piece of memory 02
吉行が目を覚ましたのは、明け方だった。
あたしは、病室の南側の窓を開けて、叶野先生が置き忘れたマイルドセブンを勝手に貰って、一服してた。
タバコでも吸ってないと、なんだか落ち着かなかったから。
窓から流れ込む明け方の微かな喧噪の中にうめき声を聞いて振り返ると、ベッドから上体を起こして、腹を押さえて吉行がうめいてた。
「いった……」
「あたりまえでしょ。何発ボディブロー、食らったと思ってんの? その上、やくざなオニイサンたちなんだから。見た目は問題ないみたいだけど。しばらく傷むわよ」
あたしはくわえタバコのまま、窓を背に呟くように言った。
その声に初めて人がいることに気付いたように、吉行は顔を上げて。
そして、表情が固まった。
「……み、みずほ?」
「久しぶり。何年ぶりかなぁ?」
「……そ、そうだな。5年かな?」
吉行は必死に、でも言葉を選びながら応えてる。
もっと会ってないけど、あたしはそれ以上はなんにも言わずに、
「今はね、高沼瑞穂なの」
「……結婚したのか?」
「うん。そっちは? 相変わらずモテてんでしょ? とっかえひっかえ? どうせ、そんなことでやくざなオニイサンたちに絡まれてたんでしょ?」
やくざなオニイサン。
その言葉に、吉行はベッドから飛び降り、あたしに駆け寄ってきて、
突然、あたしの前に土下座した。
さすがにあたしもびっくりして、タバコを窓から外に落としてしまった。
「な、なによ」
「……瑞穂! すまん、お前に頼むのはすまんと思うんやけど、頼む! 金を貸してくれ!」
額を床にすりつけて、吉行は動かなくなった。
その時、診察室にいた叶野先生が慌てて部屋に入ってきた。
「なんだ、えらい大声で……」
叶野先生はどう、思ったのかな?
立ちつくしてるあたし。
土下座してる吉行。
叶野先生は勢いよく開けたドアを、あたしの顔を見ながらゆっくりと閉めた。
あたしは大きな溜息を一つして。
「とにかく、顔を上げて」
「……瑞穂ぉ」
「けが人を土下座させたまま、話できるほどあたし、オニじゃないんだけどね」
「……」
吉行は頭を上げたけど、正座のまんまあたしを見上げてる。その姿勢だけは変えるつもりはないみたい。だからあたしはその場に座り込んで、吉行と目線を同じにした。
「なるほどね、オンナがらみじゃないわけね。オカネか。けど、吉行。実家があるじゃない」
「……実家には、頼れない……縁を切られた」
「はぁ?」
イマドキ、縁切るとか、勘当とかあるなんて。
正座したまま、吉行は言った。
「母さんが死んだ時、俺は実家に帰らなかったんだ……オヤジが怒って、もう家の敷居をまたがせないって……。姉貴たちも、連絡しても完全無視だよ」
「……まぁだ、そういう話が残ってんだねぇ」
吉行の実家、歴木家は中国地方では有名な造り酒屋だ。姉3人の下、たった1人の跡取り息子として生まれた吉行は、それは大事に育てられたって、昔つきあってた頃に聞いたことがある。
実家に帰れば、吉行の世話を専門にするお手伝いさんがいるって言うぐらい。
欲しいものはなんでも簡単に手に入る。あの頃の吉行は、そう思ってた。
大人になってよく考えてみれば、実家の金持ち度は実はあたしの山内家の方が遥かに上だったんだけど、あたしは母さんとのことがあったから、そんなに過保護に育てられてないから、それほどジコチュウじゃなかった。
結局、あたしと吉行が別れたのは、吉行のジコチュウが原因だったんだけど……。
なんで母親が死んだ時に帰らなかったのかなんて、いまさら聞く気もない。あたしはもう一つ溜息をついた。
「で? いくら、オニイサンたちに借金してるの?」
「1億……らしい」
「らしいって。なによそれ?」
自分の借金ぐらい覚えてろ。
あたしは心の中で毒づいたけど、吉行の続いた言葉に眉を顰めた。
「俺は連帯保証人なんだ……借りてたのは、俺の彼女なんだ……1週間前から行方不明で……だから、取り立て屋が俺のところに」
「は?」
「取り立て屋の話だと、あいつ、闇金から090金融から手出して……ふくらんで1億らしい……」
「で? 彼女が、そんな借金抱えてたこと、吉行は全く知らなかったわけね」
「ああ」
「……バッカじゃないの」
「……そうだな」
「で、ボコられて、これから絞られるのがイヤで、昔捨てたあたしに金かしてくれ? 虫が良すぎるんじゃない?」
「……ああ」
「なんの仕事してるか知らないけど、オニイサンたちの話じゃ、結構稼いでるんでしょ? なら、自分の稼ぎでコツコツ返しなさいよ。それがいやなら、彼女を捜すことね」
「……虫が良すぎるって分かってる……どこか紹介してくれないか? 興信所を」
「そんなもん、自分で探せ」
「……」
あたしはうなだれた吉行をそのままにして立ち上がり、煮え切らない気持ちのまま、部屋のドアを開けようとして、でも小さく呟いた。
「横山探偵事務所ってところがあるわよ。そこに行ってみたら?」
「え?」
ドアを閉めた向こうで、吉行が『ありがとう!』と叫んでいるのが聞こえた。診察室のドアの前で叶野先生が腕組みをしたまま、あたしを見ている。
「話がついたか」
「治療費はあたしに請求しないでね。あいつが払うか、あいつのツケに」
「病院はツケはきかんぞ」
しらみ始めた池袋の、ビルの谷間から見える空を見上げて、あたしは呟いた。
「バッカみたい。あたし、何やってんの?」
まっすぐ、家に帰ったあたしは、珍しく晰仁が時々飲んでるウイスキーを飲んだ。
琥珀色の液体が、氷の合間を踊る様子を見ながら、1人で何度も呟いてた。
「バッカみたい……」
そして、いつの間にか眠ってしまった。
目が覚めたのは、昼過ぎ。
夕べ帰って来たまんま、バッグの中に入れっぱなしの携帯が『can you celebrate?』を奏でているのに気付いて、慌てて出た。
「もしもし?」
『どうした? 声が死んでるぞ?』
「……ちょっと飲み過ぎ」
『珍しいなぁ、瑞穂が飲み過ぎなんて。あ、明日の飛行機で帰ることになったから。尚彬さんはそのままロスに向かうけど、俺は先帰る』
「明日ね」
『ああ。ま、そういうことだから』
「はぁーい」
あたしは電話を切って、頭を抱えた。
「あったま、いたーい!」
二日酔いだった。
こんなひどい二日酔いは初めてかも。
あたしは、とりあえずシャワーを浴びて、コーヒーを飲むことにした。ちょっとでも二日酔いが消えてくれることを期待して。
そう考えて立ち上がったけど、携帯がまた鳴り始めた。表示は『横山探偵事務所』。あたしは溜息をつきながら、電話に出る。
「はい」
『横山だ』
あたしは一応横山探偵事務所に正社員として登録されてるけど、普通の会社員みたく8時出勤5時退社なんてことはない。気分が向けば出社して、仕事する。仕事がないときは横山さんの話し相手をして、それで帰る。
仕事は歩合制だから、すっごく給料があるときもあれば、全然ない月もある。それでもあたしは全然構わない。だって、晰仁1人の給料でも充分生活していけるし、あたしの写真関係の収入も結構なものだから。
仕事がなくってよっぽど暇な時、横山さんは電話してくる。
話し相手が欲しいから。
で、ちょっとお茶して、ちょっとお話しして。
そんなお誘いかと思ったけど、違ってた。
「どうかしました?」
『れきぎ、よしゆきという人知ってるか?』
れきぎ?
しばらく考えて、あたしは盛大に溜息をつきながら応えた。
「くぬぎ、でしょ?」
『あ? あ、そうだったかな? やっぱりフリガナ振ってもらったほうがよかったな』
「で、歴木吉行がどうかしたんですか?」
『ああ、今回の依頼者なんだが』
ちょっと待って。今、横山さん、依頼者って言った?
「依頼者?」
『ああ。お前さんの知り合いなんだって? そう言ってたぞ? ここの社員って言ったら、目ぇまんまるくしてたけどな』
「……でしょうね」
『でだ。人捜しの依頼だ。なんでも、池袋で見かけたって人がいたらしい』
「横山さん、今回あたしパス。マコトに回して」
あたしの言葉に、携帯の向こう側で固まってしまった横山さんの気配が感じられたけど、あたしは続けた。
「あのね、歴木吉行は昔あたしを捨てたオトコなんですよ」
『……なに?』
「確かに、そちらを紹介したのはあたしだけど……今回は関わりたくないんですよ」
『……困ったな』
横山さんの言葉に、何かひっかかりを感じて、あたしは聞き返す。
「なにがです?」
『高沼を中心に捜索を行いますって』
バカ。
横山さんの、バカ。
あたしは大きな大きな溜息をついた。横山さんが謝ってる。
『すまん、そんなこととは知らなくて……でも、えーと、歴木さんか? 言ってたぞ。瑞穂なら安心して委せられるって』
「……分かりましたよ」
『すまん。俺を助けると思って』
「分かりましたって。これからそっち行きます」
携帯を近くのソファに放り投げて。
二日酔いの頭を抱えて、あたしは叫んだ。誰もいない部屋で。
「バカ! バカばっかり!」
でも、一番のバカは、あたし自身だって分かってたけど。
仕方ない。
あのバカオトコの後始末を、昔のオンナがすることになるなんて。
……ジコケンオ。