萌芽
小さく溜息を吐く。
予想されていた、事実。
それはグレアムが国家錬金術師になった時からの、定めだった。
望みはしない。
だが、国家錬金術師として研究を行うためには、必要だった代価。
さきほど東方司令部から届けられたその書類にはたった3行の文言しかなかったけれども。
それが、全てであり。
グレアムと、グレアムの家族の未来までも決してしまうかもしれないという事実に、グレアムは目を離せなくなっていた。
国家錬金術師『素創の錬金術師』グレアム・ヴァースタインにキング・ブラッドレイ大総統閣下より命を下す。
少佐相当官として、西方司令部に移動、国軍に参加するように。
東方司令部出頭の日時は、来週水曜とする。
「来たか…」
「はい」
グレアムの告げる言葉を、ただ目を細めて聞いた舅の言葉だった。
貿易商として情報に通じているだろう舅は、国軍の動きが活性化していることを把握していたし、国家錬金術師である娘の夫が『人間兵器』として戦場に駆り出される可能性を承知していた。
だからこそ、反対したのだ。
愛しい一人娘の結婚を最後まで。
いずれはミュラー家の行く末を、娘・フローライトを委ねてもよいと感じた男は、ただ一つ、『国家錬金術師』だった。
だからこそ、最後まで反対し続けたけれども。
駆け落ちに等しい行為までした挙げ句に、妊娠したという知らせを聞くに至って、レオナイトは一つ嘆息して、諦めた。
これも定め、と。
父親譲りの銀髪と紺眸を持って生まれた孫娘に、レオナイトはアレクサンドライトと名付けた。
そのアレクサンドライトはおそらく今頃、二人が重い空気を背負って隣の部屋で母に見守られながら眠っているはずだ。
「フローを、アレクをお願いします」
口を開いた義理の息子の言葉を、レオナイトは小さく頷く。そして続ける。
「少佐相当官とはいっても、与えられる権限は少ないそうだ。おそらく最前線に出されることはなかろう…お前さんの得意分野は戦争に直接使えるものではないからの」
「はい」
グレアム・ヴァースタインの異名は『素創』。それは元素の組成の研究という、実は広範囲に軍事転用できる研究だけれども、広範囲すぎて瞬時の判断を要求される戦場では利用の研究ではある。なのに、国軍はそんなグレアムを戦場に、西の果てに引っ張り出すというのか。
意図が、見えない。
レオナイトの思惑とは別に、グレアムは自嘲するように笑って見せて。
「最前線ではないとはいえ、何があるかはわかりませんから…」
「………フローが悲しむな。フローには?」
小さく首を横に振るグレアムに優しい視線を落として、レオナイトは最近とみに動く度に痛む左足を庇いながら立ち上がり、グレアムの項垂れた左肩を軽く叩いた。
「フローとアレクのことは心配するな。だが、帰って来い。それが一番の土産になる」
「………………はい」
「そしたら、国家錬金術師など辞めてもらおう。一度『義務』を果たせば国軍は文句を言うまい。いや、言わせない」
厳然と告げられた言葉に、グレアムは否定の言葉を飲み込んだ。
何度となく交わされた言葉。
軍の狗と貶されても、研究を続けたかったグレアムは、金銭的問題故に国家錬金術師になった。
だが今や大富豪のミュラー家の人間と結婚した以上、金銭的な悩みは解消された。
おそらくは、国家錬金術師を辞めたとしても、何の問題もないほどに。
それ故に義父はすすめるのだ。国家錬金術師資格の返上を。
少し、いやかなり、心惹かれているのは嘘ではない。
グレアムは小さく息を吐いて、顔を上げた。
「………………わかりました。今度の徴兵から帰れば、国家錬金術師資格は返上します」
「ああ、それが妻と娘のためだ」
「………………え?」
「すまない、少しの間、家を空けるよ」
すやすやと眠る愛娘の、まろやかですべらかな頬を撫でると、むず痒かったのか幼子はなにやらむにゃむにゃと言って、父親が触れた部分をぺしぺしと叩く。それを愛おしげに見ていたグレアムにフローは両眼に涙をためて、子どもを起こさないように小さな声で言う。
「でも、でも! 辞退することは」
「フロー。これで私は国家錬金術師資格を返上するつもりだ。そのためには…今度の徴兵を辞退しない方がいい。これは…父上と相談した上の結果なんだよ」
最上級の碧髄玉のような、とかつてある詩人に賞賛されたフローライトの美しい双眸には今にもこぼれ落ちそうな大粒の涙が浮かんでいて。
それはすぐにぽろぽろと頬を伝い始めた。
「グレア、ム」
「どれくらい行くかは分からないけれど、徴兵はそんなに長くないし、まして私の研究から言えば決して最前線で戦うようなことはないから」
「でも」
「西で国家錬金術師として最後のつとめを果たす。それから…帰ってきたら国家錬金術師を辞めるよ。そうすれば、ミュラー家にも迷惑はかからない」
「迷惑だなんて!」
舞踏会に出れば、多くの若者が自分と踊って欲しいと殺到するような、美しい娘。
実家は東方随一の資産家であるミュラー家。
なのになぜ、そんな資産家の美しい娘が幾ばくか年嵩の、穏やかだけが信条の自分を選んだのか未だに分からないけれども。
「グレアム」
「お父様も同じことを言ったけれど、奪い取るように結婚してしまった私の、唯一の選ぶことのできる結論だよ。どうか…許しておくれ」
ゆったりと抱きしめられて、フローは目を閉じた。
「必ず、帰ってくるから」
次々に涙がこぼれていく目尻に口づけて、男は告げる。
「だから。待っていておくれ。そして」
健やかに眠る愛娘を見つめて、男は言った。
「幸せになろう。私たちの幸せを阻む者など、何一つないのだから」
そうして旅立った、グレアム・ヴァースタインは。
二度とイースト・シティの地を踏みしめることはなく。
次に降り立ったのは、小さな小さな箱に収められた僅かばかりの遺品。
茫然自失で何も理解できない妻に代わり、妻の父がそれを受け取り、埋葬した。
グレアム・ヴァースタインは、死んだ。
それは事実。
だが、彼の死は萌芽となった。
フローライト・ミュラー・ヴァースタインの、悲哀なる狂気と。
アレクサンドライト・ミュラーの、一生消えない心の傷の。