比翼連理 1






深更。
青年は、椅子に座りながら深いため息を吐く。
飲み物を勧める執事を、手振りだけで部屋から退出させて。
青年は自分の身を包む豪奢な正装を、無言のまま脱ぎ捨てる。最高級の絹で作られていても、青年にとっては限りなく細かく決められた宮中の礼儀に従いながら、まして裳裾を気にするという行為は苦痛そのものでしかない。
着付けてもらうのに小1時間はかかった正装は、今や寐間の片隅で色とりどりの塊になっている。
青年はタバコに火をつけてから、誰もいないはずの中空を見上げて声をかけた。
「いるか?」
「は」
小さな風の流れ。次の瞬間、青年の足下に跪く姿が二つ。青年は動じることなくタバコを吸いながら、声を上げた。
「アメストリス行きが決まった」
「え?」
顔を上げたのは一人。初老の男は眉をひそめて続いた青年の言葉を聞く。
「アメストリスでの不可侵条約調印に参加してくること、それが第一の目的。第二の目的は出来たてのクセルクセス鉄道を皇族が使う、それが経済的効果を生む。第3に俺の見聞を広げるよい機会になるそうだ」
吐き捨てるような言葉に、初老の男は全てを察した。
「カン家のリーティン皇子ですか」
「ほかにそんな嫌らしい根回しする奴はいないからな」
青年はタバコの煙を吐き出して、
「自分も行きたいが、病弱故にいけないから妹に行ってもらう、妹は留学して見聞を広げたいと望んでいた、ときたからな。非難もできない」
宮中は、鬼の栖。
決して飲まれてはならぬし、飲んでもならぬ。
それは亡き母の教えだ。
「リンさま」
初老の男の隣で、もう一人が声を上げつつ顔を上げる。
「ほかには?」
「ジンド枢弼が何のつもりか、メイを推薦したな。錬金術を学ぶよい機会だと。いずれも、あのバカオヤジは許したがな」
「リンさま」
咎める初老の男に、リンと呼ばれた青年は自嘲して、
「あれが我がシンの龍とは情けない。あのバカオヤジに任せておけば…ヤオ族だけではない、シンが滅びる。そうならないためにも俺はアメストリスに行ってみようと思う」
「我も参ります」
当然の体で初老の男が言った言葉にリンは、
「おまえは残れ、フー」
「なぜですか」
毛色ばむ初老の男の腕を、もう一人、静かにたたずむ少女がつかみ制止する。
「だめ」
「私は足手まといだと」
「そうではない、フー。いいか、俺がアンティンを開ければ、必ず残ったリーティンが動くだろう。それをヤオ族とチャン族で抑えろ。ジエンが手伝ってくれる。あいつは……俺を助けるつもりのようだ」



『メイは、喜ぶな。今度の留学を』
穏やかに語った異母兄弟を、リンは黙ってみつめていた。
細い目の父から受け継いだのだろう、異母兄弟たちはそのほとんどが細目であるのに目の前の男はそうではない。ジエン・チャンはその端麗な容姿と、艶やかな大きな黒い眸で、宮中の女官たちの人気者であった。それは幾ばくか離れた年齢の妹姫も同じ。
『メイを守ってくれ、リンよ。おまえはヤオ族の者は問答無用で守るのに、そうでない一族の者には厳しすぎる』
リンは細い目を一層細くして言った。
『あたりまえだ。俺たちはその存在自体が一族の希望だろう。それは…ジエン、貴様も同じこと』
『チャン族のような小さな一族では、希望というものではないさ。むしろ、重荷だな』
シン。
それは多民族による集団国家にして、君主専制国家でもある。
多くの部族は族長の娘を皇帝に差し出す。
後宮に入った娘たちは如何にして皇帝の子供を産むか、生んで後は我が子を如何に皇太子、あるいは皇太女にするか画策する。それが出身部族を守ることになるからである。
だが、リンのヤオ族のような有力部族にとっては権力を伸ばすよい機会であっても、ジエンのチャン族のような弱小部族にとっては、娘を後宮に嫁がせる費用だけでも一族が路頭に迷いかねない。ましてやジエンは皇子として、妹メイは皇女として生まれた。ジエンは皇帝にならなければチャン族に戻り族長となればいいが、次子であるメイはその行き先すら、ないのだ。
医療の技術である錬丹術師として秀でた技術を持ってはいるものの、それは手慰みでしかなく、いずれはどこかにあるいは自分の意志に反して降嫁するしかない。
ジエンはそれが哀れだと感じているのだ。
ヤオ族を守るために、皇帝という高みに登ることを望むリンと。
チャン族を守るために、妹メイを幸せな形で切り離そうとするジエンと。
そのどちらもが、シンの現実なのだ。
『ジエン、おまえは皇帝になりたいと思ったことはないのか?』
別れ際問うと、年下の異母弟は苦笑して、
『ないな。俺にはその才覚がない』
『……そうか』
『アンティンは俺に任せろ。だから、メイを頼んだ。必ず、必ず向こうで身を立てさせてやってくれ』



「信じて、よろしいのですか?」
少女の問いに、リンは力強く頷いた。
「もともと、チャン族は我らヤオ族から別れたもので、その気質は我らによく似ている。裏切りを嫌う衒いも強い」
「わかりました。リンさまがおっしゃるのなら」
少女の確認に、リンは苦笑する。
「おまえも疑いぶかいな。ランファン」
「我らは…疑うことからはじめよと、習いました」
穏やかな物言い。だがリンは決してランファンが自分の目を見ないで話をしていることを知っている。それがこの少女の話し方だとは理解していても、真意を告げているのかわからないときもある。だが今はそれを追究する必要はない。
「まったく、フーよ。孫娘をここまで疑心暗鬼に育てるとはな」
「我らはリンさまをお守りするが定めでございます。そのためであれば命を賭しても構わぬと、教え込んでありますので」
「……そうだったな」
リンは頭上で結い上げられた髪を強引にほどいて、近くにあった組紐で適当に髪を結わえる。そんな様子を祖父と孫娘は黙って見つめていて。
「…アメストリスで何が起こるかは、わからん。それでもランファン、俺についてくるか」
「無論」
短く答えた娘が、礼のために俯いた時に見せた白い項をリンは目を細めて見つめて。すぐに隣のフーに視線を移す。
「一筆認める。ジエンと謀れ。おそらくは3月は帰れぬ」
「は」



準備するものなど、ほとんどない。
いつでも動けるように手近なものしか持ち歩かないのが、家族の暗黙の掟だった。
「準備、できたか」
声をかける祖父に、ランファンは小さく頷く。
「ではこれを持って行け」
渡されたものを、ランファンは受け取ってから声を上げる。
「じじ、これはもらえない」
「受け取れ。俺はリンさまをお守りすると、今際のアンリさまにお誓い申し上げた。だが此度はお前しか同行が許されなかったのだから、俺の代わりにこれを持って行け」
手渡されたのは、祖父の得物である短刀。
フーは苦笑する。
「それは予備の方だ」
「…それでも」
「リンさまをお守りしろ…もちろん、お前もだ」
顔を上げたランファンを見つめるフーの顔は、戦士の顔ではなかった。
それは愛しい孫娘を見る、祖父の顔。
「お前も大切な孫娘だからな」
二人の家は代々族長に仕える戦士の一族。先の族長の娘であったアンリが宮中に上がってからはアンリを守ってきた。
宮中であっても、暗殺は横行する。
ランファンの両親は宮中での戦いで、命を落とした。
フーにとって、身内と呼べるのは既にランファン以外にいないのだ。
だがフーは心を鬼にして言う。
「だからこそ、お前だからこそリンさまを頼む」
力強く頷く孫娘の頭を軽く一度たたいて、フーは小さく呟いた。
「それにしても…アメストリスは遠いな…」



一瞬の閃光。
そして二度三度と輝く光に向かって、ロイ・マスタング少将はもう何度目かわからない笑顔を振りまいている。
「少将、こちらにも」
「お願いします」
カメラマンたちの声に促されるまま、顔の向きを変える。
何が悲しくて、男と握手をしながら、笑顔で写真を撮られなくてはならないのか。
それも、こんなクセルクセス砂漠のど真ん中で。



1921年に、出来事は動き始めた。
アメストリス国の代表として、ジェームズ・マッキンリー大総統はシン国皇帝に宛てて親書を出した。
すなわち、クセルクセス砂漠の拡大で途絶えた国交再開を望み、砂の海に飲まれたクセルクセス鉄道の再開を。
くわえて鉄道再開の折には、シン国の皇都アンティンにアメストリス国民を補佐するアメストリス政府の駐在所を設けたい。
とはいえ、それらが受け入れることはないだろうと親書の主であるマッキンリー大総統ですら思っていたようだったが、翌年アメストリスに使者が訪れた。シン国の使者は皇帝の親書を携えており、その親書にはクセルクセス鉄道再開のための工事を始めたことと、アンティンのアメストリス駐在所建設についても許可を出すことが告げられていて、アメストリスは騒然としたのだ。
クセルクセス鉄道の調査、砂に埋もれて仕えない場所は改めて建設され、ちょうど砂漠の中にあたる場所に小さなオアシスがあったことを調査で発見されると、国家錬金術師部隊を編成し、辺りに井戸を掘らせてオアシス都市を建設させた。
そのオアシス都市こそ、今マスタング少将がいるラフォーヌであり、アメストリスが建設してきた鉄道とシン国が建設してきた鉄道が交わる場所であり……3年経った現在、ようやく鉄道が交わり開通調印式が行われることになったのだ。
1924年のラフォーヌで、見慣れる格好のシンの高官と、アメストリス全権大使であるマスタング少将は笑顔で豪華な装丁の調印書類を交換して、今はやはり笑顔で写真を撮られているわけで。
同じく笑顔のシンの高官、ランドウ・ゴオ枢弼と名乗った男が少将と握手したまま、側の通訳に囁いた。通訳が数回頷いて、
「マストング少将」
「マスタングですが。何でしょう?」
「撮影会はまだ続くのかと、おっしゃっていますガ」
「そろそろいいかね」
問うと、カメラマンたちはおとなしく引き下がり、二人はようやく手を離した。
記者たちが式場から追い出されると、ゴオ枢弼が声をあげ従者に何かの小さな小箱を持って来させた。それを恭しく少将に差し出した。
少将は思わず通訳を見る。通訳も恭しく敬礼しているので、少将は仕方なくその小さな箱を受け取った。
黒光りするその小箱は大きさは少将の執務机に鎮座する書類ケースの半分ほどの大きさで、色鮮やかな組紐で結ばれている。その組紐の結び目の下には、何か四つ足の動物と、鳥が具象化された紋章が金で象眼されていた。
受け取ったものの、どうしたらよいものかわかりかねている少将にようやく顔を上げたゴオ枢弼がおもむろに言った。すぐに通訳が同じようにおもむろに告げた言葉に、少将は受け取った小箱を取り落としそうになった。
「畏れおおくも、シン国皇帝陛下よりアメストリス大総統閣下への、親書にございマス」



少将の報告を聞いて、マッキンリー大総統は穏やかに応えた。
『ふむ…で、その親書にはなんと書いてあったのかね?』
「失礼ながら、こちらで開封させていただきました」
少将は先に断って、黒い小箱から出した書簡を取り出す。もちろん、黄檗色の紙に黒々と書かれた文字はシン語で少将は読めない。すぐに通訳に訳させた文書を手にして電話に向かって読み上げた。
「要約では、不可侵条約を結びたいと」
『ほお』
「できればアメストリスでの調印を、と。加えて皇女2名の留学を許可されたい、と」
『なるほどなぁ…』
「どのように」
数瞬黙ってしまって、マッキンリー大総統は言った。
『いいんじゃないかね?』
「……大総統、そんな簡単に」
『君が決めたまえよ。君が全権大使だろう?』
少将はあまりの応えに、全身の力が抜けた。
もともと、ラフォーヌ行きを押しつけたのは大総統なのだ。本来は大総統が行くべきところを、階級も少将でしかないロイ・マスタングが出てくること自体に矛盾があるのが、ジェームズ・マッキンリーは理解しているんだろうか?
どれほど嫌がった任務だったか、この【狸じじい】は覚えていないのだろうか。結婚して3年、それでも愛おしさが変わらない妻と、2歳になったばかりの息子。二人を残してこんな砂漠の真ん中に何が悲しくて来なくてはいけないなんて。
「大総統」
『まあ、それは冗談だが。断る理由はないね。えっと…ゴオ枢弼だったかね? すべて受け入れると応えていいよ』



『なぜ私が?』
ラフォーヌ行きを命じられた時、少将は思わず反論した。
階級違いであるとか、そういう問題以前に家族と離れたくなかった。だが大総統は自分で淹れたコーヒーをすすりながら言った。
『だって君がフォーレン事件の総責任者になっているからね』
『……は?』
『今回のシンとの連絡は、元はといえばラルフ・フォーレンを追うためにシンと渡りをつけたい。そう言ったのは君だろう?』
それは間違いない。
フォーレン事件発覚後、行方のしれないラルフ・フォーレンがシンへ逃げたという情報を少将は手に入れた。ダメもとを承知の上で大総統に進言したのだ。だがその進言と今回の軍命が少将にはつながらなかった。
『……確かに私が言いました』
『表向きにそういう話をするわけにはいかないからね。だから、駐在所を作りたいと言ってシンに行った調査員に調査させたんだよ』
『……そういうことですか』
しれっとした表情で【狸じじい】は続ける。
『ま、クセルクセス鉄道の復興もなったし。めでたしめでたしじゃないか。というわけで、マスタング少将。働いておいで』
見送られる方が涙ながらに行きたくないと列車から降りようとする軍人をが、赤子を抱えた黄金の髪の女性が『とっとと行って来い』と怒鳴り、それでも降りようとするのを見送る女性軍人が発砲することで泣く泣く乗り込むという珍しい光景を中央駅に居合わせた人々は見ることになった。



同じ、中央駅。
奇妙な見送りの光景から3週間。
8月半ばの暑い季節に、蒸気機関車の吐き出す蒸気はいつも以上に暑苦しく見えた。
軍用列車は特にこれといった出迎えもなく、普通の列車と同じように中央駅に静かに滑り込んだ。
プラットフォームを見回しても、少将の探す姿はなかった。
「それはそうか…」
軍用列車は一般の列車とは違う。出発時間は家族はわかっても、到着時間は警備上の理由で公表されないのだが、それでも妻は少将と同じ軍人だから、調べて迎えに来てくれるのかと、甘い期待をしていたのだが…。
「エドのことだから、仕事を放り出してまでは迎えには来ないな」
一人ごちて、少将は思わず苦笑する。
『明後日には帰り着けると思う』
『ああ、そりゃ気をつけてな』
つれない返事だったけれど。
それでも、少将は楽しみなのだ。3週間という長い時間を離れて過ごしたのは結婚してから初めてで。まして、息子ともそんなに離れたことなどない。子供の成長は早い。たった1週間離れていただけでも、子供は少しずつ成長を見せてくれる。それが楽しみなのだ。
写真をしまってある胸ポケットを軽く叩いて。
少将は歩き出した。
だがすぐに、軍服の波の中に見慣れた顔を見つける。冷たく見えるその赤茶の双眸に微笑みが浮かんでいて。彼女は人波の中の少将に向かって背筋を伸ばして敬礼する。
「少将、お帰りなさい」
「ああ、大尉。このまま司令部連行なんてことはないだろうね?」
足が止まれば連行されるような気がして、少将はひたすら歩き続けホークアイを通り過ぎるが、ホークアイは全く気にせず少将の背後で穏やかに、
「さあ、どうでしょう」
「……私は砂漠の真ん中から帰ってきたんだぞ」
「私は娘を夫に預けて、南方司令部まで行ってきましたよ。この3週間で」
間髪入れずに返されて、少将は黙ってしまう。
促されて乗り込んだのは中央駅の外にあった軍用車で。後部座席に少将が乗り込むと、ホークアイも同じく後部座席に乗り込んだ。
運転席には、くわえタバコのハボック中尉。にっかりと笑ってみせて、
「少将、おかえりなさい」
「……ハボック、お前の奥さんは鬼だな」
「は?」
「人聞きの悪いことをおっしゃらないでください。少将、これとこれにサインをください」
言われるままに書類に目を通すと、それはラフォーヌでの仕事の完了報告書で。続いて渡されたペンでサインをすると、受け取ったホークアイは確認して小さく頷き、
「はい、確かに。では、ご自宅までお送りします」
「は?」
今、ご自宅までと聞こえた。
「大尉、その…一度帰ってまた司令部?」
「いくら私でも、そんなひどい仕打ちはしません。ですから緊急を要する書類はこれだけなんです。3日の休みを申請してありますから。おそらく通るでしょうね」
女神さま。
はたまた、聖母さま。
ホークアイの背後から後光が差しているようにすら見えて、少将は目頭が熱くなる。
「大尉〜」
「奥様が心配しておいでです」
妻の名前に、少将の涙腺が一層綻びかけて。
「フェリックスが、父親を忘れているんじゃないかと」
「……フェルが?」
「確か、ヒューズ大佐がリチャード君に忘れられたと泣いていらしたことがありましたよね」
あった。
2週間の出張で帰ってきてみれば、全く知らないオジサン扱いをされたことに、父親はショックを受け、母親は仕方ないわよと苦笑し、姉は家を離れたパパが悪い! と言い放ち、マースは結局少将の執務室でサメザメと泣いていたのだ。
思わず、車窓を見た。
「……大尉」
「さあ、どうでしょう?」
含み笑いの答えは、問われる前に内容を把握されていて。
「ハボック! 急げ!!!」
「Yes,sir!」



「おかえり…ってどうした?」
激しく鳴らされる呼び鈴に、エドワードは眉をひそめながら覗き窓を覗くと、必死の形相の夫が呼び鈴をこれでもかと鳴らしていて。慌ててドアを開ける羽目になった。
「ただいま、エドワード」
「ああ。どうかしたのか?」
少しよれた軍服の夫の向こうで、軍用車が止まっている。運転席のハボックはにやりとくわえタバコのままで笑い、助手席に乗り込んだホークアイが軽く微笑んで片手をあげて。
軍用車は去っていく。
不思議そうに見つめていたエドだったが、急に抱きしめられて慌てた。
「ちょっと、ロイ」
「ただいま、エド…寂しかったよ」
「おい、玄関開いたままなんだけど」
低い声の制止に、少将は慌ててエドから離れる。人目があるかもしれない場所で少将が抱きつきでもしたら、今まで何度本気で殴られたことか。低い声での制止には少将の身体が反応するようになっていた。
「す、すまない」
玄関を閉めるエドの背中を見ていた少将は足下を引っ張られることに気づいて、足下を見下ろした。
艶やかな黒い髪。自分を見上げている黄金の双眸。
そして、小さな唇が言葉を紡ぐ。
「ぱぱ」
「フェル」
抱え上げると、我が子は満面の笑みできゃっきゃと笑う。
「ぱぱ」
「覚えていたか、フェリックス」
小さな手が少しヒゲが生え始めたアゴをさわさわと撫でる。
「ふ〜ん、なるほどね。ロイは、フェルに忘れられたと思ってたんだ」
したり顔でエドが言うのをロイはすまして返した。
「どうせ私は、長いことフェルに会えなかったから忘れられてると思われてるよ」
「は? ああ、大尉が言ったんだろうけど。もとはいえばアレクが言い出したんだぜ? 早く帰ってきてもらわないと、パパの顔忘れてやる〜って電話で言ってみたら?って」
【妹】のアレクなら、言うだろう。
少将は苦笑しながら、足下のフェルを抱え上げようとして、
「…フェル、また大きくなったな」
「重いだろ?俺、そろそろ抱っこ止めないと、俺の腰が保たなくなるなぁって」
我が子の成長を肌で感じながら、少将はリビングのソファに腰掛ける。
促されて膝の上にフェリックスを乗せたまま、軍服の上着を脱いで渡した。
「エド、今日休みだったのか?」
「ん? ああ、午後から休みもらったんだよ。大尉が午後には着くだろうからって。でも、明日から休みなんだってな? 俺、仕事だから」
軍人同士、なかなか同じ日に休みを取ることができないのだ。
「そうか…じゃあフェルを見ていようか」
「う〜ん…でもさ、疲れてると思うからいいよ。明日は託児所に連れて行くから」
膝の上で久しぶりの父親と戯れていたフェリックスだったが、眠たくなったのか目をこすろうと何度も手を目に運ぶ。
「フェル、おねむか?」
「うん…」
軍服を置いてきたエドが少将の胸に寄りかかって眠り始めたフェリックスを見つけて苦笑する。
「ようやくおねむになったな」
「ん?」
「今日は朝から興奮しててな。多分、ロイが帰ってくるのがわかったんじゃないか? ロイの胸で眠るのが好きだからな」
フェリックスが生まれてから、フェリックスを寝かしつけるのはほとんど少将の仕事だった。エドはこの3週間、フェリックスを寝かしつけるのにどんなに苦労したか苦笑混じりに言う。
「寝るまでぱぱは? ぱぱがいい。起きたらぱぱは? 全く、俺子育てしてないみたいじゃねえかよ」
「それは大変だったな」
「まあ…さみしかったのもわかるんだけどな」
フェリックスを受け取って、エドは「寝かせてくる」と言って部屋を出ようとして、入り口で立ち止まった。
「俺も」
「む?」
「俺も、寂しかったんだからな。帰ってきてくれて、うれしいのもフェルと一緒だかんな」
「……ああ」
愛妻の、それだけ言うのにどれほどの勇気を振り絞ったのか、少将は知っているだけにその言葉の重さを噛みしめて、そそくさと出て行ったエドの見えない背中を見つめて言った。
「ただいま、エド」



Top/ Next→