Under the shining moon






海を渡った風が、髪を撫でる。
微かに香る、潮の匂いに。
大輔は穏やかに笑った。





「ねえ、大輔くん。いいの? そろそろ帰んないと」
環菜の少し困ったような言い様に、大輔はにっかりと笑ってみせて。
「いいんだって」
「よくないよぉ、だってまだ」
環菜は言葉を飲み込んだ。
大輔は、本当に穏やかな笑顔を環菜に向ける。
「大丈夫だ」
「うん……」





船が、沈んだ。
その数時間前まで、環菜を含めて600余名が載っていた、大型フェリー・くろーばー号が、たった4時間で鹿児島湾に沈んだ。
その中に、大輔は残った。
最後まで、残ると避難させる環菜に言い残したように。
だけども、大輔はこうも言った。





必ず、生きて帰る。
生きて帰って、環菜を幸せにする、と。





そして、大輔は沈んだ船から、大切な仲間と、大切な救助者を連れて、帰ってきた。
憔悴しきって、それでも誇らしげに帰ってきた大輔をモニター越しに見る環菜に、大輔のかつての上司が言ってくれた。
よく、信じたと。
あんなに生きて帰ると、幸せにすると、強く優しく告げられて、それまでの環菜の中にあった迷いや、怒りや、哀しみはすべて消えた。
あれほどすれ違った環菜の思いが、まっすぐに大輔に届いた気がした。





くろーばー号沈没から1週間。
事故の現場検証は未だ続いているけれども、肋骨骨折に全身打撲に…山ほど病名をつけられた大輔は、それでも痛みの残ったままの身体で現場に復帰すると言い張って。
病室で見舞いに来た桂木本部長に怒鳴りつけられて、完治するまでは現場に出さないと言い渡されて少し大人しくなっていたけれども、やはり鍛えられた身体だからか、全治2ヶ月の傷は意外に早く回復しそうな勢いで、一時帰宅したバディの吉岡を鹿児島市内の寮に送っていく環菜にくっついて、無理矢理外出許可を得たのだけれども。
既に時間は8時過ぎ。
空には、満月が浮かび、波の少ない鹿児島湾内では、月明かりが穏やかな波間を照らしていた。
「なあ、環菜」
「ん?」
「…………俺さ。海保入ってよかった」
満月を見上げながら告げる男の傍らに立ち、環菜は男の横顔を見上げた。
「うん」
「…………もしかしたら、こんな事故はもう起こらないかもしれない。でも、俺が機救隊に戻ったその日に、同じような事故が起こるかもしれない」
「………………」
そうだ。
大輔が機動救難隊、いや海上保安官として海上勤務をしている以上、同じような事故に遭わないとは断言できない。むしろ今回のような大規模海難ではないだろうが、海難事故の現場で命を救うのが、潜水士である大輔の仕事だから。
「俺は………………キッキュー隊で仕事を続けたい。誰かを救いたい。だけど…環菜、お前が哀しい思いをするのも嫌だ。だけど、お前と結婚したい。お前を幸せにしてやりたい。環菜と家庭を作って………………俺は欲張りだな」
細く長い溜息を吐いて。
大輔はその場に座り込み、今度は眼下に広がる鹿児島湾の漣を見つめながら言う。
「俺は…欲張りすぎかな」
「うん」
すぐに帰ってきた応えに、大輔は眉を顰めながら、すぐ横に体育座りをした環菜を覗き込んだ。
「おい、そんなにすぐに応えなくても」
「大輔君は子どもみたいだね。あれも、これも…そんなに全部は手に入らないんだよ」
「………………」
「でもね」
ことんと、自分の肩に乗せられた環菜の頭の重さと、暖かさが大輔の疑問を吹き飛ばす。
「でもね……努力することは悪いことじゃないよ」
「環菜…」
「努力しない大輔くんは、大輔くんじゃないもの」
あれもこれもと叫ぶことは子どもでもできるだろう。
だが大輔にできることは叫ぶだけではない。
救難のために、自分を鍛え、精神を鍛え。
環菜のために、気持ちを伝えてくれる。
それは誰でもない、大輔だけにしかできない。





「大輔くん。あたしは、決めたよ。大輔君が船の中から電話くれて、結婚しようと言ってくれたときに。ずっと、この人のことを、生きて帰ってくるって言った人のことを信じるって、決めたんだよ」
「環菜……………」
港に走る環菜を止めて、下川は言った。
『海上保安官は、海では死ねないんだ』
任務中に実の娘を助けて、生死の境をさまよった下川の言葉は重かった。
環菜は満面の笑みを浮かべて、応えた。
『信じてます。大輔くんは、帰ってきます』
「だから、待ってる。でも………………不安になって泣いたり叫んだりするけど…いいよね?」
「俺的には全然余裕で、どんとこいって感じがいいけど………」
肩に乗ったままの環菜の頭を軽く撫でて、大輔は微笑みながら言う。
「それも、お前の個性ってやつか?」
「なによ、それ」
頭を上げて、ぷくりとむくれる環菜の、ふくれた両頬を指で押して。
空気が抜けて普通になった環菜の頬を軽く撫でて、大輔は笑った。
「ウェディングドレス、見つかってよかったな」
「…………でも、洗えばなんとかなるのかな?」
沈没したくろーばー号に環菜も乗っていた。何となく結婚に踏み出した大輔の一言で、環菜は服飾デザイナーである自分の才能を生かして、ウェディングドレスを作り上げたのだ。
だが、海上保安官としての自分の能力の限界を感じていた大輔に、ウェディングドレスは自分が結婚するという変化を自覚させる戸惑いの原因にしかならなくて。
沈没に際して、避難を命じられても最後まで環菜が手放すことのできなかったドレス。
今となっては、迷いも哀しみも怒りも、ドレスが全部受け止めて沈んでくれたと思えるのに。
沈没の翌日、大輔の上司・北尾から送られた写メールでは無くしたはずのドレスが、海保に届けられていると記されていた。どうやら近隣の住民が拾い上げたもののようで。それは間違いようもなく、環菜のドレスで。
「潮臭いのはとれないと思うぞ?」
「…………違うの、つくろうかな?」
一度だけ見た、環菜のドレス姿。
細身の環菜に、似合っていた。
美しくて。
愛おしくて。
あの時は、それ以上の感情に押しつぶされそうで言葉を無くしてしまったけれども、今なら言える。
「いや。あれ、着てくれないかな?」
「え?」
「………俺は潮の匂いは気にならないけどな」
「そういう問題?」
「ああ」





恥ずかしげに、ホテルのロビーに佇んでいた、環菜。
幸せを感じる間もなく、自責の念に押しつぶされないようにするのが精一杯で。
環菜の、ドレスの美しさを褒めてやることもできなかった。
今ならできるはずだ。
どこまでも、自分を信じてくれる、
どこまでも、自分についてきてくれる、
環菜のために。
幸せにすると決めた。
幸せになると決めた。





急に強く抱きしめられて、環菜は慌てた。
「ちょっと、大輔くん」
肋骨骨折していても、大輔は環菜の制止が無ければこうして抱きしめてくれる。でもすぐ直後に肋骨に痛みが走って、『痛…』と悶絶するのだ。
「たた…」
「だから言ったのに」
だがいつもと違い、大輔は手を離さない。
力強い腕の中で、環菜は暖かさを感じて思わず笑みがこぼれる。
「痛いんだったら離せばいいのに」
「いやだ」
珍しく強い口調で否定されて、環菜はちらりと大輔の顔を見上げた。
「大輔くん」
「環菜、幸せになろうな」
「…うん」
「結婚式はこっちでやろうな」
「うん」
「お前の仕事の邪魔は…できるだけしないから」
「………大輔くんが勤務のうちにやっちゃいます」
「そうしてください」





月が照らす。
輝く月明かりが、漣を、水面を、水際に佇む二人を。





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