北方攻略戦 3
幼心に、その空間はアレクにとって、『怖い所』で『楽しそうな所』だった。
『アレックス。あそこは、お父様のお部屋だからね。入っちゃだめよ』
自分のことを、決して女名で呼ばず、男名のアレックスで呼び続けた母の諌めも、しかしアレクの好奇心をくすぐるだけで。
書庫と呼ばれるその部屋には、たくさんの本が置かれ、アレクはその本を読むのが好きだった。
『まだ分からないでしょう?』
『わかるもん。なんとなくだけど…』
母は苦笑するが、決して褒めなかった。
代わりに褒めてくれたのは、遠い親戚の、年上の男の子二人。
『すごいな、アレクは。こんなの読んでわかるんかい?』
『元素編成なんて、高等技術じゃないか』
アレクは、褒めてくれる『兄』二人に抱きつく。
『ロイも、マースも、だいすき!』
『おぉ?』
『ちょっ、アレク!!』
飛び込んでくる小さなアレクの体を、マースはにっかりと笑いながら受け止めて。
ロイはあたふたしながら、それでも笑顔を見せている。
何も知らなかった、子供の頃の…夢だ。
「…ってば!」
「え?」
不意に呼びかけられて、アレクは一気に覚醒する。
ぼんやりと周囲を見回せば、あきれたような表情のエドがふんぞりかえって立っている。
「ア〜レ〜ク〜!!」
「なになに、なんかあったの?」
ちょっと乾燥気味の目を瞬かせて、アレクは自分の首筋を叩く。いつの間にか眠ってしまったようだ。
「なんかあったんじゃねぇよ。作戦中だろ! 寝るなよ」
「あはは、ごめんごめん」
あっけらかんと笑ってみせるけれど、エドは眉を顰めたまま。
「最近、眠ってないんじゃないのか?」
「そう? ま、仕事が忙しいけどね」
あっさりと返されて、エドはしかし表情を変えない。
「准将も、むちゃくちゃ忙しそうなのに…俺だけ作戦以外は暇なんて、なんか納得できないんだけどな」
今日は索敵が目的で、アレクが風を起こし、その風で凧を数枚あげて、敵の様子を見るだけなので、作戦としては大したものではない。どちらかというと、アレク一人でできるのでエドの『付き添い』はいらないのだが。
「准将が忙しいのは仕方ないよ。だって、師団の責任者なんだからね」
アレクは風の具合を確認する。数枚の凧を同時に地平ぎりぎりまで落とし、急上昇できるように風をコントロールする。
これは、空気変成を得意とするアレクならではの技で、空気の熱量のコントロールで気圧の変化を促しているのだが。決して細かい作業を得意としないエドは見ているだけで満足のようだった。
「その割にしては、中央からの電報が多いんじゃ?」
「そうかな〜」
「なあ、アレク」
エドはずずいと顔を寄せ、会話しながら上空の凧に意識を集中させるアレクの顔のすぐ横でひそひそと囁いた。
「なあ、絶対、なんか、企んでる、だろ?」
「何の話?」
「いや、絶対、なんか、やる、つもり、だろ?」
「区切り区切り、はっきり発音しなくてもあたしの耳には聞こえてるよ?」
手の平側に連成陣を書き込んだ手袋を、軽く合わせて。
アレクは上空を見て、話した左手を軽く振る。すると、一枚の凧が一陣の風を受けて地上近くまでかけ戻る。
次の瞬間。
乾いた銃声が聞こえた。
とはいえ、凧に動きはない。
周囲にいた兵士たちが銃を握り締め、辺りを警戒する。エドがジェスチャーで構えた銃をおろすように指示する。
耳をすませていたアレクも、エドに『もう一度』とジェスチャーして、手の平の練成陣を合わせた。
『正直、かなり急がなくてはならないかもな』
おっとりと言うが、しかしその内容は決して悠長なものではなく。
相変わらず口調と内容が一致しない准将の話に、エドは内心だけでため息をつく。
アレクがすぐ問う。
『急ぐ、とは?』
『情報が入った。大幅に増員された補給部隊が向こう側から上っているらしい。確かな筋からの情報らしい』
ここでいう確かな筋とは、軍がドラクマ内部に潜伏させているスパイからの情報ということなのだが。
『補給部隊が到着すれば、前線基地が本格的に設営されるだろう。となると…』
『今までの散発的な攻撃ではなくて、大隊規模の戦闘になる…』
アレクの独り言に、准将はうなずいた。
『可能性は高い。さて、ここまでは把握できている』
簡易机に広げられた地図はこのあたり一体のもので。各所に書き込みがされていて、アメストリス軍と、今まで分かっているドラクマ軍の様子が一目で分かるようになっている。
これまで何度も大規模な戦闘がされてはきたものの、ドラクマ軍もその都度補強されていると見えて、決して侵攻の手を緩めている様子がない上に、いまだゲリラ戦術を取っていることもあり、准将たちはまず勢力を把握することからはじめなくてはいけなかった。
『ブリックス全域に広がっているようだが、補給部隊が入ればまた、勢力地図が変わるだろう。だから』
准将は指先で地図の一点を軽く叩いて。
『おそらくは、ここに補給部隊の前線基地ができるはずだ。まだ補給部隊が入ってすぐの時に、その出来上がる前の基地を潰す。そうすれば、しばらくの大規模戦闘はないはずだから』
『…そうですね』
アレクも納得する。准将は続けた。
『おそらく情報によるならば、今週いっぱいには補給部隊が到着する。よって、全域の把握が必要になる。急務だ』
『分かりました』
というわけで、ここ3日ほど朝から晩までアレクは凧をあげているわけで。
空気変成を得意とする国家錬金術師は、実はもう2人いて、3人がかりでまだ索敵が終わっていない地域で片っ端から凧をあげているのだが、その一方でアレクは基地に戻っては准将との仕事を行って、と掛け持ちで半端なく忙しいのだ。
それをエドは邪推しているのだ。
「なあ、アレク」
「だから、何もないってば」
「ホントかよ」
あるといえば、ある。
だが、ここではいえないのだ。
辺りを見回すけれど、一般の兵士がいる上に、実は准将から口止めされているのだ。
『まだ確定的ではない。だから、鋼のには言うな』
ごめんね、エド。
心の中で謝って、アレクは言い張る。
「何もないよ」
「ふぅん」
「それはそうと、全然話変わるけどね。ヒューズ大佐の奥さんから手紙が来たの」
基地に帰還するエドの足が止まった。
アレクはそんなエドを、少し行き過ぎてから、
「エド」
「…グレイシアさんから?」
「ん」
「なんて?」
「最近、エリシアちゃんの声に反応するんだって。もしかしたら、意識が戻るかもしれないわね」
まだ、『賢者の石生成』が成る前のこと。
中央駅で、ブラッドレイ大総統がテロリストに襲われそうになった。
テロリストは自分の体内に大量の爆弾を隠し持ち、大総統が乗り込んだ大総統専用列車のすぐ隣で爆発させたのだ。
死亡者10名、重軽傷者42名。
重傷者の名前の中に、マース・ヒューズ中佐の名前もあり。
ごくごく軽傷者の名前の中に、ロイ・マスタング大佐と、『鋼の錬金術師』エドワード・エルリックもあった。
爆発寸前。
テロを察したヒューズ中佐は、大総統に知らせたあと、大佐とエドを庇って、爆発に巻き込まれ。
意識不明の重態で病院に担ぎ込まれたときには、その全身火傷はいつ息を引き取ってもおかしくないと言われたけれども、偶然中央司令部に来ていたアレクが生体練成で懸命の治療を施したおかげで何とか危機を乗り切ったが。
爆風で吹き飛ばされたとき、飛んできた瓦礫が頭部に当たったことによる重傷は、表面上の治療をアレクが施したけれども、意識は戻らず。
半年たって火傷の傷もほとんど癒えた今でも、ヒューズ大佐の意識は戻らない。
テロを大総統に知らせた功により、中佐から大佐に昇進したことも知らないままに、眠り続けているのだ。
エドも、准将も、ヒューズ大佐の話をすると、つらい表情を浮かべる。
自分が、『助けられた』という自覚があるから。
そのことで、大佐がいまだに眠り続けていると思っているから。
だが、アレクは准将には言ったのだ。
『マースはきっと、ありがとうなんて言ったら怒ると思うよ。自分はしたいことをしたんだからって』
「…中央に戻ったら」
エドの小さな声に、アレクは耳をそばだてる。
「ん?」
「中央に帰ったら、一度大佐の所、行かないといけないよな?」
「うん。会いに来てくれないって、サメザメ泣いちゃうよね」
おうよ。
何やってるんだよ、おめえらは。
ちゃきちゃき働いて、とっとと帰って来い。
そんなところで、おめえらが万国デタラメビックリ人間ショーに長居する必要なんてないんだからさ。
細いメガネの向こうで、きっとにっかり笑いながら、『マース』ならそういうはず。
アレクは小さくうなずいて、エドの頭を軽く叩いた。
「そういうことは、帰りの汽車の中で考えましょうね!」
「…はいはい」
基地に戻ると、すぐにアレクのテントに客人が現れた。
「中佐さん、ちょいといいかい」
「あら、タゴットさん?」
手入れをしていた小銃をホルダーに戻して、アレクは入ろうとしないタゴットに促されて、テントを出た。
「仮にも若い女のテントに入るのは気が引けるからな」
先のイシュヴァールの戦いで傷を受けたという、額の斜め傷を触るのがエバートン・タゴットの癖だ。
西方出身で、北方に駆り出される前からアレクとは旧知の仲でもある。
テントの入り口で、アレクは首をかしげる。
「それはいいですけど…何かあったんですか? タゴットさんはエ…ルリック中佐の隊でしょ?」
「あの姉さんが信用ならないとかそういうことじゃないんだ。ただ…その、ちびっと中佐さんより若いからな」
エバートン・タゴットは決して臆病ではない。ブリックスに向かう軍用列車の中で、中隊編成に異を唱えるわけでも、イシュヴァールの『かつての栄光』をひけらかすわけでもないが、実は西方からアレクとともに来た国家錬金術師の中で、アレクは一番賢く、一番温厚な人物だと思っていたのだが。
「20歳は、若すぎますか?」
アレクの言いたい言葉も一理ある。一般兵士の中にはまだ18歳という者もいる。だが、エドの20歳で、中佐で、は確かに国家錬金術師から見れば若く頼りなく見えるかもしれない。
「まあな…そんな話じゃなくてな。索敵作戦、早く終わらせたほうがいいぞ」
警告にも似た忠告に、アレクは再び首をかしげる。
「どうして? 急務ですから、急いではいますけど」
「そうか。実はな…不満がたまってる連中がいるんだよ」
来た。
北方に入る前、軍用列車の中で【イシュヴァールの栄光】を穏やかに語りあう好々爺たちが、混乱しているとはいえ、再び戦場に駆り出されて文句が出ないはずがないのだ。
あの軍用列車で感じた、いずれ起こるだろう、問題がとうとう起きたのではないか。
戦争経験者が抱く不満。
同じ軍用列車の中で、准将が口にした一言をアレクは忘れていない。
『イシュヴァールを知る者からは間違いなく、不満が出るだろうな。イシュヴァールでは…殺し尽くせばすんだからな』
准将の苦々しい表情も、アレクは忘れない。そして、その言葉を予感として、胸の深奥にしまったはずだったのだ。
アレクは当たってほしくなかった予感に、内心でため息をついて。
「不満って?」
「索敵ばかりで、派手な戦闘が大してないだろう? それが気に入らないみたいだな」
「…なんとなく分かってますけどね」
タゴットはアレクの言葉に安心したように、苦笑して。
「だろうな。中佐さんなら勘付いてはいるとは思ってたが。だけどな、ちょっと気になるんでご注進申しあげたわけだ」
「ありがとう、タゴットさん。助かりました。とにかく、対策は考えておきます」
「…緊急にな」
「はい」
「ふむ」
「これといって対策といわれても…、ないんですよね」
「そうだな」
アレクの言葉に、准将も頭をひねる。
「…ぱっぱと」
「だから駄目ですよ。資格剥奪なんて簡単にしたら、あとで中央に何言われるか分かったもんじゃないでしょ」
准将の言葉を、アレクが引き継いでしまったので准将は黙ってしまう。だがすぐに手にした電報をヒラヒラと振りながら言う。
「…さっき情報が入った。補給部隊がこの前言っていたポイントに入ったらしい」
「そうですか…うまくいけばやめてくれるはずだったんですけどね」
「まあ、期待しても…だが」
そのとき、エドが会議用テントに入ってくる。
「なあ、さっきから外が騒がしいぞ?」
「?」
エドの言葉の意味を分からずアレクは首をかしげる。
「なに?」
「俺んところじゃなくて、アレクのところのやつが何人も集まってわいわい言ってるぞ?」
「…まったく」
先程話していた【問題】だろうと、アレクが立ち上がったのだが。
「鋼の。話がある。内密の作戦だ」
突然、准将がまじめな表情で言い始める。エドも何を言われるか分からぬまま、
「なんだよ」
「だから作戦だ」
促されて、エドはしぶしぶ簡易椅子に座る。准将も机越しに座って、アレクにもジェスチャーで座るように促し。
「実はドライエドの筋から、連絡が入っている。国王の病が篤いらしい…」
「は?」
意味がわからず、エドは眉を顰める。
「ドライエドって…ドラクマの王都だろ? なんだよ、それ?」
アレクもすぐに意味を理解し、驚いた表情で准将を見たあと、叫んだ。
「ごめん!」
アレクの突然の大声に、エドはもっと眉を顰めることになる。
「なんだよ、アレク」
「嘘ついちゃった。実は何日か前から知ってたのってこのことなの」
「はぁ?」
エドは意味が分からず、首をかしげることしかできなかった。
ドラクマ。
大陸の北に位置する、巨大な版図を広げる国である。
しかしその領土は、ほとんど人が住める気候にはなく、冬季が長く、地面まで凍り付く世界なのだ。
それ故に、ドラクマは【人の生活できる】領土拡充を目指してきた。
だが、ここ20年ほどは拡充政策も停滞を余儀なくされてきた。
その理由は…。
「…良くも悪くも、大総統閣下、ってことじゃないの?」
エドが機嫌悪そうに鼻を鳴らす。准将はニヤリと笑い、
「ああ、結局はそういうことだ」
40代半ばという若さで、アメストリスの全権を掌握したブラッドレイ大総統は、人心掌握と領土拡充のために隣接する国々との国境争いを続けていた。アエルゴ然り、クレタ然り、もちろんドラクマ然りである。
アメストリスがブリックス山脈まで領土を広げたために、ドラクマはそれ以上の領土拡充を諦めざるを得なかった。
今までは不可侵条約と、ブリックス山麓に創られたブリックス要塞で【北の巨熊】ドラクマを抑えることができたのだが。
だがなにより、【大総統】という抑止力が働いていったのだと、実感させられる。
「…大総統の領土拡充政策で、北の熊は山向こうに押し込んだはずなのに、いまさら何で降りてくるんだ?」
「実は双域のと仮説を立てた。あまりにも侵攻が散発的で、ゲリラ的すぎるのだ。侵攻しているのはその紋章の単頭片足の熊からみるに、ドラクマ南方軍だと判断できるのだが…」
アレクが外で騒いでいるという【問題児に指導】すると姿を消して、エドの機嫌は悪くなる一方で。
素直にアレクが謝ったことと、自分が知らされていなかったことに怒りを感じている様子がありありと分かった。
准将はエドの顔を覗き込みながら、
「わかりやすく言うと、南方軍司令官はサルルド王子。現国王サリ・エムド8世の次男だ」
「次男?」
「…ドラクマは王制なのは知っているだろう?」
エドはぶすりと応える。
「王制なのも、サリ・エムド8世が重病ってのもさっき聞いた」
こう返されると、准将は話を続けることしか出来ない。
「国王には王妃との間に長男のカムムド王子がいて、これが王太子で、西方軍司令官を務めているという。それでなくても後継者として地位を確立しており、軍部もそのほとんどを掌握しているらしい」
「それで?」
「家庭不和、というやつだろうな」
「…なんだよ、それ」
ようやく話に参加してくる意志を見せたエドに少し安堵して、准将は続ける。
「サルルド王子はサリ・エムド8世の側室の子で、国王が非常にかわいがり、国王が今の王太子を廃嫡して、サルルド王子を王太子にしようとしているという噂が流れたこともある。どうも…実行しようとしていたようだな。そんな矢先に、国王が病に倒れた」
「うわ」
不快な表情をエドが浮かべる。
「病の原因は伝わって来ていないが、かなりの重体らしい。それが確かな筋から聞こえてきたのは、侵攻が始まったあとだったが、双域のが言い出したんだが、本気の侵攻に見えない理由が見えてきたのだ」
「アレクが言ってた。二個師団をもってして一気に侵攻すれば、ブリックス要塞を抑えられるのに、なぜしないのかって」
「そうだ」
その疑問は、侵攻が始まってすぐに持ち上がった話だ。だが、誰もが答えを見つけ出せなかった。
それを導き出したのは、ドラクマから漏れてきた真相と、それをつなぎ合わせたアレクだった。
「ドラクマは、いや、南方軍はあえてパフォーマンスとして侵攻した。なぜか」
エドは記憶の片隅から、思い出を引っ張り出す。
「確か…ドラクマは戦争宣言している間は、将軍クラスは更迭されないんだよな」
「ん? 鋼の、よくしっているな」
知っているも何も、それを教えたのはかつての准将だった。
『いくら無能な将軍でも、急な更迭ではやはり混乱を来す。それ故の伝統らしいが』
『へえ。じゃあ大佐、ドラクマに移った方がよくないか?』
『なんだと、私が無能だというのか!』
毛色ばむ大佐を、そしらぬように見つめてエドがぼそりと言う。
『ま、無能な時もあるな』
『無能…』
「そういえば、私が言ったな…」
無能呼ばわりされたことを思い出したようで、准将はがっくりと肩を落とす。
「ま…とにかくだ。出兵してしまえば軍を奪われず、自分の地位も安全であると考えたのかも知れないな…それが双域の仮説だ」
「…」
「状況が動くぞ。国王薨去の報が入った」
「死んだ?」
エドがその形の良い眉を顰める。
「おそらくはおとといの話だ。昨日、ムサ・カムド2世の名前で中央に停戦協定の申し入れがあった」
「ムサ・カムド2世っていうのが、カムムド王太子?」
「おそらくは、な」
「じゃあ、あれはなんなんだよ」
エドがブリックス山脈を指差す。
丈高き山、重々しく聳える嶺々にいるのは。
「…権力争いに巻き込まれた、哀れな者たち、ということになるかな…」
准将のテントを出る時、エドが眉を顰めて自分の背中を睨みつけているのと、それを困ったように准将が見つめているだろうことは、容易に想像がついた。だがアレクは振り返らず、テントの入り口で敬礼をする兵士に聞く。
「なんだか騒がしいそうね。どこだか分かる?」
「は。要塞への連絡通路と聞いております」
「…わかった。ありがとう」
ごく自然に目礼すると、兵士は敬礼で返す。
アレクは背筋を伸ばして、誰にも聞こえないように小さな声で囁いた。
「さて、教育的指導の時間だよ」
ブリックス要塞につながる連絡通路は単なる通路ではなく、塹壕をつないだもので、ここすら戦場であることを忘れさせない光景だ。
塹壕なので決して広い通路ではなく、車などは通れない。とはいえ人が行き違うには十分な幅を持たせてあるにもかかわらず、そこに人だかりが出来ていて、明らかに交通の妨げになっていた。
首を長くして中を覗こうとしている兵士の背中に、アレクは穏やかに話しかける。
「どう? 見える?」
「いや、全然。まったく、国家錬金術師ってだけでいい顔しやがって。この上、まだ文句があるなんておかしいって思わ」
ないか?
そう続けたかった兵士は自分が話しかけている兵士の姿を確認して言葉をつまらせる。
肩の徽章は、中佐。
何よりまとめてある銀色の髪。
そうでなくても、兵士はアレクを知っていた。
あわてふためいて、大声で叫ぶ。
「し、失礼しました!! 中佐どの!!」
その声に人だかりが一気に解ける。その場にいたほとんどが一斉に敬礼したからだ。アレクは苦笑して、
「通行の妨げになっているわね。部署に戻りなさい」
「はい!」
駆け足で人だかりの人数が加速度的に減少して。
そこには見慣れた顔がいくつもあった。
紅潮している顔。
冷静な顔。
その中の数人が、顔にアザや口の端が切れて出血しているのを見て、アレクは今度は隠しもせずに大きな溜息をついてみせて。
「とにかく医務所に移動しましょう」
「中佐、これは」
何かを言おうとする男を無言のままとどめて、アレクは続ける。
「話は、医務所で聞きます」
単なる殴り合いのケンカだったようで、たいした怪我人もなく。
アレクは軍医に許可を得て、診察室の一つに騒動を起こしたと見られる10人ほどを集めた。
「さて。聞きましょうか」
さらりと言って、アレクは全員を見回した。
全員が見知った顔だった。イシュヴァール組は3人。年令は高いが屈強な様子が見て取れる。
その一方で、残りの7人は特に鍛えた様子もみられず、どちらかといえば特徴のない一般人と同じ風体だった。
アレクは7人の中に、一層見知った顔をみつけて、思わず深い深い溜息をつく。
「アンリ・ルーベンス少佐…。あなたまで、ですか?」
悔いるようにうつむく少佐を、しかしアレクは問う。
「何があったか、説明しなさい」
「はい…」
アンリ・ルーベンスは中央司令部所属で、その他の国家錬金術師たちとは違い、国家錬金術師資格を得ると同時に入隊、アレクや准将と同じ軍人畑で育っているだけに、【問題児】の中でも巻き込まれることなく、どちらかといえば問題児たちをまとめていけると期待して、アレクの中隊に入れたはずだったのに。
「最初は…単なる言い争いだったんです」
アレクよりいくらか年上のルーベンス少佐は小さくなりながら、言った。