04:小さな小さな、生き物たち
「…………ヒルダ」
「なに、かあさま?」
「これ、なんだ」
ヒルダは自分の腕の中でもぞりと動くその極上の毛並みをゆるゆると撫でながら、満面の笑みで答える。
「マリシテルン」
「ヒルダ」
「なに?」
「帰して来い!」
マリシテルン。
イシュヴァール辺境の砂漠地帯に棲息する、猛獣。
普段は単独で生活し、母親は子どもを一匹で育て、育児中のメスは大変凶暴であるといわれる。
イシュヴァール人には、イシュヴァラ神の乗り物を牽く生き物であるが、その見事な毛並みからアメストリス人による密猟乱獲の憂き目に合い、その数は激減、加えて人間に対しての警戒心が強くなり、人食いマリシテルンもいるといわれる。
「どこで拾ってきたんだか……」
エドが深く溜息をつくけれど、アルは苦笑う。
「キリとアクの話だと、三人で少し砂漠まで言った時に見つけたんだって。子どものうちは獰猛さも鳴りを顰めているものだし、子ども一匹でいたから連れて帰って来たって」
「……あたりまえだ、母親がいるならなおのこと、連れてくるなんて無理だろ」
「それはそうだね」
マリシテルンは成体になれば、体長は軽く人間ほどにはなるのだから。
普段は4足歩行だが、威嚇するのに立ち上がればそれは恐ろしいのだと、昔旅から旅への生活をしていた頃に、姉弟は聞いたことがあったことを思い出していた。
「…母親はどうしたのかな?」
「さあな。密猟の対象になったか。どっちにしても、砂漠の真中に子ども一匹ほったらかすなんてありえないから……」
続く言葉を、エドは言いたくなかった。
厳しい環境の中、母マリシテルンが生きている可能性は低いだろう。
ヒルダが大事そうに抱えていた子マリシテルンは、小さな声で、か細く鳴いていた。
『帰して来いなんて……かあさまのバカ!』
自分と同じ大きな黄金の双眸に、今にも零れ落ちそうなほどの涙を浮かべていた、娘。
怒りにまかせて叱り飛ばしたものの、母親がいる可能性が低いのに砂漠に帰しても、子マリシテルンの運命は一つしかない。
そこに待つのは、死だけだ。
「……参ったな」
「許してあげなよ、姉さん。それに違う命の世話をするってことは、子どもにとってすごくいい教育になるんじゃない?」
至極真っ当な弟の言葉に、エドはぶすりとした表情を浮かべて。
「……わかってるけどさ」
「自分のことは忘れた方がいいんじゃない?」
「………そうだけどな」
幼い頃、自宅の庭に茂る木にかかった鳥の巣から、一羽の小鳥が落下した。エドが何度戻しても、雛の中でもっとも小さなその子は、押し出されてしまう。仕方ないのでエドが昼夜を問わずに世話をしたけれど、幼かった故か、餌も食べずに数日で息絶えた。アルは姉が泣きながら、その木の根元に小鳥の亡骸を埋めているのを覚えている。
「姉さん。生き死には、いつか知らなくちゃいけないよ?」
避けては通れないのだから。
その言葉に、しばらく沈黙していたエドは深い溜息とともにぽつりと言った。
「……ヒルダが、責任持って育てるっていうんだったら話は違うけどな」
叔父からその言葉を伝えられて、ヒルダは力強く頷いた。
「うん。あたし、がんばってこの子のお世話、するよ」
この世界には、小さな命がたくさんある。
そしてその手助けをできる喜びを、エドの娘、ヒルダは初めて知ることになる。