An arm to hold out
あの日。
三島優二の視線の先には。
暮れゆく鹿児島湾と、薄暗い海面でOKサインを出している仲間たちを映し出すテレビ画面があった。
「おっし!」
「山路隊長、やった!」
喜ぶ輪の中で、三島も心から安堵の表情を浮かべたけれども、他の隊員たちよりも画面から目が離せなかった。
山路が誰かを支えている。
その横にいる潜水士に支えられているように見えるのは、間違いなく自分と同期の潜水士だった。
「仙崎…やったな………………」
その呟きは、全員救出の報に喜ぶ横浜防災基地の誰の耳にも届かなかった。
開かれたドアを降りると、そこにはいつもの光景が広がっていた。
山路拓海は手にしたバッグのひもを、一度持ちやすいように握り直して、小型ジェット機から次々と降りてくる隊員たちを見回した。
「当直日誌は明日でもいいからな。資機材片づけたらあがっていいぞ」
「お疲れ様でした〜」
疲れ切った声が、今回の救難の厳しさを告げている。
山路をはじめ、彼らはトッキュー隊と呼ばれる。
日本にただ一カ所、羽田にある羽田特殊救難隊。
海上保安官の1%程度しかなれないと言われる潜水士。その中でも特に優秀な者が選ばれる、特殊救難隊、通称トッキュー隊は総勢36名しかいない。体力・気力・知力・経験、全てを兼ね備えた者だけが選ばれる、海難救助のエキスパートと呼ばれ、管区からの救難要請があれば、ジェット機やヘリコプターを乗り継いで、救助に向かう。
2日前。
当直で、山路が隊長を務める3隊が鹿児島に向かって出動した。
大型フェリーの座礁、だと思っていた。
620人の乗客をフェリーの沈没前に脱出さえさせれば、問題ないと思っていた。
「お疲れ様」
「ただいま帰りました」
「なかなかしんどい海難だったね」
高倉基地長に促されて、山路はソファに座った。
「これほど大規模な海難に接したことがなかったもので………いろいろと考えさせられました」
「ああ、そうだろうね。日本にあっては近年、ほとんど客船が関わる海難救助はないからね…いや、世界的に見てもというべきかな」
定年間近の基地長はふむふむと自分の顎を撫でながら、しばらく考え込んで。
「山路くん」
「はい」
「よかったら今後の参考になると思うから、詳細な報告書、出してくれるかな? ああ、業務に支障が出ない程度でいいよ」
「わかりました」
「それから」
基地長が穏やかに言った。
「最後まで要救助者と一緒にいたキッキュー隊員は、君の知り合いだって?」
部屋を出ようと立ち上がりかけて、山路は基地長を見ながら言った。
「トッキュー隊に来る前の船で同じ潜水班の2人でした」
「………………勝田さんのながれだね?」
「はい」
「そうか」
それ以上、会話を続ける様子がなかったので、山路は挨拶を出て、基地長室を出た。
「山路隊長、お疲れのところ、すんません」
声をかけられて、山路は顔を上げた。
5隊の隊員・浅利だった。
「ひよこ隊の合同訓練のこと、考えてくれました?」
「ああ……来週だったな」
毎年4月に、トッキュー隊には新人が多いときで6名入隊する。彼らは一つの隊として、新人隊、あるいはひよこ隊と呼ばれて4ヶ月間、特救隊員として海難現場に赴くことの出来るように、訓練を日々重ねる。そんな中でそれぞれの隊とひよこ隊が合同で訓練を行う日があるのだ。ひよこ隊の教官も兼任している浅利が、そのための日程確認に来たのだ。
「3隊の待機日に、て思ってましたけど、10管のこともあったし…無理なら違う日にしますけど」
「いや」
山路は軽く頭を振って、
「来週の待機日にしてくれ」
「………いいんですか?」
「ああ」
わかりましたと、浅利が引き下がろうとしてふと声を上げた。
「山路隊長、確か廃船になった『ながれ』に乗ってました?」
「ん? ああ、特救隊に来る前の話だ」
「………じゃあ、10管のキッキュー隊の、最後まで残ってた2人とも知り合いですか?」
浅利が何を聞きたいのか、山路は分からず、首を傾げながら、浅利の細面を覗き込んだ。
「悪いのか?」
「違いますって。ひよこに、その2人がながれに乗ってたの、知ってた奴がおって。潜水同期らしいです」
「………………ほお」
「知ってます? 平成16年度前期組? ひよこにそれがおるんです」
俺、平成16年度前期組なんですよ。
おい、それって海洋実習中に事故起こした…。
そうっすよ、俺ともう一人が遭難して、みんなが助けてくれたんですよ。
大輔とかつて交わした会話を山路は不意に思い出した。
だけど、山路さん。俺たちは平成16年度前期組だってこと、すっげえ誇りに思ってるのに、聞いただけで嫌な顔をする人がいるんですよね。
それはそうだ。潜水研修中に事故が起きることなんて滅多にないからな。
教官は悪くないですよ………じゃあ、俺たちが悪いのかな。
独白のような大輔の言葉に山路は答えを返さなかった。
誰も悪いわけじゃない。
あの時、山路はそう言いたかったけれど言えなかった。
いろいろと言い訳を考えたけれど、どれもしっくり胸に収まらなくて。
とにかく、それが心の片隅に引っかかっていた。
僅かな希望を信じて、山路は多くの潜水士たちとともに潜った。
気づけばすぐ隣には、10管の機救隊がいた。
水密扉。
潜る前に、山路は3隊の全員に声をかけた。
「俺は仙崎と吉岡をよく知っている。あいつらは、諦めない。だから、必ず生きている。助けるんだ、俺たちで」
生きている。
4人は必ず、生きている。
だから、助け出す。
自分たちには、差し伸べる腕があるから。
爆発を繰り返すくろーばー号を見ながら、全員撤収命令を聞いた時、山路は自分の体温が下がる思いがした。
潜水をすると告げたまま、帰って来ない大輔の答え。
誘爆を続ける195台の車。
だが、どうしても、大輔と吉岡が死んだとは思えなかった。
生きている。
まるで呪文のように、その言葉を呟けば大輔と吉岡の命がつなぐことができるかのように、山路は決して口には出さずに呟いた。
そして、告げられた撤収命令。
最後まで抗する機救隊の北尾隊長の言葉は、山路の思いと同じだった。
それでも、撤収命令は撤回されず。
支援船の上で山路は、ただ見つめていた。
くろーばー号が4人の命を包んだまま、沈んでいくのを。
「あの、山路隊長…」
いつの間にか、険しい表情をしていたようで、声をかけてきた隊員がおっかなびっくりで呼びかけている。山路はすっかり跡になってしまった眉間を軽くもみしだいて、
「どうした?」
「あの…ちょっと資材のことで」
「ああ」
資機材倉庫を出た頃には、夕暮れが迫っていた。
すぐ隣の航空基地に帰着するヘリの、ホバリングの音が聞こえてくる。
山路は空を紅く染めている夕日を、まぶしく感じながら見つめた。
昨日も、綺麗な夕日だった。
そして、くろーばー号が沈んだ頃に、夕日も海の彼方に沈んだ。
僅かな残光の中で、山路はトランシーバーに叫んだ。
救助をしたいと。
自分たちはそのために来たのだと。
トランシーバーの向こうで、かつてのバディである下川がどんな表情でそれを聞いているか、分かっていたけれどあえて語気を荒げて言った。
助けを求める者がいて、
助けることが出来る者がいる。
だから、助けたい。
「山路隊長………」
振り返れば、夕日の逆光で誰かが立っているのはわかったが、それが誰かは分からず、山路は眉を顰めながら問う。
「誰だ?」
「………ひよこの三島です。あの…一つ聞きたいことがあります」
「なんだ」
「俺は………悔しいんです」
何もかも、全てを省略した言葉だった。
だがそれでも山路は理解して。
苦笑しながら、三島の横を通り過ぎようとする。
ひよこ隊である限り、喩えトッキュー隊であっても海難救助に赴くことはない。
4ヶ月の厳しい訓練を乗り越えて、載帽式を終えて、隊に配属されたトッキュー隊員だけが海難救助に赴くことが出来る。
かつての山路もそうだった。
歯噛みする思いで、ヘリに飛び乗る隊員たちを見つめた時期があった。
だが、それすらもトッキュー隊ではひとつの経験なのだ。
「三島、待つことも大事だ」
「はい………」
「俺たちにとって、一番辛い時間だがな」
「………………」
「その分、待つ時間に出来ることもある。何ができるか、考えろ」
瞠目して顔を上げた三島を、山路は微笑みながら見て、軽く肩を叩いた。
「お前はまだ、何もしていない。なのに、悔しいというのはおかしくないか?」
ゆっくりと通り過ぎながら、山路は言う。
「やることは山ほどある。悔しい、大輔の手助けをしたかったと思う前に、お前にはしなくちゃいけないことが山ほどある。それを忘れるな」
「はい!」
覇気のある返事に山路は再び笑った。
確認するまでもなかった。
三島が、大輔の同期だと、最初の一言で気づいてしまった。
大輔、いい仲間を持ったな。
テレビの中で、安堵の笑いを浮かべている大輔を見て。
3隊の『救助』に沸き立つ仲間の中で、三島だけが大輔を見ていた。
大輔が助かったことに心から喜んだ。だがその一方で、機動救難士として自分よりも早く現場に出て、救助を行い始めた大輔に羨望の眼差しを向けていた。
羨ましい、と思った。
悔しい、と思った。
それは大輔に向けられた悔しさではなく、大輔を手助けできなかった自分に対する悔しさだった。
その思いを、きっと出動した山路なら分かってもらえると思った。
山路は分かっていて、三島にその先まで思いを促させた。
そうだ。
自分が、特殊救難隊員としてすべきことは山ほどある。
羨ましいとか、悔しいとかそんな感情に押し流されている暇はないんだ。
やらなければならないこと。
覚えなければならないこと。
身につけなければならないこと。
山ほどあるのだ。
「よし」
小さく自分に気合いを入れて。
三島は顔を上げた。
夕暮れは既に紅色を無くし、ぬばたまの闇が忍び寄り始めていた。
そんな空を見上げて、三島は呟く。
遙か南で、友が空を見上げていることを期待して。
「仙崎……俺もやるよ」
大輔が見上げる鹿児島の空より、遙か彼方。
羽田の空を、二人の男が見上げていた。
自分たちが差し伸べた腕を。
これから差し伸べる腕を。
思い描きながら。
end...
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