失う者、守る者
それは一瞬の出来事で、永劫の出来事だった。
エドはその時のことを、一生忘れることはない、と信じている。
走馬燈のように、よぎるというのはまさしくあの光景。
決意に満ちた表情が、見知った顔が、自分を突き飛ばして…爆発に巻き込まれた。
「おい…ホントか、それ」
受話器から忙しなく流れてくる声に、マースは耳をそばだてる。そして壁にかけられた時計を見た。
時間が、なかった。
『間違いないです! 先ほどから駅に連絡を取っているのですが、混線しているようで連絡が取れないんです!』
受話器の向こうで部下が告げた言葉に、マース・ヒューズ中佐は深い溜息を吐くことしかできなかった。
キング・ブラッドレイ大総統の暗殺計画。
それは、大総統専用車両の爆破から始まるのだと、今朝捕らえたばかりのテロリストの一人が自白したのだ。
時間は、午前11時ちょうど。
連絡は取れない。
車を走らせて、中央駅までが20分。
そして今、壁にかけられた時計は10時40分。
ぎりぎりだった。
「わかった!」
受話器をたたき付けて切って、マースはちらりと執務机に飾られた写真立てを見る。
満面の笑顔のエリシアを抱えるグレイシア。
その隣の写真は、西方司令部に旅立つ前のアレクを真ん中にロイとマースが笑っている写真。
覚悟を、決めた。
自分は錬金術師じゃない。
万能じゃないけれど、だが、大総統に、おそらく見送りに行っているロイとエドワード・エルリックに急を知らせることはできる。
だが、それには。
命の危機が忍び寄ることを、ロイは死線上で戦ったイシュヴァールの戦慄を思い出して、震える心を内心だけで叱咤した。
分かっていたはずだ。
軍人になった時から、危険とは紙一重だと。
決断を待っていた部下たちは普段のおちゃらけた表情が上司から消えたことを感じた。
そして、それだけ緊急事態だと自覚した。
「中佐」
「中央駅に向かう。テロリストたちの時計がずれていることを祈るしかないだろう…アームストロング少佐、非常線を張ってくれ。軍法会議所権限を使ってもらっていいからな」
「は!」
「俺は駅に向かう!」
返事を待つ間もなく、マースは駆けだした。
がたん。
スピードを落とした列車が完全に停車して、アレクは目を通していた書類から顔を上げた。
「なに?」
「おかしいですね、ここは駅ではないですよ」
シュミット少尉が小首を傾げて立ち上がる。
「車掌に聴いてきます」
「うん」
再び書類に視線を落としていたアレクだったが、慌てて駆けてきたシュミットが耳元で囁く声に眉を顰める。
「え?」
「はい、そういう情報が錯綜しているので、一端保守のために停止したと」
「………ずいぶん大規模なのね」
「中央の軍法会議所がつかんだそうです。ヒューズ中佐の名前で、停止命令、出されたみたいですよ」
「そう」
特に感慨も持たないまま、アレクは再び書類に目を落とした。だがすぐに顔を上げる。
「少尉」
「はい」
「…車を手配できるかしら」
立ち上がった上司の表情の、複雑な表情にシュミットは小さく頷いて。
「手配してみます。少しお待ちください」
「うん」
それは列車を利用したテロだった。
中央駅に向かう列車のうち、いくつかに爆弾を仕掛けている。
そしてその嚆矢となるのが、大総統専用列車なのだと、自白したテロリストは誇らしげに応えたという。
その結果として罪のない多くの命が奪われることは、『大義』の前に無視されて、大事の前の小事だとされる。それこそが、軍の思考だと気づかずに、対抗するつもりで平行した思考に陥っていることに、テロリストは気づかない。
残り、10分。
中央駅は首都の中でも中心にある。けして多くはない車の数も、駅に向かえば渋滞を引き起こすほどで。
後部座席でイライラと座っていたマースは不意に、後部座席の扉を開ける。
「おい、走るからな! 後から来い」
「やあ、鋼の」
「………………よお、セクハラ大佐」
「ずいぶんな呼び方だね」
幾分気分を害したように眉を顰めて、大佐はエドに言葉を返した。そして仕返しするように言葉を紡ぐ。
「ご機嫌が悪いようだが、もしかして女性の日かな?」
「は? なんだよ、それ」
「月に一度の辛い時期なんだろう? 席を用意しよう。そうだ、膝掛けも必要かな。少しは楽になるかもしれないな」
スイッチが入った。
隣に立っていたアルはそう感じて、思わずエドの身体を羽交い締めにする。
「だ、だめだよ。兄さんってば」
「アル、止めるな止めてくれるな今日こそはこのスケコマシのスケベ野郎の面の皮を分厚くひんむいてやるんだ!!!」
一気に言ってしまって肩で息をしているエドを、巨躯の鎧のアルは離すことなどできるはずもなく。
困惑したようにエドの頭頂部を見つめ、救いをもとめて大佐を見た。
大佐と、アルの視線が絡み。
大佐は小さく肩を竦めてみせて。
「まあ、それほどまでに拒否されては切ないものだがな」
「大佐………………」
非難を視線に含めて見つめてみるけれど、それは無機質の鎧ゆえか、視線の温度は決して大佐に伝わらず。
アルは小さく溜息をついて、抗議をかねて姉の手を離そうとした時。
「これはこれは鋼の錬金術師ではないかね。む? こんなところで会うとは、何とも奇遇だな」
静かな声が、その場の雰囲気を救った。
平然と立っていたのは、隻眼の男性。
にっこりと笑んでみせて、大佐の敬礼を受けて。
「マスタングくん。見送りごくろう」
「は。北方視察に向かわれるとのこと」
「うむ。少し北の熊が騒がしいのでね」
穏やかな口調とは裏腹に、その視線が指すように鋭くなったのを見たのは大佐だけで。
「………………杞憂とは分かっておりますが、お気をつけて」
「ああ、ありがとう」
ブラッドレイ大総統は振り返り、好々爺の表情で姉弟を見た。
「君たちは…南かね?」
「ああ。大佐の特務、でな」
「ほお」
小さく輝いた目の端に、姉は気づかず。
「おっさん、気をつけてな」
「うむ。鋼の錬金術師も気をつけるのだぞ。まあ、いろいろと障害は多いだろうな。そのサイズでは」
「な!」
それはもっともエドには触れられたくない部分で。
スイッチが入るどころか、毛細血管が切れる音まで聞こえたアルは一瞬にして青ざめる。
よりによって大総統に食ってかかるなんて!
さすがに大総統に近寄るエドを、大佐が静かに宥める。
「鋼の」
「誰が、ミジンコサイズのゾウリムシだって!!!」
「ほっほっ。そこまでは言ってないのだがな」
「言ってんじゃないかよ」
「まあ、君が思っていることを君が引き出したのであろう? 違うかね?」
アルとも大佐とも違う、老獪な慰め方にエドは眉を顰めたけれど。
「………ふん」
「では、私は行く」
「おっさん」
エドが質素に見えて豪奢なつくりの大総統専用列車に乗り込んだ大総統に言った。ブラッドレイは振り返る。
「なんだね」
「………………気をつけてな」
「うむ」
大佐に言われた時よりも、遙かに嬉しそうな口元で大総統は頷いて。
ふと遠くを見遣る。
隻眼故か、幾分目を細めて何かを見ようとしている。
プラットフォームの奥からなにやら賑やかな声がして、大佐とエドも振り返った。
「ん?」
「………………マース、か?」
小さな声に、応えるように張り上げられた声。
「大総統閣下!」
叫んだ軍人の顔を見て、エドが瞠目する。
それは、マース・ヒューズ中佐だったから。
見知った顔だった。
血相変えて飛び込み、警備の兵ともみ合っている。
「こちらは特別の許可を得ていないと入ることはできないんです!」
「ああ、もうお前らの説明はあとだ! 俺が分からないのか、軍法会議所のヒューズ中佐だ!」
「あ、あの、証明するものは!」
「あ?」
ぱたぱたと身体を探しているけれども、目的のものは見つからず、マースは一気に青ざめた。
普段携帯している身分証を、よりによって忘れて来るなんて。
「あ〜〜〜」
一気に脱力するけれど、だが目の端に見知った顔を見つけて、マースは声を張り上げた。
「ロイ! おい、ロイ!」
「………ずいぶんと賑やかな見送りだな。大総統閣下も驚かれるぞ」
明らかに非難するように自分を睨む『兄弟』を、マースはにらみ返して叫んだ。
「そんな暇なんか、無いんだよ! ここでテロが計画されている、それも大総統専用列車なんだよ!」
「……なんだと?」
聞き捨てならない言葉に、さすがにロイも眉を顰める。
「おい、マース。言っていいことと、悪いことが」
「さっきテロリストが自白した。既に専用列車には爆弾が仕掛けられている! 爆破時刻は11時だって!」
ロイはちらりとプラットフォームの大時計を見た。
11時3分前。
自分の腕時計も確認したけれど、ほぼ同じ時間だ。
マースが嘘をついているとは思えない。
額を滴る汗が、どうやら急を知らせようと必死に走った様子を示していた。何より、マースのこの真剣な目が、嘘ではないことを示していた。
「裏は」
「100%とは言えない」
「………迷う暇は、ないな」
ロイはくるりと踵を返し、黙って様子を見つめていた大総統に歩み寄り、言った。
「お聞きの通りです」
「ふむ。ドラクマに向かわなくてはならないが、致し方あるまい。まあ…軍人がこういう言い方はおかしいが、安全が確保されるまで待機する」
明確な答えに、ロイは軽く頭を下げた。
「はい」
「私は駅構内で待機している。新しい列車が用意でき、安全が確保できれば出発としよう」
歩を進めながら大総統はそう告げて。
エドの前まで来て、歩を止める。
「どうかね、君も来ないかね? 鋼の錬金術師」
「う〜ん…俺はいいや」
「そうか」
大総統が動けば、多くの副官も移動する。ぞろぞろとお付きの人間が大総統について姿を消せば、プラットフォームは幾分閑散とした。
マースは時計を見上げて、深い溜息をつく。
11時1分前。
「おい、お前たちも」
避難しろという言葉は、飲み込まれた。
エドが列車の下を覗き込みながら、両手を合わせたからだ。
「ふ〜ん。見え見えの場所に、見え見えの爆弾だねぇ」
「主に黒色火薬、だな」
同じように覗き込んでいたロイが、錬成用の手袋を装着する。
「へえ、火薬の一番強力な奴か。手に入れるの、苦労するだろうに」
軽く打ち鳴らされた両手から、青白い錬成光があふれ出て。
「いくら起動装置を使っても、空気がないと爆発しないんだよね?」
「……液体金属か」
「浸透させれば、火薬は何になるのかなぁ♪」
「………………火薬は火薬だ。だが、完全に封印されることになるな。私の出番はなさそうだな」
「そうそ、火薬の傍で発火布なんて使ってみ? 駅ごと吹き飛ぶよな。こういう場所では、あれだな。大佐」
「む?」
にやりとほくそ笑む姉に、アルフォンスは何かを気づいて口にしようとするけれど、姉の言葉が早かった。
「無能」
「………………さっさと爆弾を始末しろ。時間がない」
溜息混じりの命令に、エドは軽く肩をすくめて、続いて見つけた爆弾の周囲を錬成していく。ロイは周囲を見回しながら、マースに言う。
「マース」
「なんだ」
「お前も避難しろ。私たちは問題ない。もし爆発した時のために、私は酸素濃度を下げておく。普通の人間だったら動けなくなる。早く」
「…ああ」
「俺は?」
「鋼のはここにいろ。いざというときは、私の影に隠れるんだな。そうだ、無能の私の影にだ」
思わぬ反撃に、エドは思わず言葉を飲み込んだ。そして、小さく言う。
「………無能」
ロイに促されて、エドは小さな声でぼやきながら再び両手を合わせ、錬成を始めた。
マースはちらりと時計を見た。
11時ちょうど。
爆発は、ない。
小さく安堵の溜息を吐きながら、マースがその場を離れようとした時だった。
一人の軍人とすれ違った。
「問題は解決しましたか?」
「ああ、なんとか」
まだ危ないぞ。
そう声をかけるつもりだった。
振り返れば、軍人はまっすぐに専用列車に乗り込んでいる。
何かが、おかしい。
不意に気づいた。
国軍所属ならば、必ず階級章をつけている。
肩に徽章、胸に所属章。
だが今の軍人には?
マースは一瞬瞠目して、慌てて振り返る。
「おっし、見えてる部分は終わり!」
「姉さんってば、まだわかんないでしょ」
「まあ、そうだよな。一応確認確認。だけどさあ、もう11時過ぎてるじゃん」
「だからといって爆発しないということはない。しっかり探せ、鋼の」
「お前も探せよ!」
幾分ほのぼのとした会話が交わされていて。
だがその場の3人は自分たちのすぐ前にある列車に誰かが乗り込んだことに気づいていないようで。
マースは声を上げようとして、やめた。
もしさっきの軍服姿の男が、本当にテロリストならば。
マースの声に反応して、どこかに隠してある爆弾を操作することも可能だ。
ゆっくりと3人を避難させることが必要だった。
「む?」
最初に異変に気づいたのはロイだった。
視界の隅で揺れるものを感じて顔を上げれば、マースが手を振っている。
「なんだ?」
目を細めて見れば、マースが音が立たないように左手を握り右手の掌にポンポンとたたき付けている。
「なにを…」
「あ?」
ロイはその叩くリズムを同じようにしてみせて、気づく。
ロイが頷くと、マースは再びそろりそろりと姿を消した。
「おい、大佐」
胸ポケットのメモ用紙を出しながら、ロイは何事もなかったかのように言う。
「鋼の」
「あ?」
「爆弾はまだあるんだろう?」
「今探してるけど…アル、上の方はある?」
「う〜ん…見あたらないよ」
少し離れた場所から見下ろしていたアルには列車を遠く回り込んでいるマースの姿が見えた。
「あれ?」
「そうか。ああ、鋼の。いいものをあげよう」
「ん?」
手渡されたのは、先ほどロイがメモ帳を破ったもので、エドは特に疑問もなくそれを開いて、思わず息をのんだ。
「…………へえ」
「いいものだろう?」
「…確かに」
テロリストが列車に潜んでいる。
ヒューズが攪乱するから、確保する。
先ほどのリズムは、軍で使用されている暗号だった。マースの意図をロイは完全に理解していた。
幾分声を大きく、
「さて、まだ爆弾はあるかもしれないな」
「………楽しそうだな」
「それはもちろん」
マースはひょこりと列車の中を覗き込む。
いた。
幾分青白く見える顔の、軍服姿の男がマースに横顔を見せながら、何か俯いて作業をしていた。
ぶつぶつと口の中だけで何かを呟いている。
「………………のために」
「………………のために」
まるで祈るような言葉に、しかしマースは共感を覚えることなどできなかった。
他者を排除してまで、死に追いやるような行為をしてまで、自我を押し通す本当の意味など、この男には分かっているのだろうか。
死者が生まれ、死者につながるものが悲しむ。
そして哀しみは怨嗟を、憎悪を生む。
憎悪は再びの死者を生むことだってあり得るのだ。
そして連鎖は限りなく、その幅を広げながらつながっていく。
そんなことを思って、マースは思わず自嘲する。
おそらくはその契機を与えるのは、国軍なのだ。そして自分は軍人。
そんな思いにふけっていた所為で、軽く肩を叩かれて始めて自分の周りにまだ人がいたことに気づいた。
「な!」
「中佐、間に合いました」
密やかな呼びかけで話しかけてくるのは、軍法会議所所属のマースの部下だ。
「お前らな…」
「応援を連れてきましたけど…」
マースは小さく指さして小さな小さな声で言う。
「あれだ。できれば取り押さえたい。だが…一度全員待避させた方がいい。その上で、確保しよう」
「はい」
列車を挟んだ向こう側で、賑やかな二人の声が聞こえている。
「なんだよ、それって!」
「いやいや、鋼の。まだまだ爆弾はあるのではないかね? これほどの狭い場所では、私は入れないからね」
「………ほお、俺がちっさいから、俺なら入れると?」
「そこまで言っていないがな」
「言ってるだろ!」
「ま、まあ…姉さんも、大佐も落ち着いて」
宥めようとするアルフォンスの努力が報われることを祈りながら、マースは集まっていた部下たちに言う。
「見張っているだけでいい。できれば十分な距離を取れ」
「はい」
列車沿いに、マースは声のする方に回り込んだ。
エドと掛け合いを楽しんでいる様子のロイにメモをさりげなく渡す。
ロイはそれを見て、小さく頷いた。
「さて、では鋼の。大総統閣下に報告に行くぞ。爆弾は処理した。よって、この列車で出発できることをお伝えしなくてはな」
「あ〜、俺も行く」
ちらりとマースを見れば、力強く頷いていて。
エドはアルフォンスを見上げて。
「な?」
「え、そ、そうだね…」
促されて、アルフォンスは自然に見えるように歩き始めた。
なのに。
気配を殺していた、あの『テロリスト』がゆっくりと立ち上がり、叫んだのだ。
「祖国のために!」
その場にいた、テロリスト以外が息をのんだ。
男が高く掲げた両手は、箱を持ち上げていて。
箱につながった線は、男の軍服の中まで続いていた。
常軌を逸した視線を周囲に向けて、男は持ち上げていた箱を胸の前まで下ろして、再び叫ぶ。
「俺は、俺は祖国のために、ここで死ぬ!」
「待て!」
マースの制止も耳に入らない様子で、男は手にしていたマッチを擦り、箱から出ていた紐に火を移す。
シュルシュルと音を立てて、火花が箱に近づく中、ロイは決然と振り返り。
エドも両手を合わせた。
アルフォンスはエドを庇うために走った。
男は、恍惚とした表情を浮かべ、三度叫ぶ。
「祖国の為に!」
最初の爆発は、男の存在を全て消した。
男の存在と、専用列車とを。
すぐに起こった誘爆は、専用列車とその周辺に仕掛けられていた、爆弾によるものだった。
立ちこめた爆煙と埃は、一瞬の静寂の上にふりつもり。
すぐに呻き声と痛みを訴える声に変わった。
エドは額の痛みで、一瞬自分が意識を失っていたことを知る。
「いって…」
「姉さん、大丈夫?」
うっすらと爆煙がほどけ始め、見えた弟の姿はどこも損なわれた様子もなく。エドはほっとしながら、すぐ横にいたロイを探す。
「大佐、無事か?」
「うむ…」
けほんと、咳払いをしたロイは気づけば爆風で横倒しになっていた自分の身体を起こす。
すぐ前にのしかかるように倒れていたのが、黒髪の軍人であることを確認して、すぐにマースであることに気づいた。
「おい、マース。無事か…」
返事はない。
ロイは眉を顰めて、うつぶせのままのマースを起こそうとして手を止める。
思わず悲鳴に似た声が上がってしまう。
「マース!」
共に兄弟とも呼び合う、男の背中には紅蓮の焔が舐めたあとがくっきりと遺され。
マースは、意識を戻すことなく、軍中央病院に搬送された。
それは中央司令部に、アレクが入ろうとした瞬間だった。
2度の爆発音に、アレクは眉を顰めた。
「中央で爆発テロなんて。ずいぶん相手も大胆だね」
「そうですね」
なんだか言い様のない不安を感じて、アレクは急遽シュミットに車を用意してもらい、中央近郊まで来ていて緊急停止を強いられた列車を降りて、司令部にやってきたのだ。
中央司令部に入ったものの、すぐに一人の将軍に呼び止められた。
「君は、確か生体錬成が行える国家錬金術師だろう?」
「はい。そうですが」
「職権乱用のようで悪いが、軍中央病院に走ってくれないかね。さきほどのテロで多数の死傷者が出ているんだよ」
促されるままに、病院に入ってアレクは眉を顰めた。見慣れた顔を見つけたからだった。
エドワードがアレクに駆け寄った。額には包帯が巻かれ、少しだけ血がにじんでいる。
「アレク!」
「さっき着いたばかりだったんだけど…大総統が狙われたの?」
「大総統は無事だ」
憮然とした表情で、左肩を支えている三角巾をもぎ取ってロイが言う。
「双域の…マース・ヒューズが意識不明の重傷だ」
中央駅事件と名付けられたこのテロ行為は、死者10名、重軽傷者42名のほとんどを軍内部から生んでしまうという、軍最大の汚点となった。
とはいえ、テロリストが最大標的としたブラッドレイ大総統は全くの無傷であり、マース・ヒューズ中佐は大総統に急を知らせた功により、大佐に昇格した。
したのだが……。
「おい、マース…いつまで眠っているつもりだ?」
ロイの呼びかけに、男は黙然と眠り続ける。
普段ならば、おちゃらけながら起きあがる、そんな『兄弟』の反応を期待していた、ロイは裏切られる。
哀しい表情で、横たわるマースを見つめても、何も変わらないのに。
「中佐じゃなくて、もう大佐か…なあ、目を開けてくれよ」
エドの懇願も、眠り続けるマースには届かない。
「怪我はすべて、医療錬成で直してある。頭の怪我もね」
エリシアの手を握りしめたまま、僅かに震えるグレイシアにアレクは病状を説明する。
「爆発の瞬間、マースは………………エドとロイを守ろうとしたのよ」
ロイとエドにのしかかるように倒れていたマース。
それが意味するのは、直前までマースは、二人を庇おうとしていた、事実。
そして背中に、重度の熱傷を受け、頭に爆発の際に砕けた床石が当たった。
どれが原因で眠り続けるのかは分からないけれども、だがどれかが原因なのだ。
「グレイシア」
「………アレク、マースは…起きるのよね?」
僅かばかりの震えに、エリシアはいつもと違う母の様子におびえるような視線を向ける。
「ママ」
「エリシア、おいで」
静かな促しに、エリシアは『叔母』の差し出された腕の中に飛び込む。
「アレク」
「ほら、パパだよ」
ベッドに眠る、マース。
僅かに上下する胸が、マースの自発呼吸を証明している。
自分で呼吸している。
生きている。
だが。
「起きないの?」
「………少しお仕事が忙しかったからね。寝坊するかもしれないけど、寝かせてあげてね」
「うん…………」
のしかかりそうな不安。
それを、アレクは穏やかな微笑みで宥めてみせて。
唇を噛みしめるグレイシアに言った。
「起きないかもしれないし、起きるかもしれない。やれることはやったの…これ以上は、言えない」
「………………」
「それから、グレイシア」
エリシアが座るベッド脇の椅子の隣に、もう一つ椅子を用意してアレクはグレイシアを座らせて。
「大総統から、昇格が命じられたよ。大佐に」
「大佐に……なっても」
そう、大佐になっても。
マースが生きていなくては、意味などないのだ。
「ママ」
「マース………」
押し殺した泣き声を背中に聞きながら、アレクは病室を出た。
俺は、大総統になる。
大総統になって、戦争をしないでいい国を創る。
そうか。
じゃあ、俺はお前を大総統に押し上げるさ。
そうすれば、死ななくていい…悲しまなくていい国ができるんだろ?
そうだね…私もできることをするよ。
哀しみが増えない方法を、ロイがとるなら。
『兄妹』3人で交わされた言葉を、アレクは今でも忘れない。
あの日、イシュヴァールから帰ったばかりで心も体も疲れ果てていたロイをマースが殴り飛ばした日から、9年。
たった3人で始めた『戦い』は、少しずつ実を結んで。
マースは新しい家庭を築いている。
なのに。
「くそ、なんでこんな」
エドが病院の壁に、拳を軽く打ち付けて悔しがる。
「なんで、ヒューズ中佐が」
「………………エド」
「最近は随分とテロが落ち着いたと思っていたのだが」
どこか遠くを見つめるような視線を宙に泳がせるロイに向かって、アレクは言う。
「死者10名か…痛いわね」
「ほとんどが軍法会議所の人間だ。アームストロング少佐は、検問に走ったので無事だった」
「…そう」
マースの病室を見遣って、アレクは小さく溜息をついて。
「背中の火傷は、重度の割には感染症も起こしていなかったから治療は容易かった。それから頭部の挫傷も。だけど…1日起きないなら、少し考えなくてはいけない」
「考え…やっぱり、そういうことになっちゃうんですね」
深い溜息と共に、アルが言う。
「一日一日、覚醒の確率は下がっていく…」
「だけど、奇跡的に回復した例も多い」
濃紺の双眸が、見えない何かを力強く睨み付ける。
「戻ってくるよ、マースは…」
「アレク」
「大佐。ヒューズ大佐の容態が安定するまで、数日こちらに滞在します」
その宣言は、許可を求めるものではなく。
ロイも小さく頷いて、ゆっくりと立ち上がった。
「いいだろう。大総統も大佐に昇格させた功労者の様子だ、気になさっているだろう」
骨折していると言われた左鎖骨を軽く触って、ロイが言う。
「司令部に帰る。私は大総統に報告を」
「ええ」
「双域の、ヒューズを…頼む」
軽く下げられた頭を見て、エルリック姉弟が息をのんだのがわかったけれど、アレクはあえて何も言わず、ただ頭を下げ返した。
「………………ごめんな、大佐」
ぽつりと告げるエドワードは、力なく項垂れて。
未だ着慣れていない蒼の軍服の、幅広の襟に顔を埋めているのを、アレクはちらりと見て。
「エド」
「?」
「マースに悪いって、思ってる?」
「…………そりゃ」
「バカだね」
一言で言い換えされて、エドはギロリとアレクを睨む。
「なんだよ、それ」
「バカだから、バカだって言ったんだよ。ごめんね、ありがとうね。そんな言葉をマースが望んでいると思う?」
「う」
それには言い返せなかった。
穏やかに眠るマースから想像できないけれども、何よりも責任感が強いこの男は、きっとエドを、ロイを救えたことに感謝の言葉も、怪我をしたことに対する謝罪の言葉も必要としないはず。
『エドワード、気にするな。これは俺の性分だからな』
けらけらと笑ってみせる男の、黒い眸は穏やかに優しくエドを見つめているだろう。
「マースは…自分のしたいことをしたんだよ」
「うん」
「マースは、あなたを守ったことを後悔なんてしないと思うよ」
「ああ…」
「だから、ありがとうなんて。ごめんなさいなんて言わないでね」
「………そうする」
襟に埋もれた顔が、俯いて。
微かに漏れる嗚咽を、しかしアレクは聞かぬふりをした。
なあ、マース。
俺は前に進むぞ。
アレクも、ついてきている。
お前は…どうする?
少しの間、休むか?
だけど、いずれ戻って来い。
お前の場所は、お前でないとダメなんだ。
いいな、帰って来い。
夕焼けが窓から差し込み始め、グレイシアは深く溜息をついてから、カーテンを閉めるために立ち上がり。
いつもと何かが違うことを感じて、振り返った。
眠り続ける夫の姿。
上体を起こしてやれば、流し込まれる柔らかな食事や飲み物を飲み下すだけのせいだろう、かつてより幾分痩せてしまったけれど。
もう1年近く、開くことのない瞼の下では、時折眼球が動いているのが分かった。
『夢を、見ているのよ』
義妹が教えてくれた。
だが、いつもと少しだけ違う動きをしている、瞼の下の眼球。
不意に視線を動かすと。
ふとんの上に投げ出された手指が、僅かにぴくぴくと動いていた。
グレイシアは思わず息をのんだ。
そして手指は、明らかに意図を持って、ふとんを軽く握り。
ほとんど動くことのなかった、瞼がゆっくりと持ち上がり。
数度瞬きをして、かすれた小さな声で、男は言った。
「やあ…グレイシア」
1918年、北方にドラクマ軍侵攻。国家錬金術師師団第28師団の出動。
同月、中央軍病院において、1年2ヶ月の昏睡状態から、マース・ヒューズ大佐が覚醒。
半年のリハビリを経て、現役復帰を果たすこととなる。