03:青い花、一輪






野に咲き誇る、花。
青く、小さな花。
『まあ、ルティヌがたくさん咲いているわね』
そう微笑んだ妻。
『気をつけてね』
いつもと同じ微笑で、自分を送り出した。
研究しか出来ない自分は、それでも旅立つ前に息子たちのために庭に聳え立つ木を軸にブランコを作ってやることしかできなかった。
『早ければ2ヶ月で帰るよ』
『でもあなたはいつだって早くはないわよ』
苦笑交じりに、それでも妻の返す笑みは穏やかで。



苦しい息の中で、フィリップは自分の腕の中の少年に声をかけた。
「身体は……動かせるか」
「なんとか」
「よし。錬金術で道を作るから、這ってでもなんでもいい。とにかく進むんだ。坑道を抜けろ」
フィリップの言葉に、少年は抗議する。
「だけど、あんたはどうするんだよ」
「どうするもなんも、足が動かないんだからな」
自分の下半身を見たいけれど、見えるはずも無く。ただ、両膝から下が強い力で圧迫されているのを感じていた。
「すまんが、誰かを呼んできてくれるか? そのほうが確実だ」
「わかった」
力強く自分の腕の中で頷く少年に見えないように笑ってみせて、フィリップは動かせる片手で器用に練成陣を記した。
青い練成光に続いて、坑道を塞いでいた岩盤が一部分だけ姿を消した。
「お、すげえ」
少年が出やすいように、フィリップは自分の腕を動かす。
少年はもぞもぞと動いて、道を明けた岩盤に手をかけた。
「おっさん、こんなことできるんだったら自分も……無理か」
少年はフィリップにのしかかる岩盤をざっと見回して、表情を曇らせた。
フィリップは苦笑しながら、
「うん、分かってるから。ランタンだけ置いていってくれ。どれくらい持つかは分からないけれど……」
「ああ、人を呼んでくるよ」
少年は数歩進んで、振り返った。
「必ず、帰ってくるから!」



大規模な落盤事故だった。
鉱山都市アリュードにフィリップ・ヴァン・ホーエンハイムは初めて来た。
研究している鉱物、パラムルドの研究のためだった。
そんなときに起こった落盤事故。
少しでも手助けができればと、救助に向かい……続いた崩落事故に遭遇した。
すぐ隣にいた、鉱夫と呼ぶにはあまりにも幼い少年を庇うのに必死で、気づけば激しい痛みとともに足の動きを失った。
少年は決して言わなかったけれど、自分の上には相当数の岩盤がのしかかっているのだろう。
それがわかったから、フィリップは自分が逃れるためではなく、少年を逃すために練成陣を描いた。
もし、下手に岩盤を消滅させても再びの崩落事故につながれば、その時フィリップの命はないから。
「…………遅かれ、早かれな気もするけど」
小さな溜息をとともに、フィリップは呟いた。
痛みはある。
両膝から下、鋭い痛みが続く。
だが、痛みは脈打つように続くのだ。
そして少しずつ、自分の体温が下がっている気がする。
無理、かもしれない。
ふと、そう思った。
思った刹那、脳裏に浮かんだのは微笑む妻の顔。
ブランコで遊ぶ、幼い兄弟の姿。
まだ。
まだ、諦めてはいけない。
生きることを忘れては、いけない。
フィリップは小さく息を吐いて、目を閉じた。
体力を、温存しなくては。



やがて、ランタンが最後の灯火を静かに消す。
眠っていたわけではないので、フィリップはゆっくりと目を開いた。
深遠の闇、だった。
自分の上にのしかかる岩盤も、動かない自分の体も、感じられなかった。
あったのは、ただ自分という意識だけ。
その時。
何も見えない中空で、フィリップは何かを見たような気がした。
思わず目を凝らす。
小さな、本当に小さな何か。
蒼白く輝くそれは。
やがて、急速に数を数を増やし。
まるで闇に横たわり、満天の星空を見上げているような、そんな錯覚を起こさせる。
無数に輝く、蒼い点。
「これか……」
これを、鉱夫たちはスタリアムと呼ぶ。
星の虫、という意味だという。
鉱脈の中に、星の虫の死体が入っていて、時折その鉱脈に行き会えば、こんな風に満天の星空のように見えるのだと。
だが、錬金術師であるフィリップはスタリアムの正体を知っている。
フィリップが研究しているパラムルドの高結晶体なのだ。
低結晶体ならば、見た目ほとんど石と同じだ。だが高結晶体になれば、暗闇の中で蒼く輝く。そしてこれを錬金術で再び純度を上げて結晶化すれば、この結晶を用いる治療、身体を切らない治療方法を行えるのだ。
これを求めて、フィリップはアリュードに来たのだ。
「……綺麗だ」
満点の星空。
だが、フィリップはちがうものを連想した。
ルティヌ。野に咲き誇る、蒼く小さな花で野一面を覆い尽くす、花。
そして、トリシャが大好きな、花。
『まあ、ルティヌがたくさん咲いているわね』
「トリシャ……」



ああ、一輪でもいいから。
小さな、小さなルティヌの花でいいから。
この手に握り締めて。
ここを出られてたら、リゼンブールに向かう道へ向かおう。
優しい笑顔の、妻が本当に嬉しそうに自分を迎えてくれるはず。
『あら、あなた。変わったルティヌね。ありがとう』
きっとそう微笑んでくれるはず。
子供たちは庭のブランコで遊んでいるだろう。
だから、家路を急ぐ父親の姿がきっと見えるはずだ。
届かぬ手を。
懸命に伸ばし。
フィリップは、笑った。



帰ろう。
ルティヌを、手に。
帰ろう。
トリシャ。
エドワード。
アルフォンス。




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