北方攻略戦 2
静かになった車両内を見渡して、アレクが再び言う。
「何か言いたいことがあるものは?」
先ほどまでいきり立っていた者たちは、国家錬金術師資格剥奪という伝家の宝刀をちらつかされたせいでおとなしくなった。
穏やかに話している、イシュヴァール組。
それ以外の、なんの意思表示も見せなかった一人が、恐る恐る手を上げた。
「はい?」
「……あの、どのくらいの期間でしょうか?」
消え入りそうな声で、男がおどおどと声をあげた。アレクは意味を図りかねて首をかしげる。
「期間?」
「第1次ということは、第2次第3次もあるってことですよね。そのまま、編入されてしまうんですか?」
最初の男とは違う男の発言で、ようやく真意を理解する。
アレクは、先ほどとは違う呆れを内心に押し込めながら、
「今のところ、出兵期間は不明。我々が見事北の熊を、送り返すことができたらそれで帰れます」
「……私は、研究を残してきたんです。一刻も早く帰りたい……」
「その研究を続けるためにも、戦ってください」
ぴしゃりとアレクに告げられて、男は俯く。
おとなしく、自己中心的。
だが、これから自分が戦争に赴き、【人を殺す】という実感など微塵もないのだ。
人を殺すことで、心が壊れる。
そういうものもいる、という知識はあるが、この車両の中で戦闘に参加したことのあるものなど、わずかしかいない。
どれほどの脱落者が出るのか。
それはアレクでも想像がつかなかった。
重い空気を引きずったまま、アレクは専用車両のドアを閉めた。
夏先とはいえ、北に向かえば向かうほど、気温は下がる。
ブリックス山脈のふもとでは、真夏でも暖炉を使う。本当に暖炉を必要としないのは、わずか1週間ほどの間だと聞いたことがあった。
軍服は確かに寒くはない。
だが、心が寒かった。
専用車両の中で交わされた、あまりにも命の駆け引きからかけ離れた会話が、アレクの心を寒くした。
【大規模な戦闘】には、アレクも参加したことはない。
だが、テロが頻発するこのアメストリスでは、平時であっても小規模な戦闘に参加することは多い。アレクですら、錬金術師として、あるいは軍人としての戦闘を何度も経験している。
人を、殺す。
たとえそれがテロリストであっても。
放置すれば、自分たちに害を及ぼすと分かっていても。
命は、命なのだ。
命は命によって生み出され、命を作り出す。
そのことには違いなどない。
だから、初めて戦闘で人をあやめた時、夜明けまで手先の震えが止まらなかった。
アレクはふと、指先を見る。
自分が生み出した炎で、人が死んだ。
テロリストとわかっていても、その命の糸を断ち切った時、アレクは初めて体が震えるのを感じた。
そして…その震えは指先で命の炎を表すかのようにとどまり続け、明け方に姿を消した。
「どうした?」
いつのまにぼんやりしてしまったのだろう?
声をかけられて、アレクは顔を上げる。穏やかな表情で、准将は首をかしげる。
「どうかしたのか? 彼らはいうことを聞いたか?」
「…お子様の使いじゃないんですから。資格与奪権のことを、イシュヴァール出身者が話したら納得しましたよ」
「ふん、おそらくそんなことも分からない思い上がりだろうとは思ったけれどな」
中央駅で見せたように、准将はふんぞり返ってみせて。アレクも苦笑して、
「エドは? どうしてます?」
「寝ている。少し休むように言ったら、すぐに熟睡した。ここのところ、あまり眠れていなかったようだからな」
「ずいぶん奔走したんでしょ?」
「? なにがだ?」
アレクは穏やかに微笑んで。
「なんとなく、わかっちゃいましたから。今度の出兵、アルくんも来るはずだったんでしょ?」
「…鋼のが言ったのか?」
准将の言葉に、アレクはゆったりと頭を横に振って、
「まさか。何も言いませんよ。でも、エドはアルを出征させたくなかった…ロイ兄は、エドを守りたかった…そう思えば、ひとつにつながるんですよ」
准将は一瞬目を見開き。
しかしすぐに目を閉じて、苦笑する。
「やれやれ…アレクには何一つ隠し事ができないな」
「やっぱり」
軍部は、出征させる国家錬金術師候補リストを准将に渡した。それは候補者リストとは名づけられていても、ほぼ全員が出征を強要される出兵計画だった。
当面、第3次計画まで策定されていることは准将も知っていたが、第1次計画に【アルフォンス・エルリック】の名前を見つけたときは、さすがに迷った。
【エドワード・エルリック】【ロイ・マスタング】の名前は第3次計画にあるのに、アルだけが第1次計画に参加することがほとんど決定していたのだ。
「…アレク、お前も知っているだろうが、お前の名前は最初から第1次計画にあった」
准将の言葉に、アレクは頷く。
打診を受けたのは、国家錬金術師編成部隊の噂が持ち上がる少し前だったから。
西方司令官のルードン中将に呼ばれて、告げられた。
『北に、行ってもらうことになる。国家錬金術師編成部隊の隊長としてだ』
特に感慨もなかった。
だが、20歳になったばかりのエド。
1歳下のアルに至っては、成人していないのだ。
国家錬金術師とはいえ、成人していないアルフォンスを出征させるのは、いかがなものだろうか。
「…内密に、鋼のに伝えたのだ。鋼成の、出征を」
夕暮れ時の、黄金色の夕日色とまったく同じ色の双眸は、答えを促す准将をまっすぐに見詰めて言った。
『俺が、行く』
『だが』
『第3次計画に名前があるってことは、第1次、第2次が長引けば出征しなくていいってことだろう? じゃあ、俺とアルを入れ替えてくれればいい。俺が第1次計画で出征する』
『鋼の…』
少し伏せ目になって、エドがつぶやく。
『アルは、俺が守る。そう、決めたんだ』
家を焼いた、あの日から。
小さな呟きは、しかし准将の耳には届かず。
決断を迫られたのは、エドだけではなかった。
『しかし、それでは!』
『君が何か問題を蒙るのかね?』
穏やかに、しかし高圧的に准将は言う。対応していた人事部所属の少佐は溢れる汗をなんとかハンカチでぬぐいながら、
『問題は…』
『ないだろう? 私が第1次計画の総責任者として出征するのだ』
『しかし、第1次計画の総責任者として、西方司令部所属のアレクサンドライト・ミュラー中佐がすでに決定しています』
『ほう?』
准将は目を細めて、続ける。
『では、中佐に辞退するように伝えよう。いや、心配には及ばない。中佐が国家錬金術師になったとき、まだ中佐時代の私が後見人をつとめていたぐらいの、知り合いだからな。君が心配しているような険悪な関係ではないよ』
『しかし!』
辞退する、という話は初めて聞いて。
アレクは心底のため息をつく。
「なに脅してんですか」
「仕方ないだろう。名前を書き換えるだけの作業に、あれやこれやと言い訳をつけて」
「准将。それは、准将がホークアイ大尉にいつも書類を片付けるのを嫌がるのと、同じ理由だと思うけど」
「なんだと?」
アレクは首を傾げて、
「面倒くさい?」
「…一度焼かなくては」
「はいはい」
天嶮。
それは天に伸びる剣のような山を称する言葉。
ブリックス山脈の峰峯は、確かに天嶮の名前に相応しい趣を、醸し出していた。
本来ならば、この山脈は天然の要害として大国ドラクマの侵略を防いでくれるはずだった。
ドラクマとは不可侵条約を結んでいる。だが名目上であり、いつ不可侵条約が破られてもおかしくなかったのだ。
しかし、予想は覆る。
おそらくはアメストリスが破るだろうと思われた条約破棄は、ドラクマによってなされ。
その前日にはアメストリスの山岳警備兵がドラクマ兵らしき中隊と遭遇している。
その後も、各地で小規模ながら戦闘が続き。
今では相当数のドラクマ軍がブリックス山脈を越えてアメストリスに侵攻していることが確認されている。
最前線に設けられた宿営地は、周囲を何重にも取り囲むように塹壕が掘られ、宿営地にたどり着くまで一行を乗せたトラックは何度も何度も迂回し、検問を通った。
「…准将、ここってホントに最前線基地ですか?」
硬いベンチに辟易していたアレクが、同じくうんざりした様子の准将に聞く。
佐官には普通、迎えの専用車が用意されているはずなのに、専用車はトラックだったのだ。
「…さてな」
「専用車で送り迎えよりも、この厳重さ。どっちかっていうと」
「後方支援基地で、テロを警戒してるみたいだ」
エドの言葉に、アレクも頷いた。
「なんかこんな辺境でも混乱してるみたいですねぇ」
「ようこそ、天嶮ブリックスへ」
現れた巨大な壁に、アレクは思わず苦笑し、
エドは一言呟いた。
「…でかい」
「アームストロング中将。お久しぶりです」
准将が敬礼すると、アームストロング中将はにっこりと微笑む。
「弟がお世話になっているようね」
中将が差し出した握手の手を握り返した准将が、かすかに表情を変えた。
エドもアレクもアームストロング中将に会うのは初めてだ。アームストロング【少佐】には会ったこともあるし、エドに至っては護衛までしてもらった、かなり親しい間柄だが、今回は第2次計画に参加ということで中央で待機、になっている。
筋肉美を愛し、自らの筋肉を見せ付けることが最大の錬金術的攻撃方法だと思っている、あの少佐……。
「にして、この姉ありだな」
小さなエドの声に、アレクも頷く。
確かにほっそりとした体格、それから驚くほどの美貌、あの無意味なまでな筋肉質な弟とは似ても似つかないのだが、驚くほどの高身長は、弟、いや、弟よりも遥かに高い。
確か、アームストロング家に招かれたことのあるハボック中尉の話では、少佐には3人の姉、1人の妹がいて、妹のほうは中尉曰く、
「外見は突然変異で、中はやっぱり兄妹……傷を掘り返さないでくれ…」
といっていたのを、エドは思い出していた。
「君が、鋼の錬金術師? で、君が双域の錬金術師ね? 噂は弟から聞いてるわ。よろしく」
差し出された握手の手を、握ったところでエドはアレクをほうけた表情で見る。
「ん?」
「はい、よろしくね。エリザベス・ナミ・アームストロングよ」
気さくな様子で差し出された握手の手を、アレクも反射的に握って。
見つめたエドの真意を、理解する。
「いっ!!」
「あら、ごめんなさい。またやっちゃったのね」
本人は軽く握ったつもりだろうが、こちらにしてみれば。
「……まだ手がしびれてるよ」
「……ばかぢから」
エドの小さなささやきは、大きな大きな女性には聞こえず。
「ゆっくり休んでから…と言いたいけれど、事態が逼迫しているから、このまま着任を済ませてもらうわ」
「もちろんです」
准将がエドの囁きを無視して、敬礼で応えた。
軍用列車には、国家錬金術師だけでなく国家錬金術師編成部隊に配属が決まっている一般兵士も乗り込んでおり。
アレクは編成作業を終わらせて。
総数を計算すると、軍部がいかに第1次計画に力を入れていたのか、分かるというものだ。
「多いわね…今までの編成部隊にくらべて、国家錬金術師も、一般兵士も、数が倍以上ですよ?」
「のようだな」
「やっぱり4個中隊じゃなく、6個中隊に分けたほうがよかったかな…」
「いや」
准将が、アレクの独り言を自信たっぷりの笑いを浮かべながら否定する。
「6個中隊にしては、分散させすぎだ。双域の、お前の判断は正しい」
「…そうでしょうかね?」
「ああ」
何を根拠にこの人は自信を持っているのだろう。
アレクは疑問を感じたがあえて口にはせず、手にしていた軍用コートを羽織る。
無言だったエドも、同じように軍用コートを羽織り、手袋を確認するようにはめて。
「さあ、行こうか。さっさと終わらせて、中央に帰るぞ」
無責任な准将の一言に、アレクは微笑んで。
エドはあきれた表情で。
「yes,sir!」
敬礼と、尊敬の伴わない返答が准将の背中に跳ね返った。
隠すようにため息をついて、アレクはテーブルに並べられた書類の数々を見る。
こんな戦場にあっても、佐官には書類の決裁が待っている。
それは国家錬金術師で戦闘に参加している、アレクであっても、ましてやマスタング准将に至っても同じこと。
准将の場合、いつも早く早くと追い立てるホークアイ大尉がいないだけでもまし、と最初は言っていたが、すぐに仕事が滞り、アレクが慌てて追い立て役に就任しなくてはならなかった。
ブリックス山脈の戦闘に、国家錬金術師が投入されてわずか2週間。
第28次ブリックス師団、いわゆるマスタング師団は、急速にその成果をあげつつあった。
…そしてその一方で、参加している国家錬金術師の数も、急速に減らしつつあった。
「今日も、1名」
休息所で食事を摂りながら、アレクは報告する。准将は眉を顰める。
「早いな、ペースが」
「……イシュヴァールにくらべて? ですか。それは仕方ないでしょう。だって、数が違います。確率で計算するなら、同じくらいじゃないでしょうか」
「…そうか」
准将と会話しながら、しかしアレクは准将の隣で食事を摂っているエドが気になった。
ほとんどといっていいほど、手が動いていない。つまり、食事を摂っていないのだ。
「エド?」
視線は確かに食事を乗せたプレートに向いているのだが、視点があっていないようで。その上、アレクの呼びかけにも答えない。准将とアレクは一瞬視線を合わせて、再びアレクが呼んだ。
「エド?」
「鋼の。どうかしたか?」
准将の声にはしっかり反応する。
「え? 何が?」
「…疲れているのか?」
「…そうかな?」
エドの要領を得ない答えに、アレクは内心、不安を抱いた。
国家錬金術師の数が減っていくのは、戦闘による負傷、あるいは死亡のためではない。
負傷したのは、たった2名。
死亡者はいまだ出ていない。
マスタング師団が結成されてからたった2日で、最初の【落伍者】が出た。
本人の姿はなく、ただ【国家錬金術師資格返還希望書】と【退役希望書】が残されていた。
もちろんそんなもので退役が認められることもなく。
先日、自宅に戻っているところを憲兵に脱走兵として逮捕されたことを、聞いた。
希望して、退役するのはまだいい。
1週間を過ぎたころから、精神的不安定を見せる国家錬金術師が増えた。
10日過ぎからは、医師によって【戦争神経症】と診断され、後方の精神病院に移される者が出始めた。
後方移送決定は、最終的に准将やアレクや、エドの決済を必要とする。
それゆえに、書類決済の仕事が増えることになる。
「双域の。すまないが、書類仕事の指導を鋼にしてくれるか?」
突然の申し出に、アレクは首をかしげる。
「それはかまいませんが…准将は任務続行ですか? なんなら第2中隊、援護に入りましょうか?」
准将は穏やかに微笑んで。
「いや、かまわない。今のところはなんとかなる。第3中隊の半分をもらう。いいな、鋼の」
「え?」
やはり、会話に参加しきれないエドの様子に、しかし准将は穏やかに続けた。
「鋼の中隊から半分もらっていくが、かまわないね?」
「あ、ああ。いいさ」
「慣れないことで疲れたんだろう? 少し休むといい」
普段だったら、『まだ頑張れる!』と言ってみせる黄金の双眸は、しかし伏目がちなまま、力なくうなずいた。
「うん…ちょっと眠らせてもらう」
手のつけられていないプレートをそのままに、ふらりと立ち上がったエドの背中に、アレクが言う。
「あとで診察、受けなさいね」
「ああ」
エドが姿を消し。
アレクは眉を顰めて小声で言った。
「…なんか、あったんですか?」
「ん?」
食後のコーヒーをすすりながら、准将が言う。
「あったといえば、あったかな」
「なんですか?」
「…昨日の話だ。戦闘になってな」
あたりまえだ。我々は戦争しにきているのだから。アレクが内心だけで毒づくが、准将の話は進む。
「鋼が止めを刺した兵士の、持ち物が目に入ったのだ。家族写真だった…子供はまだ乳飲み子のようだったな」
「……それで、エドは?」
「しばらく写真を見つめていたが。一言、言ったな。『この人は、帰る場所に帰れないんだな』と」
その小さき言葉は、真実そのもので。
アレクは姿を消したエドがいるはずの、テントの方角を見つめる。准将もその方角を見つめて。
「私は言った。鋼も、帰る場所に帰りたいだろうと。鋼は帰りたいな…と言っていた。帰してやりたいが、だが…」
席から立ち上がったアレクは、ふと思い出して、ポケットに手を入れながら言った。
「准将。話は変わるんですけど」
「なんだ?」
「…グレイシア・ヒューズさんから手紙が来ました」
ピクリ。
一瞬震えて、しかし准将はすぐにそれを押し隠すように静かな声で言う。
「なにかあったのか?」
「マースの…快復があるかもしれないと」
ポケットから引っ張り出した手紙を、准将はアレクの手からひったくるように奪い。
急いで目を通す准将を置いて、アレクは歩き始めた。
不可視なものを理解すること。
それは意外に難しい。
命の尊さを知ること。
それはもっとも明確に理解するためには、命を絶つことになる。
自らが絶った命が、どんな風に世界に存在したか。
それを理解したとき、命の尊さに気づくのだ。
戦争は、悲劇でしかない。
それぞれは、それぞれ小さな理由で戦争に参加する。
なのに、結局正当化された殺人を犯すだけなのだ。
正当化されていても、命を奪うことには変わらず。
個々の思いが、しかし個々の命を奪い、やがて全なる世界の流れを作っていく。
それが世界の理と言われても、納得などできない。
…してはいけない。
そんな気がしていた。
乱立するテント。
急ごしらえではあったが、編成部隊の全員を収容できるほどの数は調えられていた。
本格的に秋までこの遠征が続くなら、こんなテントでは持ちこたえられるはずがないのは誰もが理解していたが、まだ夏ということもあって、誰からも苦情は出てこなかった。
最奥に作られた3つのテント。
中央の大振りなものが准将のテント。佐官が作戦会議を行えるスペースと、准将の執務室もかねているために、大きく作られている。
その両脇に少し小ぶりだが、一人にしては十分な広さを持つテントが2つあった。
アレクとエドのものだが、アレクはエドのテントを覗き込んだ。
パーテーションで仕切られた向こうに、かすかに人の動きを感じて、アレクは静かに声を上げた。
「エド、いいかな?」
返事を待たずに、アレクはあがり込む。
簡易ベッドの上で、エドは軍服の上を脱いだだけで、寝転がっていた。黒のタンクトップ一枚だ。
真夏といえども、このあたりは肌寒い。タンクトップ一枚だと冷える。しかしアレクは指摘せず、
「エド〜」
「…なに?」
背中を向けていたエドが振り返る。
「なんだよ」
「診察、受けてないでしょ」
「…どこも悪くない」
体は悪くないだろう。それはアレクが見ていても分かる。
それよりも、エドは医師の診察をいつも嫌う。
それは軍の医師が大抵が男性であることに原因があるようなのだが。
「あたしが診てあげるよ」
「…アレクが?」
「こうみえても、医療練成もやるんだから。医師免許は持ってるよ」
「……」
エドは素直に、ベッドから起き上がり、腰掛ける。
「で、何を診察するんだ?」
「聴診器もないから、問診だけね。どこか痛いところは?」
「ない」
「じゃあ、体に力が入りにくいとか?」
「…ない」
最初は一言で片付けていたが、問診が進むにつれて、回答に時間がかかり始めた。
「精神的に負荷がかかってるっていう自覚はある?」
「……ないと思う」
「ストレスを発散する方法を、自分で知っている?」
「……ストレスを感じていないから」
伏目がちの、黄金色の睫毛にしかし輝きを見て、アレクは隠すようにため息をついて。
すぐに、左手をエドの頬にあてる。
そのことに驚いて顔をあげたエドの眼は、しかしほのかに潤んで見える。
「なに?」
「エド。つらかったら、つらいって言いなさい。一人で溜め込まないで。ここは…エドだけの戦場じゃない。痛みを分かち合えるのは、あたしも、准将も、他にもたくさんいる。エドは一人で生きてるんじゃないよ」
ポロリ。
黄金の両目に浮かんだ涙はすぐに、ポロリ、ポロリと頬を伝いはじめる。
エドは震える声を押して言う。
「…アルの魂を鎧に練成したときに」
「うん」
「……泣かないって決めた。俺は泣けるけど、アルは泣けないから。だったら…俺も泣かないでいようって決めたんだ」
「うん。でも、アルくんはもう帰ってきたよ。笑ったり、泣いたりできるよ?」
「ああ…」
アレクはエドの右側に座る。
簡易ベッドがキシリと音を立てたが、うつむいているエドの頭を自分の肩に引き寄せた。
ここ何日も准将と一緒にいたせいだろう。
黄金の髪からは、准将の焔の匂いがほのかにした。
国家錬金術師になるって決めた時。
賢者の石を作って、軍人になることを決めた時。
いつか、自分は戦争に行く時が来るだろうと、自覚していた。
そして、人を殺すだろうと。
『鋼の。国家錬金術師は、人間兵器だ』
准将の、その言葉を理解していたつもりだった。
かつてイシュヴァールで、この世の果ての悲哀を見た准将の、言葉がどれほどの重さがあるのか、今思えば大して理解せず。
自分はここに来てしまったのだろうか。
国家錬金術になった時。
『決意』を、自分たちの中に、外に、形にしたくて、家を焼いた。
生まれ育った家を焼くことで、『故郷』を捨てようと決めたつもりだった。
だけど。
故郷を捨てるのと、帰る場所をなくしてしまうことは違う。
どこにあっても。
遠く離れてしまっても。
帰る場所は、いつだって自分たちの中にあった。
燃やしてしまっても、記憶の中で、家はある。
やさしかった母と。
ほとんど家にいなかった父と。
家族4人の歴史がつまった、家の記憶は、決して消えない。
だけど。
死んでしまったら。
昨日見た、家族写真。
その中央で移っている、ドラクマの軍服姿の男は。
さっき、エドに向かって叫びながら突進してきた男で。
エドはあわてて、地面から練成した突起で、男を吹き飛ばし。
男は地面に叩きつけられたあと、数回痙攣して動かなくなった。
穏やかな微笑の中、腕の中には小さな小さな命を抱えて、夫婦が移っている写真だった。
「あの人…会えないんだな。もう…あの子供にも、奥さんみたいな人にも」
ポロポロとこぼれ続ける涙もそのままに、エドは呟く。
アレクは静かに返した。
「人は…一人では生きていけない。誰かが死ねば、その死を悲しむ者がいる。エド…でも、あなたが死んでも悲しむものはいるんだよ」
エドのテントの入り口を閉じて。アレクはその場に立ち尽くす。
やさしい、悲哀だった。
エドは決して、自分が殺したことを悔んでいるわけではないのだ。
彼を殺したことは、自分が生き残る上で必要だったのだから。
だが、彼が家族と生きて会えないことは、悲しいと泣いた。
【戦争神経症】ではない。
アレクはそう判断した。
少し、そう少しだけ疲れているだけ。
中のエドには聞こえないようにため息を一つ吐いて。
歩き出そうとしたアレクの足元に、軍靴が見え。
アレクが顔を上げると、両手をポケットに入れた、見慣れた男の少し悲しげな表情があった。
「准将」
「鋼のは、どうだ?」
「少し疲れていたようです。今眠ってます。明日も半日眠らせてみましょう。寝れるときに、眠らせてあげたほうがいいでしょう」
「そうか…これを返しておく」
差し出されたのは、先ほど渡した『グレイシア・ヒューズ』からの手紙だった。
「少し…期待、できると思いませんか?」
「ああ…快復すればいいが」
「目が覚めたら、驚くでしょうね。あれほど子煩悩だったから。エリシアの大きさが全然違うし」
准将も口の端を上げて微笑む。
「双域の。そういう時は大きさとは言わない」
「あれ?」
大きさじゃなかったら、サイズ? 違うなぁ…なんだろう?
独り言をはじめたアレクをおいて、准将は自分のテントに向かって歩き出す。
「准将」
「少し、休む。何かあったら起こしてくれ」
「はぁ〜い」