輝石 13
賢者の石。
スカーの話によると、それは大地の神であるイシュヴァラから与えられた伝説の万能薬、エリクサヴァラのことを指すのだという。それを作ることができたのは、たった一人。イシュヴァラ神から愛された神官だけであり、その神官こそスカーこと、ジェザームの兄だった。
エリクサヴァラは一滴用いれば、全ての病を治すとされ、実際に神の恵みをイシュヴァラの民、イシュヴァールにもたらした。
ジェザームの兄は、エリクサヴァラを貴賤問わず分け与えた。だがそれ故に同じ神官たちに妬まれて、兄を辱めるために弟ジェザームと、その妻シレリアナは捕らえられ、そして手違いによって殺された。
兄は何とか二人を助けようとして、神から禁じられていた過ちを犯す。
一度に用いて構わないのは一滴のみと決められたエリクサヴァラを一瓶ずつ飲み干させた。
だがその後、兄がどうなったのか、ジェザームは分からない。気付いた時には兄の姿はなく、栄えたイシュヴァールの都は破壊され、荒廃し初めていた。
ただ、兄の声を、言葉を覚えている。
優しく見つめるいつもの眼差しで、兄は言った。
『私は…お前たちに謝らなくてはならない…どうか、イシュヴァールを守ってくれ………………』
砂漠に埋もれ始めた、かつての都の中心でジェザームは震えるシレリアナを抱きしめて、呆然としていた。
まだそのときは、自分たちに起こった変化に気付かずに。
傷を受ければ、すぐに治癒した。
イシュヴァールが嫌う錬金術のようにその物質の構造を理解するだけで、破壊も再構築も思いのままであり。
そして、年を経ることがなくなった。
やがて二人は理解する。
エリクサヴァラを飲み干した後の、イシュヴァールの都に起きた変化を。
それは二人が起こした変化だった。
エリクサヴァラを与えられたことで、二人は意識のないままに、錬成を行ったのだ。
ありとあらゆる、命を。
知人を、友人を、そしてジェザームの兄を。
それらの無数の命は、二人の中で結晶化したエリクサヴァラに封じられた。
そうして、二人の中に【賢者の石】は生まれた。
私たちは、もう厭いたの。
生きることに。
疲れたの…だから、休みたいの。
だけど、お義兄さんの頼みは忘れられない。だから…約束して。
私たちの代わりに、イシュヴァールの民の希望になるって。
紅い目紅い肌をしていても、虐げられない国を作るって約束してちょうだい。
国家錬金術師のあなたなら、できるかもしれない。
ジェザームは国家錬金術師がイシュヴァールの民を殲滅するおそれが出てきたから、たくさんたくさん殺してしまったけれど、あなたには何か違うものを見つけたのよ。だから、きっと手を止めた。
あなたには、罪を知って、新たな罪を犯すことに躊躇がないあなただから、きっと頼めると思ったのよ。
二人は、自らの中から紅い結晶を引きずり出し、姉の掌に乗せた。
姿をゆっくりと消しながら、二人は微笑む。
お前たちは選んだ。
私たちの罪を、自らの罪とすることを。
罪の形は、後悔。
一生悔い改めても、許されることなどないけれども。
だけれども、人は忘れないで、同じ過ちを繰り返させないことができる。
兄が作った賢者の石を、これ以上使わないようにすることも。
「………………そのとき得た賢者の石で、父さんは身体を取り戻した。姉さんは右手と左足だ」
「……父さん、僕、すごく嫌なこと想像ついたんだけど……」
言い淀むレオの双眸をアルがまっすぐに見つめて、
「言ってごらん」
「間違ってたら、違うって言ってね……その、賢者の石って言うのは器に過ぎなくて、錬成の触媒として差し出される代価は賢者の石じゃなくて…もしかして、エリクサヴァラ?で結晶化された人間の…」
「違わない。賢者の石の中には、結晶化された人間の魂が入っている。魂は生体エネルギーを多く秘めている。もっとも代価としては…適応だから」
静かな口調は、レオは暗い気分を感じながら、
「…………入れたの? 新しい、魂」
「僕らの錬成の時かい? いいや、僕たちはしなかった。ジェザームとシレリアナも入れなかったそうだから。あの中にあったのは…1000年前のイシュヴァールの民のものだけだよ」
「………………そう」
「だから、代価としては多くを必要だった僕の身体の錬成で、シレリアナの賢者の石は砕けてしまった。姉さんの錬成に使ったジェザームの賢者の石も、輝きを喪ってほとんど使えない。だから…母さんが賢者の石があるけれど、無価値だと言うのは本当なんだよ」
『賢者の石自体が言ったのよ。もう、錬成の代価としては無価値だろうと。僅かな残滓でしかないと』
母の言葉。
信じられない言葉だったけれど、それは実は真実だったのだ。
テオはアルをじっとみつめて。
「父さん」
「ん?」
「話はなんとなく、わかったよ。でも、それをナタリアに言えないのはなんで?」
「……………分からないかい?」
考えるように促されるけれど、答えは出ず。救いをもとめて視線を上げれば、アルは穏やかに笑んでみせて、
「僅かな残滓ではないってことは、使えないんだよ。だけどそれはごくごく少数しか知らないんだ。軍内部ででもね。じゃあ、他国に漏らすことができるかい? 母さんは技術研究局の総帥だよ?」
テオはようやく理解した。
母は譲歩したのだ。軍人として、精一杯の譲歩。
賢者の石が【使えない】を教えるために、精一杯言えることで説明したのだ。だが、ナタリアはそれを理解しただろうか?
「父さん」
「うん、ナタリアにどこまで話していいか、実は悩んでるんだよ。アレクが引いたラインが実は最大限の譲歩だったんだろうけど…」
アルは小さく溜息をつきながら、立ち上がる。
「とにかく、ご飯にしようか」
夕飯の席に、アレクは体調不良のために顔を出さなかった。だが、もう一人顔を出さないことに気付いて、アルがヘンリエッタを呼ぶ。
「ヘンリエッタ、ナタリアは?」
「はい、少し前に大総統府に行かれると仰って。私からハボック少佐にお電話して、迎えに来ていただきました」
アルが明らかに表情を渋くしたのが、双子には分かった。
ロイは感慨深げに一枚の書類を見つめていた。
既に技術研究総局長アレクサンドライト・ミュラー・エルリック少将と、第一研究局長アルフォンス・エルリックのサインが入っている書類。
不要錬金術材料の廃棄処分について。
実は2ヶ月程度に一度出される書類で、ロイはいつもなら文句もなくただサラサラとサインを書き入れる書類なのだが。
今回は違った。
記載された条項には、ナンバーが書かれており、その一つが【賢者の石】であることを知っている者が、どれほどいることだろう。
正直、一瞬サインを迷った。
それは、愛する者の存在理由の一つだから。
『俺は軍人になる。それにアルも国家錬金術師になる。それは、俺たちのけじめだ。俺たちが…犯した罪の、償いきるまでの時間を過ごすための場所だから。だから』
ここにいる。
ロイの傍に、いる。
そう告げられたのはいつだったか。
それはあくまで軍内部の話だけだと分かっていても、それでもロイの手は止まった。
かつての大総統、隻眼の男には分かっていたかもしれない。
『鋼の錬金術師』が語る【賢者の石の説明】に偽りがあることを。だが、かの男は何も言わず、ただエドの中佐位と、アルの国家錬金術師資格を与えた。
そしてブラッドレイの意志はマッキンリー、クライバウムと受け継がれ、全ての真実をするマスタングに受け継がれた。
国家的抑止力。
そう名付けられた【賢者の石】は、しかし続く軍縮と平和主義、権力の中枢が大総統府から政府に移行するにつれて、忘れ去られていく。
それこそが、エドの、アルの、ロイの、そしてアレクの望みだった。
そして、この書類にロイがサインすることで全てが終わる。
全てが終わり、全てが始まるのだ。
人知れず【賢者の石】は消え、人々は【賢者の石】を忘れていく。
それでいい。
それを、【賢者の石】に携わる全員が望んでいた。
そのために必要だった時間は、20年。
ロイ・マスタングが大佐から大総統になるのと同じ時間を必要とした。
ロイは小さく息を吐いて、所定の場所にサインした。
これで、【賢者の石】に対してロイのできることは終わった。
エドの妊娠で、最後に賢者の石に接するのは姉弟ではなく、アルとアレク夫婦になっている。
「あとは…」
書類を決裁箱に放り込みながら、ロイは深く長い溜息を吐く。
あとは、アルとアレクの仕事、になる。
眠い。
そして、気分が優れない。
だが、メイドの言葉に身体が起きなくてはと動き始めた。
『あの、中将閣下』
堅い言い方を嫌うことを知っているけれど、メイドはおそるおそる声を上げた。
『ドラクマのナタリア公女殿下が。ご体調が優れないことはお伝えしたのですが…あの、賢者の石と言えば、会ってくださるはずだと』
動きたくないと身体が拒否するけれど、それでもエドは無理矢理に動いた。
吐き気を催す。フェリックスの時は正直ここまで酷くはなかった。気の毒そうに義妹が言っていたことを思い出す。
『お医者の話だと、子どもによって悪阻って違うんだって。あたしは…そうでもなかったなぁ。3回とも同じだったから』
フェリックスの時は、妊娠と気付かずに6ヶ月近くまでを過ごしたから、精神的なものが違っていたのだろう。今回は2ヶ月ほど早く気付いたので、悪阻と自覚している時間が長い。だから以前よりも辛いのだろうか。
手を出そうとするメイドを止めて、エドは客人に対する準備ができているか尋ねると、困ったようにまだだと応える。メイドを準備に向かわせて、エドは壁を伝いながら応接室に向かう。正直立ち止まれば座り込んで、大総統府に飾ってある大仰なシン製の壺に顔を突っ込んで吐きたい気分だった。勿論、することはないけれど。
賢者の石。
それを言えば会ってくれるはずだと言ったという、公女。
正直、エルリック邸で食事をした時、機械鎧をつけるという弟ばかりが視界に入って、大人しい姉は姿すらほとんど覚えていない。
どこで、賢者の石を知ったというのか。
重い身体を引きずれば、声がした。
「母さん?」
振り返れば、書庫から出てくるフェリックスの手には山積みの書籍が載っていて。
近くのテーブルにそれを置いて、息子は駆け寄る。
「どうかした?」
「いや…ちょっとしんどいだけだ」
エドは何とか笑って見せて、フェルの頭を撫でて、言った。
「応接室に行かないといけないんだがな」
「お客さん?」
「ああ。アルのところの、ナタリア公女らしい」
「………そっか」
相手を確認して、フェルは顔を上げた。
「母さん、僕が連れて行く。僕の肩に手を当てて」
「……フェル」
「いいから」
手を引かれながら、エドは思わず苦笑する。
数年前まで、手を引くのは自分であり、ロイだったのに。
もう、引かれる立場になり、フェリックスは十分に自分を支えるだけの体力も精神力も得ている。
これが…成長。
悪くない。
そう思うエドを、フェリックスは促す。
「母さん」
「………………ああ」
促されながら、エドは手を差し出した。
ナタリアは背筋を伸ばしてソファに浅く座っていた。
『欲しい欲しいと、叫んで駄々をこねて、子どもだから、公女だから、全てが許されると思うな!』
少し前、アレクから受けた強い叱責を思い出すと、喉の奥が詰まったような間隔を覚え、ナタリアは複雑な感情を覚える。
ハリムの、弟の手足を冷たい機械鎧から、血の通った暖かな手足に変えてあげたかっただけだった。
自分が今学んでいる錬金術では『医療錬成』でしか、弟の手足を取り戻す方法はなく。
それは医療錬成ではなく、人体錬成であって、禁忌であると教えられた。
無くした物は、戻らない。
そう教えてくれたのは、テオジュールだったか、レオゼルドだったか。
人体錬成が禁忌であり、自分たちが手を入れることのできないほどの禁忌であることを知ったのは、いつだったか。
何も自分に出来ることがないのだと、思い知らされた。
だけど、僅かに指した希望。
賢者の石という、希望にナタリアは縋りたかった。
だからこそ、ここにいる。
賢者の石生成者である、エドワード・エルリックにその生成方法を聞くために。
ちらりと睨まれても、ナタリアは一切動じた様子も見せずに、相変わらず背筋を伸ばして座っていた。
その姿勢は、少し前に学校で見た授業を受けている様子となんら変わらず。
だが、フェリックスは口にしたい不満を抱えていた。
自分に凭れ掛る母の、少しばかり弱弱しい様子をみてしまっては、なおのことだった。
こんな状態の母を見て、ドラクマのお姫様は何も思わないのか。
「お待たせした……さて、と。お話を聞こうか」
エドは穏やかにナタリアを見た。
ナタリアは一瞬周囲を見回して、エドの背後に立ったフェリックスを見やる。
「………………いいんですか」
「ん?」
エドはナタリアの視線を追って、フェリックスを見て。
「フェル」
「あ〜…部屋にいるよ」
何かあったら呼んで欲しいと言うつもりだったのに、母が言う。
「座って。お前も一緒に聞くんだ」
ナタリアが僅かに眉を顰めるのが視界の隅で見えた。だが、フェルはナタリアではなく母に言う。
「……いいの?」
「ああ」
促されてフェルが座るのを待って、エドが再び切り出した。
「さあ。これでいいか?」
「………………わかりました」
「俺に賢者の石の、何を聞きたいんだ?」
「分かっているはずです」
「是非とも、公女さまの口から聞きたいな」
あくまでも揶揄するような口調に、ナタリアの顰められた眉はそのままで。
「賢者の石の、生成方法です」
「あ〜、そういうことか」
飄々と答えを返すエドの隣で、フェリックスは小首を傾げる。
初級錬金術師の資格を持つフェルには、【賢者の石】が何を意味し、何に用いるもので、如何に禁忌に触れるか、理解している。
だが、どういうことだろう。
ナタリアはあの伝説の触媒を、母が作ったと言っている。
「………………」
「あのさ。ナタリアはもしその賢者の石が作れたとして、何をするんだ? まあ、聞かなくても答えは分かってるけどさ」
軽口を叩いてはいるものの、母の双眸は真剣そのもので、まっすぐにナタリアを見据えていた。ナタリアも真っ直ぐに母を見つめている。
「勿論、ハリムの、弟の手足を生身のものにするためです」
「それってさ、人体錬成だってアレクやアルは言わなかったか?」
「レオゼルドとテオジュールに」
「なるほどね。それでも欲しがるわけだな」
「はい」
一瞬の沈黙を破ったのは、エドだった。
穏やかに、あくまでも穏やかに言う。
「お姫様の気持ちは分かるけど。だけど、賢者の石は作れないよ」
「……どうしてですか」
「あれは作るものじゃない。だからだよ」
あまりにも自分の前を行き交う会話が尋常ではないことにフェリックスは苛だって言う。
「母さん!」
「ん? ああ、フェルにはあとでわかりやすく言ってやるさ。だけどその前に、お姫様に言うことがあるからな」
エドはまっすぐにナタリアを見つめて。
「なあ、お姫様。そのハリム公子はどう思ってるんだろうな?」
「え?」
思いもしなかった言葉に、ナタリアが言い淀む。
「ハリム、ですか?」
「ああ。本当に自分の身体を取り戻したいって、思ってるのか? 今頃は機械鎧のリハビリ中だろう?」
「………………」
「聞いてみるのが一番だな。確か…ウィンリィが里帰りに連れていってるはずだから、リゼンブールか。汽車は俺が手配しておく」
突然の展開に瞠目していたナタリアが慌てて言いつのる。
「そんな、ごまかすような!」
「話をしてこい。ハリムがそれでも生身の手足を望むなら」
「望みます!」
「選ぶのは、ハリムだ」
静かな、低い声にナタリアは言葉を失った。
「行って来い。そして話をしてこい。それから話をしよう。いいな」
数瞬迷った挙げ句に、ナタリアは頷いた。
ロイがこっそりと寝室に忍び込んだ時、エドはまだ起きていた。
常夜灯の明かりに錬金術の研究書を広げてみたけれども、それは膝元に投げ出され。エドはぼんやりと中空を見つめていた。
「まだ………起きていたのかい?」
ようやく物思いから解放されて、エドは数回瞬きして、自分の前に立ったロイを見上げた。
「お帰り」
「ああ…何かあったのか? ナタリア公女が来ていたとメイドが言っていたが」
「あれね………」
続いたエドの言葉に、ロイは瞠目する。
「賢者の石の生成方法を教えろ、だってさ」
「エド」
「教えてないよ。だけど、フェルもいる前で言われて、ちょっと困った」
エドは苦笑して、膝元の研究書を閉じた。
「まあ…フェルにはいずれ言わないといけないことだから…多分今頃色々と考えてるんじゃないかな」
「………大丈夫か?」
夫の言葉にエドは小さく溜息をついてから、
「フェルのことだから、ちゃんと自分の中で昇華できるだろうけど」
「違う」
強い口調で言われて、エドは小首を傾げた。
「ロイ?」
「フェルのことも心配だが…何より心配なのは、君だよ。エドワード」
「俺?」
思いもしなかった言葉に、エドは苦笑する。
「何だよ、俺があのとき何をして、何を思ったのか全部知ってるロイがそんなこと言うなんてな」
「……心配しては、いけないかね?」
憮然とする大総統を、大総統夫人は穏やかに見て。
だがやがて嘆息する。
「まあ……確かに、どうしていいのか、分からない時は今でもあるし。あのとき本当に錬成するべきだったのか、思い返しても分からないけれど」
「………」
「だけどだ。こういう道を選んだのは俺で、アルで。もう後戻りはできないし、進むしかないなら。答えは決まってる…そうだろ?」
エドワードの言葉に、ロイは微かに笑んで。
「ああ」
「それに。俺はもう一人じゃない。アルもだ。俺にはロイがいる、フェルがいる。それに」
そっと未だ目立たぬ腹部のふくらみに触れて、母は微笑んだ。
「この子も、いる」
「ああ」
「だから、強くなれる。強く生きていける」
「…………そうだな」
ナタリアは小さく溜息を吐いて。
ゆっくりと目を開けた。
周囲は悲喜交々の喧噪に満ちていて。
本当は双子がついてきてくれたけれども、ナタリアが断った。
一人で、行く。
合格発表は、一人で見たかった。
本当は、二人で見たかった。
ハリムと一緒に。
『姉様、僕はここで戦うよ。だから…姉様も中央で戦って。何を為すべきか、考えながらだよ?』
大総統夫人に促されて、ナタリアは賢者の石が必要かどうか聞くために、リゼンブールに向かった。
返ってきた答えは弟の強い叱責。
生身の身体が欲しいけれど、誰かを、何かを犠牲にしてまで欲しくない。
母を喪ったことをずっと姉に、父に謝り続けた弟の心底からの慟哭に、姉は返す言葉を失った。
そして彼女は決めた。
錬金術を修めることを。
そのことこそ、弟の助けになるであろうということを。
わずか100人の定員に、20倍を超える希望者。
例年になく厳しい試験は、しかしナタリアは十分に準備できたと感じられたのだが。
それでも、結果を知るのは怖い。
合格発表から少し離れたところに、双子が心配そうに覗いている。ナタリアはちらりと双子を見てから、合格発表に歩を進め、自分の名前を探した。
そして見つける。
ナタリア・ナルド・デル・カララト。
満面の微笑みに、双子はナタリアの合格に気付いた。
『ほお。賢者の石を欲しがる子どもが、また一人か…』
スカーと呼ばれたジェザームは苦笑する。
エドも苦笑しながら返した。
「どうせ俺だってガキんちょだって」
『子どもがいて、そのうち一人は妊娠中という女がガキではないことは、年惚けした俺でも分かるな』
「………………そりゃあ、御年1000歳のオジイサマに比べたらね」
ふて腐れたエドの顔を見遣って、それからいつ生まれてもおかしくないほどに膨らんだエドの腹部を見つめてジェザームが言う。
『妙な、話だ』
「え?」
『シレリアナは……子どもを生みたかった』
時を経て、思い出せば。
常に傍にあった伴侶は、ジェザームの子を産むことにこだわった。だが、結局生むことは叶わず、絶望してシレリアナは姿を消した。
ジェザームは知っている。シレリアナがエドに何度も何度も、子どもを生めと言っていたことを。
シレリアナの石が壊れる時、ジェザームはシレリアナの魂を自分の石に移した。シレリアナは姿を現すことができなくなったけれど、その意識はある。故にエドの最初の妊娠の時、シレリアナの心を気遣った。
生むことのできなかった者。
突然に、命を授かり戸惑う者。
しかし、ジェザームの心配とはまったく違う世界にシレリアナはいた。
子どもとともに、幸せに。
それがシレリアナがエドに願った思いだった。
今も、シレリアナはエドにそう伝えて欲しいと穏やかにジェザームの耳元で囁く。
「ジェザーム」
『いや、気にするな。お前は幸せになる権利がある。そうだ…ならなくてはいけない』
赤褐色の双眸は、ゆらりと揺らいで。
だがまっすぐにエドを見つめて。
穏やかに微笑む。
『で…いつになった』
「来週。建国記念日に」
『そうか。分かった』
「順調そう、だね」
はち切れそうなエドの腹部を見遣って、アレクは微笑んだ。
エドも笑って返す。
「この子は親孝行だぞ? 悪阻もすぐ無くなった」
「まあ、フェルの時が長すぎたんだけどな…で、バカ父は相変わらず?」
「………娘だって、言い張ってきかないんだよ。アレク、なんとかしてくれよ」
冗談交じりに泣きついてみせても、アレクは肩を竦めるだけだ。
「なんとかって言ってもねぇ…エドはどう思ってる?」
エドは腹部を撫でながら、
「う〜ん…なんていうかなぁ…フェルの時と腹の張り方が違う気はするけど…」
お母さんの顔がきつくなれば男の子だそうよ?
そう教えてくれたのはホークアイ中佐だったけれど、すぐにエドの顔を見て言い直した。
あ、でも。もともとつり目だったらどうなのかしらね。
エドは思わず苦笑したけれども。
「フェルの時よりも、中に張ってる気がする。なんとなくだけどなぁ…」
「予定日まで…2週間だね…建国記念日は来週だけど…さて、我が大総統閣下はどうするつもり?」
溜息混じりに言われて、エドは天井を見上げた。
「今回は…どうするつもりかなぁ…中佐たちができる限り協力してくれるみたいだけどさ」
フェリックスの時は、2週間の休みを無理に取ってみたけれど、その間に生まれず。結局、ロイは出産に立ち会えなかったのだ。
だから今度こそは、と大総統府に医師を呼びつけて出産に立ち会うことを宣言しかけて、義妹に一蹴された。
『何かあったらどうするんですか。大総統府では設備面、衛生面で問題多すぎです』
万が一のことがあっては、とアレクに脅されて、ロイはしおしおとエドが病院で出産することを許してくれた。とはいえ、絶対に自分が立ち会うのだと、言い張って。
「建国記念日には生まないでよ」
「………陣痛来たらどうするんだよ」
「踏ん張りなさい。少しくらい堪えられるわよ」
エドは呆気にとられ、義妹を見た。アレクはにっかりと笑んでみせて、
「4人生んだあたしが言うんだから。できない話じゃないよ」
そういえば、最初の双子も、イオも、リオもアルは立ち会っている。
アレクなら、そういう芸当もできるのかも知れないとエドが思おうとした瞬間、アレクは再び笑ってみせて、
「冗談だって」
「…………冗談に聞こえない」
「ま、とにかく。どうせ建国記念日には立ち会うんでしょ」
「もちろん」
それはロイが、不要錬金材料の処分を認める書類にサインを入れた時、いや、その前から決めていたこと。
建国記念日に、アメストリスでは盛大に宴会を催す。
先んじて軍事パレードも行われる。
それらの喧噪の中で、姉弟が、ロイが、アレクが心中で暖め続けていた計画が結末を迎える予定だった。
賢者の石の、破壊が。
建国記念日まで1週間。