左拳を強く握り締める。
それだけで、左手は力を得る。
黒白に彩られた、巨大な拳に変化していく。
チャドは自らの拳を振るうのは、一護を守る時だと決めていた。
一護がルキアを助けたいから尸魂界に向かうと聞いた時、自分も行くと願い出た。
だから一護が斬月を構えても、顔を抑えて崩れ落ちた時、迷いなく一護の前に出た。
「…チャド」
「大丈夫か、一護」
「あ、ああ……」
肩越しに見た一護の顔には傷もなく、チャドは安堵する。
怪我したわけではない。
遅れて駆けつけてきた織姫にチャドが静かに言う。
「井上、一護を」
「あ、はい!」
「大丈夫だ」
「うん」
チャドの静かな言葉に、緊張した面持ちの織姫が力強く頷いた。
「黒崎くん」
「……大丈夫だって」
「大丈夫って」
膝をつき、険しい表情の一護を見れば一護の言葉を信用してはならないと織姫は思った。
「駄目」
「くそ!」
「どこか痛めたの?」
ざっと見回したけれど、一護が怪我をしている様子はない。なのに苦しそうに肩で息をしている。織姫は思わず言う。
「もしかして、尸魂界でどこか怪我してたの?」
「全部井上が治しただろが」
「そうだけど」
斬月に寄りかかりながら立ち上がろうとする一護の身体を支える。
寄りかかってはいるけれど、その力強さはいつもと変わらない。
「……黒崎くん」
「チャド! 代われ!」
ちらりと視線だけで振り返ったチャドは無言のまま、再び背を向けて目前の敵に向かう。
大した敵ではない。
咆哮する様子から見ても、尸魂界で見たギリアンクラスよりも遥かに低いレベルの虚。チャドが気合一閃、左拳を唸らせただけで虚は消滅した。
それが昨夜、夜明け直前の頃のこと。
「数ばっかりは多いんだけどな」
一護がうんざりしたように言う。決して眼前に広がる光景から視線を外さないままに。
チャドはわずかに一護に視線を送り。
「一護」
「あ?」
「身体、大丈夫か」
「……ああ」
「霊王とか言うのになったことと関係あるのか」
「…さあ、ねえと思うけどな」
一瞬の逡巡が一護の迷いを示しているようだった。
だがチャドはあえて指摘せず、左拳に力を込めた。
「行こう、一護」
「いや」
一護が一歩足を踏み出し。
一護の言葉に、チャドは一瞬瞠目する。
「な、んだと…?」
「ここは俺がやる。チャドは下がっててくれねえか」
「……一護」
「大丈夫だ、俺だけでも倒せるから」
それは。
一護にとっては何気ない言葉だった。
だが、チャドにとっては。
「……そうか」
「おう。井上も来てるみたいだけど…まあ、俺でなんとかなるだろ」
飄々と告げる一護にチャドは黙って、場所を譲った。
「……では、頼む」
「ああ」
任せろと、満面の笑みの一護はチャドの少しだけ複雑な表情に気づいただろうか。
いや、気づかなかったからこそ、チャドがその場を離れたことも気づかずに戦い続けたのだ。
そして不意に訪れた、あの感覚。
『なんだよ、楽しそうじゃねえかよ』
「く……」
『俺も交ぜろや』
心の中から、魂魄の中から染み出すように一護の耳元に囁く、低い声。
嗤う時だけ、高い声の主は中から一護に囁くのだ。
『なあ、俺も交ぜろや。いや、俺がやった方が早く済むぜ?』
「誰がお前になんかに!」
強く否定した時、声があがった。
「黒崎くん!」
慌てて顔を上げれば、見慣れた濃茶の長い髪がふわりと視界を覆って。
「……え」
「井上!」
続いた鈍い音と、血臭に一護は状況を把握する。
虚から視線を離した自分に虚が攻撃したのだ。それを庇うために、織姫が双天帰盾も出さずに飛び込んだのだ。
「くそ!」
織姫を攻撃した虚と目だけは合った。
人の姿を取れない、咆哮だけが内臓を震わすほどの威圧感を招く虚。
足が、動かない。
虚の方向や威圧感ではなく、自分の中の存在と自分の言い争いが身体に現れたのだ。
虚が振り上げた手を振り下ろす。
その先には、一護ではなく倒れ付した織姫。
「いのうえ!」
「疾く舞え、鸞加」
そして吹きぬけた風。
続いたのは虚の絶叫。
一護は瞠目する。
振り下ろされた虚の手は、そこにはなかった。
立っていた男の名前を、一護は無意識の内に紡いだ。
「……理靜」
「まったく、何してるの? これぽっちの虚に織姫ちゃんやチャドくん、巻き込んで」
あきれ返ったような口調、小さく溜息を吐きながら理靜は左手を一閃させた。
再びの咆哮。
だがそれは断末魔だった。
あっという間に虚の姿が砂と消える。
数だけは多かった虚の数も、理靜がうんざりした表情を浮かべながら、何気なく振るっているように見える銀の刀身を受ければ、数瞬後にはわずかとなっていて。
理靜はぐっと左拳を握りしめ、わずかに懐前まで押し戻す。
「天に向かいて五音を重ね、地に向かいて七羽を朱に染めよ、鸞加」
それは霊圧の爆発だった。
一瞬にして、その霊圧に虚は動けなくなる。
それは一護も同じこと。背中にのしかかる重い空気をなんとかしのごうとするけれども。
「く……」
理靜の左手に巻きつく銀色の刀身は一瞬にして輝き、理靜の左肩までを美しさすら感じる細い刀身を解け合わせ、覆っている。
理靜はそれを一振り振ってから、
「終わったかな」
周囲を見渡せば、虚の姿はどこにもなくて。
あっという間の脅威の喪失に、一護は呆然とすらしてしまう。
「一護、大丈夫? 怪我は」
「あ、ああ……してない」
「そう」
尸魂界だったら、真っ先に自分に手を伸ばす理靜がゆっくりと駆け寄ったのは横たわる織姫の元だった。それを見て、一護は状況を察した。
「井上!」
「織姫ちゃん。痛みはあるね?」
「…え、ええ……」
「分かった。じゃあ少し上体を起こすからね。苦しかったり痛かったりしたら言って」
「はい……」
駆け寄ってきた一護に、織姫の上体を起こすように促して、理靜は鸞加の切先を織姫の額近くまで寄せて。
「天に受けし恵みの雨を地に落とせ、鸞庇慈雨」
密やかな呼びかけに、鸞加はぼんやりと輝き、その輝きはやがて切先から織姫の額に落ちていった。
「う……」
小さな呻き声に一護は慌てて織姫を覗き込む。
「大丈夫か、井上」
「うん。大分楽になったよ」
さっきまで会話もままならなかったのに、よく見れば、肩口から無残に抉られていた傷は新しい出血が見えない。
一護が理靜を見れば、理靜は安堵の溜息を一つ落として。
「よかった。鸞庇慈雨はもともと鸞加が持っている治癒の力だから。とはいえ、織姫ちゃんの盾舜六花のように完全な治癒にはならないけど……ああ、喜助さんが近くにいるからね。治療をお願いしてみよう。一護」
「おう」
織姫をかかえ上げようとした一護を、理靜が静かな声で制した。
「違うよ。織姫ちゃんは僕が連れて行くから」
「……俺じゃあ信用ならねえか」
「そういう問題じゃないよ」
理靜は一歩下がった一護の代わりに、織姫の下に膝をついた。気が付けば、肩まで覆っていた鸞加は普通の斬魄刀のように姿を変えていて、理靜は膝をつきながら、鸞加を鞘に収めた。
「よし。じゃあ、一護は家に。母上が向かっているから」
「………わかった」
答えは明らかに不満げで。
理靜は内心だけで苦笑しながら背を向けた一護に呼びかけた。
「一護」
「……おう」
「内なる虚は、一護になんて言ってる?」
「………代われって」
「そう」
「………俺は俺じゃなくなるのか」
それは自問だったのか、あるいは理靜に対する問いだったのか。
理靜は自分への問いだと思った。
気づけば胸に抱え上げた織姫が理靜の胸元をしっかりと握りながら一護の後姿を見つめていた。
「違う」
理靜の答えは明確だった。
「一護は一護だ。それ以外の何者でもない。内なる者にその場を譲るのも、譲らないのも一護の選択だよ」
「………」
「そして、一護が選んだ答えが一護の、僕たちの選択だから」
理解しがたい答えに、一護が視線だけを理靜に送った。
理靜は節目がちに笑って見せて。
「あなたの選択が、世界を動かす。そういうものなんだよ、世界の秤を預かる者たる、霊王陛下」
一護は何も応えず。
そのまま、地面を蹴った。
「………」
「黒崎くん、どうなるんですか?」
織姫は、自分を抱きかかえる理靜の美しい横顔を見上げながら問う。
理靜は穏やかに笑いながら応えた。
「一護がどうなるのかなんて、僕らには分からないことだよ。一護の選択が世界を動かすんだ」
「……それって、黒崎くん、とてつもなく大変なんじゃ……」
「霊王っていうのはそういうものなんだよ」
それから理靜は母の言葉を思い出しながら、呟いた。
「そして、支える者が必要なんだよね……」
「え?」
「ん。なんでもない。喜助さんところに向かうからね。僕によくつかまっていてね」
「あ、はい……」
「王属特務?」
「ええ。護廷衆、鬼道衆、隠密機動から独立して動くことが出来る、霊王のための組織として先代霊王のときも結成されたみたいなの。だから一護のために、王属特務を立ち上げようと思っていて」
千早の言葉に、一心は溜息を吐いた。
「尸魂界は藍染の離反で掻き回されて、なかなか波紋を収めることができない、か……」
「それもあるわ」
かつて、藍染慎之介の起した騒乱によって尸魂界、特に瀞霊廷は混乱をきたした。
それを収めたのは未だ幼かった玄鵬千早。
振り返れば強権手段とも言われても仕方ない方法すら用いて、千早は混乱を収めた。そして、強大な権力を得ていた貴族たちの力を削ぎ、一方で玄鵬一統の軍事的結束力を高めることに成功したのだ。
だが、今回ばかりはそれも無理だ。
四面家は五代霊王更臨に至って、すべての権力を霊王に委ねた。
霊王更臨を認めること、それがすなわち瀞霊廷における四面家の支配が終わることを示す。
純然たる上下構造は存在しているけれど、突き詰めればそれも本当は既に無い幻のもの。
だからこそ、こんな時期に一護を迷うことなく現世に戻した千早の英断に一心は頭を下がる思いだ。
そしてその不明瞭な立場の中で、一護を守るために新しい組織を立ち上げるというのだから、一心が詫びを口にしながら頭を下げるのは無理も無かった。
「すまねえ」
「ん? どうしたの?」
千早が小首を傾げる。
「なにかあったの?」
「………ホントは一護がのんびり帰ってきたりせずに、向こうにいねえといけねえんだけどな」
「そうね…本当はそうするべきね」
本当は。
藍染惣右介が何かしてこないとも限らない。
懸案は山ほどあった。
だからこそ、白哉は一護が穿界門をくぐる直前に千早に問うた。
良いのか、と。
「心構えって言ったら、上からの言い方になるけどね。誰かを個人的に救いたい、だけじゃすまない次元になってくるのよ。霊王になればね」
「………」
「だけど、その思いを忘れてほしくもないの。それが一護の原動力だから」
「……真咲、か」
我が子を守ろうとして、弱小な虚に襲われて命を落とした妻の名前を、一心は口にする。
千早は伏目がちに一心を見て、
「万を救うために、一を捨てる。あたしたちの世界ではそれが罷り通る。それに異を唱えるものなど皆無。上から命が下れば、それは絶対不可侵……あたしもずっとそう思っていた」
「…千早」
「だけど、一護は違うでしょ? 現世と尸魂界の違いかもしれないけれど、それでも一護の考え方は今の尸魂界には必要なものよ……きっとね」
唯々諾々と、命に従うのではなく。
自分の信念に従って行動すること。
一護の投じた一石は、尸魂界に静かな波紋を広げる。
為政者である千早は本当はそれを拒まなくてはならないのに。
「いいのか……それで」
「いいのよ。一護の選択が、世界を変えていくのなら。あたしは何も迷わないから」
いいのだと胸を張られては、どうしようもなかった。
一心は再び溜息を落として、
「最初の話に戻るか」
「王属特務ね。どう思う、一兄」
「いいんじゃねえか。だけど王属特務専従なんて数えるくらいしかできねえだろ。俺か、喜助……あいつは駄目か。あとは今度、一護についていった連中くらいか」
「そうね……でも、王属特務がいること自体に意味があるでしょ。霊王更臨、をはっきり示せるじゃない」
「まあな」
「実はある程度の人間を既に選抜しているの。王属特務と言えば、固い言い方だから王拠衆と仮に呼称してるけど」
「……あんまり変わらない気がするけどな」
あははと笑って、千早が言う。
「響きがいいからね。まあ、ほかに呼び方があるならそれにすればいいでしょ……ああ、帰ってきたわね」
千早が二階を見上げたことで、一心が腰を上げて廊下から二階に叫んだ。
「おい、一護! 降りてこいや!」
どんよりと重い空気をまとって現れた一護を、千早は苦笑する。
「うわあ、帰りはあんなに意気揚揚だったのに、どうしたの? このざまは」
「……」
「さっき、霊圧が随分と揺れたわね。制御できないの? 内なるものを」
さらりと告げられた真実に、一護は瞠目する。
「な」
「先に答えを言うけど、内なるものを持つ者なんて少ないのよ。私も持ってないし、会ったのも一度か二度。だから、解決の糸口を私に求めても駄目よ」
「……そうかよ」
「とはいえ、斬月の気配が随分と弱いわね……」
じっと自分を見つめる叔母の視線から逃れるように一護は顔をそむけた。
千早は小さく苦笑して、
「それだけ力が強い故の代償、なんだけどね」
「代償……」
「そうよ。あなたは信じられないほどの速度で、その力を手に入れた。その時、選んだはずでしょ。何かを」
選べ、と言われた。
自分の生き死にか、あるいは誰かを助けるための力か、と。
自分は迷うことなく、力を選んだ。
だが、その先に何があるかは……見えていなかったのかもしれない。
いや、違う。
見たくなかったのだ。
今は、力を手に入れるだけで十分だと思っていたから。
ふわりと、前髪が動いた。
慌てて顔を上げようとすると、叔母の穏やかな表情が自分を覗き込んでいて。
「一護」
「………なんだよ、千早姉」
「私たちが、あなたに無理を強いてきたのは自覚しているわよ。だけどね、だけど……一護」
幼い頃のように、叔母は幾分冷たい手を差し込んでまるで熱を測るように額に手を押し当てた。
一護は苦笑する。
「なんだよ、俺は相変わらずのガキかよ」
「そうよ。あなたはいつまでたっても私の可愛い甥っ子よ」
千早の断言に、一護は再び苦笑するしかない。
「なんだよ、そりゃ」
「だから……本当は……」
「それ以上、言うなよ。千早」
留めたのは、一心だった。
厳しい表情で言葉を止めた千早の両肩をそっと抱く。
「お前の選択を、自分で否定するか? それに、一護の選択も、だ」
「………ええ、そうね」
一心が言う。
「おい、一護。霊王ならしゃっきりしろ、しゃっきり」
「……分かってんだけどな」
一つ溜息を吐いて、一護が言う。
「……井上にも、謝らないといけねえな」
「織姫ちゃんだけじゃないよ、一護。チャドくんにもだね」
4人目の声に、一護は顔を上げた。
「……どういう、ことだ」