06:染み付いた本能






本当に小さな、音だった。
小さな、その場にいた誰もが聞き取れないほどの、小さな音。
だがたった一人、反応する。
躊躇いなく彼女は腰のホルダーから銃を抜き取り、トリガーを引いた。
響いた音。
一発の銃声に、声を上げたのは彼女の従うものではなく。
彼女と共に歩む者だった。
「リザ………」



ホークアイが帰宅したのは、日付が変わろうかという時間だった。
重い身体を引きずるようにリビングに入り、ソファに座り込めば、もう身体は動かなかった。
深い深い溜息を吐いて、ホークアイは思い立ったように自分の掌を広げ、それを見つめる。



今日。
自分はトリガーを引いた。
迷い無く。
マスタング大総統が視察に訪れた軍需工場で、聞えるはずのない音を聞いたからだった。
それは、銃の撃鉄を起こす音。
ホークアイにとっては聞きなれた、音だった。
考える前に、身体が動いた。
考える前に、銃を抜いた。
考える前に、トリガーを引いた。
そして、そこに崩れ落ちたのは、銃を握り締めた、若き少年。



少年と呼ぶべきか。
我が子よりも、まだ幼い、子どもだった。



『撃つべきだったのか?』
形だけと言われた憲兵の尋問に、ホークアイは背筋を伸ばして応えた。
『では、子どもが撃ったものは大総統に当たらぬと?』
『そうではない! そうではない、が……』
言いよどむ憲兵の黒い軍服を見つめながら、ホークアイは言う。
『理由はどうあれ、あの子どもは大総統に銃を向けたのです。私は大総統主席補佐官ではありますが、大総統の警護についても責任があります』
『自信があった、というべきじゃないのか?』
『自信?』
呆れた問いかけに、ホークアイは小さく笑った。
『銃を持つ者に、自信など必要ないですよ。必要なのは照準を合わせる知識と、トリガーを引く力があればいい』



それが簡単に人の命を奪うのだ。
子どもの命も。
マスタングの命も。
ホークアイは小さく溜息を吐いて、髪をまとめていたゴムとピンを手際よく取り除く。
秋だというのに、続いた尋問に緊張していたのか、頭は僅かに湿っていて。
彼女はシャワーを浴びようと立ち上がろうとして……両肩を強い力で押し込まれて、動けなくなる。
首だけで振り返ろうとすると、かすかに煙草のにおいが漂い、ホークアイは小さく笑った。
「ただいま、ジャン」
「おかえり。遅かったな……まったく憲兵のやつら、リザを尋問しても、何も出て来ないだろうに」
最初はホークアイの両肩を抱くだけだったのに、ソファ越しにハボックは妻の細い身体を抱きしめる。
「大変、だったな」
「仕方ないわよ」
ホークアイは背中がハボックの体温でほんのりと暖かさを増すのを感じていた。
「もう……しみついているのかしらね」
「ん?」
自分の掌を見つめる。
見た目の変化は無い。
憲兵司令部でトイレに立ったとき、執拗なまでに手を洗った。
このまま帰れば、きっと我が子に気づかれると思ったから。
硝煙の臭いを、かつて我が子に指摘されたことがあるから。
『ママの手、なんか、花火の臭いするよ?』
その言葉に、思わず抱きしめる手が硬直したことを覚えている。



我が子ほどの少年が、病院に運ばれていくのをホークアイは黙って見つめていた。
ハボックとブレダが慌てて軍用車にマスタングを押し込むのを、静かに見ていた。
だけど、少年が病院で息を引き取ったことを聞いたとき、深く深く溜息を吐いた。
どんな理由があっても、他人の命を簡単に奪っちゃいけない、俺はそう思うぜ?
かつて、大総統夫人にそう告げられたけれども。
自分は、その思いを守れない。
軍人でいる限り、
マスタング大総統の命を狙う者がいる限り、
自分はかつて『鷹の目』と呼ばれた軍人である限り、
きっとまた同じように、犠牲者を増やす。
わかっていた、筈なのに。



「リザ」
耳元で囁く、低い声。
「いいか、リザ。俺はそれでいいとも、ダメだと思わない」
ホークアイは右肩がずっしりと重くなったことを感じる。
気づけば、夫は自分の右肩に頭を乗せていて。
「お前は、守ったんだ。大総統を」
「………分かってる」
「俺たちはどうしたって、正当化できない。軍人ってだけで、合法的に人を殺せる」
それは、個人で背負うにはあまりにも思い贖罪符。
「それを、決して忘れないこと。それが大事じゃないのか?」
少年の命を奪ったこと。
それは紛れも無い事実で。
決して正当化できない。
正当化しても、妻の心には大きな傷を残すことを知っているから、夫はそう妻の耳元で呟く。
「俺たちは、大総統を守るって大義名分があるんだ。だけど…」
「わかってるわ」
ホークアイは見せていた掌を握り締めて言った。
「忘れちゃいけないのよ。私が撃ったことを」
「ああ」
「だけど、大総統を守るの。私はそう決めて……今までやってきたんだから」



ついてこい。
そう告げられたのは、昔。
ついていく、と決めた。
自分のため、アメストリスのために、この男の背中を負うと決めた。
それは共に歩む者と結婚し、子を産んでも変わらない。
かつて赴いた戦場の記憶のまま、本能のままに、トリガーを引いた。



きっと自分は間違っている。
だけど、今はそれに目を向けない。
アメストリスのために、我が子のために、夫のために、自分のために、……未来を見つめる。
そう決めているから。



「ジャン」
「ん?」
「まだ……大丈夫だから」
「……そっか」
「うん」
右肩の重さはすぐに消えた。
夫は小さく笑って。
「シャワー、浴びてこいよ」
「うん」



彼女は思う。
シャワーを浴びながら、二度とホルダーから銃を抜くことが無いことを。




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