麒麟

その壱 高星、父帝より伝文を請け、麒麟出現の一事を知る。





噎せ返るような、香の馨り。
死を呼び寄せる者を、退けると俗に言われる香は、皇后が好んで寝室に置くのだという。
愚かな。俗信でしかない、人の生き死には、天が決めることだろうに。
高星は、内心で舌打ちする。
皇后は高星とは血の繋がりはない。
後宮には、父が寵した貴妃が数十人はいるのだ。後宮の貴婦人を寵愛し、いずれは子を成す。それが皇帝としての、『龍の血を受け継ぐ者』としての定めであることは、高星とて分かる。
だが、その結果、後宮内では皇帝の寵愛を巡る浅ましく、醜い戦いが繰り広げられることとなる。事実、高星の母もその戦いに巻き込まれ、命を落としたのだから。
皇帝が崩御すれば、後宮にあった貴婦人たちは寵愛を受けた者、受けなかった者の差に関わらず、つまり次期皇帝の母以外は、すべて出家させられ、尼寺で淋しい余生を過ごすこととなる。
だから、皇后は必死なのだ。たとえ『皇后』の称号を与えられていても、『皇太子の生母』ではないのだから、不遇の余生を送らなければならないのは、必死なのだ。……皇帝が亡くなれば。
「皇太子殿下、御成」
呼ばわりの声も、秘やかだ。暫しの休息を取る皇帝には、刺激を与えてはならぬ。それが数十人からなる医師団の判断だった。
返事がない。高星はチラリと呼ばわりの者の顔を見た。呼ばわりの者も、どんな顔をしていいのか分からず、複雑な表情を浮かべている。高星は足音を忍ばせて、父の寝室に足を踏み入れた。





先程までの馨りは、微かに薄まった。しかし、今度は違う匂いが立ちこめる。
病の、臭いとでもいいべき臭いが漂う。その中に、微かながら死臭も感じられて、高星は軽く身震いする。
「これはフンリさま、お見舞いですかな?」
見知った医師に声をかけられた。とはいえ、呼ばわりの者同様、秘やかな声だ。高星は同じく静かに応えた。
「ここのところ、お休みになる時が多いと聞いた。お休みのようなら、失礼するが」
「いえいえ、先程お目覚めになられて、フンリさまをお呼びになりましたが……はてさて、使者と行き違いになりましたな?」
「……かもな」
「ではどうぞ。今は落ち着いていらっしゃいますから、大丈夫ですが……医師団が目を離すと、指示を出し、伝文をお読みになる。あれではお休みになられますまい」
「………」





「フンリ、か……」
「お使者を出されたとか。行き違いになりました」
「仕方ないな。ここへ」
痩せ細った手が、高星を呼ぶ。高星は無言のまま、膝行する。たとえ皇太子とはいえ、皇帝の臣下には変わらない。皇帝の前で膝行するのが、臣下の習わしだったが……。
「よい、そのままここへ」
「は」
側に寄るだけで、父の体温が異常に高いことが分かる。空気が熱を持っているようだ。しかし高星はそれを口にせず、
「お体は」
「今は、この調子だ。もう少し良くなれば政にも復帰できようが。果親王に窘められた。もう少し身体を労れねば、フンリに良き国を残してやれぬとな」
果親王とは、皇帝の義母弟にあたる。しかしそれでも、『黄龍』たる皇帝に意見を成したのだから、決死の思いだったのだろう。
礼叔父の、しそうなことだ。
忠言を伴う、熟慮された口調の肥った叔父の姿を高星は思わず苦笑しそうになった。
「それはそうと、フンリ。一つ気がかりがある」
「は、なんでしょうか、父上」
「そなたの……皇后のことだが」
高星の苦笑が、一気に消えた。
「……父上、私にはまだ早いかと」
「汝は16の齢を得た。汝の齢には、余も貴妃を何名かは持っていたぞ」
高星の脳裏に、コーネリアの笑顔が横切る。
「しかし……子を成すことは、皇帝の血を繋ぐ為に必要なことだ。忘れるな、フンリよ。このことはまた後に話すとしよう」
気づくと、寝室の入口に、たくさんの黄色い小箱を抱えた宦官たちが控えているのに、高星は気づく。
黄色い小箱が現すのは、中華各地から皇帝に宛てられた伝文。皇帝はそのすべてに目を通し、指示を出すのだ。だが、皇帝は病の床にあるというのに。
「なりません、父上。今日は伝文はお控えください。礼叔父の進言をお忘れか」
「……そうだな」
「下がれ。火急の伝文のみ、後にいたせ」
「いや、火急の伝文は弘暦の元へ届けよ」
高星の言葉に続いた、弱い口調から紡ぎ出された、言葉の激震に、皇帝だけが気づいていない。高星ですら、目を見開いて父を見つめたというのに。
「父上? よろしいのですか?」
「よい。汝に任せてもよいだろう。汝の思慮を超えるものは、余に届けさせよ……余はしばらく休むとしよう……」
「はい……」
「汝ならできようぞ」
天命を、受けたそなたなら、必ず、出来るはずだ。
弱い口調で紡ぎ出される、強い言葉にフンリは愕然としながら、頷くことしかできなかった。





「フンリさま!」
賑やかな声と共に、皇太子府の一室の扉が同じく賑やかに開いた。その賑やかさに皇太子府の宦官たちは慣れている。否、慣らされたというべきか。
「あ、ホントなんですね。伝文を扱うことを帝さまがフンリさまに許したというのは」
「……見れば分かるだろうが」
うんざりした口調で、高星は皇太子印を伝文に押し、山と積み重ねられた黄色い小箱の一つを取った。
嫌々小箱から伝聞を取り出す、フンリ皇子。
楽しそうにその様子を見ている、青年。
一見すれば二人の顔は区別がつかないほど、似ている。
フンリによく似た青年の名は、高晋。かつては高星の側近の宦官であり、高星が密かに城外で遊ぶ時の身代わりであった、少年である。しかし実はフンリの密偵として王宮にあっただけで、やがて分からなかった身内が判明し、科挙を一回で合格した結果、士大夫として皇太子直属となっている。
「昨日、帝さまをお見舞いされたんですね」
「その時に、オレがしばらく伝文を読めって、父上に言われてな」
筆を口にくわえ、遊んでいる様子から、飽きていることがはっきり分かって、高晋は思わず苦笑する。
「しっかりなさってくださいよ」
「オレに、父上のように一日2刻(4時間)しか眠らずに、伝文を読めってか?」
「そこまでは……」
フンリさまには無理でしょう。
高晋は喉まで出ていた、言葉を飲み込んだ。
「……とにかく、お茶でももらえないか? ちょっと休憩したいんだけどな」
「あ、はい! ただいま!」
ちなみにお茶汲みは宦官の仕事で、士大夫の仕事ではないのだが……。





お茶休みを入れても、当然伝文は減らないわけで。
「……こりゃ、父上のように睡眠時間を削るかなぁ」
最近、特に皇帝の病状が悪化してからというもの、皇帝は自らの代理として高星を立てることが多い。
今回の様に伝文を任せるというのは、異例中の異例だが、それでもいずれはこなさなければならないことではあるのだ。
伝文が多いのには、二つ理由がある。高星には分かっているのだ。
まず第一に、周辺諸国の紛争が絶えないこと。諸国の喧騒はそのまま、それらの国々との国境での小競り合いにつながり、世情不安を招く。数年前には中華全域を飢饉が襲い、皇帝は対策に走り回ったのだ。
第二に、皇帝がすべてを自らで確認しなければ満足出来ない、満足しないシステムを作ったこと。
だから地方の高官は自らで判断せず、すべてを皇帝に委ねる。
「……父上も、自分で全部しようとするから……」
フンリは呟きながら、印を押す。



すべて、自分で。
結果として、行き届かぬ死角も生まれるわけで。
民と、皇帝との距離は一層離れていく。
「?」
ぼんやりと考えごとをしながら伝文をめくっていた高星は、今までのような緊急の陳情とは違う文面の伝文を見つけた。
『京師に、麒麟の人妖が出る』
「なんだぁ?」





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