Significance
あの日。
14歳、中学校の理科実験室。
ボクの覗いた世界には、何もなかった。
何も。
白濁した、ホワイトオパールにも似た輝きだけが見えていた。
……だから、戦うことにしたんだ。
ボクという、存在意義を、自分自身の手で、勝ち取る為に。
静かな、建物。
屋内に入ると、静けさは一層増す。
奥の祭壇に置かれた十字架が、ここが教会だと教えてくれる。かなり質素な造りだ。ステンドグラスもほとんど彩色されていないけれど、静寂の中に、陽光がステンドグラスのささやかな色彩をまとって、舞い降りてくる。
……こういうのを、神聖っていうんだろうな。
ふと、そんなことを考えて。
小さな猫の鳴き声に、振り返る。
息が、止まった。
一瞬だけど、間違いなく。
教会として作られたのだろう、天井は高くとってある。
祭壇の奥には、十字架と、聖母子像が置かれているが、それ以上の装飾はない。
なのに、入り口の上、そう、一面に絵が描かれていた。
蒼。蒼い世界。
そこは……蒼穹。
その中で、背中の翼を広げた、少女。……多分、少女だろう、裸体のほのかなまろみがそんな印象を受ける。だけど、彼女の左手は、青年の手をつかんでいる。
……天使の少女が、翼を持たない青年を蒼穹の彼方に連れ去ろうとしているのか。
青年が、天使をその両の腕に抱こうとしているのか。
どっちなんだろう?
……だけど、二人は一緒にいるんだ。
一緒に。
それだけは、分かった。
そして、背中を向けている天使と、青年が誰かということも、ボクには分かったんだ。
『彼女が?』
ボクの問いかけに、"先生"は微笑みながら、頷いた。
『彼女は、君に似ているよ』
いつか、ボクに言った。
何が似ているのか、多分先生は言わなかったような気がするけど、何となく、ボクは分かったような気がした。
"もう一人のボク"
壁画に描かれた天使の少女は、間違いなく"もう一人のボク"だったんだ。
……そう、早川藍。
鑑別所を脱走しても、ボクの生活は何にも変わることなんて、なかった。
『本当のひと?』
『ええ。そうよ、本当の、君を愛してくれる人。必ず、どこにはいるわ』
『……会えなかったら?』
『それでも、この星の、どこかには、いたんだと』
これも私の一部なの。
そう言って、20歳の時に失った乳房に触れさせた、先生は優しく微笑みながら、言った。
だからボクはボクの『本当のひと』を探すために、鑑別所を脱走した。
脱走したことで、裁判がどうとか指名手配とか、もう関係ない。
ボクは、ボクでボクらしく生きていく。
『本当のひと』を探していく。
……でも、心の片隅に残っていた。
優しく微笑んでいた、"先生"と"もう一人のボク"のこと。
調べると、すぐに分かった。
"もう一人のボク"は、少年院に入ってすぐ、闘病生活を送っていて、もうすぐ退院する。
"先生"は、精神的に不安定になって、田舎のサナトリウムにいることも。
調べることは、調べた。
でも、何かする必要なんて、ないと思ってた。
だけど、"先生"の個展が開催されると知って、出かける気になったのは……どうしてなんだろう?
個展の会場で、"サル"を見かけた時。
"サル"と初老の男性の会話を聞いた時。
ようやく、ボクは『自分がしたいコト』を理解できたような、気がする。
いや、『しなくてはいけないこと』を見つけたんだ。
止まってしまった時間を、動かさなくては。
そして、ボクは前に進まなくちゃ、いけない。
"もう一人のボク"も。
"先生"も。
少し、話を遡る。
顕微鏡の中に、ボクという存在理由を見いだせなかったボクは、ショックというより、顕微鏡の中以外に、存在理由を見いだすことにした。
ショック?
……ないはずがない。
ボクはその時、14歳だった。
子孫繁栄という動物の本能的サイクルから取り残された存在。
ボクという『種』は、ボクで終わる。
無精子症=種の存続である、連綿たるつながりから切り離された存在。
どうしてそうなったのか、ということが、大事じゃない。
環境ホルモンの影響。
生物のオス化現象。
そんなこと、ボクの中では、まったく意味を成さない。
大事なのは、過程じゃないんだ。
ボクは……それから必死だった。
ボクという存在=人類=万物の霊長たる存在と定義することに躍起になった。
ありとあらゆる本を読み、あらゆる知識を身につけて、ボクは戦い始めた。
そして、結論を見いだす。
人類は万物の頂点だ。
だから、他の動物と徹底的相違を見つけなくてはいけない。
二足歩行。
違う、進化の過程で生まれた特徴に過ぎない。
道具、火の使用だって、類人猿だってしていることじゃないか。
消去法で考えると、一つしかなかった。
感情を持つこと。
心を、持つこと。
これは、人類だけだ。
人と人は、心でつながることが出来る。
心、つまり、愛情だ。
そして、愛情を伴う生殖行動を美化する。
けれど、美化したところで、セックスはセックス。
なぜ、心と心でつながることで満足しない?<
……万物の霊長たる人類なら、出来るはずだ。
身体を必要としない、心のつながりを。
そう、信じていた。
そして、ボクの前に、三池杏奈が現れた。
杏奈は、心が壊れていた。
見た目は問題なかった。普通の、どちらかというと、可愛い美人。
だけど、明らかに依存症だった。
それも、ものに対する依存ではなく、人に対する依存。
自分が愛するように、自分も愛されなくてはいけない。
自分が与えたら、相手も自分に与えてくれる。
そう、信じていた。
『コウキ、コウキは私を愛してくれているよね?』
『人を傷つける愛もあるけど、人を癒す愛もあるんだよ』
応えといえない応えに杏奈は満足して、ボクをまるで仔犬のような信じきった双眸で見つめていた。
今なら、分かる。
あの頃のボクは、自分の理論を自分にも信じ込ませるために、杏奈を利用していたんだ。
……ボクは、方法を、『本当のひとに至る路』を間違えて踏み出したんだ。
洗脳は、簡単だった。
杏奈はボクの言うことを、なんでも喜んで受け入れた。
なんでも、なんでも……。
そして杏奈は、売春法違反で補導された。
杏奈のためにはじめた洗脳が、思いもしないところで役に立った。
鑑別所で、マスコミが騒いだせいで少しだけ有名になったボクが入ってきたことに興味を示して、ちょっかいを出そうとした連中をてなづけるのに、使えたからだ。
そして、先生に、
"先生"に、
"もう一人のボク"に、
会ったんだ。
話を元に戻そう。
早川藍の退院日は、調べればすぐに分かった。
「……明日、か」
その前に、"先生"の所に行ってみようか。
会うつもりなんて、ない。ただ、どんなところにいるのか、興味があった。
マリ・ローランサンのような、淡い絵を描く、"先生"がどんなサナトリウムにいるのか。
そして、訪れたサナトリウム内の教会で、絵を見つけたんだ。
ボクの心は、決まった。
軋む音を立てて、ドアが閉まる。
少女は、一つ溜息をついて、歩き始めた。
……人生の中でもう二度と来たくない場所に、何の未練もないように。
ボクは、バイクから降りる。
その動作に、ようやく彼女はボクのコトに気づいたようで、顔を上げて、少しだけ眉を顰めている。
……見たことあるけど、誰だっけ?
そんな表情だった。でも、すぐに変わる。
「えっと……」
ボクはそれ以上の答えを待たなかった。そして、ヘルメットを差し出す。
「一緒に、おいで。
もう、苦しむことはない」
静かなボクの口調に、一層眉をひそめた"もう一人のボク"は、ボクの言葉を続いて聞いて、顔色を変えた。
「彼を救うんだ。そして、君も、救われる……」
「……先生」
小さな声を上げて、彼女はボクの後ろに飛び乗った。
あの天使のような微笑を浮かべながら、彼女はボクにヘルメットを渡して、昨日来た教会の中に入っていった。
ボクは思わず、呟いた。
「……さよなら、"もう一人のボク"」
ようやく。
ようやく、止まっていた時間が動き出すような、そんな気がした。
顕微鏡を覗いて、ホワイトオパールの中に、自分の中の真実を見つけてしまった、あの時に時間は止まっていたんだ。
『本当のひと』を探す時間が、今から始まる。
今なら、きっと分かる。
微笑みながら、『本当のひとが見つからなくても、この星にいたんだ』と言ってくれた先生の言葉が、分かる。
……そして、ボクは時間と共に、歩き始める。
end...
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