『なあ、フェリックス。俺たちの手は一つずつだと、なんて小さいんだろうって思わないか?』
それは授業中に、不意に思い出した母の言葉だった。
リゼンブールの、底なしに明るい蒼い空の下で、母は両手を天に向かって広げて。
そして見上げる自分の顔を覗き込んで言った。
『空は、つかめないな』
『一つずつは小さいね。でも、たくさんだと何かが違うの?』
幼い頃から聡い息子の応えに、母は穏やかに、だがあまりにも簡単に母の意図をくみ取る息子の聡さに幾分苦笑しながら応える。
『ああ、必ずあるんだよ』
そして未だ幼い妹をその胸に抱いて、母は東に旅立った。
3ヶ月を東方で過ごし、3ヶ月を中央で。
そんな生活を始めてもう3年。
旅立つたびに、未だに母を愛してやまない父は涙にくれながら母を送り出す。
今朝も母は旅立った。
今度はいつも随伴する叔父夫婦も伴わず、たった一人で。
「…………よって、イシュヴァールは我が国に併合されることとなった。これはイシュヴァール、アメストリスの同意の下に行われた正式な条約締結によって為された併合であり、不当な強制的行為ではないことを、熟知するように」
士官学校では、軍人として必要な知識をたった4年で叩き込まれる。つまり、国史も当然の必須科目で。
教官が手にした教本を淡々と読み進め、重要である部分は強調して解説を入れていく。
教官の説明は、佳境に入っていた。
「さて、我が国においてイシュヴァール地方は決して、安穏な地方ではなかった。1901年には内戦が勃発。当時のブラッドレイ大総統はイシュヴァール独立急進派が隣国アエルゴの支援を得ての攪乱の中からの独立計画があることを確認。1908年には、急進派の殲滅を命令された。ここに、国家錬金術師師団の出動を迎える」
教官はちらりと教本から、ぼんやりと手元の教本を見つめているフェリックスを見つめる。
この教室の中で、親が軍人であり、イシュヴァール殲滅戦に参加した人間はフェリックスを含めて数名いる。
だが、親が国家錬金術として殲滅戦に参加し、自身も特級錬金術師資格を持っているのはフェリックスだけだ。
かつての国家錬金術師と同じレベルを意味する『特級』。
イシュヴァール殲滅戦のように人間兵器として軍に配属されることはもうないだろう。
だからこそ、フェリックスが特級資格を持って士官学校に合格しても、決してかつての国家錬金術師のように『少佐相当官』とされることはないのだ。
教官は小さく咳払いをして、授業を進める。
「国家錬金術師師団によって、急進派の殲滅は果たせたものの、しかし結果として中道派も過激派への道をたどり、イシュヴァールは自ら破滅の道を歩むことになるわけだ」
教官の、いわゆる『国史としてのイシュヴァール史』を聞きながらフェリックスは教官に聞こえないように小さく溜息を吐いた。
イシュヴァールの悲惨さ。
イシュヴァールに遺された、真実。
それをフェリックスは父から母から、何度となく告げられてきた。
そして内包された矛盾も。
『イシュヴァールは…アメストリスのために追い落とされたんだと、私は思うのだ』
父の渋面に、叔母が苦笑する。
『不満の行き先って、ことでしょ?』
『………………どう説明すればいいのかなんて、わからないさ』
小さく息を吐いて、マスタング大総統は静かに言う。
『だがな、フェリックス。これだけはいえる。ブラッドレイ大総統は、間違えたのだ。不満の矛先を、選び間違えた。イシュヴァールの民は、決して討たれることを良しとしなかった。昂然と反旗を翻したんだ。それは…軍史がいかに否定しようとしても、無駄だ』
真実は、隠すことなど出来ないのだ。
「…現在は小康状態にあるイシュヴァール地方ではあるが、いつ再び戦火が広がるか、それは誰にも分からないのだ」
教官はちらりとフェリックスを見た。
さきほどまでぼんやりと教本に視線を落としていたフェリックスが、まっすぐに自分をみつめているのに気づいて、一瞬息を呑む。
まっすぐに、強い、黄金の双眸。
「な、なんだね。マスタングくん」
「いえ、なんでもないです」
母親譲りの黄金色の双眸。まして、両親共に幾分強い眦の持ち主ゆえに、フェリックスの黄金の双眸も、その意図とは反して強いなにかを相手に抱かせてしまう。
本当は思い出にたゆとうていただけなのに、教官は自分を睨んでいると思ったらしい。
「そういえば、マスタングくん。キミの母上は、よくイシュヴァールに出かけているようだが」
来た。
フェリックスは立ち上がり、士官学校での規則にのっとり姿勢を正して、教官の次の言葉を待つ。
「はい。今日、旅立ちました」
「何のために?」
「イシュヴァール地方では、長い間の内戦状態により無教育地帯となっており、これを憂う国民の声に従って、教育援助と医療援助を行うために、でです」
「ほお、さすがはファーストレディだね」
それは用意された答えだった。フェリックスは母の行動に疑問を持つものがあれば、こう応えれば納得するだろうという父の言葉通りに言う。そうすればほとんど全員が納得して引き下がるのだ。
だが今日は違っていた。
フェリックスの少し前に座っていた級友がいつになく厳しい眼差しで、振り返り。
フェリックスを睨みつけた。
その、昏さすら見えるような眼差しにフェリックスは思わず眉を顰めた。
あいつ、大総統の長男なんだぜ。
どうせ入隊すれば優遇されるんだろよ。
士官学校に入学する時、ずいぶんとそんな隠そうともしない罵詈雑言がフェリックスを惑わした。
だが、そのとき向けられた視線は、嫉妬や羨望と呼ぶにはあまりにも暗く、重く。
アルノルド・ファースン。
金髪碧眼のその級友は、いつだって無口で。
フェリックスを『大総統の息子』と貶すこともしなかったけれど、その優秀な成績が大した努力をせずに学年1位を簡単に取得してしまうフェリックスの存在を完全に無視してきたのに。
「ああ、そういうことな」
ふむふむと頷くのは、同じクラスでフェリックスの友人の一人だった。幸運にもフェリックスには偏見に捕らわれずにつきあってくれる友人が数人いる。
「しかたないだろな。ファースンところは、イシュヴァールでずいぶん家族を亡くしているみたいだし」
「え、そうなのか」
「前に聞いたことがあるなぁ…。確か、両方の祖父を亡くしているんじゃなかったのか?」
「そうそう、あそこは軍人を輩出することで有名な家だからな。西のファースンって言えば将軍になったのも何人もいるだろう」
西方出身の友人が小さく頷く。
「それにイシュヴァール人が起こしたテロで確か母親を亡くしてる」
「は?」
フェリックスは小首を傾げる。一番年長の友人が軽く笑いながら、フェリックスの背中を小突いた。
「まったく、これだから中央出身は困るなぁ」
「ああ。中央は一番最初にテロ撲滅に成功したからな」
「確かに西はミュラー閣下がいらっしゃらなくなって、一時期急激に治安が悪化したからなぁ」
国が対外戦争を起こさず、治安が高水準で維持されれば、テロ行為はなりをひそめる。だが戦争を起こし、治安が悪くなれば蓄積された不満は、時折テロとして爆発するのだ。
西を抑えていたのが、実は叔母であったことを思い出して、フェリックスは苦笑する。
「その頃に頻発した列車事故で、確か母親を亡くしたって聞いた」
「だからファースンにしてみれば、敵であるイシュヴァール人を助けるお前の母親なんて、敵も同然、ってことだろ」
「………………」
イシュヴァールは、俺たちが壊したんだ。
俺たちが、全てを壊し、命を…奪った。
だからやっぱり俺たちが、再び起きあがれるようにしてやらないといけないんだよ。
母の言葉は、正しく。
だけれども、軍人を目指す自分が認めることがいいことか、フェリックスにはわからなかった。
1ヶ月ぶりの、帰宅だった。
普段は学校の寄宿舎で生活しているが、未来の軍人たちは何一つ不自由のないように配慮がされているから、何の不満もなく生活している。
だが、帰宅すれば。
不満はある。
この、リビングで伸びきっている、中年オヤジ。
サメザメと妻と娘の名前を呼びながら、涙にくれる『マスタング大総統』を横目で見て、フェリックスは大きく大きく溜息を吐いた。
「まったく…」
「なんだ、フェリックスまで私を非難するのか」
むくりと起きあがりソファに座り直して、父は真っ直ぐに息子を見る。
「ひどいな」
「非難って、俺、何にも言ってないけど」
「言うつもりだろう」
「言うか」
不毛な親子の会話を断ち切ろうと、フェリックスは手にしていた書類を差し出した。
受け取りながら、ロイは書類ではなくフェリックスに視線を向けて、
「何だね」
「…見ればわかる」
「そうだろう。だが、フェリックスから聞きたい」
「……4年の現研だよ。北に決まった」
「そうか」
おそらく。
父は自分がどこに配属されるのか、もうとっくに知っていたはずだ。そして母にも告げたはずだ。今思えば、イシュヴァールに旅立つ前に言っていた。
『風邪引くなよ………………寒いからな』
来年、問題なく昇級できればフェリックスは最終学年になり、半年間戦場に出て、軍人として生きていけるかどうかを審査される。現場研修、略して現研は、ここ近年は死者は出ていないけれども、つまり軍人として行動することを要求されるのだ。
「北か」
「知ってた、くせに」
「ああ、知っていた」
ロイはあっさりと認めて、書類に目を通す。
「決めたのは私ではないし、私やエドに対する好意などによってお前が北に決まったわけではない。寧ろ、配置が決まったことを知らせた私を、エドはそれ以上誰かに知らせることを辞めさせたからな。せめてアルフォンスやアレクには知らせたかったのだが」
「え?」
意外な言葉に、フェリックスは軽く父を睨むが、ロイは肩を竦めて、
「他の士官学校生の身内は知らないのだから、フライングだから。だそうだ」
「…なんだ、そういうこと」
フェリックスは小さく溜息を吐いて、
「じゃあ、北以外の所から北にしたわけじゃないよね」
「ああ。そういうことはしない」
現研では中央以外の司令部に所属する。フェリックスが所属する予定の北方司令部はかつて隣国ドラクマとの最前線になったこともあるけれども、今やドラクマは友好国で、北方司令部も名目上存在している程度なのだ。
「教官たちがどういう意図でお前を北にしたのか、私にもわからないけれどもね。だが、きっと得るものはあるはずだ。しっかり頑張っておいで」
穏やかな優しい言葉に、フェリックスは小さく、しかし力強く頷いた。
父から差し出されたブランデーグラスを受け取りながら、フェリックスはふと、アルノルド・ファースンのことを思い出した。
「父さん」
「ん?」
「あのさ、母さんが東に行ってるのって」
言い出したものの、母の名前は父の涙腺に直結していることを思い出して、フェリックスは慌てて否定する。
「やっぱりいいや」
「………言いかけたら言いなさい」
「…いいの?」
「仕方ないだろう」
幾分涙ぐみながら、ロイはフェリックスに話を促した。
「なんだ?」
「……………いや、母さんが言い出したことだよね。イシュヴァールに行くってことは」
「ああ」
「………そこに大総統命令は、ないんだよね?」
息子の言わんとする意図が読み取れず、ロイは眉を顰めた。
「なんだ?」
「………あのさ、イシュヴァールが原因で家族を喪った人間って、アメストリス中にいるんだよな」
「ああ」
フェリックスにとってもっとも近しいイシュヴァール絡みの被害者は、叔母アレクサンドライトの父グレアムが徴兵中にイシュヴァール人によるテロ行為で死んでいる。とはいえ、グレアム・ヴァースタインという人物がいたことは知っているけれども、会ったこともないので実感はまったくわかない。
「お前は幸せだな、そういう意味で言うならば」
嘆息しながらロイは言う。
自分は幼くして母が姿を消し、父は事故死した。偶然にもレオナイト・ミュラーに拾われなかったら、今のような生活はなかっただろう。
エドも、アルもそうだ。幼くして両親を喪っている。
アレクも、マースも。
たった一世代で、これほどまでに感慨が薄まっていく。
戦争がない、ということのありがたさ。
平和という微睡みがもたらす、警戒心の揺らぎ。
これは望んだ未来のはずなのに、平和すぎて見えないのかもしれない。
軍にあってしても、命の価値が。
「なんだよ、それ」
「……オヤジの愚痴だ。聞き流せ」
「そうする。でさ、母さんがやってることに反感を持っている人間もいるってことだよね」
「そうだな」
イシュヴァールを救う。
それは簡単ではない。
そして何より、イシュヴァール内乱で荒廃しきった人心と、人間関係は大総統夫人という立場で乗り込んだエドすら受け付けようとはしなかった。
最初は、だ。
3年かかり、ようやく協力者も増えて、学校建設に着手しているエドは、本当に嬉しそうに旅立っていた。
『最初の学校だ、3年かかってようやくだけどな…嬉しいよ、ロイ』
本当に嬉しそうな妻の姿に、ロイは寂しさを飲み込むしかなかったのだ。
そして、警告の言葉も飲み込まなくてはいけなかった。
「アメストリス浄化同盟なるものがある」
不意のロイの言葉に、フェリックスは目を瞬かせる。
「イシュヴァールをはじめとする少数民族を殲滅することで、アメストリスの国力を高めることになると信じている人間の集まりだ。アメストリス人は神によって選ばれた種族であるから、他の種族の上に立つことを許されているそうだ」
フェリックスはその視線に軽蔑を溶かしながら、
「だから…イシュヴァール人を迫害してもいいって?」
「迫害くらいならな。殺害も厭わないだろうな」
苦い沈黙の中で、フェリックスはブランデーを呷った。急激なアルコールが身体を熱くするのが分かった。
「今、活発に動いているようだから、エドには随分行かないように言ったのだが、知っての通りエドは私の言うことを聞くような人間ではないし…その程度のことで信念を曲げるようなことをする人間でもない」
「うん」
「アレクを連れていかなかったのは、アレクの方がエドやアルより命の危険があるからだ。浄化同盟は金髪碧眼のものは殺さないそうだ」
「………………」
それはアメストリス人にもっとも多い髪と目の色だ。
「エドはアルの同行も断った。何かあっては…いけないからね」
「だけど」
「それでも、エドは行くんだよ。私がどんなに懇願しても」
ロイはまるで苦しいものを飲み込むようにブランデーを飲み。
「ようやく掴みかけたものがあるんだそうだ」
手を差し出すアメストリス人に、
手を差し出すイシュヴァール人に。
そう、双方に忌み嫌われてもあの金髪金眸の、愛しい女性は微笑みながら言うだろう。
それでもいい、と。
自分は、ようやく掴みかけているのだから。
かつてのアメストリスとイシュヴァールに確かに存在していた、もの。
知る、ということ。
信じる、ということ。
必ず帰ってきてね、と手を振ってくれた朱色の双眸の少年の、たった一人のためだとしても。
「………………ばか、だよ。母さん」
死ぬ、かもしれないのに。
俯く息子の、自分と同じさらさらとした黒髪をぐしゃぐしゃにしながら頭を撫でて、ロイが言う。
「ああ」
「…どうして、そこまで」
「エドは…決して諦めない。こうと決めたら、決するまで諦めない。確かに時間はかかるだろう、命の危険はあるだろう。それでも」
エドは、決して手を離さない。
掴んだものを、離したりはしない。
「だから私は、エドを愛しているんだよ。その愚かしいまでに真っ直ぐな、あの双眸が好きだからね」
見下ろせば、同じ双眸が自分を見つめていて。
ロイは笑んだ。
「フェリックス。お前はエドによく似ているよ。きっと…お前にもあるはずだ」
掴むものが。
ちっぽけだけど、エドはエドの手で、
ロイはロイの手で、
フェリックスはフェリックスの手でしか、掴めないものが。
『そっか、じゃあフェルとはしばらく会えないな』
「そういうわけだから、エド、早く帰ってきておくれ」
『……そうだなぁ、予定よりも早く学校ができそうだから、目処がついたらな』
優しい妻の電話越しの否定に、ロイは肩を落として、だがすぐに言葉をつなぐ。
「そういえばフェリックスが面白いことを言っていたな」
『ん?』
「子どもの頃、リゼンブールで君が、一人一人の手はちっぽけだけどたくさんだとつかめるものがあるって言ったそうだ」
『………………あ〜』
エドワードも覚えていたようで、数瞬沈黙して、溜息が聞こえた。
『さすがフェルだ。あれはイオが生まれた頃の話だけどなぁ』
エドは電話の向こうで苦笑している。
「ずいぶんと印象に残っているようだね」
『あいつ、そこだけ覚えていたのか』
「いや、その先も覚えていたけれどね」
ひとつひとつでつかめるものは少しだけどね、フェル。
たくさんでつかめるものは大きくなるんだよ。
だから、みんなと一緒に、たくさんつかめる人になろう。
うん。
わかったよ、母さん。
母さんは………………何か、つかんだの?
え?
う〜ん…………つかんだのかも知れないし、まだかもしれない。
じゃあ、僕が大きくなったら、母さんのつかみたいものを手助けできるたくさんの手になるよ。
『ずいぶんと、力強い約束じゃないかい?』
「そうか?」
受話器の向こうの夫には見えていないだろう。
だが、エドワードは口元が綻ぶことを止められなかった。
口には違う言葉が浮かぶけれど。
「まあ、あいつの人生の、足しになればいいけどな」
『十分過ぎるほど、なっているような気がするけれども』
覚えていた。
我が子が、たった一度告げた思いを、覚えていてくれた。
嬉しかった。
エドワードはにっこりと微笑んで、受話器に向かって言う。
「ロイ」
『む?』
「俺、やっぱりフェルが北に行く前に一度帰るよ」
『…そうか』
「うん」
渡る砂塵を気にとめず、エドは抜けるような青空に手を挙げる。
そして、ゆっくりと空中の何かをつかむ。
つかむ。
きっと、掴むことができるはずだから。
「なるほどね」
あまりにも素っ気ない弟の返事に、レオゼルドは眉を顰めた。
「随分と、冷たい言葉だね」
「ん? そうか?」
エルリック家の4人の子どもの中でもっとも冷静沈着に物事を理解するのが長男のレオゼルド。
そしてもっとも熱情的にとらえるのが次男のテオジュール。
エルリック家の『特性』をもっとも強く受け継いだと言われた弟に、あまりにも容易い返事を返されて、レオゼルドはなんとなく納得できずに声を上げた。
「わかってるのか?」
「分かってるも何も、リオライトが婚約するんだろ? おい、テオ。俺は、アメストリス語まで忘れられてるとおもってるのか?」
眉を顰める同じ顔を見ても、この冷静さがいまいち理解できず、レオゼルドは思わず聞いてしまう。
「お前、テオか?」
「あたりまえだろ?」
「じゃあテオしか知らないことを言ってみろよ」
「………………例えば?」
呆れかえって聞き返す弟の様子は、なおのこと弟らしくなくて。一瞬考え込んだレオはすぐに顔を上げた。
「始めて覚えた錬成陣は?」
「……金属錬成。その次が水分構成錬成。その次が……湿度調節錬成」
軽く睨み付けながらの言葉に、レオは納得して安堵の溜息をつく。
「そうか、間違いないみたいだな。弟よ」
「だから最初からそう言ってるじゃないかよ」
ぶすりと応えて、テオジュールはソファにふんぞりかえって座った。
エルリック家の次男・テオジュールがアメストリスの新聞紙面を騒がせたのが、3年前。
『特級錬金術師、錬金術指導のためにドラクマへ』
ドラクマとアメストリスで交わされた文化交流条約の中で、アメストリスはドラクマに錬金術の技術を教えることを承諾した。そのためにドラクマが最初に行ったのは、錬金術を習得した元公女であるナタリア・ナルド・デル・カララトを呼び戻すことだった。
既に特級錬金術師資格を所得していたナタリアは精力的に錬金術学校の建設に尽力したが、如何せん、たった一人である。
ナタリアは宰相となっていた父に懇願し、アメストリスから錬金術の講師を招くことを国王の名において宣言した。
そして。
テオジュールを初めとする特級錬金術師5名が、求めに応じてドラクマに入った。
早くも3年。
士官学校を卒業して少尉となっていたレオゼルドと、ドライエド錬金術学校で副校長を務めながら錬金術を教えているテオジュール。
2人は23歳になっていた。
「お前なぁ…リオのことなら仕方ないだろう? リオが選んだんだから、お前やもちろん俺が言っても聞くはずないだろ? 第一なんで反対してるんだ」
「………………やっぱりテオは冷たい」
ちろりと睨まれても、話の先が見えないテオは肩を竦めることしかできず。
「だからなんなんだよ」
「…………リオの相手、誰か知ってるか?」
「相手? 俺が知るはずないだろう? このドライエドの凍てつく冬で、どうやって妹の相手を知るんだよ」
「…………リチャードだよ」
「…………は?」
「リチャード・ヒューズだよ!」
「…………まじ?」
リチャード・ヒューズ。
24歳。
母アレクサンドライトの『兄』であるマース・ヒューズの長男。
血縁的関係は薄いけれど、今まで従兄のような存在だった。
そんな彼と、妹のリオライト。
いつからそんな関係になったのか。
全く想像のつかないテオは唖然として兄を見た。
「レオ…」
「俺だって聞いたさ。いつの間にって。そしたらリオの奴、なんて言ったと思う?」
『え? 知らなかったの? 子どもの頃から、ずっとリチャードのこと、好きだったのよ』
「…………そうなのか?」
「いや、俺もそう言われて思い出したんだけど。リオの奴、よくヒューズ家へ遊びに行ってたじゃないか。俺はてっきりエリシア姉さんにべったりだったんだと思ってたんだけど…母さんに聞いたらそうじゃないって」
『いやだな、レオ。知らなかったの? あたしは知ってたよ? あれは8歳くらいだったかなぁ。目きらきらさせて、リチャードの後ろついて回ってたもの』
にっこりと微笑みながら、母は父を見た。
父は幾分渋い表情で、自分も3年ほど前にアレクから聞かされたと言っていた。
納得いかないレオは思わず父に噛みついた。
『父さんはなんで止めなかったんだよ!』
『あのな、レオ。こういうのは…ダメなんだよ。止められないんだよ』
止めようとはしたんだよ? だけどねぇ…。
父はちらりと母を見て、嘆息しながら言う。
自分が自分だっただけに…言えないんだな。
5歳年上の母が、実は父に分からないように結婚当初さまざまな苦労をしたことを、言っていることはレオでも分かった。そして母はそれとを理由に父を責めることなど一度もないことも。
『今度のことは、リオの片思いから始まってるけどね…リチャードがこの前来てね』
頭を下げたのだという。
必ず、リオライトを幸せにする。
だから、結婚を認めて欲しいと。
「それからだ」
「それから、お前はヒューズ家に怒鳴り込んで、逆にリオに兄妹の縁を切るって脅されたわけだ」
言いたいことを端的に、それも正確に再現されて。
レオは仏頂面でテオを見た。
「なんで知ってる」
「あのな、俺たちは双子だぞ? お前の考えそうなこと、よくわかるけど…今までだったら俺がやってたことなのにな」
ニヤリと笑う同じ顔が無性に腹立たしくて、レオは間断なく雪が降りつづける窓の外を見た。
「…………帰るつもりはないのか」
「ない」
あっさりと答えを返されて、レオは弟を睨み付ける。
「お前な」
「俺はこの北の世界で生きていく。そう決めた。お前も知ってるだろ?」
ソファの肘掛けに肘をついて、テオジュールは軍服姿のレオゼルドを見る。
「お前はアメストリスで軍人として国を守る。俺はドラクマで人々の平穏のために、錬金術を広める」
「だが!」
「それに」
テオはふらりと立ち上がり、レオの前を通り抜けて、窓の前に立ち、幾分明るい夜空を見た。
降り積もる雪の向こうに、曇り空。
その向こうに僅かに輝く太陽が、儚く見えた。
「俺にはもう、ここにいる理由ができた」
「え?」
「リオにはおめでとうと。だが、リオよりも俺が結婚する」
レオは瞠目する。
そこには見たことのない、弟がいた。
「け、こん?」
「ああ。ナタリアと結婚する。宰相とも、国王とも話はついた。宰相が王位相続権を放棄しているから、話は早かったな。年が明ければ、俺はテオジュール・エルリック・サリリエントになる。サリリエントって言うのは、異邦の賢者って意味らしい。すごい名前を用意してくれたもんだな」
苦笑するテオを信じられないという表情で見つめていたレオゼルドは低い声で言った。
「父さんと母さんは?」
「ああ、知らせた。そしたら返事と一緒に、お前がこっちに随員として来るって聞いた。まさか、リオがそんなことになってるなんて、母さんも知らせてくれればいいのにな」
「…………そういう人だよ、父さんも母さんも」
好きに生きればいい。
お前たちが、望むままに。
私たちはそういう世界を作りたかったんだから。
にこやかに告げられては、3年前、胸に決意を秘めて両親の住む東に向かった双子には異論などなかった。
ほんの少しだけれども、父夫婦と、伯母夫婦が軍政国家と化したアメストリスを『戦争をしない国』への方向へ導いたことを、双子は知っている。
『俺たちは、親の愛を感じる暇なんて、なかったのかな』
ぽつりと呟いた伯母の言葉を、双子は忘れない。
望むままに、生きること。
命の危険に怯えながら、生活しないこと。
それこそが、親たちが望んだ世界だったのだ。
そして、自分たちはそんな世界に生きている。
「テオ」
「ん?」
「結婚式はいつの予定だ?」
「あ〜、ドラクマじゃああんまり結婚式ってやらないらしいけど…どうしようか、ナタリアと考え中なんだ」
「そっか」
レオはくすりと笑って。
「まったく、妹の結婚に不満があるって吠えに来たはずなのに、弟の結婚が先だなんてな」
「まあ…ナタリアよりも、宰相の方が大変だったんだぞ」
ぽつりと呟くテオの表情を、レオがからかう。
「マースおじさんみたいに?」
「ああ、あんなカンジだったな。少し違う感じだけど、激しさはあんなカンジ」
「…………よくわからん」
ひんやりとした窓ガラスに掌を押し当てて、レオは言う。
「まあ、お前も結婚するか…」
「お前も早くいい人見つけろよ」
「……………そうだな」
雪降る北の大地で、双子は思いを語る。
平穏に導かれた世界の中で、望んだ未来を手に入れるために。