輝石 15






何も、ない。
イシュヴァールが騒がしくなる少し前まで、リゼンブールは少しは栄えていたのだ。
だが、テロ行為で僅かな賑わいも姿を消した。
今や緑の草原に埋もれて、賑わいがあったことすら探すことは難しい。
隣のウォルフェンブルグに住んだことのあるアレクはのんびりと進む荷台の中からぼんやりと周囲を見回す。
「………………なあ、あれ」
「うん、そうだよ!」
突如わき上がった声に、視線を向ければ。
双子が荷台の中で立ち上がり、何かを指さしている。
目をこらせば、双子が指さすものが微かに見えた。
アルが声を上げた。
「馬、止めてください」
「お、おお」
促されて村人が手綱を締めると、馬車はきしみながら止まったけれど。
誰よりも早く荷台を飛び降りたのは、意外なことにナタリアだった。
そのまま、駆けていく。
双子が慌てて、追う。
「父さん、父さん」
双子が駆け出すのを見ていたイオが荷台から下ろしてくれとせがむと、先に降りたフェルが軽やかにイオを抱えて下ろした。眠っていたリオが目をこすりながら立ち上がる。



ゆっくりと、歩く。
ようやくコツを覚えたばかりで、まるで生まれたての子鹿のように機械鎧の関節は小刻みに震えているけれども。
ハリムはバランスを取りながら、緑の草原を踏みしめながら歩く。
子犬と呼ぶには大きくなりすぎたオーリとサーリが、ハリムの歩行の邪魔にならないように、しかし周囲を駆け回り。
不意に足を止めて、一声啼いた。
ハリムが顔を上げると、駅の方角から馬車が一台向かって来るのが見えた。
そして、止まった馬車から駆けてくる、黒い髪の少女も。
ハリムはにっこりと微笑んで、再び歩を進める。



犬の声に、ロックベル家は気づいた。
バルコニーにピナコとウィンリィが出る。
燦々と降り注ぐ陽光の下、荷馬車がゆっくりと進み。
草原でゆっくりと進むハリム。
草原を駆け抜けて、ハリムに近づく少女。
「いい日に来たもんだ」
ぷかりとタバコをふかして、老女は言う。
ウィンリィも頷いて。
「初めてのお外歩きの日にねぇ」
「ハリムも頑張ったからね」
いいご褒美だ。
ピナコの莞爾は、荷馬車まで届いた。



_駆けて来たナタリアは、しかし弟の傍まで行かずに、少し離れたところで立ち止まった。
既に追いつきかけていた双子は慌てて止まる。
行き過ぎて振り返れば、両手を広げているナタリアがいて。
叫ぶ声は、おそらくはドラクマ語。
一瞬呆気にとられたハリムは、しかし震える足をゆっくりと動かして一歩ずつゆっくりと姉の元に向かうが、バランスを崩して転んでしまう。
「ハリム!」
「触らないで!」
双子が抱き起こそうとすれば、ナタリアの強い叱責が飛ぶ。双子が不審そうにナタリアを見れば、ナタリアは厳しい表情で一歩も動かず、ハリムに向かい再び両手を広げた。
「さあ、ハリム」
顔だけを起こしてそれを見ていたハリムは、ゆっくりと身体を起こし、立ち上がり、再び震える足で進み始めた。
「おい、ナタ」
「だめだ、テオ」
レオが咎めようとするテオを止めた。
「だけど」
「いいから」
母親譲りの察しの良さで、レオゼルドは理解した。
ナタリアが何を望んでいるかを。
ゆっくりと、ゆっくりと。
進んだハリムが懸命に手を伸ばせば。
広げたナタリアの両手に僅かに触れて。
ぐらりと傾いだ身体を受け止めるように、ナタリアが僅かに手を伸ばした。
姉弟の手は、再びつながれた。
「…ハリム、すごい」
「なんだ、姉様。僕ができないと思ってたの?」
額に浮かぶ汗もそのままに、ハリムは苦笑する。ナタリアはハリムの笑顔を見て、目頭が熱くなるのを感じた。
こぼれ落ちる姉の涙を、機械鎧の左手でハリムはすくい取り。
「もう泣かないんじゃなかったの?」
「…今日は、ハリムのお祝いに」
「なんだ、それ…」
互いの苦笑は、微笑を誘い、笑顔を呼んだ。



父の墓が母の墓の隣に移葬されて13年。
それでも母トリシャの墓石は、父のそれより幾ばくか古びて見える。
母が逝って、ちょうど30年。
エドもアルも、母の逝った年齢を追い越してしまった。
そのことに気づいた時、幾ばくかの驚きを感じたことをエドは墓前に母が好きだった白百合を供えながら思い出す。
「なあ、母さん。俺さ、36歳になったよ。で……この子が、ヒルデガルド。覚えてるかな? オヤジが俺につけようって用意してた名前だよ。ロイがさ…是非ともつけたいって言うからつけたよ…………いいだろ?」
もちろん、いいわよ。素敵な名前ね。
もう写真の中でしか朧気に思い出せない、母の笑顔。
たおやかに見えて、決して譲らない芯のようなものを持っていた人だった。
たった一人で姉弟を育ててくれた。
だから…自分たちは過ちを犯した。
再び、母が自分たちを抱きしめてくれると思いこんで。
「母さん…俺、いっぱい間違ったよ。母さんのことも」
母を人体錬成して、生み出してしまったものは今となってはなんだったのかは分からない。
ただ、人にあらざる存在だった。
そして、アルを喪い、それでも再び錬成して…。
間違いを、禁忌を犯した。
イシュヴァール人の魂だと自覚して、差し出された賢者の石を使った。
後悔という罪科を受けても、自分は立ち止まれなかった。
「許して欲しい…だけど、そんな言葉、言うだけ無駄だよな。許してもらえるはずないから…」
胸に抱いた眠る赤子が身じろぎする。
「だから」
だから。
二度と過ちを犯さないように。
犯させないように、覚えておく。
記憶する。
それが、償い。
一生かかるだろう、贖罪。
「いいかな…それで」
眠っていたヒルデガルドが起き出して、数回瞬きして。
にこりと微笑んだ。
まるで、全てを聞いていて、全てを知っていて。
全てを許すように。
エドワードは慈母の表情で、ヒルデガルドを優しく抱きしめた。



罪を、犯した。
許されない、罪を。
忘れない、罪を。
約束する。
再びの罪を犯さぬ、誓いを。
罪を犯す者の、救済を。
一生、かけて。
それが、これからの道。



だけども、この胸の小さな命を、育むことは許して欲しい。
小さな幸せを大切に慈しむことを、許して欲しい。
そして、いずれは知らせる。
自分が犯した過ちを。
二度と同じ哀しみを誰にも味わわせないことを。
紅い輝石の、哀しい物語を。



生きよう。
そして、償う。
それが、俺の。
それが、僕の。
償いになる。



end....



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