02:埋もれゆくは、






背を向けて、どれほどになるのか。
不意に思いを馳せて。
女はその紅唇を僅かに緩ませた。
あれほど、自分の世界の全てだったのに。
もう、思い出そうとしても、記憶は曖昧に、緩やかに手の中から滑り落ちる。



そう、不老不死の身体であっても、記憶はなくなるのね。



彼女は自嘲するように僅かに笑んだ。
「なあ、ラスト」
甘えるような声色を上げた男に、彼女は流し目をさらりと送って。
今度は男を蔑むように笑んで。
「何様のつもり? 私はあなたの奥さんじゃあないでしょ?」
男は鼻白んで。
やがて悪態をつきながら、部屋を出て行く。



男の煙草の匂い。
アルコールの匂い。
人々の匂い。
だけど、そこに女が思い出したい記憶はない。
女は男が残していった煙草の箱をまさぐり、煙草を取り出して火を点けた。
やがて、ふいと紫煙を吐き出しながら呟く。
「これの匂いじゃ、ないのね……何の匂いだったかしら?」
彼女が煙草の匂いから感じた匂いは。
記憶という海へと潜っても、きっと浮かばないもの。
褪せた黄金の、さらさらと流れる砂の海で匂ったもの。
そんな気がしてならないけれど。
「誰かの……煙草のにおい?」
そうかもしれない。
だが、思い出せない。
彼女の、心を、身体を、多くの男が通り抜けて行った。
ある者は一瞬で。
ある者はゆっくりと。
その中のひとりかもしれない。
記憶をたどるように。
自らの身体に問うように、彼女は紫煙を身体中に浸透させるかのように深く深く吸い込んだ。
ふと。
琴線に触れた、男の影。
ゆっくりと、紫煙を吐き出しながら、ラストと呼ばれた女は嗤った。
もうずぅっと、忘れていた男。
最初の、男。
そしてきっと、最後の男。
「そう……ジェザームの」
愛して、運命を受け入れて。
絶望して、別たれた運命を選んだ。
長い時間の中で、夫だった男の記憶だけは薄れないと思っていたのに。



それでも、記憶の海に埋もれてゆく。
それはとても悲しいこと。
そう、ラストは思った。
入り口のカウベルが打ち鳴らされても、ラストは顔をあげずに項垂れたまま、煙草を吸う。
「あんた……」
顔を上げれば、一人の少年が立っていた。
「あんた、だよな」
何の確認か。
だが、ラストは妖艶な笑みを紅唇に浮かべながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「私は、ラストよ。何か御用かしら? ぼうや」
黄金の双眸がまっすぐに自分を射抜く。
少年は言う。
「シレリアナ、じゃないのか?」
「……………どこでその名を?」
「ジェザームに頼まれて迎えに来た」
少年の言葉に、ラストは穏やかに微笑んで。
まだ吸いかけの煙草を、灰皿に押し付けた。



そして、彼女は立ち上がる。
「そう、じゃあ、行かなくては」




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