北方攻略戦 5






「ん?」
前線に向かうトラックに乗り込む寸前、アレクの足が止まった。
「中佐?」
「…誰か、あたしを呼んだ?」
部下達はあたりを見回して。
「いえ。誰も呼んでいません」
「そう…」
胸騒ぎがした。
空耳のように、幻聴のように聞こえたのは。
多分、『アレク』の呼び名。
そんな呼び名で呼ぶのは、この周辺では2人しかいない。
胸騒ぎを抑えられず、トラックに飛び込んでアレクは叫んだ。
「早く出して!」
何かが、あったということだけ。
それだけ、アレクに分かった。



山麓に向かって拡声器に乗ってアレクの声が何度となく、響いた。
散発的に響いていた戦闘の音は、次第に聞こえなくなり。
前線基地に対する強襲作戦に参加していた第28師団は、次第にアレクの元に集まり始めた。
「タゴットさん」
「おい、うちの中佐を知らないか?」
意外なタゴットの言葉に、アレクは眉を顰める。
「エルリック中佐?」
「そうだよ。確かに明け方まで指揮をしてたのに、途中から姿が見えないんだ。ああ、准将も明け方から姿が見えないらしい」
「明け方…明け方に全部が合流したんじゃなかった?」
タゴットは疲労の色が濃い顔で頷く。
「ああ。そうだ」
負傷兵の収容を最優先で指示しながら、佐官を見つけてはアレクは問う。
「准将は?」
誰の応えも、知らない、だった。
アレクの中で、ざわざわと胸騒ぎだけが質量を増している。



准将が立てた前線基地強襲作戦は、第28師団を使った変則的波状攻撃だった。
全部で第5波までが計画されていた。
第1波は准将と第1中隊の半数。
第2波は第1中隊の半数と第3中隊。
第3波は第1波と第2波が一度退き、合流する。
第4波はエドと第2中隊。
第5波はすべてが合流。
アレクは上手くいかないと断言したが、なぜか准将は自信満々で、成功すると言い切ったのだ。
明け方、第4波までは順調に進んでいた。そして第5波に入った時に何かがあったとしか考えられない。



「中佐! さきほど負傷兵から、准将とエルリック中佐が一緒にいるのを見たと!」
随行してきたルーベンス少佐の声に、負傷兵の治療に急遽参加していたアレクは慌てて顔を上げる。
「どこで?」
「少し基地よりです。さきほどトラックを向かわせました。それが負傷兵の話では、准将の傷が深いようです」
アレクは目を細めて、
「…そう」
「どうしましょう、傷の具合によってはここに寄らずに、駐屯地まで帰って治療をした方がいいのでは」
アレクは軽く下唇を噛んで、
「いや、逆に言えばあまり動かさない方がいいのかもしれない。ここに運んでもらいましょう。私が、見ます」
「中佐が?」
少佐は不思議そうにアレクを見たが、一瞬で思い出す。
そうだった。
アレクサンドライト・ミュラー。
国軍中佐だが、『双域の錬金術師』の異名を持つ。
空気変成を専門分野とするけれど、医療錬成もこなす。
故に、『双域』と名付けられたのだから。



トラックが軋むようなブレーキをかけて止まったのは、アレクの前だった。
荷台に乗っていた兵士が飛び降りて、再び負傷兵を治療していたアレクを探す。
「ミュラー中佐!」
顔をあげると、兵士は敬礼もそこそこに叫んだ。
「准将を搬送してまいりましたが、絶対安静をエルリック中佐が」
兵士の言葉が切れたのは、『エルリック中佐』の名前にアレクがすぐにトラックに走ったからだった。
アレクは身軽く、荷台に飛び乗り、そこで惨状を目にする。
横たわる、男。
その青の制服は、胸部から下腹部にかけてどす黒く変色している。
男の胸部に黄金の髪の少女が両手を当てている。その両手は微かに錬成光を帯びていて、少女が男に医療錬成を行っているのを、アレクは理解した。
そして、少女の名前を呼ぶ。
「エド…」
少女は両手は男の胸の上に置いたまま、顔を上げる。
泣いていたのか、目は赤く腫れ、その頬には血痕がついている。
「アレク! 血が、血が止まらない!」
エド越しに見える准将の顔色は、白く見えた。ここに来て数人見た、息を引き取る寸前の兵士の顔色と、同じだった。アレクは自分を落ち着かせようと一度だけ深呼吸をして、歩み寄る。
腕の脈をとる。脈は力強く、アレクの指先に感じられた。首筋の頸動脈も、顔色ほどは弱った体ではなかった。少しだけ安心して、アレクはエドに言う。
「どんな怪我をしたの?」
「…俺を庇って」



すべての事柄が、終わったあとにアレクはようやくこの強襲作戦と、その顛末を知ることができた。
作戦通り、強襲作戦は上手くいっていた。
最終局面まで。
第5波は、第28師団総員での作戦に近かった。しかし、ドラクマもなんとか持ちこたえようと必死だった。
エドと准将は近いところで戦っていたのだ。
おそらくは、少し離れたところで中佐の徽章を見たドラクマ兵が、エドをねらっていたのだろう。佐官級をねらうことはアメストリスもするので、別に卑怯などではない。
それをどう察知したのかは分からない。
だが、突然エドは准将にのしかかられ、何の冗談かと無理矢理准将の身体を引き離してみれば、既に准将の意識はなく、胸部から多量出血していたのだ。
エドは必死だった。
エドの得意分野は金属物の変成だ。確かに賢者の石で肉体を生成したが、それは医療錬成ではなく、あくまで【人体錬成】なのだ。
だが、必死だったエドは医療錬成をしてみせた。
結果として、銃弾で引き裂かれた准将の肺動脈はエドの医療錬成で、なんとか回復していたのだから。



アレクは自分の胸ポケットからメモを取り出し、さらさらと書き付けて、ルーベンス少佐を呼んだ。
「このメモのものを大至急ここに持ってきて。准将の怪我は動かせる状態じゃないから」
「はい!」
違うポケットから、錬成陣の描かれた手袋を引っ張り出し、アレクは手早く装着して、エドを呼ぶ。
「エド」
エドは准将から手が離せない。
離せば、出血が止まらないのだ。
「いいから、離して」
アレクは無理矢理エドの手を、准将の胸部から引き離す。
蒼い錬成光が見えなくなってすぐに、准将の軍服の胸部が一層のどす黒さを見せる。
「アレク!」
「いいの。まだ、なんとかなる。エドが緊急で肺動脈をつないだから。お手柄だよ、動脈を助けたから、准将は助かるから」
再び准将に抱きつこうとするエドを、身体で止めて。
アレクは力いっぱい、エドを自分の身体から離したあとに。
エドの頬が乾いた音を立てた。
自分が頬を叩かれたのだと、エドが気付くのに少し時間がかかった。
「え?」
突然のことに、トラックの荷台を覗き込んでいる兵士達がギョッとした表情を浮かべる。
「アレク?」
「エド、よく聞きなさい」
まだぼんやりした様子のエドに、しかしアレクは容赦なく言い放つ。
「これ以上、細かい医療錬成なんてやったことのないエドには、准将は救えない。あたしが後を引き受けるから、エドは基地の掌握、負傷兵の収容…ほかにも山ほど仕事はあるわ。准将の治療はあたしに任せて」
「…アレク」
「エド! 時間がないの! 分かって」
アレクの声に、合っていなかった視点が急速に焦点を結ぶ。
「分かった…」
「うん」
「アレク、准将を…頼むな」
「必ず、助ける」
黄金の双眸は、ようやく強い意志を見せ始めて。
「あと、頼む」
軽やかに荷台から飛び降り、矢継ぎ早に指示を出す背中を見て、アレクは小さな安堵の溜息をついて。
横たわる、准将に振り返った。
「さて、准将…まだまだくたばるには、早いよね?」



両の掌に描かれた錬成陣が光を放つ。
大きな動脈は、エドの必死の錬成でつながった。
アレクは触診で、准将の出血は銃が前から後ろまで貫通していることによるものだと確認している。
だが、肺を突き抜けているために動脈を、毛細血管を傷つけている。
ルーベンス少佐に手配を頼んだ機材と医師は到着したが、一番来て欲しかった医療系の錬金術師は、強襲作戦での負傷者が多く、人数を割けなかった。
「中佐…」
医師は途方にくれた表情で、アレクを見ている。
アレクは、医療錬成で背中の貫通痕をふさいで、
「細血管をすべて錬成するのは無理だから、肺の表面肺胞のみの医療錬成をします」
聞いたことのない医療錬成に、医師は首をかしげる。
「肺胞細胞のみ、ですか?」
「開腹しての錬成なので、来ていただいたんですよ」
ようやく自分の役目がわかって、医師はほっとした表情を浮かべる半面で、
「大丈夫でしょうか…」
「やるしかないでしょうね」



夕闇が、迫っていた。
アレクは思わず肩を揉んで、自分の行為に苦笑する。
そんなことをするのは中年だ。
確か疲労しきった准将がやっていた時に、そう非難したのは自分だったのに。
「やばいなぁ…そういう年令になったってことかなぁ」
ぼやいてみるけれど、返事はどこからもなく。
動かせないため、トラックの荷台で6時間。
何とか医療錬成を終えて、慎重にトラックを走らせて、駐屯地まで帰ってきたのがさきほど。
拡声器で停戦命令を連呼してから、12時間。
さすがに疲労感はぬぐえない。
とはいえ、強襲作戦で発生した負傷者への治療はほとんど終わり、エドは強襲作戦で降伏させた基地の武装解除を完了させて、駐屯地に帰って来たのがさっき。
たいした怪我ではなかったが、アレクは無理矢理エドを入院させた。
『どこも怪我してないぞ?』
『准将のお守り、して欲しいのよ。目覚めた時に一人だったらいじけるからね』
とんでもない理由で入院させられたエドだが、文句も言わずに准将のベッドの横にちょこんと座った。
となると、アレクには一睡の時間もなくなり。
准将の血に染まった医療用の作業衣を脱ぎ捨てて、軍服を着る。
ブリックス要塞での軍議に参加するためだ。



ドラクマ王位継承争いは、意外なまでにあっけなく終わった。
もちろん最初から、カムムド王太子が圧倒的に優位にあって、サルルド王子の王位継承はあくまでも王子と亡き王の『夢』でしかなかったからだ。
准将とアレクが推測したとおり、サルルド王子は時間稼ぎのために自身が司令官を務める南方軍を動かし、アメストリスに侵攻をかけた。
戦闘状態にある軍司令官は、更迭されない。
それはドラクマの強味であり、しかし弱点でもあった。
サルルド王子はこうして生み出された時間を、王都ドライエドにあって、自らの王位継承権を主張しようと画策していたのだ。
だが、大事な一点を見逃していた。
サルルド王子は、逮捕された。
国家反逆罪と、『軍からの脱走』で。
戦闘状態にある軍司令官は、更迭されない。
だがそれは戦地にあっての不文律であり、戦地でない王都では適応されない不文律であることを、知らなかったのだ。
そして、それを知っていたカムムド王太子により、逮捕された。
「…サルルド王子は、どうなるんですか?」
アレクの問いに、アームストロング少将は無言のまま、首を横に振った。
ドラクマの民ですら、どうなるか知らないのに、他国の者がそれを知るよしはない。
だが、二度とアメストリスまで名前が聞こえてくることはないだろう。
アレクはふと、哀しい気分に陥りそうになったが、自分を鼓舞して、
「次の南方司令官が式典出席になるんですよね」
「ええ。カララト大公、3代前の国王の第7王子だそうよ」
アレクは小さく頷く。
「ではそのカララト大公と、条約締結になるんですね」
ドラクマは停戦協定と、不可侵条約の再度施行を正式な外交筋を使って、ドラクマ国王ムサ=カムド2世の名前で示してきた。それはアメストリス国も望んだものであり、この外交要求をもって中央からの正式な停戦命令発効としたのだ。
だが、その停戦命令に先んじて、第28師団は前線基地を抑える命令を受けていた。
なぜなら、前線基地を降伏させることは、不可侵条約を迅速に、またアメストリス優位にもっていけると判断したのだ。
停戦命令に幾ばくかは前後したものの、前線基地を抑えることが成功したので、中央からはそれ相応の評価が与えられている。そのために、第28師団の最高責任者であるマスタング准将が負傷のために、ミュラー中佐が代行者として停戦協定と捕虜受け渡しにあたることを認められていた。通常なら将軍格が中央から至急呼び寄せられるものだが、北方司令部からアームストロング少将と、アレクの2人で不可侵条約と停戦協定締結の式典を行うことになっていた。
「明後日は到着するようだから、確認でき次第、先に捕虜を渡します。いいですね」
少将の言葉に、アレクは頷いて、
「準備はできています」
「そう…それはそうと、マスタング准将はどう?」
アレクは一瞬言いよどんで。
「…治療は成功しています…今日明日、目を覚ませば大丈夫なんですが…」
「…そう」



ようやく自分のテントで一息つけようと、要塞から連絡通路を通ろうとしていた時。
アレクは遠くから呼び止められた。
立ち止まると、一人の通信兵がアレクの前まで走ってきて、肩で息をしている状態で何かを話そうとしているのだが、荒い呼吸で何を言っているのか分からない。
「なに?」
「…通信室に…来て…ください…緊急の電話…中央から」
アレクは眉を顰めて、しかし不明な状況に通信兵を置き去りにして通信室に走った。
飛び込んできたアレクを見て、兵士たちが声をあげる。
「中佐!」
「なに? 中央からって」
「中佐、この電話を」
受話器を差し出した通信佐官の顔にアレクは見覚えがあった。女性佐官は珍しい。確か、中央の通信司令部にいた少佐だと、不意に思い出す。だが、その顔に驚きと喜びが浮かんでいるのを見て、しかし理由が分からず受話器を受け取り、耳元にあてて。
「もしもし?」
受話器から流れ出した、声に。
アレクは目を見張り。
震える声で、囁いた。
「…マース?」



太陽が、眩しかった。
エドは差し込む陽光を少し和らげようと、レースのカーテンを眠り続ける准将の顔に陽光が当たらない程度にひく。
強襲作戦終了後、医務所には山ほどの負傷者がいたが、2日経った今では動かせないような重傷者が数えるくらいしか残っていない。本来ならエドも『軽傷者』として北方司令部に移されるはずだったが、准将の『お守り』に残されたことを医務所の軍医たちも知っているので、准将の隣にいることを咎める者はいない。
『エド!』
初めて名前を呼ばれ、振り返るとエドの視界を全て覆うように、准将はエドに飛びかかり。
銃声に続いて、准将の身体がビクリと跳ねるのを感じたけれど、それがそのときのエドには何を意味するのか分からなかった。
『なんだよ、准将。重いって』
押しのけた准将は。
エドが抱え上げると、微かに苦しい息の中で微笑んで、
『よかった…守れたな…エド』
『准将!』
胸元は、その青の軍服の色を赤黒く変えて。
男はゆっくりと目を閉じた。
微笑みながら。
エドはここにいたって、状況を飲み込む。
『准将! ロイ!』
あのとき見た穏やかな表情を、エドは忘れられない。
あれは、病床にあった母が時折自分とアルを見て浮かべていた表情と同じ。
我が子の行く末が、未来が幸多かれと。
恐らくはそこに、自分がいることはないのだろうという、諦観。
准将の名前を呼びながら、エドは必死に自らの手足を、弟の肉体を作り上げたあの記憶を辿って、両の掌を打ち合わせ、錬成する。
激しい錬成光の中、何人かの一般兵士がエドと准将を守ってくれた。
そしてトラックを見つけて運び込み、なんとかアレクの元に運んだのだ。
『鋼の。心配しなくてもいい。私も君の直属の上司として師団の責任者を拝命したからね』
アルの代わりに、エドが行くと決めた時。
穏やかに微笑んで、准将は言った。
だがあの時浮かべていた表情は…。
銃弾に倒れた時と、同じではなかったのか。
こうなることを望んでいたのか。
エドはいつの間にか、カーテンを握りしめていたらしい。
「エド。カーテン、ひきちぎるつもり?」
静かなアレクの声に、エドは自分の手元を見て、慌ててカーテンを離す。
「アレク…」
アレクは准将の枕元に向かい、准将の腕を取って脈を確認する。そして小さく頷いて、
「大丈夫、脈はしっかりしてるから。目が覚めたら問題ないんだけどね」
「ああ」
「エド、この書類、サインしてくれる? 捕虜交換の手続きなのよ」
「わかった」
渡された書類にエドがサインしている間に、アレクは准将のベッドの横に置かれた椅子に座り、准将の寝顔を見つめ、ぽつりと言った。
「まったく。あっちが起きたら、こっちが寝るなんてね」
「?」
アレクに書類を返しながら、エドは首をかしげる。
「何の話?」
「中央からさっき電話が入ってね」
アレクはエドを見つめて、言う。
「ヒューズ大佐の、意識が戻った。それもあたしたちがブリックスに入った時に目覚めてたらしい。さっき自分で電話してきた」
あっさりと告げられたとんでもない事実に、エドは愕然とする。
「な…」
「びっくりしたわよ〜、こっちの通信室にヒューズ大佐のことを知ってた少佐がいてね。あたしに電話してきたのが大佐だって分かって、通信室、上へ下への大騒動で」
「ヒューズ、大佐が?」
「そうよ」
アレクはにっかりと笑ってみせて、
「身体的障害も残らずに、今は半年も寝てたからたくさん食べて、動けるようにリハビリしてるんだって」
それから准将を見つめて。
「ほら、准将。大佐も起きたんだから、起きないとね。眠り姫じゃなくって、眠り王子さま」



『なんだよ、それは』
「そう言われても、起きないものは起きないから」
溜息混じりに告げると、受話器の向こうでくつくつと聞き慣れた笑い声が聞こえる。
『眠り王子ってか』
「まあ、確かに医療錬成が成功したにしても、ずいぶん出血したから。少し眠れば体力回復するとは思うけど…何よりエドが見てられなくて」
『悪いのか、エドも』
「悪くないよ。ただ、ロイの側においといた方がいいと思って」
アレクの言葉に、ヒューズはしばらく黙って。
『なあ、アレク。お前さ、分かってるのか?』
「何が?」
『ロイが、エドのこと、どう思ってんのかってことだよ』
「…こっち来る途中に気付いた」
『そっか』
「だけど、多分なんだけど。エドもロイのこと」
『なんだそりゃ、結局ハッピーエンドじゃねえかよ』
苦笑が聞こえるが、アレクは続ける。
「いや、難しいのよ。ロイがひねくれてるからなおのこと。エドはそういうところ鈍感にできてるし」
『…しゃあねえな。とにかくロイが起きたら連絡寄こせよ』
「うん」



「エド」
「え?」
不意に呼ばれて、エドは思考の海から引きずり戻されて。
「な、なんだよ」
「エド、あたしと准将がすっごい仲良いって疑ってたでしょ」
「え?」
「ちょっと、ヤキモチ焼いてたでしょ」
にこにこ。
その笑顔の意味が分からず、しかしエドは取りあえず反撥してみる。
「そ、そんなんじゃ」
「あのね。准将と大佐って、両親いないの知ってる?」
「は?」
突然の話についていけず。
エドは目を瞬かせ。
「なんの…」
「いないのよ。で、遠戚にあたるレオナイト・ミュラーって人が引き取って面倒見たんだけど。そのレオナイト・ミュラーって、あたしの祖父なのね」
「は?」
何を自分が言われているのか、理解できなかった。
だがアレクは話を進める。
「つまり。あたしはロイとマースにとって恩人の孫であり、同時に一緒に育ったから妹みたいなもんなの」
「い、もうと?」
「うん」
ほんわりと微笑んで。
アレクは書類を手にして。
「そういうことなの。じゃ、ロイ、准将のことよろしくね」



妹?
混乱する思考を落ち着けようとして、エドはアレクが座っていた椅子に座り、准将の寝顔を見つめる。
アレクが、准将の妹?
そう言われれば、准将の、アレクの、秘められた親しそうな会話が納得できた。
エドが姿を見せると、親しげに離していたアレクが敬語に戻る。
何を話していたのか、気にならないはずはなかったのだが。
「…なんだ」
口元が綻ぶ。
「…なぁんだ」
先ほどアレクが脈を確かめるために出した准将の手を。
なんとなく握りしめて、エドは微笑みながら呟いた。
「そう、だったんだ」



准将。
起きてくれよ。
俺さ、准将に言いたいことあるんだ。
護ってくれて、ありがとうって言いたいんだよ…。
起きて、くれよ。



8月7日。
数日前、准将とエドが攻め込み、掌握した前線基地の跡地で、調印式が行われた。
急遽参加したドラクマのカララト大公は、南方司令官の正装で現れ、設えられたテントの中で、『副総統代行』のアームストロング少将と向き合って座り、同じく急遽用意された不可侵条約の立派な表装の書類にサインを書き込んだ。
カララト大公の背後には、ずらりと兵士が並び、静かに調印式を見守っている。黒を基調としたその軍服は、アメストリスのそれよりも、否、あるいは人数が遙かに少なかったためか、威圧感を見せていた。
「まったく、こちらもごたごたした挙げ句だったので、おそらく近日中に国王陛下から、謝罪の使者が赴くことになる」
3代前の国王の子、と聞いていたのでかなりの高齢かと思いきや、40代だというカララト大公は、アメストリス語も堪能で、アレクは意外な大公の様子に、少将の随員の一人として威を正して見つめていた。
「そうですか。それでは、捕虜の受け渡しをさせてもらっても?」
鷹揚に大公が頷いたのを見て、少将が声をあげる。
「ミュラー中佐」
「は」
アレクは一歩前に出て、同じく前に出た大公の随員の一人に書類を手渡す。
「こちらが確認している捕虜の人数と、全員の名前を列挙してあります」
「お預かりします」
随員はそのまま大公にその書類を差し出した。大公はパラパラとめくってみせて、不意にアレクを見つめて言う。
「そういえば、第28師団とやらが基地を強襲したのであったな…司令官は誰なのだ?」
アレクは判断に困り、少将をちらりと見るが、少将が微かに頷いたので返事をすることにする。
「ロイ・マスタング准将であります」
「ほお。ずいぶんと策士のようだな。会えるかな?」
「…申し訳ありません。諸事情により、この地を離れております」
「そうか…残念だな」
「大公閣下、下聞されているミュラー中佐は准将の部下です」
少将の言葉に、カララト大公は目を細め。
「ほぉ。准将とは長いのかね」
「はい。入隊して以来のつきあいです」
別に嘘をつく必要もないので、アレクは正直に応える。
「なるほど。この度の作戦、敵ながら見事としか言いようがない。中佐、良い上司を持ったな」
アレクは瞬間どんな顔をして良いのか分からなかったが、すぐに笑んでみせて。
「はい。尊敬しています」



天嶮たる峰を越えて、眩しい陽光が差し込む。
一気に放射した目映い輝きに、アレクは目を細める。
夕方にドラクマに引き渡された捕虜たちの姿は、既に前線基地跡にはない。
必要な資材等もすべて、ドラクマ側は持って帰ってしまった。
何も残っていない地面ではなく、低い雲の合間を放射する陽光を見上げてアレクは小さく溜息をつく。
これで、北方戦線は終熄を迎えるだろう。
また中央に帰れば、ブラッドレイ大総統が姿を消したことで、混迷を極める軍部のどこまでも収まらない波に投げ込まれるのは分かっている。
だが、軍人である以上、帰るのはあそこなのだ。
戦いは終わらない。
かつて、准将から聞かされた『望み』をかなえるために、自分は軍にいるのだから。
戦いは続く。
准将を、高みに押し上げる、その日まで。



ぴくり。
陽光を受けて、准将の瞼が微かに動き。
ゆっくりと開いていく。
漆黒の双眸は、しばらく眩しそうにしていたが。
自分の片手を誰かが握っていることに、気付いて。
ゆっくりと視線を動かす。
ベッドの傍らに見えるのは、陽光を受けて輝く黄金の髪。准将はそれが誰かすぐに理解して、ゆっくりと穏やかに微笑んで。
彼女が握って離さない手を、強く握り返してみる。
彼女はその刺激に微かに身動ぎして。
顔を慌てて上げる。
そして、穏やかに微笑む男の顔を見つめる。
「じゅんしょ!」
准将は返事はせず、ただ握りしめる。
エドは医師を呼ぼうと立ち上がろうとするが、握りしめた手を離せず。すぐにもう一度座り直した。
そして、准将を見つめる。
「良かった…」
「…何度も君の声が聞こえたな、鋼の」
次の瞬間。
エドの目からぽろぽろと大粒の涙が溢れ、幾筋も後を残しながら、頬を下っていく。
「あ、あれ?」
握っていない方の手でぬぐってみせるけれど、それよりも遙かに早いスピードで涙はぽろぽろとこぼれ落ちる。
「鋼の」
「ごめん、なんか止まらない」
はらり、はらり。
止まらない涙を、もうエドはぬぐいもせず、ゆったりと微笑みながら准将を見る。
「でも、准将が起きてくれてよかった…起きなきゃ、アレクが危ないって」
「…」
准将も握っていない手を差しのばし、エドの涙を拭き取ろうとする。
そのとき。
エドが呟くように言った。
「准将…ありがと」
「…ん?」
「護ってくれて、ありがとう」
涙もそのままに、エドは恥ずかしさに耐えきれずうつむいてしまう。
准将は一瞬手を止めて、
そして、
微笑んで。
「私からも礼を言う…ありがとう」



繰り返される、感謝の言葉。
エドの涙は止まらず。
准将は微笑み。



夜明けの陽光の中で、覚醒した。




end......


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