09:その重みに耐え切れなくなったら






「………帰りたい」
ぼそりと告げられた言葉に、氷凍の視線が降り注ぐ。
「大佐」
「………………大尉、私は帰りたいんだよ。暖かいベッドで心ゆくまで惰眠を貪りたいんだよ」
「それは」
ホークアイはその唇に氷の微笑を浮かべて、応えた。
「無理な注文だと、分かっていらっしゃいますでしょう?」
「………う」
「私が休暇で司令部を離れていた1週間、十分お休みになったのではないのですか? それでなくては、この書類の残留具合は説明がつきませんもの」
「……………」
氷というより絶対零度に近い笑みで、ホークアイ大尉は告げた。
「1週間さぼった分、1週間徹夜してでも取り戻してくださいね」



『それはお前が悪いだろ』
くつくつと笑う兄弟の声に、ロイは書類にサインを書きながら、肩と頭で挟んで固定している電話に向かう。
「あのな、俺にだって事情があるんだよ」
『へえ、お前の事情って?』
「それはだな」
『下半身の事情かよ? ああ、嫌だね。こんな男が世の中にいるんじゃ、エリシアにどんな毒紛をかけられるか…』
「マース。灼くぞ」
低い声で告げられて、幼い娘を持つ親バカなヒューズが言った。
『まだ、落ち着かないのかよ』
「あ?」
『お前な、飲み歩くのもかまわないけどさぁ…やっぱり家に帰ったら人の暖かさって、必要じゃないか?』
突然の言葉に、ロイは眉を顰める。
時間を見れば、夜中。
飲んでいるのか、寝ぼけているのか。
この男は何を言い出すのか。
「マース……何を言いたい」
『だから、そろそろ身を固めろって言ってんだよ。お前のためにも、周りの奴らのためにも、だ』



夜泣きの声に、ヒューズは振り返った。
そんなマースよりも早く、グレイシアが泣き声のする部屋に向かう。
静かな、あやす声。
すぐに泣き声は小さくなった。ヒューズは薄く微笑して、受話器に向かう。
「意味、わかるか?」
『…………さっぱり分からん』
「そうだろうな。俺もグレイシアとエリシアができるまで、分からなかった」



「最近のマース、なんかおだやかになったね」
久しぶりに中央で会う妹に告げられて、ヒューズは首を傾げる。
「おだやか? 俺、そんなにとんがってたか?」
アレクは苦笑する。
「そういう意味じゃないよ。なんていうのかなぁ……エリシアが生まれてから、一気に変わったね。うん、視線が穏やかになった」
国家錬金術師資格を取得し、軍に入り、たった一人、西に向かったアレク。
少し前に、テロリスト殲滅に功ありとして、勲章を受けたが決して嬉しそうではなかった。
いつかのロイのように沈思する姿に、ヒューズは心を痛めたのだ。
だが、アレクは決して何があったか、口にしようとしなかった。
マースに心配かけまいと黙っているようだった。
しかしヒューズはそのことに、アレクが中央を発ってから気づいたのだ。
欲しくも無い勲章をまるで嫌うかのようにしばらく弄んで、アレクは言った。



『ねえ、マース。私はともかく、上を目指すなら……ロイも、マースのように重荷を下ろせる場所が必要なんじゃないかな』



優しい妹の言葉に、ヒューズは思いを馳せる。
ロイにも。
アレクにも。
この穏やかな、喩え様のないほどの安心感をもたらす、空間が必要だと。
妻と、子ども。
互いを理解し、互いを支える。
時にはケンカもする。
だけど、相手を支え、支えられているという実感。
まだ幼い我が子を守らなければならないと責任の重さと、いといけな笑顔に癒される幸せ。
わずかでも、重責を忘れさせてくれる場所があるという、安心感。
それが、自分の表情を変えたのかもしれない。



『………マース』
「あ?」
低い声が紡いだ言葉に、ヒューズは思わず失笑する。
「なんだ、それ」
『だから、だ。私は逃げ場所にするような家庭なら要らないと』
「逃げるんじゃねえよ」
返された言葉。
「逃げるんじゃねえよ、ロイ。少しだけ重荷を下ろすだけだ。一緒に担ぐとか、そういうことじゃない。ただ一瞬だけでも、重さを忘れさせてくれたら、それでいい………そういうもんじゃねえか?」
『……………そんなものか』
「ああ」
受話器を握る手を変えて、ヒューズは言う。
「そういうもんだ」



受話器を置いて、ロイは深く長く溜息を吐いた。
「………人の、暖かさか」
家族。
ロイにとって、それは決して良い思い出だけではない。
母の失踪、父の死、転々と幼いロイを連れまわした親戚たち。
だが、良い思い出もある。
引き取ってくれた遠縁のレオナイト・ミュラー。
幼かったアレクは、無条件で自分を受け入れてくれた。
差し出されたまろやかな小さな手を握ったことを、ロイは忘れない。
心の氷が、溶かされたような感覚を忘れない。



そうか、あの思いか。
ようやく得心して、ロイは笑んだ。
守る者、それが重荷を僅かに下ろすことのできる、小さな憩いの場。
「……まあ、そういうことなら、家族を作るのもいいか」



とはいえ、その暖かさを与える者とロイが出会うのは、まだ先のことである。




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