02:黒い海に一人佇む
赤は、嫌いよ。
白いバラも、嫌い。
勢い書いて、エレノアは嘆息する。
「………まったく」
過去を思い出すだけだ。
赤いドレスも。
白いバラも。
マスタング家を出る時、ただ一つ心に残ったこと。
『ママ、どこ行くの?』
あどけない表情の息子に、ただ一言、すぐ帰ると言い残したこと。
きっと聡いロイは、帰らないことを知っていて、でもと玄関で待っていただろう。
人づてにロナルド・マスタングが事故死したと聞いた。
『息子がいたんじゃない?』
そ知らぬ顔のエレノアに、知った風に語る客が答える。
『ああ、いたな。それがなぁ、親戚をたらい回しにされた挙句に、ミュラー家に引き取られたらしいぞ』
その名前を聞いて、エレノアは安堵したことを覚えている。
東方随一の名家であるミュラー家に引き取られたのならば、末は大丈夫と、本当に安堵したのだ。
『私、出て行くから』
『……そうか』
それが旅立つ前に、夫と交わした最後の会話。
ほとんど会話らしい会話を交わしたことのなかった、夫婦だった。
数少ない言葉の中で、ロナルド・マスタングはエレノアに愛を語った。
君は、赤いドレスが似合う。
君には、大輪の白いバラを。
拙い言葉の羅列にすぎなかったけれど。
その朴訥さに、エレノアは惹かれたのだ。
なのに、今はその朴訥さと寡黙が何より辛かった。
離れたかった。
自由奔放に生きてきたエレノアにとっては、陰鬱な書庫の匂いが何より嫌いだった。
それを慰めてくれたのは、たった一人、エレノアの膝の上でいたいけな笑みをこぼす、ロイだった。
ロイがいなければ、エレノアは暗闇の深海でたった一人残されて、ただそこに存在するだけになっていただろう。
たった一人で。
佇むだけの、黒い海の中。
ロイだけが、希望の光だった。
手を差し伸べたのはかつての同僚。
『中央に行くんだよ。中央でバーをしようと思ってね』
男を手玉を取るには年を取りすぎたと笑う女の、だが生気にエレノアは言い知れぬ嫉妬を覚えた。
自分はここに留まるしかない。
手枷足枷で、身動きなどできないのに。
自由奔放な生き方を、取り戻したかった。
だから、立ち上がる。
翔け上がる。
それに、どれほどの代償を払うことになるか、その時は思いもしなかった。
赤は、嫌いよ。
白いバラも、嫌い。
違う。
自分が犯した過ちを見たくないから、赤いドレスも、白いバラも嫌いなの。
ロイ。
ロナルド。
エレノアは部屋の片隅にしまいこんだ、小さな箱の中身を思い出す。
旅立つとき、こっそりと持ち出した、国家錬金術師の証である時計。
開けることはなぜかできなかったけれど、エレノアは思う。
あの時計を持っていることが、自分が犯した過ちを忘れないことになる。
自分が飛び出したはずの黒い海にいまだ佇んでいることを、忘れないことになる。
忘れない。
自分の犯した過ちを。
愛した人を、愛した息子を。
だから、赤いドレスも。
白いバラも、嫌いなの。