残る思い、つなぐ絆






老人は思うように動かない右手を天に向かって突き上げた。
震える手で何をつかもうとしているのか、ベッドの横で寄り添うアレクには分からなかった。
ただ12歳のアレクに分かっていたこと。
祖父が、もうすぐ死ぬ、という事実。



『今日明日が、峠でしょう』
告げられた、祖父の命の期限。
アレクは、祖父の傍らを離れて、書庫に向かう。
沈思する時は、書庫と決めていた。
考えなくてはならないことは山ほどある。
祖父のこと。
祖父亡きあとのこと。
ミュラー家のこと。
だが、書庫には人影があった。
「マース……ロイ」
「よお」
「お前ならここに来ると思ってな……」
祖父の養い子である二人は、正式にはミュラー家に迎えられたわけではない。
だから、ミュラー家の者の反発を恐れて、正確にはアレクに向かうはずの反発を恐れて、書庫でアレクが来るであろうことを待っていたのだ。
とはいえ、ミュラー家の者と呼べる者は、いないのだ。
当主であるレオナイト自身に既に身内と呼べる存在はなく、いるのはアレクの父・グレアム・ヴァースタインの兄一家だけ。
そのヴァースタイン一家も、願わくばミュラー家の財産のおこぼれを望んでいる。
あまり見慣れない蒼の軍服のまま、ロイが言う。
「お前は、どうしたい?」
「ロイ?」
「お前が望むのなら、俺とマースはそれをする。それにお前を近づけるように、努力する」



それは、兄としての愛情。
養い子として、自分たちをすくい上げてくれたレオナイトの為。
幼い微笑みで、自分たちの空虚を埋めてくれた、アレクサンドライトの為。
今年、士官学校を卒業して、入隊した2人にはロイは少佐、マースは少尉。
出来ることは少ないはずなのに、穏やかに微笑みながら、ロイは告げる。
アレクの望むように、と。



アレクは一つ、深呼吸をして告げた。
「何も、望まない。あるがままに。マース、ロイ。二人はおじいさまのところに行ってあげて」
「だけど、アレク」
言いつのるマースに、アレクは首を横に振って、書庫の最奥の扉を開いた。
「二人は、おじいさまに望まれて、ここに来た。そのことを…忘れないであげて」
そして、最奥の扉は閉まった。



「レオ爺」
ひそやかな呼びかけに、レオナイトはゆぅくりと目を開けた。
まぶたを挙げる。
それだけの動きが、億劫でしょうがなかった。
だが、耳は誰の声か聞き分けている。
「……マースか」
「おうよ。くたばる前にたどりつけて、よかった」
「おい、マース」
咎める声はロイだ。レオナイトは穏やかに微笑んで、
「まったく遅いわ」
「すまないね、仮にも軍人だからな。親の死に目にも会えないっていうのがモットーらしい」
「いや、モットーではないぞ」
ロイのツッコミにもレオナイトは微笑んで。
深い溜息をついて、
「アレクはどこに」
「さっき、書庫に」
「ふむ……おそらくは、ヴァースタイン一家をいかに撃退するか…かの」
マースは最近かけ始めたメガネの位置を中指で直して、
「まったく、ああいう賢いのは誰譲りだ?」
「………儂じゃよ」
「ああ、そういうと思ったけどね」
今際の老人との会話とは思えぬ会話を展開してから、ようやく思い出したようにマースが言う。
「なあ、レオ爺」
「うむ」
「アレクは……どうするんだ?」



そのとき。
老人は穏やかに微笑んで、囁くように言った。
「お前たちが来た。だからもう、いい」
「……は?」
「思い残すことは…ない」
「おい、レオ爺」
「お前たちが、いる。アレクには、まだお前たちがいるから…」



そして。
老人は夜明けを待たずに逝った。
何度も何度も、何かをつかむように中空を彷徨っていた右手は孫娘と、養い子に受け止められて。
そのたびに、老人は穏やかに微笑んで。
老人にとって、思い残したことは、孫娘。
愛おしんで育てた愛娘は、心が壊れて孫娘をいたぶった。
自分は娘かわいさにそれから目を背けて。
孫娘に、母を喪って、心と体の喪失感に泣き叫ぶ孫娘を抱きしめてやることしか出来なかった、贖罪に。
最後の最後まで、心を砕いた。



愛しき、者よ。
お前たちに、思いを残す。
幸せであれかし、と。
養い子たちよ。
絆を生め。
そのことが、きっとお前たちを良き方向に導くから。
アレクサンドライト、許して欲しい。
お前から母を奪ったこと。
お前に母を与えられなかったこと。
だから…いつかお前が母になった時。
空に向かって、囁いておくれ。
お前がどう過ごしているかを。
私は残した思いで、お前の気持ちを知るから。
さようなら。
………幸せを祈っているよ。



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