「ほお、どうも王子さまにしては身の回りのことができると思ったら、そういう身の上かい」
夕食が終わって、ピナコは食器の片づけを手伝おうとするハリムの自然な動きで興味を覚えて聞いてみれば、幼い頃から母親に家事の手伝いを促されていたという。詳しく聞いてみれば、父親は王族出身だが、母親は違うようだ。
「母はいつも、姉さんと僕が王族でなくなって、平民として生活するようになったことを考えてみなさいって…言ってました」
いつだって優しい母だったけれど、ナタリアとハリムの教育方針については、決して大公が否定しようものなら烈火のごとく怒っていた。
『もしかしたら、特にナタリアは平民男性と結婚することだって考えられます! 刺繍しかできないようなお嬢様ではダメなんですよ』
ずいぶんと年若の大公夫人に言い負かされて、しおしおと引き下がる大公の背中を見る度に、ハリムは母が正しいのだと心に刻んでいた。実際、アメストリスに来てエルリック家でも、バルグマン家でも、そしてロックベル家でもお客ではないハリムは、すぐに自分のことは自分でするように促された。ハリムにとってそれは当然だったから、すぐに順応したけれど、ナタリアはハリム以上にプライドがあったためか、最初は馴染まなかった。もし、姉がこのロックベル家に来ていれば。
きっと元気なこの媼に叱咤されるのは間違いないだろう。
「あたしゃ、ドラクマのことは何一つ分からないけれど、お前さんの姉さんはともかく、お前さんが平民になることはないんじゃないのかね?」
分厚いメガネの奥のつぶらな双眸が、きらりと光ったように見えた。
ハリムは応える。
「………多分、母は父が大公位を変換することを望んでいたんだと思います。それが…国王陛下の望みでもあったから」
「さて、家庭の事情というやつかの。あたしにはち〜ともわからんし、分かりたいとも思わないけども」
ピナコは食後の一服とタバコをくわえて。
「ただあたしに分かることがあるとするならね。お前さんが、本気でリハビリしてるわけじゃないってことさね」
「え?」
それはとても心外な言葉だった。
温厚なハリムにしては珍しく、眦が上がる。
「僕は、早く直って、機械鎧整備士になって、ドラクマに帰りたい! それでも」
「ああ、それでもお前さんは本気じゃない」
プカリと浮かぶタバコの煙を見遣って、ピナコは言う。
「お前さんは、誰の為にリハビリをしている?」
「は?」
この老女は、自分からどんな答えを引き出したいのだろう?
すぐ隣のキッチンでウィンリィとカレナリアが大きな声で鼻歌を歌いながら、後かたづけをしているのが聞こえてくる。
あまりにも日常的なのに、ただ、ピナコの問いだけが異物のように凝る。
「あの、ピナコさん」
「ばあさんでいい。ああ、ハリムは言いにくいだろうから、ばあさまとでも呼べばいいさ」
「…ばあさま」
おうよ」
「さっきの、どういう意味ですか?」
「どういう意味もなんも」
ピナコは足下にじゃれつく2匹の子犬を代わる代わるに見て。
「そのままだね。誰の為にリハビリしてる?」
「さっき言いました。直って」
「機械鎧整備士になって、ドラクマに帰る? まあ、ご大層なこった。だけど、それはあたしの問いに対する答えじゃない。誰の為のリハビリなんだい?」
「………ドラクマの為」
「まさか」
ピナコは鼻で笑う。
「そりゃあね、お前さんみたいに凍傷で手足欠損が多いのは知ってるさ。だけど、それはお前さんの建前でしかないだろう? ドラクマの平民かい?どこのどいつが、どうぞ私の無くした腕をあなたが機械鎧でつけてくださいって言ったんだい?」
「………………」
「じゃあ、誰の為だい? お父さんかい? お母さんかい? お姉さんかい?」
ハリムはテーブル越しに見える、2匹の子犬が大きく降っている尻尾だけを見ていた。
自分の、考えがまとまらない。
自分は、何のために此処にいる?
リハビリの、ためだ。
では、誰の為にリハビリをするのか。
すぐに答えは出た。
「自分の為です」
「そうだよ。お前さん、それが普通だ。というより、それしか理由はないんだ。人は自分の為に生きている。いや、まず第一に自分の為に歩くのさ。だけど、次に他人のこと、特に近しい人のために生きていることを自覚するもんだ。なのに、お前さんはドラクマのために、の一言で全部を覆い隠してしまってるんだよ」
そうではない、と否定したかった。
だけど、できなかった。
心が、ピナコが告げる言葉が真実だと理解しているから。
「なあ、ハリム。お前さんは、生きている。そして歩きたいんだ。誰もそれを否定することなんてないんだよ。生きていて、いいんだ。歩いて、いいんだ。一歩ずつ踏みしめて、自分で答えを探すんだ」
「………………」
「それが、お前さんの心のリハビリだ」
じわりと、眸が熱くなり。
子犬の尻尾が見えなくなった。
頬を伝う涙を、ハリムは無造作に拭って。
「……心のリハビリ」
「ああ。話は変わるが、ウィンリィはラッシュバレーで開業する前、ここで機械鎧整備士として働いていた。あの子も、戦争で両親を亡くしてね」
ハリムはハッと顔を上げた。
「え?」
「ずいぶん泣いてね。両親は戦争している場所で医者として敵味方関係なく助けていたんだ。だけど…死ななきゃいけなかった」
『パパも、ママも……なんで死んだの? だって、みんなを助けていたのに!』
幼い孫娘の慟哭が、今でも耳から離れない。
「あの子が整備士になるって決めたのは、その後だよ。目の前で誰かが泣いていたら、きっとその誰かを助けたい。そう言って、あの子の両親はこの家を出て行って…帰らなかった。だから、ウィンリィはそう言って、だけど必ず帰ると宣言してね」
『あたしはパパやママのようにはならないよ。必ず、帰ってくる。誰かを助けたいけれど、そのために自分ができることをしたいの』
キッチンから聞こえてくる鼻歌の大合唱が微笑ましい。ピナコが言う。
「他人を助けるっていうのは、誰でも言えることだ。だけど、それを行うことは難しい。その他人の人生の一部を背負うことになるからね。ハリム、お前さんが整備士を目指すなら、覚えておくことだね。だけどお前さんは期待が持てそうだ。その目は、家を出て行った時のウィンリィと同じ目をしている」
「あたしと何が一緒だって?」
ウィンリィが手を拭きながら現ると、ピナコは鼻で笑って、
「素直じゃないってとこさ」
「………………あたしは、素直で可愛い孫娘じゃないわけ?」
「おや、それは初耳だ。あたしの孫娘はそんなタマじゃないと思ってたけどね」
「…ばっちゃん!」
祖母と孫の応酬を唖然としていて見ていたハリムは思わず吹き出す。ウィンリィが腕を組んで笑い転げるハリムの顔をいかめしく顔を作って覗き込む。
「ハリム〜」
「ご、ごめんな、さい……あんまり」
「あんまりお前の顔がグリズリーに見えたらしいぞ」
グリズリー。ドラクマに棲息する、熊の一種。
仁王立ちするその姿は、確かに故郷の灰色熊を連想させて、ハリムはまた堪えきれずに笑い出してしまう。その声に、カレナリアも顔を出した。
「なに〜?」
「カール、ばっちゃんがひどいこと言って、母さんをいじめるのよ」
「え〜、母さんがばっちゃんを虐めるんでしょ?」
至極当然だと言わんばかりの応えに、ハリムの笑いは大きくなり、ピナコも笑い始め。
ウィンリィも苦笑する。
「だめだな、こりゃ」
「え〜、なになに、なんなのよ〜」
カレナリア一人だけが、笑いの渦に入れず、一人いじけた表情を浮かべていた。
これも訓練だと、ハリムの部屋は二階に与えられた。朝起きて降りるのも、夜寝るために上がるのも、リハビリの一環だとピナコに言われたからだ。ハリムはゆっくりとベッドに腰掛け、ベッドの脇に松葉杖を置いて。
その時不意に大きく取られた窓から差し込む月明かりに視線が向いた。
見上げれば宵空に浮かんでいるのは、満月にあと僅か足らない姿の月で。
『ハリム、お前は月を抱いて生まれて来ると、占い師に言われたのよ』
今は亡き母の言葉を思い出す。
『それも満月じゃなくて、もう少しで満月になる月だって』
『…どういう意味なの?』
アメストリスに来て最初に驚いたのは、占い師を見かけないことだった。ドラクマではどこにいても必ず占い師がいるし、人々は物事を決める時は占い師に吉凶を占わせる。
ドラクマには万の神がいると言われている。そしてその全てが敬われるべき神であり、誰かの守護神なのだ。そして神と人をつなぐのが占い師なのだ。
ハリムの守護神は、バルド・エンリーナ・ザーカと呼ばれている神。
かつて月の神が生み出した、5柱の月子神の一人、登り月の神がハリムの守護神とされた。それは生まれる前に占い師がハリムは月を抱いて生まれると告げたことから、そう決まっている。そしてハリムとは、ハリミエンリーナ、『エンリーナと共に歩む者』の略称なのだ。
『お前は、月の子神に守られているんだよ。でも占い師はこうも言ったよ。登り月をいただくものは、艱難辛苦を経験するが、世に名を馳せる者になるって』
母は、子どもに対して噛み砕いた説明をしなかった。だから『かんなんしんく』が何を意味するのかは理解できなかったけれども、ハリムは目を輝かせて、聞いたものだ。
そして言ったのだ。
『神様は、だけど、何の手助けもしてくれないよ、ハリム』
『そうなの?』
『そうなの。人は自分の足で歩かなきゃいけない。喩えそれが醜くても、神様から手助けはないけれど、他の人から貶されても、人は自分の足で歩かなきゃいけないんだよ』
もがいても。
あがいても。
それでも、人は歩くんだよ。
ねえ、ハリム。
それを貶す他人は他人なんだよ。
支える他人は、『身内』なんだよ。
わからないかな?
でもね、いつか分かるよ。
ん? そのとき、ハリムの傍に母様がいられるかわからないけれどね。
穏やかに微笑む母の、穏やかな表情を思い出せば、目頭が熱くなる。
ハリムは枕に顔を埋めて、声を押し殺して泣いた。
自分が母の命を糧に生き延びたことは、どう言い訳しても言い訳しようのない、事実だ。
だけども、母は生きろ、と言った。
生きよう。
あがいてみよう。
もがいてみよう。
生きる、ということを。
哀しみを生むかも知れないけれど、哀しみ以外に生むかもしれないという可能性も残されている。
まだ、あがいてみよう。
「母様、あがいても、いいよね?」
答えはなく。
ただ登り月が、空気の揺れに反応してその輝きを僅かに揺らめかせただけだった。
アルフォンスの帰宅はいつも決まっている。
技術職であるアルには、一般軍人のような夜勤がない。おかげで9時に出勤、6時には帰宅という勤務時間を過ぎれば真っ直ぐに自宅に帰ってくる。それでなくても今日はアレクが体調を崩し、自宅に早めに帰ったことをシュミット大尉からの連絡で知っていたから、いつもよりほんの少し早く帰宅した。とはいえ、心配で早退して帰宅してしまえば、アレクが自分に心配かけまいと連絡しなかったことを無駄にするからと、いつも帰る時間帯で、である。
帰り着けば、コートを受け取るヘンリエッタにアレクの様子を聞く。
「どうなの? アレクは」
「お帰りになった時はかなりの熱だったようですが、アレク様が自分でお薬を飲まれたんでしょうね、先ほど覗いたら熱もかなり下がったようで。明日には出勤するとのことでしたが」
アルは眉を顰める。
ここのところ、『ふぬけの大総統』の所為でアレクが普段の激務よりも仕事量を増やしていることをアルフォンスは知っている。せっかく体調不良で休めるのだ。少し休めばいいのに。アルの表情でそう言いたいことを読み取って、ヘンリエッタが苦笑しながら、
「私もお休みするようにすすめたんですけども。気になる仕事が山ほど残っているんだそうです」
「仕方ないな。僕が話してみます」
「はい」
それから、とヘンリエッタは声をひそめて、
「何かテオとレオのことで」
「双子?」
意外な名前に、アルは首を傾げた。
「いたの?」
「ええ、ナタリアさまも。その…二人の部屋からアレク様の大きな声が」
アルは目を細めた。
珍しい。
アレクが双子の部屋で声を荒げるなんて。
「双子は…部屋?」
「はい」
「あっと、その前にアレクの様子〜」
夢、なのだと理解している。
なのにアレクは臭いを感じていた。
肉の焦げる臭い。
風に乗って血の臭いも。
しかし全てに勝る、硫黄の臭い。
嗅覚に続き、聴覚も周りの惨状を伝える。
痛みを訴える声。
誰かを呼ぶ声。
そして声にならないうめき声と、ここにいるはずもない母親を呼ぶ声も。
うっすらとたなびく煙の中で、アレクだけが立っていた。
しかし、唐突に理解する。
これが夢ではなく、過去の思い出であることを。
そして、足下を埋め尽くす死者と、重傷者たちを生んだのは、自分だと。
最後に生まれた視覚が、アレクの過去を引きずり出す。
血と火傷と、埃に汚れ。
ある者は声を上げ、ある者はただ静かに、ある者はもう声もなく、そこにあった。
アレクはゆっくりと目を閉じた。
実際に閉じたかどうかはわからない。だが、それは前に広がる惨状から目をそらす為ではなかった。
謝罪でもない。
今目に映った過去を、脳裏に、網膜に、心に刻むための暫しの休息だった。
国家錬金術師資格取得と同時に、アレクは軍入隊を一切の迷いなく決めた。直後に西方司令部に配属された。そして半年もしないうちに実戦に駆り出されたのだ。
西方同盟戦線。
子どもが聞いてもそれがテロリスト集団だと分かる安直な名前の組織が同時多発爆弾テロを起こす、と言う情報に西方司令部所属の軍人は総動員された。勿論その中に、ミュラー少佐も例外ではなく。
アレクが向かったのは西方同盟戦線最大の拠点で。
アレクは両の掌を打ち鳴らして、立てこもったテロリストに警告した。
空気を可燃性の高いものに変成した、と。
そして分かっていて、テロリストは自爆の道を選んだ。
自爆に先んじてた発砲が誰によるものなのか、今となっては分からない。だが、アレクの警告も空しく、変成された可燃性空気は誘爆を招き、軍にもけが人を生んだ。
思わず抱え起こした少年は、爆発で左手をもぎ取られ、しかし残った右手にしっかりと銃を握っていて。
『痛いよお…母さん…』
僅かに赤みを帯びた茶色の双眸は、あるいはイシュヴァールの血を引くものだったのかもしれない。ただ痛みで焦点がぼやけた双眸は、アレクの蒼の軍服を見て、急速に焦点を合わせ。
震える右手がゆっくりと銃を持ち上げる。
アレクは、理解していた。
少年が何をしようとしているのか。
そしてそのための力が少年には残されていないことも。
なのに、少年の努力はアレクの背後に立った軍人と、一発の銃声で無に帰した。僅かにあげられた腕は銃を取り落とし、弛緩する。焦点はぼやけ、瞳孔が散大していく。弛緩するにつれ、アレクの腕に体重がずっしりとかかる。アレクは顔だけ振り返った。
そこにはさっきまで自分と談笑していた軍曹が、銃を持って立っていて。
『治療は、必要ないんですよ。少佐』
見渡せば、同じように一発銃声が響くたびに、辺りに聞こえていたうめき声が小さく消えていく。
テロリストの全滅。
否、それは全滅ではなく、同じ国民を軍人が虐殺している光景で。
だが、アレクは賢さ故に全てを理解した。ゆっくりと少年の遺体をおろして。
軍人にも怪我人が多数出た。
治療が優先されるべきは、軍人なのだ。
その重傷度は関係ない。
瀕死であっても助かる可能性のあるテロリストよりも、軽傷の軍人が治療を優先される。それを合理的にすすめる為には、『テロリストは自爆で全員死亡』という理由付けが必要なのだ。
そして、負傷者を出しながら軍を、国民を守った『英雄』が必要なのだ。
その英雄として、自分が祭り上げられることになっていることを、アレクは理解していて。
だが、それ故に思うのだ。
血と加薬の臭いの中で、自分の選んだ道の厳しさを。
マスタング中佐を、ロイを高みにのし上げるために自分の力が必要になると自惚れていた。
だけど、それが自尊心からくる自惚れでしかなかったことを、今指先を襲う震えが知らしめる。
こんなに簡単に、人は、死ぬ。
あとには何も残らないのだ。
その思いも、継ぐ者がいなければ、何の意味もない。
こっそりと妻の顔を覗き込めば、想像していたよりずいぶん具合はいいようで。
アルは安堵の溜息をつく。すると、眠っていると思っていたアレクがゆっくりと目を開いた。アルは慌ててアレクの身体を起こしながら言う。
「もう少し、寝ててもいいよ」
「ん? …うん、大丈夫。少し夢を見ただけだから」
穏やかに微笑む様子は、いつものアレクと同じで。アルは微笑んだ。
「夢って?」
「…………西で、初めて爆弾テロをつぶした時の、ね」
それはアレクから何度も聞いた話だった。
初めてテロをつぶした時の話は、初めてアレクが人を『殺した』時の話だ。
黙ってしまったアルの、その頬をアレクは右手で撫でて。
「大丈夫よ。ナタリアを怒鳴ったので、それで思い出しただけだから」
「え?」
アルは今度こそ、眉を顰めてしまう。
「ナタリアを? あれ、ヘンリエッタの話じゃあ、双子って」
「テオは止めようとしてたなぁ…ナタリアが【賢者の石】に手を出そうとするのを」
アルは瞠目する。
かつて、姉と二人で手に入れた【希望】。
だけども、それは見せかけの希望で、その内側には罪が詰まっていたのに。
「止めた、けどね。具体的に話はできないでしょう? だって…ナタリアはドラクマの人、だからね」
「………………」
「双子には、話してあげないといけないけどね…」
ちらりと見られて、アルはようやく気付く。
アレクは、双子に【話す時期】が来たと思っているのだ。
アルは小さく笑んでみせて。
「じゃあ、少し双子に話をしてくるよ」
「うん。お願い…少し眠るよ」
扉がノックする音に応えたのは、レオだった。
テオが掛け時計を見れば、父が帰宅の時間だった。ゆっくりと開く扉を見れば、そこには父が立っていた。
そして言う。
「あのね、書庫においで。アレクがナタリアには教えないようにって言うから、こっそりおいで」
僕らは、間違ったかもしれない。
でも、ここにあるのは間違った結果だとしても、構わない。
過ちだとしても、受け入れる。
だって、正解でも、間違いでも、全ての答えが入り組んで、僕はアレクと出会えたんだから。
アルは、心に言う。
そう唱えることが、自分の心を強くする、と知っているから。
書庫で待てば、双子がこっそりと姿を見せた。アルは尋ねた。
「ナタリアは?」
「…さっき、ヘンリエッタが覗いた時は眠っていたっていうから…泣き疲れた、のかな?」
「そうか」
座るように促されて、双子はアルの前に並べられた簡易椅子に座る。
「なんでここに来たか…分かるよね?」
アルの言葉に、双子は同時に頷いた。
「よし。じゃあ、聞くよ。僕に何を聞きたい?」
「………………」
レオゼルドとテオジュールは互いに顔を見合わせ、真っ直ぐにアルフォンスを見つめて、言った。
「全部」
「全部知りたいよ、父さん」
アルは小さく息を吐き出して。
「これは…父さんの過ちだよ。だから、お前たちに話すのはもっと先だと思ってたんだ。母さんは…望んで僕らの罪を背負ってくれた。ロイおじさんもだよ。だけど…お前たちが一緒に背負う必要はないんだよ」
「知ることが、罪なのかな?」
「父さん。僕らは違うと思うよ」
真っ直ぐに見つめる眸は、かつて自分の全てを語った時に覗き込んだアレクの双眸と同じで。
アレクは再び溜息を吐き出して。
「そうかもしれない…だけど、これだけは約束してくれ。父さんの昔のことで、お前たちに学んで欲しいことがあるから、語るのだと」
「わかった」
等価交換。
それが錬金術での大原則。
何かを得るためには、何かを喪わなくてはならない。
そして得るものと同価のものを、喪う。
ならばアルの肉体と同価なものとは?
ならばエドの手足と同価なものとは?
エルリック姉弟の探索行の目的は変化した。
等価交換の原則を無視する、触媒。
賢者の石。
それを探す旅になった。
イースト・シティで、姉弟は一人の男と出会う。
赤褐色の双眸、赤銅色の肌。そして額に刻まれた、傷跡。
スカーと呼ばれた男は、姉が【エドワード・エルリック】であることを知って、襲いかかる。
男にとって、【国家錬金術師】は殺さなくてはならない存在だった。
『分からぬか、国家錬金術師! 全てを生み出せると誤解しているお前たちは、しかし神ではないのだ! 悔い改めるつもりがないのなら、今、我がお前を殺す!』
叫んだ男は、姉の機械鎧を破壊し、弟の鎧を砕いた。それ故に姉は、自分を差し出すことを決めた。
『弟は…見逃してくれ』
スカーは手を止めた。
遠い記憶に、同じ言葉を聞いた記憶があったから。
そしてその迷いの間に、救いの手はさしのべられ、スカーは逃げた。
項垂れた姉の耳元に、囁いて。
『賢者の石が、欲しいか? それを望めば、お前は一生の罪を背負うことになるぞ』
再会したのは、内乱で破壊されつくした街・リオール。
姉は叫んだ。
なんとしてでも、賢者の石が欲しいと。
スカーは静かに返した。
欲しいと強請ることは、言葉を覚えたばかりの赤子でもできる。だが、続く罪の重さを理解できるか、と。
そして告げる。
賢者の石が欲しいなら、やろう。
だが、一人の女を捜し出せ。
美しい、黒髪の女。
名は…シレリアナ。
旅は続き、姉弟は中央の小さなバーで、穏やかに微笑む女性を見つけた。
『私の名は、ラスト。色欲、を意味するのよ』
自嘲の微笑みは、今となっては理解できる。
彼女は、家族を作りたかった。
だが、時を止めたその肉体では、子どもを生むことは叶わなかった。
そして、彼女は現実を忘れようとした。
愛したはずの男と離れ。
欲望のままに、生きようとした。
あまりにも刹那のその思いは、しかし時を経て、足にまとわりつく錘のように彼女を疲れさせ。
生きることに厭いたように彼女は、スカーの元に戻ることを同意する。
そして彼女と再会した喜びを表す間もなく、スカーは姉弟に告げる。
『俺と、シレリアナ。二人が賢者の石だ』と。