輝石 14






「おし、外すからね〜。1,2,3!」
かけ声と同時に、片腕と両足の神経から痛みが伝わって、ハリムは思わず身体を堅くする。
じんわりと額に冷や汗が浮かぶ。
「ハリム、大丈夫?」
覗き込むカレナリアに強ばる笑顔で返して、ハリムはすぐに差し込まれた仮の義足の様子を確認する。
「大丈夫だよ」
「ハリム、もうちょっと微調整しておくよ。そうだねぇ…3日くれる?」
ウィンリィが作業部屋から顔だけ出して聞かれて、ハリムは笑顔で応えた。
「はい」
「おっし」
ここリゼンブールに来て、ウィンリィは何度もラッシュバレーとの往復を強いられた。ラッシュバレーにも顧客はいるのだ。申し訳ないとハリムが言うと、スパナを軽くハリムの頭頂部に置いて、ウィンリィは笑うのだ。
子どもが心配することなど、何もないのだと。
もちろん、ハリムはラッシュバレーとリゼンブールの往復汽車代をウィンリィがその都度、大総統宛に請求していることは知らないのだが。
カレナリアもよくウィンリィについて、リゼンブールに来てはハリムの傍にいる。
「ねえ、ハリム」
「ん?」
松葉杖を小脇に揃え、ハリムはソファに浅く座る。その義足の周りを子犬のオーリとサーリが囲む。
カレナリアは少し言い淀んで、
「あのね…」
「どうかした?」
カレナリアは上目遣いでハリムをじっと見つめて。
「あのね…ハリムは機械鎧が使えるようになったら、ドラクマに返っちゃうの?」
ハリムは穏やかに笑って。
「違うよ。僕は機械鎧の勉強もしたいから、ちゃんと使えるようになったらラッシュバレーに行って、もっともっと機械鎧の勉強をしないといけないね」
「本当?」
「うん」
にっぱりと笑むカレナリアの様子を見て、ハリムの顔も綻んだ。
「あのね、今日は建国記念日なんだって。で、あとでウォルフェンブルグまで行こうって、ばっちゃんが言ってたよ」
「ウォルフェンブルグって…隣村だよね?」
「うん! アレクおばさんのおうちで、夕方花火を上げるんだって! 見に行こうね」
きらきらと笑いかける無邪気な少女の顔を見ていれば。
足下にじゃれつく、2匹の子犬を思えば。
ハリムの心は和んだ。
そして、言う。
「そうだね。うん、誰かが行くなら僕も行くよ」
「じゃあ、行こう!」



「あれ?」
テオが気付いた。
建国記念日の記念式典に続いて行われたパーティーは、例年かなりの数の子どもたちが紛れていて、エルリック家の子どもたちも珍しく参加を許されていて。今年はナタリアも同行したのだが、気付けば姿はなく。
「レオ、ナタリア見なかったか?」
「ナタリア?」
周囲を見回せば、そこには軍服と着飾った姿であふれていて。
「わかんない」
「兄さん、あそこ」
リオライトが指さした先に、ドラクマの軍服をまとった青年がナタリアに何かを渡すところで。
双子はイオとリオの手を離さないようにしながら、こっそりと背後に回り渡された何かを見つめているナタリアの背中越しに声をかけた。
「ナタリア」
「!」
慌てて振り返って、ナタリアは手にしていた書簡を慌てて背後に隠す。
「なに?」
「な、なんでもないの」
「なんだよ?」
「何もらったの?」
「………」
どう応えようか考えながら、ナタリアは後ずさる。その足を止めたのは、アレクだった。
「な〜にやってんのよ、双子くん。女の子いじめてるわけ?」
ぽこぽこと頭を叩かれて、テオはふて腐れて、レオは頭を抱えながら軍礼服姿の母を見る。
するとすぐ脇には先ほどナタリアに何かを渡していたドラクマ軍人が立っていた。
アレクはにこやかに笑みながら、双子の知らない言語でドラクマ軍人と何かを言い交わすと、青年軍人はにこやかに双子に手を差し出し、片言のアメストリス語で話しかけてきた。
「南方司令部副司令官、ヒューイ・ラインドルフ中佐、です。こん、にちは」
「あ、はぁ…」
「私、ナタリア殿下、父上、カララト大公、副官、してます」
単語だけのアメストリス語だが、ラインドルフ中佐の言いたいことは理解できた。
テオがちらりとナタリアを見ると、少し申し訳なさそうにナタリアが言う。
「父様からの手紙…ちょっとプライベートだったから、こっそり貰ったんだけど」
「いいに決まってるでしょ。娘を心配した父親の手紙なんだから。あ、双子。そんなに大公からラブレター欲しかったら、あたしの譲ってあげようか?」
ひらひらとさせているのはナタリアが握っているような書簡で。
テオは憮然と、レオは飄然と同じ答えを返した。
「いらない!」
「あ、そうですか」



禁じたことなど一度もなかったのに、ナタリアとハリムの姉弟は父大公に手紙を出す時は、必ずアレクとアルに断っていた。そこまでしなくても異国に向かう手紙は、残念ながら検閲を受けるから、必ず保護者であるアレクに連絡が来るのだが。
リゼンブールからハリムの手紙が届いたのは1ヶ月前。
近況を知らせる手紙の中に、父親に届けて欲しいという手紙が同封されていて。アレクは一切開封せずに、大公に手紙を送った。
その返事を建国記念日式典に現れた大公の副官・ラインドルフ中佐が持ってきたのだ。
ナタリアと、ハリムと、アレクに。
ハリムの分も受け取って、アレクは必ず転送することを約束した。
まだ若い副官は背筋を伸ばして、ドラクマ式の敬礼をする。
そして喧噪の中で、ドラクマ語で言った。「大公殿下におかれては、近日中に大公位を返還されるおつもりのようです」
「………………そう」
「そのことも手紙にはあるようですが、是非とも最初にそれを伝えて欲しいと」
「……………」
一瞬思考の海に飛び込んだアレクだったが、すぐに顔を上げて、
「ハリム公子には必ず手紙を届けます」
「よろしくお願いします」



愛しい娘、ナタリア。
元気かい? もう二人が南に旅立って半年が来ようとしている。
ドラクマはどんどん寒くなっているよ。
アメストリスはもっともっと南だから、冬が来るのが遅いんだろうな。
ナタリア。
手紙をありがとう。
近況を教えてくれて、安心したよ。
実はハリムからも手紙があった。
リハビリ、順調のようだね。もうすぐ歩けるようになるって喜んでいたよ。
話は変わるけれど…私は、大公位を王に返還しようと考えている。
昨日、王にもその話をしたけれど、お前たちの留学は国費留学として認められるから、心配せずに錬金術の勉強を続けていきなさい。
また、手紙を書きます。
父より。



アエルゴの使節とにこやかに談笑していたロイは、視界の隅で銀色の髪を見つけた。
見慣れた顔。
そして、見慣れた穏やかな表情。
アレクはその場で敬礼する。
横にいたアルフォンスは軽く黙礼する。
ロイは使節の話に相づちを打ちながら、一瞬視線を走らせて、それから小さく頷いた。
そして心の中で囁く。
頼む、と。



その名を呼ばれて、ジェザームは覚醒する。
意識を強く保てば、賢者の石の外で身体を実体化させることができる。
だが、それももう、今日で終わり。
揺らめく身体のままで、ジェザームは笑んだ。
スーツ姿のアルフォンス。軍礼服のアレク。
そしてその後ろに、大きな大きな腹部を抱えるようにしているエド。
『揃った、な』
「お待たせしました」
アルフォンスが一歩進めば、アレクは背後にいたエドに振り返る。
「エド…」
「すまない、アレク。ちょっと」
「うん、いいよ」
アレクがエドに場所を譲る。
大きな腹部を抱えるように、そして少しばかり足を広げて立つ姿は、20年前、微かに震えながら立っていた少女の面影を残しているけれども、すっかり母の表情で。
ジェザームは笑んだ。
そして、耳元で囁く声を言葉にする。
『エド』
「ん?」
『幸せに、なれ』
その言葉を何度聞いただろう。
エドは小さく頷いて。
「ああ。そのつもりだ」
『エド…アル…お前たちに、結局押しつけてしまった。そんな気がする』
「結果は必然、です。僕らは望んで、代価としての罪を手にしたんです…公表されることはなかったけれど、僕らはずっと背負っていきます。その決意を、あなたが石を見せてくれた時からしていたんだから」
アルフォンスが一歩前に出て言った。
賢者の石で、錬成すること。
それはすなわち、賢者の石に蓄えられたイシュヴァールの民の魂を使う、ということ。
あのころ、アルフォンスは魂だけの存在で、巨躯の鎧につなぎとめられていた。
魂だけという意味では、賢者の石に蓄えられたイシュヴァール人と何ら変わるところがなかったのだ。
魂を、錬成に用いる。
それは、イシュヴァール人を完全に消滅させることを意味する。
そしてそれを『殺人』ではないと否定すれば、今度は弟の存在を否定することになる。
だがエドワードは決断した。
母の錬成、弟の錬成、そしてまた錬成という名の、罪を重ねることを。
そして受ける咎は、見えぬ形の後悔。
水底に沈んでいく汚泥のように、心の奥底にじわりじわりと蓄積してきた苦しみを受けることを、姉弟は一生自らに課した。
「それに…僕たちは、共に生きていく相手を見つけたから」
アルフォンスの視線に、アレクは僅かに恥じらうように笑んで。
『そうか…』
「ジェザーム。イシュヴァールのことだけど」
エドが言う。
「俺とアルと。ロイとアレクと、できる限りのことをすると決めたよ」
紅い輝石に宿る男が、心にとめていたこと。
それは一度は自分と妻の所為で死に絶えかけたイシュヴァール人たちの行く末。
自分たちが不老不死の命を得た時、イシュヴァールの都は滅び、僅かに残ったイシュヴァール人は砂塵の中でアメストリスに従属することで生き延びてきた。ジェザームが東方内乱と呼ばれたイシュヴァール殲滅戦で、あるいは戦闘終結したのちも国家錬金術師を殺害していたのも、贖罪の意味もあったのだ。
だからこそ、イシュヴァールを気にしていた。
同胞の行く末を。
エドは続ける。
「表だって軍として活動しても、イシュヴァール人は受け付けないだろうから…俺は軍を退く。マスタング中将じゃなくて、マスタング『夫人』ならイシュヴァール人も少しは肯定する猶予をくれるだろうから」
『ああ…』
「僕らも時間がかかりますけど、東に帰ります。ミュラー家の財力があれば、きっとできることがあるはずだから」
アルの言葉にも、ジェザームは微笑んで。
ゆっくりと瞑目する。
そして、言った。
『では…頼んだ。始めてくれ』
「ジェザーム」
『なんだ』
エドは満面の笑みを浮かべて、力強く言った。
「ありがとう」
『………エドワード』
「ありがとう、ジェザーム。あんたのおかげで、俺たち姉弟は、チャンスを与えられた。やり直すチャンスを。だから、そのチャンスを生かすよ」
ジェザームは瞑目したまま、僅かに沈黙し。
やがて、呟くように言った。
『感謝、されるとはな…よりにもよって…まあ、いい。その感謝を持って行くことにしようか。アルフォンス』
「うん」
アルがアレクを見ると、アレクも既に掌に錬成陣を縫い取った手袋をはめていて。準備はできていると、小さく頷くのを見てアルは言う。
「僕もあなたと、シレリアナに感謝してる。ありがとう、ジェザーム」
『………………』
音高く打ち鳴らされた、アルフォンスの両手。
静かに合わされた、アレクの両手。
それ以外に音がしなかった小さな部屋に、青白い錬成光が立ち上り、小さな箱に収められていた鈍く紅色の光を放つ輝石に向かう。
ピシリ。
小さく入ったヒビは徐々に広がり。
細かく広がって、
不意に、
弾けた。
ゆっくりと、ジェザームは目を開く。
紅い双眸が、アルを、アレクを、そしてエドを見つめて。
穏やかに微笑んだ。
『さらば、だ』
弾けた輝石は小さく細かく砕け散り。
穏やかに微笑む男の姿は、ゆっくりと、ゆっくりと、霞が消えていくように見えなくなり。
ただ、3人の耳には聞こえた。
姉弟には聞き慣れた声。
会ったことのないアレクには、聞き慣れない女性の艶やかな声。



さようなら。



ありがとう。



「シレリアナ」
エドの呼びかけに、応えはなく。
頬を伝う一筋の涙を、エドは乱暴に拭って。
踵を返し、部屋を出て行く。
もうここには、二度と来ることはないだろうということは出て行くエドも、見送るアルとアレクも理解していた。



メイドが玄関を空ける前から、ロイは胸元をはだけていて。
「お帰りなさいませ」
「ああ。エドは?」
「少し体調が優れないようで。早くお休みになられました」
ロイは眉を顰める。
今日義弟夫婦が何をするのかは、ロイも知っていた。それに止めてもエドが付き添うだろうことも。
出産予定日まで1週間しかないという身体で、無茶をする。
そう思ったけれど、自分は決して咎めることなどできないことを思い出して、ロイは上着を脱いでメイドに渡す。軍礼服にはつきもののサーベルも。
「食事はしたのか?」
「はい」
「そうか…」
寝室につながる階段を上れば、階段途中にある子ども部屋からフェリックスが顔を出した。
「父さん、お帰り」
「まだ起きてたのか。今日はパーティに来てたのかい?」
「うん。双子と一緒に」
「そうか」
くしゃくしゃと、自分譲りの黒髪を撫でてやると、少し困ったように母親譲りの黄金の双眸が覗く。
「父さん、母さん何かあったのかな?」
「ん? どうした?」
「今日、パーティから帰ったら少し泣いてるみたいだった。目が腫れてたから」
「…………」
エルリックの血を引く者は、アレクのような研ぎ澄まされた洞察力ではないけれど、勘の良さを秘めているようだ。エドもそう、アルもそう。ロイは思い至って苦笑する。再びフェリックスの頭をぐしゃぐしゃに撫でた。
「何かあったのかな?」
「……父さん、母さんを泣かすようなことしないでよ」
穏やかな詰問にロイは階段の天井を見上げる。
息子にまで信用がないとは、情けない。
「フェリックス…」
「母さん、泣き虫だからね」
息子は自分で答えを見つけて、父親の手から逃れ、部屋に戻ろうとして。
思い出したように振り返った。
黄金の双眸に、何かを秘めて。
「父さん。僕、軍人になる。18歳になったら士官学校に入るよ」
思いもしなかったフェルの言葉に、ロイは目を細めて。
「フェル?」
「うん、まだ先だからホントになるかはわかんないけど。今のところ、そう決めてる」
「…そうか」
18歳まであと5年。
まだ多くの将来という名の選択肢が、フェリックス・マスタングには残されている。だがそれでも、黄金の双眸は望むのだ。
苦難の道を。
「いいのか…」
「僕には守りたいものがあるから。父さんや、母さんや、弟か妹?」
「…………軍人は、辛いぞ」
「うん、知ってる」
両親ともに軍人である以上、嫌な世界を垣間見たことだってある。
だがそれでも、息子は守りたいものを守るために、軍人になるのだという。
きらきらと、黄金の双眸に思いを秘めて。
ロイは再び手を延ばし、フェルの頭を撫でた。
優しく、いたわるように。
「…………まあ、先は長い。ゆっくり決めろ」
「うん。お休み」
「お休み」



ぽこん。
はち切れんばかりの腹部に、違和感を覚えてエドは微笑む。
それは数ヶ月前から感じていた、我が子の元気な証拠。
「お前は元気だよなぁ…フェルよりも」
再びの違和感に今度は苦笑する。
「もうしっかり、返事してるのか」
「会話できるのか?」
振り返れば、相好が崩れてしまった大総統閣下で。
エドが咎める間も与えず、ロイは妻の腹部を撫でながら、囁いた。
「よく我慢しましたねぇ〜、お嬢さん、明日なら出てきていいですよ〜」
「おい、ロイ」
「明日と明後日はちゃぁ〜んと開けてますからねぇ〜」
「ロイ」
少し怒りを含んだ声に、しかしロイはにんまりと応える。
「ん?」
「そのみっともない顔、俺以外に見せてないだろうな?」
「みんな知ってるんじゃないかい? 今日だってシンの使節に、奥様のご出産はいつになりそうですか? と聞かれたし」
「………………」
国際問題になりかねない。
エドは嘆息したけれど、ロイはそれよりも胎児に話しかけるのに一生懸命だ。
ロイが出産日を明後日と決めた時点で、エドは再び低い声で、
「なあ」
「ん?」
「アルとアレクは?」
「ああ、帰ってきたよ」
式典に出席していなかったエドはまっすぐに【あの部屋】に向かい、そのまま帰ったけれど、弟夫婦は式典に戻っていった。アルの静かな様子に安心したエドだったけれど、やはり心配が拭いきれなかった。
エドの言わんとすることを見抜いて、ロイは頷いて。
「大丈夫だよ。少し元気がなかったみたいだけど、アレクがずっと傍にいたし、双子もいたからね」
「………………そっか」
不意に立ち上がり、窓にかかるカーテンを開いてみて、エドは数度瞬きして。
「ずいぶん、遅い時間なんだ」
「そうだよ。気づかなかったのかい?」
「………………」
自分は何を考えていたのだろう。
促されるまま、夕食を取った。それからしばらく右手と左足を眺めていた。
手に入れた、生身の身体を。
逝ってしまった、男のことを。
カーテンを気づけば握りしめていて。
ふんわりと暖かい手で、強張った手を解かれてエドは振り返ろうとすると、力強く背後から抱きしめられた。
「ちょっ、ロイ」
「前からだと、お嬢さんがびっくりしそうだからね」
耳元で囁かれて、エドは肩を竦める。
「だから、女の子だとは」
「うん。でも、きっとそうだ」
囁く声が、低く自分の身体を通じて聞こえるような心地よさを感じて、エドは目を閉じた。
小さく溜息を吐いて。
「ロイ」
「ん?」
「ようやく、終わったよ」
「………………ああ」
「でさ。この子生まれてからがいいと思うけど」
「ああ」
「軍、辞めるよ」
少しの沈黙のあと、夫の返事は明確だった。
「わかった」
「だけど誤解するなよ。俺は、ロイの傍にいる。一生だ。そう決めたから」
再びの沈黙のあと、切り出した夫の声は僅かに震えていて。
「本当に?」
「ああ。一生、だ」
「………………」
小さく耳元で何かを囁かれた。
エドは誰も見ることのない極上の笑顔で、返した。



翌々日、エドワードは第2子を出産。
名は、ヒルデガルド。
第1子フェリックスと同じ、漆黒の髪、黄金の双眸の、女児だった。



それはそれは豪華な列車が、リゼンブール駅に入ってきた時、駅長は瞠目して見ているだけだったけれど。
思わず習慣で声をあげた。
「り、リゼンブール、リゼンブールだよ………………え?」
運行スケジュールにはない豪華な列車の中から、まず少年が二人飛び降りた。
「うわ、すっげえ田舎」
「テオってば、失礼だよ」
続々と降り立つ一行の中に、駅長は見知った顔を見つけて声を上げた。
「エドじゃないか、アルも一緒か」
「あ、駅長さん」
ようやく駅長は思い至った。
運行スケジュールにはない豪華な列車。
それは大総統とその家族だけが使うことのできる、専用列車だと。
忘れるところだった。
目の前で赤子を抱える小柄な女性。
リゼンブール出身の彼女こそ、エドワード・エルリック=マスタング。
半年前に、第2子出産と新聞に載っていたではないか。
「えっと、その子が?」
「そう、うちのお姫様」
紹介されて、エドの腕の中で赤子は僅かにむずがった。
「夫人、それでは列車の方はウォルフェンブルグの複線で待機します」
「ああ。じゃあ、連絡はウォルフェンブルグにするよ」
おそらく汽車の車掌も軍人なのだろう、びしと決まった敬礼をして、汽車に乗り込んでいく。
エドは肩を竦めて、
「仮にも大総統夫人だから、警備も万全にしておけって旦那がね」
「そりゃあ、そうだろうな」
呆気にとられながら駅長が応えると、背中に眠るリオライトを背負ったアルが苦笑しながら頭を下げた。
「すみません、お騒がせします」
「あ、いや…いいんだけどね。ずいぶんと大人数だな」
見渡せば、駅長も見覚えのあるアルフォンスの妻とその子どもたち、エドの子ども、それ以外にも子どもがいる。だがその娘を駅長は覚えていた。
「おや、あの子は…ピナコさんところにいるドラクマの子の、姉さんじゃなかったかな?」
「ええ」
「半年くらい前に一度血相変えてたなぁ」
駅長の言葉に、アルは思い出す。
ナタリアが、【賢者の石】に縋ろうとしたことを。
結局リゼンブールでハリムに窘められて帰ってきた時、ナタリアは言った。
『賢者の石は必要ないものだと、ハリムに言われました。だから、諦めます。お騒がせして…すみません』
殊勝な態度に、エドもアレクもそれ以上の追究はせずにおいた。そして、建国記念日を迎えたのだ。
あのとき、もしハリムがナタリアを窘めずに賢者の石を望んでいたら。
そうであれば、また違う未来が生まれていたのかもしれないと、アルは不意にナタリアの背中を見遣って思う。
「アル、馬車が来たよ」
「ああ」
妻の声に、沈思の海から引きずり戻され、アルフォンスはずっしりと重くなった末娘を背負い直して、駅の外に向かった。



馬車とは名ばかりの、荷台に荷物と一緒にぎゅうぎゅう詰めにされても、ナタリアは文句一つ言わなかった。
大総統夫人が何一つ文句を言わないのだから、自分が言うのはお門違いだと分かっていたし、何よりドラクマの公女としてではなく只の留学生となってアメストリスに来て以降、スプリングのよく効いた、内装ばかりが豪華な馬車に乗ることなどなくなったし、ナタリアはそれを望んだことなど一度もなかったからだった。
ただ、気分は複雑だった。
手紙のやりとりも、電話のやりとりも頻繁にしている弟。
けれども、実際会うのはあの時以来だった。
『手足が欲しくないって言ったら嘘になるよ。うん、僕はきっと、前みたいに自分の手足が欲しいよ? でもね、姉様。誰かを犠牲にしてまで、僕は欲しくない。そんなものなら、要らないよ。それが姉様が犠牲になって持つことのできた手足なら、僕は絶対に、要らない!』
真実を包み隠さず告げて、弟の希望を聞いてくること。
それがエドの条件で。
絶対に、ハリムが希望するだろうと思っていたナタリアは言われた通りに、告げた。
だが帰って来たのは強い叱責と慟哭。
『姉様、僕はここで戦うよ。だから…姉様も中央で戦って。何を為すべきか、考えながらだよ?』
何かが変わった。
弟の中で、いつだって母のことで謝罪することしかしなかった弟の中で、何かが変わったのだとナタリアは理解し、【賢者の石】を諦めた。
言い争いにはならなかった。
ナタリアの一方的な懇願に、ハリムは強い口調で否定しただけだから。
だが、その事実がナタリアの気持ちをいくらか重くしていた。



それでも。
彼女は思わず瞠目する。
緑の草原の中に、見つけて。



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