雨が降る。
止まぬ雨が、少年の心に。
雨が降る。
氷雨が、少年の身体を冷たくしていく。
何も無い、河原。
立ち尽くす少年の耳に、雨音と川のせせらぎ以外の音が届く。
河原の石を踏みしめる音。
そして、少年の上に降り注ぐ冷たい雨が、止んだ。
自分に誰かが傘をさしかけたのだと、わかった。
「一護」
静かな呼ばわり。声の主は自分の叔母だとわかっているけれども。しかし少年は答えない。
力なく項垂れて、足元を見つめている。
「一護」
「………なに」
「そろそろ帰ろう」
囁くように告げられて、一護は顔を上げた。
答えも囁くような声だった。
「なんで」
「………濡れたままだと、風邪を引くから」
ふわりと、肩にかけられたのはタオルだった。
一護は顔をあげて、タオルを肩にかけた相手を見上げた。
「風邪……」
「うん」
「そう、だよね」
『まあ、一護。傘は? 忘れたの? 早くお風呂入っちゃって! 風邪ひくから』
そうにこやかに言いながら、自分を浴室に押し込みながら、母は楽しそうに微笑んでいた。
『まったく、一護ったら。どうせ傘を誰かに貸してあげたんでしょ? たつきちゃん?』
風呂上りに、優しく自分の髪を拭いてくれた母は。
もう、
いない。
いない、のだ。
一護は喉の奥と目尻が熱くなるのを感じて、再び項垂れる。
「一護」
優しい呼ばわりが頭上から聞こえてきて。
やがて冷え切った自分の身体が、暖かく包み込まれるのを感じた。
「大丈夫。お前はきっと強くなれるよ。真咲さんがずっと傍にいるんだから」
「…………」
声を殺して、泣いた。
宥めるように、背中を軽く叩いてくれるその優しい手に、一護の涙は止まらなかった。
優しい手の主は、優しい声で一護に言う。
「大丈夫。真咲さんはお前を守ったのよ。だから……お前はいつか私が言ったように、守りたいものを守れるように、強くなりなさい。身体だけでなく……心もね」
雨が降る。
止まない雨が。
母を亡くした少年の心に、癒えない疵を与えて。
黒崎一護、6歳の秋。
母・真咲の死が、一護の心に、止まない雨を降らせつづける。
バスルームに甥を放り込んで、玄鵬千早は小さく溜息をつく。
兄の妻の死。
想像もしていなかった。
千早が駆けつけたときには、既に警察から真咲の遺体は返還されていて、焦燥しきった兄の一心が、心ここにあらずの微笑で出迎えてくれた。
『…すまない』
それは千早に手数をかけるという意味だったのだろうか。
兄の妻、真咲には一人も身寄りがなく、現世の習慣に決して精通しているとはいえない千早は慌てて、浦原喜助に連絡を取った。
喜助の対応は早く、手配してくれた葬儀社がてきぱきと準備を整えてくれている。
そんな中、甥の姿が見えないことに気づいた千早だった。
真咲が死んだという、その場所。
雨がそぼ降る河原で、呆然と立ち尽くす、少年。
その哀れさに、千早はただ目を細めることしか出来なかった。
「……千早」
呼ばわりに振り返れば、憔悴した表情の兄がようやくの体でそこに立っていて。
崩れるようにその場に座り込む。
「一護が、手数をかけたな」
「このくらい」
「……すまねえ」
深々と頭を下げるその様子に、千早は静かに言った。
「兄上」
「……なんだ」
「真咲どのは、一護を庇ったようだと」
それは一護を迎えに行った、河原近くを浮遊する整の魂を捕まえて、問いただしたことだった。
近くで交通事故を起こし、自分だけが死んだという男は少し恨めしそうに、千早を見ながら。
『そいつは、最初ガキを狙ってたんだよ。だけど、ガキが飛び込んできたのを、母親か? あれが抱きしめて、自分が身を投げやがった。すげえナイスなタイミングだったぜ? まあ、おかげであのガキ、助かったんだろ?』
「そうか……」
「真咲どのは、何も知らなかったのよね? 兄上」
「ああ。教えなかった。俺が……この世界の人間じゃないってことだけは教えてた。ただ、それ以上は心配させることはないと思って」
あとは声にならず。
一心は震える喉を、頬を伝う涙をそのままに、項垂れる。
自分がこの世界の人間ではないと彼女に告げたのは、結婚する前。
きょとんとした表情でその言葉を受け入れて、真咲は笑んだ。
あなたが幽霊でも宇宙人でも、私はあなたのことが好きよ、一心さん。
黒崎一心が、この世界にいるのには理由がある。
だがその理由は知らないまま、妻は死んだ。
「情けねえ……愛した女一人守れなくて、何が…何が『隊長格』だよ……」
「兄上」
敵を倒さなくてはならない。
それが一心の存在意義だ。
そのために、戦ってきた。これからもそうだ。
だけど戦っていた相手より、ずっとずっと矮小な、力の弱い敵が、妻と息子を襲うなど一心は思いもしなかったのだ。
「………兄上」
項垂れる一心のうなじを見つめながら、千早は言う。
「一護が、狙われたのだと分かった以上……こちらに残しておいていい…のかな? 霊圧の強い者、特に子どもが狙われるのは間違いないことだし…。一護、遊子、夏梨が狙われるのは」
目に見えている。
続く言葉を、千早は飲み込む。
悲嘆にくれる兄に、一層の決断を迫るのは得策ではないように思えた。
子どもを、守るために。
父親から引き離す、ことになるかもしれない、などと。
「そう、だな……」
千早の飲み込んだ言葉は、憔悴しきった一心には思い至らなかったようで。
「そうなのだが……母親を亡くしたばかりの、特に一護はどうだろう」
「少しは、時間が必要かな」
バスルームに視線を映すと、リビングにのっそりと入って来る黒い礼服の男が目に入った。幾分伏せがちなその視線が、ゆっくりと千早と一心をとらえて。
「黒崎さん……このたびは」
正座し、深々と頭を下げた男に、一心は鼻をぐずつかせながら、返した。
「手数をかけちまったな……喜助」
「いいえ、こういう時は助け合いですからね」
いつものような飄々とした口調ではなく、沈痛な面持ちで紡がれる言葉は労わりの言葉。
「まさか、真咲さんがこんなことになるんだったら…正直、尸魂界移住を本格的にお勧めしてた方がよかったのかな、と今は思うばかりなんですけど」
さらりと告げられた言葉の、しかし千早の話に繋がる内容に一心は顔を上げた。
静かな、淡黒翠色の双眸がまっすぐに一心を見つめている。
「………引き上げろと?」
引き締まる、一心の表情。
千早は内心だけで溜息をつきながら、立ち上がった。
「千早さん?」
「一護を風呂に放り込んだままだから。寝かせてくる」
子ども部屋に静かな寝息が立ち始め。千早はひそやかに安堵の溜息をつき、一護がはだけた布団をかけなおして、すぐ脇に眠る双子の幼子たちの様子をうかがう。
幼いゆえに、兄の一護ほど母親の死を受け止めきれず、いつものようにあどけなさを振りまく双子ほど、哀れさを招くものはない。
千早は夏梨の頬をそっと撫でる。
「………寝ましたか」
ひそやかにかけられた声に、千早は頷く。
「泣き疲れて、というべきかな」
喜助はそっと一護の顔を覗き込む。
薄明かりの中、目尻にわずかに輝きを見つめて喜助は目を細めた。
「………こういうのは、アタシ、子どもいないからわかんないですけど……あんまり好きじゃあないですね」
「喜助、ちょっと」
子ども部屋のドアを閉めて、千早は喜助に問う。
「兄上は?」
「町内会の人たちが来たみたいで、そのお相手してますよ」
「……そろそろ葬祭センターとかに移る時間でしょ。今、あの子達を動かしたくはないんだけどね」
「このまま、連れてっちゃいます? 尸魂界へ」
にへらと笑う喜助を睨みつけて、千早は厳しく低く、そして短く言い放つ。
「……まったく」
「……冗談ですよ」
「冗談でも、程がある。昨日今日のことで、兄上を混乱させるなんて。誰もが思うていたこと、なんて兄上を追い詰めてなんになるのよ」
「あ〜」
千早はできるだけ静かに階段を下りながら、ふと足を止める。
狭い階段で足を止められたら、喜助も止まらざるを得ない。
少し不貞腐れたように、喜助は言った。
「だから、アタシ、言いましたよ? 自分がここに住んでもいいって」
「………は?」
「だから、アタシの部屋さえ用意していただけるんだったら、住んでもいいって」
一緒に住んだとて。
それが何の解決になるのか。
幾段か、自分より低い場所から冷たい視線を注がれて、喜助は珍しく整えていた灰白色の髪をがしがしと自分の手で乱して。
「まあ……それがどういう解決になるか、なんてわかんないですけど」
「何の解決にもならない、と思う方が正解だとは思うけどね」
冷たい言葉に、喜助はがっくりと肩を落とす。
「そうっすよねぇ〜」
「どうせ、兄上も丁重に断ったでしょ?」
少し苦笑交じりの言葉に、喜助は溜息混じりに頷いた。
「精神衛生上、良くない気がするって」
「あはは」
乾いた笑いを残して、千早は階段を軽やかに下りた。
「やはり、兄上は兄上だね」
ガシン。
重い金属の扉が下りて、斎場の職員が手馴れた様子で、扉の前に真咲の遺影を置いた。
「ご遺族の方はこちらへ」
職員の誘導に双子を抱えた一心と、喜助が続いた。千早も続こうとして、立ち止まったままの一護を見つけた。
「一護」
促すが、一護は一瞬千早を見たけれど、すぐに視線を戻した。
母の遺影に。
満面の笑みを浮かべて、こちらを見つめている真咲の写真。
亡くなる1週間前に、一護と撮った写真が残っていた。
『いいお写真ですね』
葬祭会社の職員がそう誉めながら、真咲の顔の部分だけを切り取って、喪服の写真ときり合わせるのを千早は黙って見ていた。
そして、一護も。
「一護」
「……母さん、燃やしちゃうんだ」
「そう」
「千早姉…燃やさないといけないのかな」
ぽつりと呟いた少年の言葉に、千早は目を細めて告げた。
「あれは、形に過ぎない…もう、あの亡骸の中に、真咲さんの心はないんだよ」
「心?」
初めて聞く言葉に反応するように。
不思議そうに、光の反射によっては髪と同じように黄橙色に見える双眸がまっすぐに千早を見つめる。
「そう。心。真咲さんの心は……ここに」
千早は優しく、優しく、一護の胸に触れる。
暖かく。
まだ幼く。
千早の広げた手にその胸は、納まる。
「ここに、残していったから」
「残す……?」
「守りたいものを、守ったから」
「……守りたい、もの?」
「そう。一護だよ」
とくん。
とくん。
掌を通じて伝わる、少年の鼓動。
きっと母は、分からずに。
ただ無我夢中に、飛び込んだ。
我が子の生命の危機を敏感に感じて。
守れるか、守りきれるかという問題ではなく。
自分の生命の危機の問題でもなく。
自分が如何に行動するか、それが大事なのだ。
自らの胎内で十月十日、育ててきた生命。
これからも変わらず、愛し、育てていくはずの生命。
愛おしみ。
慈しみ。
そんな生命の危機に、身を投げ出さないことなんて、出来ようか。
千早は思いを馳せる。
我が子の、ことを。
いまや自分の足で歩き始めた、少年のことを。
ゆっくりと抱き寄せた、一護の身体は温かく。
そして、涙を堪えるように僅かに震えていて。
千早は静かに、一護の耳ではなく、身体に言い聞かせるように言った。
「ねえ、一護。双子が生まれたときに言ったよね。今日からお前がお兄ちゃんだから…守ってあげなくちゃいけないって」
「うん…」
「真咲さんがいないから、少し大変になるけど…頑張りなさい。守ってあげるのよ、遊子と夏梨を」
「うん…」
「先に生まれた者の、それが定めだよ」
手の中のものを握るのは、新生児の条件反射だ。
だが、千早はあえてそれを教えず。
目を輝かせて、一気に二人生まれた妹を目を輝かせて見つめていた、一護に言った。
『ほら、お前を求めてる。お前はこんな小さな命、守れるかい? 真咲さんの手助けをして、今日から守ってやるんだよ?』
『うん!』
満面の笑みで答えた一護の顔は、確かに、兄の顔で。
「千早姉」
「ん?」
「僕、強くなるよ。遊子と夏梨を守れるくらいに。泣かせたり……しないように」
「……そう」
「きっと、守ってみせる」
強い決意をその幼子の表情に見て、千早はゆっくりと笑みをこぼした。
そして、一護の頭をぐしゃぐしゃに撫でる。
「うん」
そして、時は流れる。
現魂界で生きる黒崎家にも。
尸魂界で生きる千早にも。
等しく、時は流れて。
尸魂界で、小さな小さな事件が起こった。
それが、尸魂界、現魂界、いずれをも揺るがす擾乱の緒となることに、ほとんどの者が気づかない。
そう、僅かな者だけが、その事件の先を見つめていた。