03:氷点下の夜、灼熱の昼
言い出したのは、彼女だった。
彼は少しばかり渋ったけれど。
だが、何より彼女の好奇心に負けた。
踏みしめる、褪せた黄色の大地。
砂地、ならばナタリアも経験はある。
だが、茫々たる砂漠、見渡せど先の見えぬ砂地など、経験が無い。
圧倒的に自分を、生命を拒絶するようなそのたたずまいに、ナタリアは立ち尽くした。
これが、砂漠。
褪せた、世界。
ドラクマの、純白の世界とはすべてが違う。
「おい、かぶっておけよ」
ぽんと背中を叩かれて、ナタリアは小首を傾げる。
「え?」
「太陽の下で直接顔を出すなよ。目がやられる。肌が痛む。お、ひ、め、さま」
「だから、あたしは!」
言い返そうとして、ナタリアはじっと相手の男を見て。
「…………エルリック家の御曹司に言われたくないわね」
「あ? なんか言ったか?」
「ええ。でも一回しか言わない」
ぶすりと返された言葉に、嫌味の応酬を受けたことに気づかないテオジュール・エルリックはマントのフードを目深にかぶって。
「なんだよ、それ。ほれ、かぶれ」
「はいはい」
今度は応酬も無く、ナタリアは大人しく少しばかり厚いフードをかぶりなおした。
帰って、おいで。
穏やかな父からの手紙に、涙は止まらず。
遥か北の世界で、大公位を返還して『民間人』になってからの父は、国王の側近中の側近として忙しく働いているという。
だけど、穏やかに穏やかに書かれた文章に、その一言を今まで書くことを耐えつづけた、父の優しさと寂しさを思って、涙が出るのだ。
第一錬金術学校を卒業し、特級錬金術師資格を取得して、今しばらく機械鎧技師として修行に励む弟ハリムの成長を待って、一緒に帰るべきだろうと思っていた矢先だった。
父の手紙は、父の寂しさと、ドラクマで自分の為すべきことが待っている事実を、報せてくれた。
だから、帰る。
父のため。
ドラクマのため。
そして何より、自分のため。
ナタリアの帰国は、特に誰の反対もなく受け入れられて。
ただ幾分慌しくなりそうなので、イシュヴァールにいるエドやアル、アレクに挨拶が出来ない可能性があった。
だから。
『いいさ、俺が連れていってやる』
士官学校に入学した長兄レオゼルドとは違い、錬金術学校で教鞭を取るテオジュールは、格段に暇だったのだ。
そして、イシュヴァールの奥地まで来たのだ。
エド、アル、アレクはにこやかに出迎えてくれて。
1週間ほどのナタリアとテオの滞在を許してくれた。
昨夕は冷え込んだ。
砂漠は、昼間熱く、夜は寒い。
そのぐらいの認識はあったけれど、極寒の北の世界で生まれ育ったナタリアだ。たかをくくっていたけれど、甘かった。
「夕べは、冷えたよなぁ」
テオの言葉に、ナタリアも頷く。
「そうね」
「お、ドラクマ人もそう思うぐらい、寒かったのか?」
「……なまったのかな、アメストリスに来て」
「さあな。だけど、砂漠の寒さと北国の寒さは違うんじゃないか……雪は雨だし」
湿度、か。
「……そうかな」
「わからねえよ、そんなこと。まあ」
テオは少し足場の悪く、歩きにくそうなナタリアに手を差し伸べながら笑った。
「特級錬金術師が二人で、分からないこともあるってことだよ」
「そうね」
「というより、夜は氷点下、昼は灼熱の気温差が問題だと俺は思うぞ?」
「うん」
テオジュールの手を借りて、少し高台まで上って。
ナタリアは荒い息を整えながら思わず感嘆の声を上げた。
「うわ………」
刺すような日差し。
暖められた空気がゆうらりと揺れながら、遠景を歪ませる。
どこまでもどこまでも重なりつづける砂丘の海を。
「すごい……」
ナタリアは呆然とそれを見つめる。
東の涯てにあるという、砂の世界。
かつて、その地に住まう人々に降り注がれた厄災。
それを取り除くために、ナタリアがアメストリスで知り合った年長者たちは一年のほとんどをこの地で過ごす。
「それが、俺たちの償いと…責任だから」
それは大総統夫人としてなのか、一個のアメストリス人としてなのか。
あるいは、国家錬金術師だったからか。
彼らは語らない。
ただ、夕べ、朽ち果てた建物の片隅でナタリアは言い出した。
砂漠へ行ってみたい。
その言葉に、しばし考えたテオジュールが承諾の声を上げたのだ。
そして夜明け前にアルから借りたジープに乗って、砂漠に向かった。
どこまでも、どこまでも。
僅かに色を変えながら。
砂丘は限りなく重なりつづけ。
吹き抜ける風は、僅かに砂粒を動かし、しかし動かされた砂粒の数は多く、さらさらと砂の流れる音をナタリアの耳に届ける。
しばらくの間、立ち尽くすナタリアに付き合って遠景を見つめていたテオジュールだったけれど、実はもう何度も見た風景だ。ものめずらしいものではない。
煙草をくわえ、火をつける。わずかな風がナタリアの鼻腔に嗅ぎ慣れたテオの煙草のにおいを届けた。
「テオ」
「ん?」
「すごい、ね」
「……ああ」
「なんか、人間って、ちっぽけだなって思う」
「………ずいぶんとナタリアらしくないな」
「そう?」
「自分だったら、なんでもできるって言うのが、おひめさまなんだろ?」
「………そんな何でも屋さんじゃないよ、あたし」
「知ってる」
「………一杯失敗したこと、テオは知ってるじゃない」
「ああ」
「………これからだって失敗するかもしれない」
帰国すれば、錬金術に関しては教えることになる。
自分が教え方を失敗すれば、それはドラクマ全域に影響する。
その恐さに気づいたとき、ナタリアは自分の身体が震えるのを抑えられなかった。
恐い、と思った。
あの時感じた恐さが、再び胸の奥にあふれそうになって、ナタリアは胸の前で両手を強く合わせた。
ちらりと見やれば、胸の前で握り締められた手が白くなっていて。
テオは紫煙を吐き出しながら内心で溜息を吐いた。
責任感の強い、少女だった。
成長してもそれは変わらない。
帰るのは、ドラクマのためだと信じている。
ドラクマのため=自分のためだと信じている。
それは悪いことじゃない、とは思う。
だけど、責任感とは過剰に責任を感じることじゃない。
自分の行いに、適した責任を取ることを覚悟して動くことだ。
「……………失敗しても、いいんじゃねえ?」
ゆっくりと、小さく告げられた言葉に、ナタリアの肩がぴくりと動いた。
返って来る言葉も予測できているのに、テオは言う。
「失敗したって、ちょっとぐらいは」
「いいわけないでしょ! 何考えてるの!」
やっぱり。
テオは内心で苦笑しながら、こっそりと激昂するナタリアの胸元を見た。
痛々しいほど握られた両手は、なかった。
「まあ……お前の親父さんもいるんだし。困ったときは助けてくれるだろ? 王様だって親戚なんだしなぁ」
「どこまであたしを馬鹿にすれば!」
わなわなと震えるナタリアをちらりと見下ろして。
テオはにっかりと笑った。
「それでもどうにもならなかったら、逃げて来いよ。アメストリスへ。俺んところへ」
「…………………え?」
「いつでも、かえってこいよ」
灼熱の昼に告げられたのは、思いの始まりだった。