あなたの微笑みを
「フォン・ルーベント公爵!」
来場の呼ばわりに、会場が軽いざわめきを生む。
ヘンリーは内心で溜息をつきながら、歩を進める。
最近、公爵となった『ユニコーン』。
イギリス出身の貴族。
ヘンリーの履歴には、宮廷貴族たちの話題にはもってこいだった。今でもそこここから、囁きが聞こえる。
『あれが、噂のユニコーン公爵ですの?』
『ごく最近まで、床に伏していたようですのよ。なんでも、不治の病だったのに、突然よくなられたとかで』
『やはり、ユニコーンともなると、不思議な力が備わっていらっしゃるのかしらねぇ』
『肖りたいものですわね』
薄い扇子、曖昧な微笑に隠された貴族たちの臆面もない、好奇心と羨望、そして異なる者に対する排除願望。
それらが、まるでヘンリーを苛むような、そんな感覚をヘンリーは感じていた。
しかし、彼は背筋を伸ばす。
同年代の少年たちに比べては幾分劣る身長だが、それでも背筋をきりりと伸ばして、立つ。
ここにいるのが、『公爵』の義務だから。
「公爵さま。お目にかかれて光栄ですわ。以後、お見知り置きくださいましね」
にこやかな笑顔を見せる、初老の婦人。
そう言えばさっき、どこかの伯爵夫人とか言っていたような……。
「こちらこそ、あなたのような方に出会えて光栄です」
「まあ、お世辞がお上手ですこと」
某伯爵夫人のように、話しかけてくれるのはまだいい。遠巻きに自分を囲んで、噂の的にされるのがだいたいいつもの舞踏会だから。
だが今日は違う。強い味方がいる。いる……はずなのだが。
まだ、来ていないようだな。
ヘンリーは周りを見回してみる。目当ての人物の姿は、ない。
『なんだって。ルーベント公爵は、舞踏会に行きたがらないと?』
『殿下、そうではなく、私が舞踏会に出ても、誰もが倦厭しているようなので……それでしたら、お邪魔しないほうが』
『公爵。そういった遠慮は無用だ。君は公爵なんだ。たとえ出自の中に、外国の血脈があったにしろ』
皇帝の5番目の皇子、フェルディナントはその漆黒の眸を悪戯っぽく微笑ませて、
『外国の血脈を受け継がぬ者など、このドイツ貴族の中にいかほどいるか? 恐らくは、一人もおるまい。いたとするなら、それは近親婚で長らえている愚かな血脈だな』
『は』
『この私にも、外国の血脈を山ほど受け継いでいる。イギリス、ギリシア、スペイン、ポルトガル、そうそう、母上の妹姫はフランスに行かれたな』
来たくない舞踏会に足を運んだのは、フェルディナント皇子の強引な誘いもあったのだが……約束しておきながら、姿が見えない。
『忘れられたかな』
不用意に怒りを振りまくわけにはいかない。
相手は皇子、なのだから。
ヘンリーは小さく溜息をついて、早々に切り上げる理由を考えようとしていた。そんな折り。
「公爵、具合は良さそうだな。安心した」
心底安心したような声を頭上から受けて、ヘンリーは慌てて振り返る。
「……殿下」
「私のことは、フェルでいいと言っただろう?」
淡いブロンドの髪を、正装に合わせてカールさせたその姿は、普段の姿とはほど遠い。ヘンリーと同年齢とは言っても、皇家筋に多いがっしりとした肉体は、軍隊でより一層鍛えられ、しかし赤褐色に焼けた肌が、淑女たちの心を惑わすようだ。今にもダンスに誘って欲しそうに、するりするりと近寄ってくるのが、ヘンリーの視界の片隅で見える。
「では、フェル殿下。殿下にダンスに誘っていただきたい方々が、待ちかねていらっしゃるようですが?」
「ん?」
ヘンリーの言葉に、フェル皇子は辺りを見回して。
「そのようだな」
「引く手数多、ですね」
「残念だが、自分はダンスは下手くそなのでね。公爵が代わりに全員と踊ってくれるのかな?」
「は?」
思わず、口をついて出た。
いくら身体が丈夫になったとはいえ。
『皇子とダンスを』の視線を贈っているのは、ざっと見回しただけでも数十人いて。
この全員と踊れ、と? 無理だ。
「それは、ちょっと……」
「私でも無理だな。あの全員と踊るのは」
「は……」
「ならば、誰とも踊らぬが一番なのだが……公爵、ついてきてくれるか?」
「はい」
サン=スーシ宮殿。
その名前が現すのは、『憂いの無い場所』。
洗練された繊細さに、計算され尽くした自然を合わせ持つ、奇妙な宮殿。
幾何学模様に彩られた噴水の側に立つ四阿に、ヘンリーはいた。
結局、数人の淑女とワルツを踊って。
何時の間にやら姿を消したフェル皇子を捜しては見たけれど、見つかるはずもなく。
いくら体調がよくなったとは言っても、こんなに踊って、こんなに動いたのは久しぶりだ。まるでユニ宮にいるときのように、身体が軽い。……はずだったのだが、
「さすがに、ちょっと」
四阿の大理石の冷たさが心地よい。
熱く火照った頬を、大理石に押しつけるとやっと一息付けた気分になった。
その内、大理石の心地よさに、瞼が眠りの女神に誘われて、重くなり……。
『私、失礼なことを言ったでしょうか?』
首を傾げる、愛らしげな表情。
澄み切った青空色の双眸に、困惑を浮かべたコーネリアに自分は何を言ったのだろうか?
結婚して欲しい。
そう、それは『コーネリア』だから、許されたのだろうか、口にすることが出来たのだろうか。
コーネリアが自分を、死に行く『ユニコーンの病』を抱えた自分を救ってくれたから?
コーネリアが『聖なる乙女の村』出身の乙女で、いずれはユニコーンと結婚する運命にある、という『甘え』から?
自分なら、コーネリアと共にいてもいいという、自負が生まれたから?
言う。 言うまい。
逡巡を何度と無く繰り返して、そしてヘンリーは口にした。
プロポーズを。
驚いた表情を浮かべて、コーネリアは呟いた。
何を言っていたのだろう? 待って欲しい、とか、私はそんなことを考えてはいないとか、確かそんなことを自らに言い聞かせるように呟いていたように思う。
だが、『拒絶』はなかった。
それが、ヘンリーにとっては救いだった。
総てが自分にとっては必要なかった。
地位も、名誉も。
ルーベント公爵家当主という地位。農奴たちにとっては羨望の眼差しで見られる彼は、決して満足などしていない。
ヘンリーにとっては、総ては必要ないものだった。
自らの『生』すら。
だが、コーネリアは頑なに閉じられたヘンリーの心の城壁を、こじあけ、溶かし、裸の『ヘンリー』を見いだして。
それでも、微笑んでくれた。
あの微笑みは、忘れない。
「……しゃく、公爵!」
肩を揺り動かされて、ヘンリーの意識は微睡みから一瞬にして現実に引き戻された。ぼんやりと目を開けると、安堵の表情を見せるフェル皇子がいた。
「ああ、よかった。具合が悪くなったのではないか、と心配したぞ」
「……申し訳ありません」
「こちらが、婦人方を押しつけたからな。病み上がりには辛かったか?」
心底心配するような声に、ヘンリーは苦笑してから
「少し。あれだけ踊ったことはなかったもので」
「しまったな! 次からは私が大人しく踊るとしよう! もっともご婦人方の足がなくなるかもしれないが」
豪快な笑いが弾けて、フェル皇子は手にしていたグラスを差し出した。
「15年ものの、ワインだ。少しはいけるだろう?」
「……では少しだけ」
ユニコーン。
その存在は、一体どこから来るのだろう?
剥製となった、小さなホワイト・ユニコーン。
お前は、なぜ生まれたのか?
そして、私はなぜ生まれたのか?
哲学的な存在意義じゃない、神学的理論じゃない。
ただ純粋に、『ヘンリー・アン・フォン・ルーベント』がこの世に存在する意味を、知りたかった。
ユニコーンの病で、死に行くだけの存在、なのか?
ホワイト・ユニコーンを犠牲にしてまで、生き延びた我が命。
偶然の中の、必然、だったのだろうか?
あまりにも似すぎた、存在。
ヘルダー男爵。
『プライド』とは『束縛』だと言い放った、オレンジ・ユニコーン。
コーネリアと緑の愛を見いだして、男爵の処刑を日がな一日、数えていたあの頃。
私は、決めたのだ。
望まない『地位と名誉』、そして束縛ではなく、有意義なものである『プライド』で、為せることをしようと。
民の幸せに、出来ることをしようと。
だが、現実はどうだ。
数百年続いた、『尊き青き血』による絶対王制は崩れ、知識を得た中流階級が声高に、そして血塗れの手で平等を叫ぶ。
自らで自らを支配するに疲れた者たちは、英雄を求め、一人の男がそれに応えた。一国の英雄は、全世界の英雄になろうとしている。
其れ故の戦いが、繰り返される。
混乱の中の、秩序。
秩序の中の、混乱。
そして、富ある者は、一層富みある者に。
貧者は、一層貧者に。
貴族が消え、人々は幸せになったか。
英雄によって、人々は平穏を得たか。
否、そうではない。
静寂たる水面に、一滴の水がこぼれれば、波紋は途切れることなく広がりつづける。
波紋は、広がる。
「……そうだな。ナポレオンの支配は、いつまでも続くとは思えないな」
フェル皇子は、グラスを傾けながら、ヘンリーの言葉を聞いていた。
「だが、軍人としてのあの小男の才能は本物だな。戦って、感じた。身震いするほど、あの男の、大きさに」
「皇子……」
だがな。 皇子は続ける。
「いずれ、巨木は倒れる。大きくなれば大きくなるほど、空洞は大きくなり、蝕みつづける。巨木は、耐えられない」
カール・マルクスが謳う、平等。
ヘンリーの望むそれとは、多少の相違があったけれど、だが行き着く先は同じ。ヘンリーはそう感じていた。もっとも、フェル皇子以外に、そのことを口にすれば、国外追放の憂き目を見ても、文句は言えないだろう。フェル皇子だからこそ、剛毅な皇子ならではこそ、聞いてくれるのだ。
「……近い内、でしょうか?」
「そうだな。北にまで興味を示す、ということは、空洞が大きくなる原因を作るようなものだ。フランス国民は耐えられないだろうな。これ以上、英雄は巨大になる必要はないからな。フランスにとっての英雄であってこそ、ナポレオンなのだから」
「……」
「公爵。公爵の望みは必ず叶う時が来るはずだ。黙して待て。いや、公爵の考えを少しずつ広める方が得策かもしれないな」
「はい」
「表立っての援助は出来ないが、公爵の為せること、私は楽しみに見させてもらおう」
コーネリア。
私は、地上で人々の幸せを追求する。
自分にどれだけのことが出来るかは、分からない。
多分、私の選んだ路は茨の道かもしれない。
その時は、あの時、私に微笑みかけたコーネリアの微笑みを、思い出す。
必ず、力を与えてくれるだろう。
end...
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