fragment2 - 01





かつて、その至上の処に座した者は、尸魂界開闢以来わずか、四名。
その名を、霊王。
尸魂界を治める者であり、その他の世界との均衡をはかる者。
峻至園に聳え立つ霊王廷の最奥にひそやかに刻まれた四名の名。
此度、五人目の名が刻まれる。
その名は、黒崎一護。
四代霊王長逝、2150年の時を経て5代霊王の治世が始まろうとしていた。






「よし、じゃあ行こうか」
「はい」
千早が辺りを見回した。
見送りに来たのはわずかな数。
玄鵬一統の重鎮である山本、安芸津の姿はない。待ち受ける儀式の多いこと、準備に時間などなきに等しい。千早も見送り不要と告げていたから、重鎮の中でただ一人、遵凍が弟・春水の肩を借りて立っていた。
「千早、頼んだぞ」
「うん。まあ、迎えに行ってくるだけだから。穿界門の中で襲われたりしない限りは、大丈夫だと思うけど」
「うちも狛村隊長たちが準備出来次第、送り出すからね」
春水の言葉に千早は頷いた。
「2日目の昼には向こうを発つつもりだから、それまでに」
「ああ」
「遵兄、一兄になんか伝言、ない?」
「………ねえ」
「わかった、元気な顔を早く見せろって伝えればいいね」
「おい、千早!」
少し慌てて千早を呼びとめる兄を、意外そうに見て春水が小さく呟いた。
「こんな兄貴…」
「母上、そろそろ」
「うん。じゃあね、遵兄」
先ほどの言葉などなかったように告げられて、遵凍は小さく溜息を吐いた。
「まったく……気をつけて行って来い」
穿界門に千早と理靜の姿が消えて、春水が思わず吹き出した。遵凍がジロリと睨んだ。
「なんだ、春水」
「いやあ、兄貴の慌てるとこなんか見たことないなぁと思っただけで」
「……あいつにはいつだって慌てさせられてばっかりだ」
ふうと溜息を吐き出して、遵凍は踵を返した。
「帰るぞ。俺たちにはまだ、やることがある」






「いらっしゃ〜い」
やけに楽しそうな歓迎の言葉に、理靜が顔だけ逃げながら、
「喜助さん」
「はいはい、なんですか?」
「……とっても楽しそうですね」
「ん? そりゃあね、いろんなことがあったからね」
鼻歌でも歌いそうな喜助の背中に視線を送って、理靜はボソリと声を上げた。
「崩玉の隠し場所、間違えてなかったらこんなことにならなかったんですけどね」
「…うわあ、それってすごいツボ。きついっすよ、理靜くん」
わざとらしく胸を押さえる喜助を追い越して浦原商店に入る理靜に、喜助は静かに問う。
「千早さんが来ないはず、ないですよねぇ?」
「母上なら、竜弦くんのところですよ」
「ほ?」
「………どうしても、直接渡さなきゃいけないものがあるんだそうです」






「久しぶり。大きくなった…とはこの場合は、いわないか」
「当たり前だ。普通は言わない」
クリスタルの灰皿にタバコを押し当てて、竜弦は睨みつけるように千早を見た。
「何の用だ」
「あら、冷たいこと」
上品そうに笑ってみせて、千早は袖で口元を隠した。
「用事があるなら、さっさと済ませてくれ。こっちは午後からの回診がある」
「そう、じゃあさっさとね」
突然の来客の報せに、竜弦は眉を顰めた。
受付に問えば、受付の女性も困ったように、
『あの、玄鵬さまと仰る女性の方です』
それを聞いては無碍にも出来ず。
竜弦は憮然とした顔で、見た目30代の上品そうな和服美人の千早を迎え入れたのだ。
「これ。渡した方がいいと思って」
縮緬で彩られた筥迫を袷から取り出すと、千早はその中から何か長いものを引っ張り出し、灰皿の横に置いた。
「覚えてるでしょ?」
「………ああ、忘れようもないものだな」
竜弦がそれを持ち上げる。
銀で作られた、滅却師の力の源であり、誇りとする装身具。
竜弦の手の中に収まるほどの大きさのそれは、その名もクインシー・クロスと呼ばれるものであり、竜弦は持ち主が誰かを知っていた。
クロスを裏返せば、持ち主の名前が彫られていた。
「……石田宗玄。やはり父のものか」
「ええ。尸魂界にあったものよ。あなたに返しておかなくてはと思ってね」
『儂はお前こそが、これを受け継ぐに相応しいと考えているのだがな』
『止めてくれ、父さん。僕は滅却師にはならない。もう……決めたことだ』
『そうか』
『最近、雨竜を連れ出して滅却師になるように訓練しているみたいだけど。無意味なことは止めてほしいな。子供の夢を壊さないでくれないか』
息子の言い様に父は少し悲しげに眉を顰めて。
『夢を壊す?』
『確かに世界を守って、虚と戦うというのはすばらしい大義名分だ。だが、実際は? 滅却師はもう石田家しか残っていない、尸魂界は救援を出すはずもない。孤立無援とはよく言ったものだ。虚は滅却師が倒さなくても、死神が倒してくれる。だったら……死神に任せればいいじゃないか』
『竜弦……』
『俺たちは人間じゃないか。人間の寿命なんて、尸魂界のそれに比べたら、遥かに短い。死神が虚を倒すことを引き受けてくれるなら、それでいい。俺は……』
竜弦は溜息を吐きながら、言った。
『俺は、滅却師にはならない』
『竜弦……』
あの時、父の手の中にあった銀色に輝いたものが。
今は自分の手の中にある。
「……どうして、これが尸魂界にあったんだ」
低い声に、千早は目を細める。
自分が成したことではない。
だが、尸魂界の一人がしたことは、竜弦にとっては尸魂界の接点である千早も同罪だ。
千早はそれを理解していた。
「宗玄さんの魂魄を、宗玄さんの望まない形で尸魂界に留めていた者がいたの」
「……言葉を濁すな」
「そうね。滅却師は今となっては珍しいから、興味深い対象であった…とだけ言っておくわ」
千早の言葉に竜弦は眉を顰めて、
「………魂魄に手を加えたとでも」
「その者には相応の処分を加えたわ」
「………………それで許されるとでも思っているのか」
孤立無援と竜弦が卑下したように、父の窮地に死神は間に合わなかった。
その上、その魂魄までも汚したというのか。
千早は一瞬黙って、
「許さない?」
「…………当たり前だろう」
「そうね。雨竜くんも同じことを言っていたわね」
竜弦がじろりと千早を睨む。千早は静かに続けた。
「その彼と戦ったのも、雨竜だけど」
「……勝ったのか」
「ええ」
「……そうか」
中途半端に宗玄の師事を受け、決して自分に師事を請わなかった息子。
寧ろ忌み嫌うように、今ではほとんど接点を持たない雨竜が、昨夜不意に竜弦の前に現れて、
『父さん。僕は力を失った……もう取り戻す手段はないのか?』
息子の言葉に、竜弦は応えた。
「滅却師は、続いていくのね。よかった、あの時宗玄さんが言っていた言葉が実現するのね」
千早の言葉に竜弦は眉を顰めた。
「あの時?」
「ええ。最期、昇華されていく中で宗玄さんは言ってたわ。滅却師は続く、竜弦、雨竜と続いていく。必ず、続くって」
父の魂魄は二度と会うことはない。
だが、残された言葉に竜弦は小さく笑った。
「何もかも、父さんの思うとおりか…」
「そうかしら」
「だけどな、これだけは言っておく。俺は滅却師であることを明かさない。未来永劫だ。それは尸魂界に利用されて死んでいった石田宗玄の息子としての、意地でもある。だから更臨したという霊王など認めることはない」
「………そう」
返事の中に、落胆を感じて。
すぐに竜弦は言葉を紡いだ。
「だけど、滅却師を名乗る雨竜がどうするかはあいつ次第だ」
千早が驚いたように顔を上げれば、竜弦は新しいタバコを口にくわえて、小さく笑った。
「まあ、滅却師としての能力をほとんど失ったあいつに、何を期待するか、だけどな」






空座総合病院を出て、千早は溜息を吐きながら振り返る。
巨大な病院。
石田宗玄がこの病院を立ち上げた時、千早は一心と共に祝いに駆けつけた。
やがて宗玄が医師職から退き、滅却師に専念するようになった頃、医師となった竜弦がこの病院を継いだ。
『滅却師で食っていけるはずがないだろう? 私は滅却師になどならないよ』
経済的な理由が竜弦が滅却師を拒否する最たるものだったはずだ。
なのに、今日の竜弦ははっきりと尸魂界に対する反抗を理由に挙げた。
父に反発しつづけ、只人として歩むことを望んだ男の、しかし父を受け入れていた事実を千早は少し嬉しく思う。
「…だけどねぇ」
そう。
だが、違う理由で千早の溜息は再び落ちる。
滅却師は存続しなければならない。
この現世に。
支配する者でも、滅却する者でもなく、霊王とともにある者として、だ。
跡を襲わないと宣言した竜弦。
尸魂界での戦いで、滅却師としての能力のほとんどを失った雨竜。
「相変わらず、問題は山積ってことね……」
その時、千早はすばやく振り返り遠い一点を睨みつける。
「……あら、珍しいお客さん」
言い様とは違う言葉は、望まない客人の到来を示していた。






小さな丸薬を口に含めば、何かが自分から剥がれていく感覚。
目を閉じていた理靜はゆっくりと開く。
ちらりと視線を送れば、そこに自分自身が最敬礼の体勢で自分を見上げていた。
「じゃあ、頼む」
「はい」
偽骸を頼むのは偽魂丸と決まっている。
理靜の言葉に、偽魂丸が入った理靜の偽骸は小さく頷いた。
理靜は自分の身体をあちこち動かしてみてから、背後にいた浦原に言った。
「じゃあ、いってきます」
「はいな。偽骸は黒崎さん家に届けておきますから、ご安心を」
「……偽骸をあなたに預けるのは不安ですけどね」
「何を仰る〜」
喜助がけらけらと笑って、
「じゃあ、虚退治、よろしくお願いしますね〜」
「はい」
左手の鸞加を強く握り締めて、理靜は最初の一歩を踏み出す。
みるみる小さくなる理靜の背中を見送りながら、喜助が小さく呟いた。
「まったく、あれが偽骸を初めて抜けて、霊印1個とはいえ入っている動きとはねえ」
喜助はあらぬ方向を見上げて、
「まあ……黒崎さんも動けてるみたいだし、なんとかなるでしょ。あなた」
偽骸の理靜に呼びかけて喜助は言う。
「じゃあ、行きますか。黒崎さん家」
「はい」






「どうかしたか」
空を見上げた息子に竜弦が問えば、眉根を顰めたまま雨竜が応えた。
「なんでもない」
「…死神たちの動きが気になるか」
「………あんたには関係ないことだ」
端的に告げられて、寧ろ小気味良かった。
竜弦は銜えタバコのままに、言う。
「難儀なことだな。霊査能力だけが残り、肝心要の滅却師としての能力、霊力のほとんどを失うとは」
「……嫌味を言いに来たのか」
「ふ」
鼻で笑って、竜弦は続けた。
「お前がそう思うならそれでいい。だがな」
続いた言葉に雨竜は目を細める。
「……なん、だと」
「聞こえなかったのか。滅却師の能力を再び得る方法があると言ったのだ」
くゆらせる紫煙がゆっくりと立ち昇る。
雨竜は、困惑を隠しきれないままに問い掛けた。
「どういうこと、だ」
「それをお前に教えるつもりはない。だが、滅却師の能力、もう一度手にしたいというなら助けてやらぬとは言わない」
その言い様に聞き覚えがあった。
何かを手に入れたければ、何かを差し出せと幼い自分に言ったのはこの父だった。
「何を……望む」
「話が早いな。そうだ。二度と再び死神にも、尸魂界にも近づくな」
関われば、親父のようになるぞ。
そう告げられれば、雨竜の握り締められた拳が白くなる。
「誓え。でなければ、このままだ」
息子の決断は早かった。






左の拳に力を込める。
あっという間に黒く変質していく左手を見て、チャドは目を細めて。
それから、自分よりも遥かに大きな存在に顔を上げた。
数が多い。
見渡せば大きな虚だけで十数体。
だが不安は無い。すぐ近くに背中を任せられる相手がいる。
「チャド」
「遅いぞ、一護」
「すまねえ、なんかあっちこっち一気に出たみたいで」
早口で言い訳をしてから、一護は斬月を正眼に構えた。
「おっし、やるぞ!」






「あら、喜助……理靜じゃないわね。偽魂丸?」
「はい」
息子なのに違和感を覚える理靜の姿に、しかし千早は小さく微笑んで扇子で口元を隠す喜助に問う。
「理靜は行ったの?」
「ええ。夕べ、黒崎さんの霊圧が奇妙に揺れていたことを話している最中にこれ、でしたから。何かあったらいけないって」
「……相変わらず、過保護だわね」
千早が肩を竦めながら、結い上げていた髪を留めていた簪を抜いた。
はらりと落ちる黒髪は背を覆う。
「まあいいわ。今日の理靜は霊印1個だから、なんとなるでしょ」
「……いつも思うんですけど、あなたたち親子は遺魄刀、持ち歩きませんよね?」
それはいざというときの危機管理を問うもので、千早は笑う。
「まあ、ね」
「うわあ、現世くらいじゃ必要ないってことですか?」
「そうは言わないけれど。あなたの紅姫のように隠していないと、現世では刀は違和感がありすぎるでしょう?」
「そりゃそうですけどね」
喜助の斬魄刀、銘を紅姫。それを喜助は常に手にしている杖の中に仕込んである。だがそれほど頻繁に現世にいるわけではない千早がする必要もないし、まして偽骸に持たせる意味もないのだ。
「現世で刀持ってたら、法律でつかまるんじゃなかったけ?」
「そういや、そうだった」
「それよりも、一護の霊圧が揺れたって?」
「ええ」
喜助はこくりと頷いて、先ほど理靜に説明したのと同じ内容を繰り返した。
「どういう、ことですかね」
「……内なる虚を、恐れてというべきかしら」






『千早どの。霊王の内なる虚、あれは危険だ』
旅立つ少し前に訪れた綜合救護舎で、白哉がゆっくりと紡いだ言葉に、千早は冷静に応えた。
『危険、とは?』
『霊圧はあがる、もちろん戦闘能力も上がる……だが』
『理性を失う?』
『そのようなものではない』
一瞬にして剣を交えていた一護の戦い方が変わった。
哄笑しながら、心底戦いを楽しむような恍惚の表情に、戦慄したことを覚えている。
古より、伝えられる。
魂魄には限界がある。
その強さを求めるには、魂魄という器は脆いのだと。
魂魄という器が壊れた時、人は変質する。
『とはいえ、霊王ほどの霊圧を抱えていると、必然的に内なる虚がいることは避けられないのよね』
『だが』
『とはいえ、内なる虚を鎮める方法なんて誰にもわからない』
『………』
『それは一護が自分で見つけないといけないこと』
『随分と、信頼しているのか。それとも放任しているのか』
立ち上がった千早に白哉は呆気に取られながら言った。
この女性は昔からそうだ。
掌中の珠であっても、あっけらかんと無造作に放り出す。
本当に執着するということがあるのかないのか、よく分からないときがある。
千早は満面の笑みで応えた。
『もちろん、我らが霊王陛下じゃない。信頼しているに決まってる』






「じゃあ、何っすか。霊王陛下は只今模索中ってことっすか?」
「じゃないかな。ちょっと考え中でしょ」
「………考えて答え、出るもんすかねぇ?」
「出ないと思うわよ」
あっさりと否定してみせて。
千早は小さく溜息を落として。
「怖いのかな」
「……怖い?」
「うん。内なる虚、得た力、急激な環境の変化…」
喜助は肩を竦める。
「そんな繊細っすか? 黒崎さん」
「繊細とか図太いとか関係ないよ」
ただ、受け入れたものの大きさに少し戸惑っているだけだと思う。
だからこれから。
これからなのだ。
黒崎一護、という人物は。
千早の言葉に、喜助はもう一度肩を竦める。
「ま、要するにお父さんの気持ちで見守ろうってことっすね?」
「……それ、一兄の前で言わない方が喜助のためだね」




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