕食をすませて一度出かけていた父親は幾分アルコール臭を漂わせながら、数人の隣人と持ち帰った酒を酌み交わしながら話を始めていた。
母親が看病と称してキリスルのベッドを取ってしまったので、キリスルは食卓のすぐ横で半分眠りながら、大人たちの会話を聞いていた。
「錬金術はほとんど使わないそうだ。なんでも金髪金眸は男と女と2人いて。女の方が一番偉いらしい。男と銀髪の女が医者らしいが…なかなか優秀らしいぞ。見捨てられた病人を何人も救った挙げ句に、謝礼を受け取らなかったらしいからな」
「………………そんなにすごいのか」
沈黙に続いた相づちに、隣人は気づいた様子で苦笑しながら続けた。
「おいおい、導師様がいくら歓迎されても、あいつらにアクスルを見せるのか? イシュヴァラの神がお怒りにならないかね」
「………………そうだな」
暖かい眠りの中で、キリスルは悪態をつく。
こんな状況になっても、父さんも母さんも………………アクが大事なんだね。
首筋が、ぴりりとする。
痛いほどの視線を感じながら、テントの全ての入り口をまくりあげて、アレクは準備を進める。
「準備できましたけど…ここは一段と、ですね」
嘆息しながら、一人の看護師がアレクにタオルを渡した。
アレクは苦笑しながら、
「仕方ないわね。今までの所と違って、このアドニアナは殲滅戦で指定地区になったところよ。今まで以上に警戒心と敵愾心が強いと思わないといけないわね」
アドニアナに至るまで4カ所のテント群を回った。
いずれも最初は敵愾心で人々は遠巻きに見つめていて。
仮設の診療所に顔を出すまでに、1週間かかった場所もある。
正直、今回のイシュヴァール訪問は2ヶ月の予定だった。
既に2ヶ月半。
スタッフ全てを有志で募集したために、時間の関係で引き上げてしまったスタッフもいる。
アレクも未だ軍籍に身を置いている以上、今週いっぱいが限界だった。
何よりも。
『パパ、ママ、元気にしてる?』
上の双子はともかく、下のイオドリック、末娘のリオライトは未だ幼い。
両親が共にその信念で危地に赴くことは理解できても、その寂しさは決して消えない。
祖父を亡くして心細かった時、戦地にいるロイとマースに思いを馳せた記憶のあるアレクにとっては、その辛さは理解できてあまりある。
2週間前に電話越しに聞いた、幼い娘の涙を堪える声に、アレクは飛んで帰りたい思いを隠してアドニアナに来たのだ。
イシュヴァールの民を、頼む。
遺された言葉を受け取ったのは、エドとアル姉弟だけではない。
その場にいたのは、アレクも同じ。
大総統夫人警護という名目で、大総統から出張扱いにしてもらったけれど、それでなくてもそろそろアレクの仕事が滞り始めている様子で。
シュミット大佐が何とかやりくりして、大総統直轄決済にしてもらっていることにも限界がある。
そろそろ自分は引き上げなくてはいけないだろう。
昨夜、導師に割り当てられた場所で立てたテントで、アルフォンスにそんな話をした。
そんなアルフォンスは、
『今日は誰も来ないでしょ? 少し、街を探索してくるよ』
アメストリス人にとって危険きわまりないのに、飄々と探索に出かけたのだ。
「やっぱり、見張りはいますね…おや、子どもがいますね?」
看護師の声に顔を上げれば、見張っているのだろう一団の男性たちの中で、真っ直ぐにこちらを睨み付けている、少年が一人。
確かに、珍しかった。
子どもと老人は第一に隠されるものだから。
だが、アレクはあえて指摘せず、旱天の空を見た。
「…まったく、うちの旦那はどこに行ったんだろ?」
ふう。
深く、溜息をついてアクスルは歩を進める。
決して早くない。
むしろ、遅い。
『今日は家で大人しくしてなさいね』
そう母親に言われたけれど、2日前に弟に教えられて途中で挫折した『綺麗な花が咲いている場所』に行きたかった。
キリスルに、自慢したかったのだ。
そしてその花を摘み取って、母親に感謝の気持ちを込めて贈りたい。
それだけだった。
万全とは言えない体調で、アクスルは一歩ずつ進んだ。
『この先の坂を一番上まで登れば、見えてくるんだけどな』
なげやりだった弟の口調とは違い、その言葉だけをアクスルは胸の奥底にしまい込んでいた。
荒い息。
額に浮かぶ汗を拭って、自分がいる場所が坂の一番高い所であることを確認して、アクスルは周りを見回した。
眼下に見える、テント群。
その中心にある、広場に見慣れないテントが3つ。それには絶対に近づくな、と兄弟揃って釘をさされた。
見回せば、旧市街すらも一望できる。
かつてはイシュヴァール地方第2の都市であったアドニアナ。その大きさ故に、かつては国家錬金術師によるイシュヴァール人殲滅重要地区に指定されて、イシュヴァール人のみならず、その建物までもが国軍により徹底的に破壊された。
決して反抗の温床にならないように。
だが、人の思いは強い。
それでも生き延びた人々は、故郷に舞い戻る。
何もない場所でも。
それでなくても虐げられたイシュヴァールの民は、だからこそ民族間の結束が強く、排他意識が強い。
『イシュヴァールを救ってくれ』
そう告げられた言葉を、姉弟は果たそうとするけれど、それが容易でないことはアルフォンスにもよく分かっていた。
早道は、ないよ。
人の心は、かたくなだから。
でも、暖かさを取り戻すことはあるんだよ。
優しい妻の言葉に、癒されるけれども。
それでも、気分が滅入る。
ここでかつて起こったことを思い出せば。
渡る風は、廃墟にたゆとう砂塵を伴って。
僅かに黄色く、足下を駆け抜ける。
アルフォンスは小さく溜息をついて、立ち上がった。
そのとき。
「………………誰?」
ひめやかな呼びかけに、アルフォンスは目を細めた。
そこに立っていた男は、アクスルの見たことのない色の双眸と、見たことない色の髪をしていた。
この辺りの砂漠のような、色。
だけどもっと、輝いて見える不思議な色。
自分たちの赤銅色の肌よりも、ずっとずっと白い肌。
アクスルは建物の残骸に身体を僅かに隠しながら、声を震わせて再び問う。
「………………誰、なの?」
「僕かい? 僕はアルフォンス・エルリック。ほら、広場の真ん中にテントを張っているのが僕の仲間だよ」
穏やかな口調に、アクスルは安心して、残骸から身体を起こした。
赤褐色の双眸、赤銅色の肌であれば、つまりアクスルと同じ眸の色、髪の色であればアクスルに害を与えることがないことをアクスルは理解していた。いや、イシュヴァールに生まれた子供であれば、まずそれを確認する。
目の色、肌の色による認識が容易いからだ。
目の前の男は、明らかに違っていたけれど、優しい口調がアクスルの警戒心を解いた。
ぎごちなく笑いながら、アクスルはだが決して近づかず、
「何しに来たの?」
「ん? いや、ここからの眺めは綺麗だなっと」
アクスルの聞きたいことではなかったけれども、アクスルは小さく咳を一つして、
「……………こんなところで一人でいたら、危ないよ」
「まあ、そうだね」
「導師様の歓迎は絶対だけど」
『導師様の歓迎は絶対だけど、相手はアメストリス人だからね。何をしでかす奴がいるとも限らないんだよ。だから、アク、キリ。絶対に近づいちゃいけないんだよ』
母親の警告を、アクは不意に思い出して眉をひそめる。母親の警告では本人に近づくのも危険という意味だったのだろうか?
胸の奥からこみ上げる咳をもう一つして、アクスルは息を整えて言った。
「危ないよ」
「うん、そうだね」
「………………」
アルフォンス・エルリックの向こうを見渡して、アクスルの表情が変わった。
確かに弟の言葉通り、坂から下ったすぐの場所に綺麗な花は咲いていた。
淡い紫の花。小さいけれど、密集して咲いているためにまるで紫の絨毯が広がっているように見えた。
「きれい…」
アルフォンスの存在を忘れて呟いた言葉に、アルフォンスは穏やかに答えを与えた。
「タンフォーニだね。こんなに咲いている場所は珍しいね」
「タンフォーニ? タンハじゃないの?」
思わず言い返して、アクスルは一瞬戸惑う。だがアクスルの戸惑いとは別に、アルフォンスはまるで隣近所の子どもと会話するように続けた。
「ああ、最近はそう言うんだね。多分同じ花だよ」
『タンフォーニは不思議な花でな。荒れた場所に、それも一滴の水も遣らなくとも、万も億も小さな花を絨毯のように咲かせるのだ。だからタンフォーニは言われるのだ』
かつて、小さな部屋で姿を揺らめかせながら、男が語った言葉。
「…予兆の、花」
「え? 知ってるの? タンハは良いことも悪いことも、何かが起きる前にいっぱいいっぱい咲くんだって。すごくすごくたくさん咲けば咲くほど、大きな知らせが届くんだって」
少年の空咳を交えた説明に、アルフォンスは目を閉じた。
『お前とエドワードに…見せてやりたかったな。あの紫の絨毯を』
ジェザーム。
見たよ。
綺麗だね、タンフォーニ。
ねえ、タンフォーニが教えているのはどんな知らせなのかな?
不思議だけど、きっといい知らせだと思うのはなぜかな?
砂塵の中で、風が進む。
一時の清涼を紫の絨毯に与えて。
イシュヴァールの『覚醒』は、未だ遠い。
「………………正気、ですか?」
長年副官を務めてきた二人は呆気にとられて、50歳を越えてもかなり若く見える大総統をまじまじと見つめてしまう。
濃紺の双眸は、強い意志を秘めていて。
「正気も何も」
マスタング大総統はさらりと、とんでもないことを言い出した。
「20年でイシュヴァールを独立させる」
『明日、イースト・シティを発つよ』
「そうか。気をつけて…ヒルダはどうしている?」
夫の言葉に、電話先で妻が苦笑する。
『ミュラーの本宅でずいぶんリオライトにかわいがってもらったみたいだ。さっき電話したらリオがリオがって』
「ふむ」
4人兄妹の末娘として生まれたリオライトにとって、従妹のヒルダが唯一の年下であり、同性だ。まるで妹のようにかわいがってくれるのはありがたいのだが。
「………………正直、私の顔を忘れていないのか心配だな」
『あ? ああ、それは大丈夫。ロイの顔なんて、新聞見れば必ずどこかに載っているからな』
さりげなく告げられる言葉の、残酷さに妻は気づかない。
エドが国軍中将を返上し、国軍を引退して。
末娘のヒルデガルドを伴ってイシュヴァールで援助と医療奉仕に1年の半分を過ごすようになって、ロイは寂しい、のだ。
『俺は、イシュヴァールを救いたい』
告げられた強い意志に抗することなど、時を経ても愛情が薄れることなどないロイにはできず。
渋々是と応えたのに、娘のヒルダまでもが言うのだ。
『母様と一緒に、行くの』
もちろん、イシュヴァールまでは同行できない。それ故にイースト・シティのミュラー家でエドに同行しているアルとアレク夫婦を待っているリオライトと同じように、ヒルダはエドの帰りを待っていたはずなのだ。
それがリオにかわいがられて、すっかり馴染んでいるという。
愛しい、妻。
愛しい、娘。
なんだか両方自分を無視しているように感じて、ロイは小さく溜息をつく。それを耳聡い電話の向こうのエドは聞き逃さない。
『なんだよ、ロイ。疲れてるのか?』
「………………君がいないからだよ、エド」
『………………なんだよそれ』
向けられた沈黙とほとんど同じ長さの沈黙を返した妻の声は9割の怒りと、1割の困惑で構成されて。
「家に、潤いがないんだよ」
4人家族のマスタング家。
今年、長男フェリックスは18歳になり、特級国家錬金術師資格を取得直後に国軍士官学校に入学した。士官学校は全寮制なので、大総統邸に残っているのはロイだけなのだ。59歳を迎えたロイにとっては、寂しいという言葉も使いたくはないけれど、妻の、娘の姿が見えないのが哀しかった。
『………………中年オヤジしかいないかぁ』
つれない言葉に、ロイはがっくりと肩を落とす。
「冷たい」
『………………イースト・シティからなら、特急で丸一日くらいかな』
溜息混じりに告げられた言葉に、ロイは瞠目する。
「ああ」
『わかったよ、急いで帰るから。待ってろ』
大総統夫人からの電話を受けた後、大総統の機嫌が頗るよろしく、決裁書類があっという間に片づいたことを、当のエドワードは知らない。
「正直、イシュヴァールを抱えておくことにどれほどの価値がある」
大総統の言葉に、大総統補佐官たちは答えを探そうとする。
だが、マスタング大総統の言葉どおり、イシュヴァールがアメストリスに従属することによって得られる利益がなんなのか、何一つ見つけられないことに愕然とする。
「…確かにそうです」
「そういやぁ…」
砂漠がほとんどを占めるイシュヴァールに産業と呼べるものは少なく、その上何年も続いた内乱と、最後に行われた殲滅戦でイシュヴァールは組織だった行動を何一つ行えないほどに壊滅している。
ロイは重厚な執務机に両肘をついて、両手指を交差する。
「あそこにあるのは……国軍に対する、そうだな、アメストリスや錬金術に対する憎しみの塊だ」
『!』
声にならない叫び声と、向けられた銃口。
銃口を向けたのが、幼い少年だったとしても、マスタング『少佐』は自分の命を守るために、指を打ち鳴らし。
少年は紅蓮の炎の中で声もなく、その姿も炎の中で滅した。
恐怖と、戸惑いと、憎しみ。
少年の目の中にあったものを、ロイは忘れない。
交差された指が強く、握りしめられる。
「このまま放置すれば…いずれ、息を吹き返したイシュヴァールは、必ずテロに走るだろう。ならば…」
「寧ろ、独立を促した方がいいんじゃないかな」
妻の言葉に、ロイはすぅと目を細めた。
「その心は?」
「………………放り出す独立じゃあ、ダメなんだよ。教育、するんだ」
「独立は良いことだと? だがその教育は誰がするのだ? 私が? エドが? 独立させるにしても、そのためには為さねばならないことが山ほどあるのだぞ」
「うん、わかってる」
ヒルダが生まれてすぐに、一度短くされたエドの髪はもう三つ編みができるほどに伸びていて。本人はたいした手入れもしていないのに、艶やかなその黄金の髪を撫でるのがロイは何より好きだった。
エドは小さく溜息をついて。
「今の子どもが大人の世代になるまでに学校を創るんだ。施設はアメストリスが創る。だけど、教育はイシュヴァール人自身で行わせる」
「………………」
「アエルゴにイシュヴァールを持って行かれるのが嫌だから、ブラッドレイのじいさんは戦争を始めたんだろ? だったら、アエルゴにも寄らない、あくまで一国として立ち上がれるだけの人的資源を育ててやる。それだけで…」
「なんとかなるのか?」
「20年」
凛と立つ妻を、違う意味で目を細めて見ていたロイは小さく微笑んだ。
「そうか…」
「20年で、なんとかする」
「あのですね、閣下〜」
間延びした問いかけに、ロイはちらりとハボックを見た。
エドが国軍を辞め、ちょうど今年、アレクも国軍を去った。少数精鋭で鳴らした『マスタング組』も、世間に呼ばれる『焔の双璧』を二人とも失っては、正直立ち回らず、大総統補佐官だったハボック中佐が急遽大佐に昇進して、アレクの代行として軍務についていた。
「なんだ、ハボック」
「20年も踏ん張る気ですか?」
ハボックはくわえタバコのまま、半ば呆れた様子で言う。
「てことは…79歳まで、大総統で頑張るつもりなんスね」
「………………それはさすがに無理だな」
「ですね」
ロイは小さく息を吐いて、
「だが…後継に後を託すことはできるだろうな」
「例えば…フェリックス・マスタングに?」
告げられた名前に、ロイは苦笑する。
「無茶を言うな。あれはまだ士官学校だ。ましてフェリックスに譲れば、世襲と勘違いされる。そんなことは…エドが絶対に許さないな」
怒り狂う妻の姿が容易に想像できて、ロイは身震いする。
「………………さて、誰がいいかな」
イシュヴァールを救って欲しい、と十字疵の男は言った。
エドとアルはそれに是と応えた。
だが、自分たちの一生の中でイシュヴァールの未来を切り開くには無理がある。
あまりにもイシュヴァールは多くを喪った。
喪われたものは、時間をかけて補うことしかできない。
だから、今できることをしよう。
だから、今選ぶことのできる最良の未来への道を造ろう。
エドの、アルの決意が、ロイを動かす。