05:風が吹き、大地が変わる
「お〜い、ヒルダ!」
呼ばれて、ヒルダは応える。
「は〜い」
とことこと母の元に向かえば、母はにこやかに言う。
「帰るぞ」
「うん」
そうして母はヒルダの手を引いてくれる。
暖かな母の手。
父の手とも、兄たちの手とも違う、柔らかく暖かな手。
「迷ってる」
「そうだったのか」
「当たり前だ、俺だって考えてる」
ぶすりと応えを返されて、ロイは苦笑しながら肩を竦めた。
「てっきり向こうに連れていってしまうのかと」
「それも正直考えたんだけどなぁ」
エドは頭をぽりぽりと掻いてみせて、
「まだまだ安全、とは言えないし。正直アレクに預けることも考えたけど」
「お、おい。エド」
狼狽えるロイの姿を見て、エドがぶすりと呟いた。
「仕方ないじゃないか、イシュヴァールに連れていくわけにはいかないし」
「そういう問題じゃないと思うけど」
さらりと答えを導いたのは、長男のフェリックスだった。
士官学校を入学したばかりで、休暇を利用して久しぶりに大総統邸に顔を出せば、深刻そうな顔を突き合わせて両親が妹の行く末を相談していたのだ。
「母さん、分かってる? ヒルダは今年、公立学校に進む年齢なんだよ? 英才教育施す、お嬢様教育するにしたって、6才なんだから少しはヒルダのこと、考えてあげなきゃ」
実は長男が一番まともな意見を述べていることに、大総統とファーストレディは気づかない。
「そうかな?」
「……いや、まだ6歳なんだし」
「僕は一度ヒルダをセントラルに戻すか、アル叔父さんところから公立学校に進めさせたほうが良いと思うよ? 去年だったかな、アレク叔母さんも同じことを言ってたし」
「………そうか」
「だけどなぁ」
続いたエドの言葉に、父と兄は絶句する。
ヒルダはアドニアナの私設学校に行くって、張り切ってたよ?
「………………アドニアナって、イシュヴァール?」
「うん」
「母さんが最初に作った、私設学校?」
「そうだ」
深更、大総統邸から絶叫が響く。
「え?」
「うん、あたし、アドニアナの学校に行くの」
彼女のまっすぐなまでの黄金の双眸をいつまでも見つめられず、キリスルは視線を外した。
「無理だよ」
「なんで?」
「なんでって……」
救いを求めて、すぐ傍に座っている兄のアクスルを見遣れば、少しだけ顔色が悪い兄が言う。
「ヒルダ。君はイシュヴァールの民じゃないから、アドニアナの学校にはいけないよ。行くなら……イースト・シティかセントラルの、いいところの学校じゃないのかな?」
「そう、なのかな?」
母親と同じ黄金の双眸に幾分疑問を含ませて、ヒルデガルド・マスタングが答えた。
「かあさまは、好きなところで好きなことを勉強していいって言ったの」
「だけど…」
「無理だ」
きっぱりと告げられて、ヒルダが言葉を飲み込んだ。
断じたキリスルが咎めるようなアクスルの視線を無視して、
「言ったろ? 俺たちはイシュヴァール、ヒルダはアメストリス人だ。それだけは……越えられない」
「キリ」
「だって、俺たちがヒルダのこと、友達だって思っても、そう思ってない奴だっている! お前やお前のおふくろさんを追い出せって言うやつがいる! それは事実だ」
吐き捨てるように告げられた言葉に、だがヒルダは動じない。
「うん、知ってる。かあさまが言ってた。アメストリスはイシュヴァールに一杯悪いことをしたから、アメストリスの代表として、かあさまはできることをするんだって」
静かな少女の言葉は、しかし少女のものではないような口調で。
キリスルとアクスルが思わず母親に良く似た黄金の双眸を覗き込む。
母親よりもずっとずっと少女の叔父に似ていると、アクスルが思った微笑で、少女は続ける。
「だからあたしもできることをしたいの。だめかな?」
「ヒルダ……」
遠くで、自分を呼ぶ母の声。
破壊尽くされた世界だけど、少しずつ復活し始めた廃墟の中を風が渡り、その風が母の声を運ぶ。
ヒルダは服についた砂を叩いて、母に返事を返して。
「アク、キリ、帰ろう?」
「………ああ」
「うん」
風が吹き、大地が変わる。
小さな芽吹きが、我が子から始まったことを、エドとロイはまだ知らない。