Recollection






壁に飾られた、写真。
一枚ではない。数十枚の集合写真が尚子に向かって微笑みかけていた。
尚子はその中の一枚にそっと手を伸ばす。
2種制服で背筋を伸ばし、達成感に満ちあふれた笑顔。
その写真の中で、尚子の知らない真樹が笑っていた。
「………まーくん…」
保護ガラス越しにそっと撫でてみるけれど。
「まーくん」
その呼びかけは、尚子だけに許されたものだった。
家の中では簡単に返事してくれたけれど、外出時にうっかり尚子がそう呼ぶと、わざとしかめ面をして、無理に低い声で『尚子』と窘めたものだった。
だけど、そんな返事はもうない。
返事は、もう、帰って来ないのだ。
「ここにも、まーくんはいるんだね…」
尚子は辺りを見回した。
塩素の匂い。
ゴムの匂い。
さまざまな匂いが入り交じっている場所。
かつて、ここで池澤は潜水士になった。
そして池澤の最期を看取った仙崎も、仙崎のバディである吉岡も。
「あ、仙崎さん」
集合写真の下に書かれた卒業年度を辿れば3年前に、大輔の姿があった。誰かの写真を持って、安堵の表情で写真に写っている。
大輔くん、呉にいた時にバディを亡くしてるんです。
そういえば、他愛もない話の中で環菜がそう言っていたことを思い出す。
「じゃあこの人?」
「工藤、て名前です」
顔を上げれば、すややに眠る真子を抱えた大友が入り口に立っていた。
「大友さん」
「名前は工藤始です。仙崎のバディだった奴で…休日に海で溺れた人を助けようとして、自分も殉職しました…仙崎はずいぶんと辛い思いをしたようです」
「…………」
「池澤さんが亡くなってから仙崎は教官助手でここに来た時は、工藤を亡くした時と同じ顔をしてましたね」
「………………バディを亡くすことは、そんなに辛いことですか?」
「それは」
大友は真子を尚子に渡しながら静かに言った。
「バディは、命を預けられるほど信頼を寄せる相手ですから」
「信頼…」
大友は池澤の写真を探して、覗き込む。
「救助を必要とするということは、助けに行く者も命の危険にさらされるということです。そんな状況で要救助者も自分も生きて帰るためには、一人では何も出来ないときでも、2人ならなんとかできることはあるんです。助けられる確率が上がるんですよ…そしてそれは自分のためでもある」
「だから、信頼する?」
「ええ」
「そう、なんですか………………」





呉に来た最大の理由は、環菜と大輔の結婚式に出席することだった。
そしてもう一つ。
呉に池澤の足跡を見たかったのだ。





私は、何も知らない。
池澤の遺品を整理していて、真子に大きくなったら父親の話をしてやらないといけないと思った時、自分はほとんど何も知らない事実に驚愕した。
お前は知らなくていいんだよ。
そう言った真樹の気持ちは察してあまりある。心配性の尚子に、特救隊や現場の潜水士の業務をすべて知らせていたらどれほど嘆くか、真樹は理解していたのだろう。だが、真子のためには形として見せてやらなくてはいけない。尚子がそう思い始めていた頃に、二人の結婚式の話が舞い込んだのだ。だから尚子は一も二もなく即答した。
未だ幼い、娘がいずれ直面する現実のために。
自分は知りたい、と思った。
真樹の過去を。





結婚式に出席するために降り立った駅のプラットフォームで、尚子はある人物に会った。
深々と頭を下げた大友は、銚子保安部で真樹と同じ潜水班に所属していた真樹より5歳年下の後輩だった。
池澤が特救隊に移るまで、尚子も銚子で生活していたから同じ潜水班にいた大友信士のことは覚えていたし、ちょうど銚子を発つ1週間前に、真樹の墓参に現れて会話を交わしたばかりだったから。
『ようこそ、呉へ。池澤さん』
『大友、さん?』
尚子にとっては意外な、再会だった。
真樹のかつての後輩が保大で教官をしていることは大友から聞いて知っていたけれど、まさかプラットフォームに来ているとは思わなくて。
話を聞けば、保大に現れた大輔が、尚子たちが来ることを大友に教えたようだった。
その話を聞いて大友が出迎えを申し出たのだという。ただ、尚子を驚かそうと尚子自身には連絡していなかったのだ。
そして大友は言い出したのだ。
『お帰りはいつですか?』
『えっと、明後日のつもりで』
『もし良かったら保大にいらっしゃいませんか? ああ、仙崎の結婚式の後でですけど…お見せしたいものがあります』
真樹の足跡を辿りたくて呉に来たものの、どこに行くとかまったく予定も決めずに来てしまった尚子で、大友の申し出を喜んで受けた。
そして連れてこられた一つが更衣室だったのだ。





スリングの中で、真子はにこにこと尚子の顔を見上げている。
尚子も穏やかに微笑みながら、真子から目の前のプールに視線を移す。
「ここも訓練の場所なんですか?」
「ええ」
「…………」
穏やかにプールを見つめていた大友に、プール・フェンスの向こうから声がかけられた。
「大友教官、お電話ですけど」
「ん? ああ…」
ちらりと尚子を見れば、尚子は穏やかに言う。
「どうぞ」
「では…………」
そのとき、気づいた。
電話を知らせてくれた教官助手は、三島優二であることに。
「三島、すまないがこちらを頼む」
「え…」
「池澤さんの奥さんとお子さんだ」
「あ」
それだけで三島はすぐに察して、力強く頭を下げた。
「わかりました」





「三島優二と言います、仙崎の結婚式でお会いしましたが…覚えておいでですか?」
尚子は数回瞬きして、
「あ、ごめんなさい…」
「いえ。仙崎の潜水同期です」
「ああ…………」
尚子は納得したように頷いて。それから不意に思い出したように言った。
「え、じゃあ…仙崎さんの同期で三島さんって確か…特救隊に?」
「はい。ご存じでしたか」
「環菜さんに教えてもらったことがあったわね…確か………去年入られたんですよね?」
三島は少しだけ笑みを浮かべて答えた。
「はい、5隊で潜水担当です」
「5隊………」





『まーくん、配属決まったの?』
『ああ』
『えっと、1隊から6隊まであるって言ってたよね?』
『よく覚えてるな。5隊の潜水担当だよ』





「そう…主人は滅多に仕事のことは教えてくれなかったけど、最初の配属は教えてくれたわね…5隊の潜水担当だったわね」
「池澤さんの話は、今でも特救隊でよく聞きます。すごく優秀な隊員だったと………残念だったと」
「仕方ないのよ。事件がなくても、あの人は特救隊には戻れなかったんだから」
ついと尚子は空を見上げた。
三島もつられて紺碧に晴れ渡った空を見上げる。
雲一つなく。
そよよと吹く瀬戸内海からの微風が尚子の後れ毛を揺らす。
「特救隊という目標はなくしてしまったけど、それでも主人は後輩を育てるという目標を見つけられたの。それはそれで、幸せだったのよ」
「自分も」
三島も静かに言う。
「自分も、保安官になって、特救隊に入って、海難救助を数多く手がけることがもっとも目指すべき目標の頂点だと思ってました。だけど…それだけじゃないということを、ここで気づかされました」
空からプールに視線を落とす。
だが、その涼やかな青さは変わらぬままに。
「技術も、経験も、もちろん大事だけれども、信じるということも大事だと」
「信じる」
「ええ。自分は潜水研修で遭難しました………あの時、仙崎が、仲間がいなければ、今の自分はないんです……きっと死んでた」
プールを見つめる三島の視線に力強さがあふれ出す。
「だからこそ、思うんです。信じることこそ、力になるのだと」
「………………そう」
三島は慌てて、頭を下げた。
「すみません、勝手に話して」
「いいえ、よかったわ。現役の隊員の方と話が出来て」
「…………いや、現役って自分はまだヒヨコを卒業したばかりで」
あたふたと赤面する三島を見てか、真子が笑い声を上げた。





「………これは大変だわ」
尚子はパソコンの画面を見ながら、深く深く溜息をついた。
真子のために、と思った呉の旅だった。
だからデジカメ持参での旅で、あちらこちらで写真を撮ったのだが…。
「たった3日で、300枚? うわ、あたしったら何でこんなに………」
アルバムに整理しようととりかかったものの、300枚を越える写真データに気づいて頭を抱える尚子の傍で、真子はけたけたと笑っている。
「…………仕方ない、とりあえずこれだけプリントアウトして飾ろう」





飾られた写真たち。
結婚式の真樹と尚子。
お腹の大きな尚子とそこに手を当てる照れくさそうな真樹。
うまれてすぐの真子の写真。
いくつもの写真の前に、尚子は一枚の写真を置いた。
少し離れて見て、力強く頷いた。
「うん、よし。すっごくいい写真」
そして真子を抱え上げて、その写真を指さした。
「ほら、真子。いい写真だね」





中心には真子を抱く、尚子。
尚子の左側には白い制服の大輔。
右側にはウェディングドレスの環菜。
そこに映る誰もが心からの笑顔だった。





手をさし出す幼子の、屈託のない笑顔。
その口元と目元に、今は亡き夫の面影を見て尚子は笑んだ。
今はまだ真子に全てを語ることはできないけれど、いつかは語りたい。
真子の父親がどんな人物であったか。
そしてどんなに幸せで、
どんなに懸命に生きたのか。
もう追憶の中でしか探せない姿を、それでも真子には知って欲しい。
生きる、こと。
信じる、ことを。



end...





Top