エア 1
浅い呼吸。
メグミの薄い胸は、それでも必死に呼吸しようと頑張ってる。
メグミも、メグミの身体も、必死に生きようとしている。
……僕は、ただ黙って、眠っているメグミを見つめていた。
こんな、結果になるなんて。
こんな、結末なんて、望んでなかった。
メグミを苦しめるために、僕はあそこを出たわけじゃないのに。
『研究室』から逃げ出した僕とメグミは、匿名の電話を受けた近所の牧師に助けられた。
『古い建物の前に、若い男女がいる。助けてはくれないか?』
不思議な言い方に興味を惹かれて、牧師さんであるマサキさんに助けられた。
それから、僕らはいろんなことを知った。
研究室で生まれて、育った僕らは、本当に何も知らなかったから。
今は西暦3281年。
ここは、トーキョー。昔は日本って国の首都だった。
今は日本って国自体がない……だそうだ。
理由は、よく分からない。分からないけど、とにかくここはトーキョー。
いろんなことをマサキさんに教えてもらったけど、マサキさんも僕らのことを色々聞いた。
僕らは話した。
研究室で、生まれて、育って、それ以外何もないってこと。
マサキさんは僕らを『保護』したあと、『研究室』に行ってみたんだけど、『研究室』があった建物は、その前の晩、『火事で全焼』したらしい。だから、僕らがいう事には何の証拠もなかったけど、でも、マサキさんは信じてくれた。
「あなたたちがここに来たのは、やはり神様の思し召しですね。しばらくはここで暮らすといいでしょう。私でよければ、お助けしましょう」
その言葉を聞いて、メグミは泣き出した。
そんな優しい言葉を、僕らは聞いたことがなかったから。
いろんな事を知った。
でも、2ヶ月くらいして、メグミの具合が悪くなった。
しょっちゅう熱を出して寝込んだ。
風邪だろうと、マサキさんは言っていたけど、あんまり続くから、近くの医者に診てもらった。
医者も『風邪』って言っていたけど、
『このお嬢さんは随分身体が弱そうだねぇ。それに、何のワクチンもしてないんじゃないか?』
『ワクチン?』
本当に、僕らは何も知らなかったんだ。
200年くらい前は。
地球にはもっとたくさんの人間がいたらしい。
マサキさんの話だと、200年くらい前に、人間はたくさんの病気に一気にかかった。『大感染』って言ってる。かかった病気の種類はいろいろあったけど、それよりずっと前からあった病気だったのに、薬を飲んでも、全然直らなかった。
『ノゾムくん、耐性菌というのをご存じですか?』
『耐性菌? なに?』
『耐性菌は、簡単に言うと、強くなってしまった菌です。薬で菌は死にます。でも、中途半端に殺してしまうと、半分死んでいた菌がその薬に強くなってしまうんです。それが耐性菌』
『……』
『昔から、耐性菌はあったそうです。そのたびに人類は強い薬を作った。耐性菌が生まれる、強い薬を作る。そういう悪循環だったんだそうです』
結局、人類は耐性菌を強くしてしまった。
そして、一気に『大感染』に飛び込んだ。
そういうことらしい。
『大感染』で、人類は半分以上が死んでしまった。そのとき、日本って国もなくなったんだって。
とにかく、最近は強くなってしまった耐性菌をまた受け付けないための薬「ワクチン」があって、僕らはそれをしてないって、医者は言ったんだ。医者は親切にも、メグミと僕にワクチンをしてくれた。
……でも、ワクチンをしたのに、メグミの具合は悪くなるんだ。
僕は思いだしてた。
なんで、僕らが『無菌室』って呼ばれた場所で育ったのか。
『先生』たちは、直接僕たちにさわろうとしなかったのか。いつだって、『防護服』を着てたのか。
もしかして。
もしかして。
外はいつの間にか、雨が降ってた。
「ノゾムくん、いいですか?」
ゆっくりと部屋のドアを開けながら、マサキさんが顔を出した。
僕は小さく頷いて、それから顔を上げた時、部屋に入ってくるマサキさんの後ろに、違う人がいるのを見つけた。思わず立ち上がって、マサキさんとメグミが寝ているベッドの間に入り込んだ。
「ノゾムくん?」
「……マサキさん。その人、誰?」
「サクライ、だ」
高くもなく、低くもない声で、そのひとは小さく名前を言った。どこかで聞いたことのある声。思わず僕はそれに気をとられて、サクライさんがマサキさんと僕をすり抜けて、メグミの傍らに立ったことすら気づかなかった。
「さわらないで!」
僕の言葉も聞かず、サクライさんはメグミの額に手を置いた。
「……ひどい、熱だな」
「ええ。ノゾムくん、こちらのサクライさんは昔からあなた達を知っていると仰ってるんです。メグミさんの事も言ったら、治療をさせて欲しいって」
「……治療?」
「ええ」
僕はよっぽどすごい顔をしてたんだと、思う。マサキさんが驚いたような顔をしていたから。サクライさんは、メグミの額から手を離して、
「ノゾム。お前がよければ、メグミの治療をする……どうする?」
静かに言った。
点滴のひとしずくずつが、静かにメグミの腕から、全身に巡っていく。
浅い呼吸は、少し収まって、メグミは安心したように眠っている。
僕の一瞬の迷い。
でも、僕はサクライさんの言葉を受け入れるしかなかった。
……メグミがこのまま衰弱していくのを、観ていることしかできないってことに気づいたから。
僕が受け入れると、サクライさんはすぐにドアの外にいた人を中に入れた。
女の人だった。多分、メグミよりは年上。研究室に時々来た女の人よりかは、若いんじゃないかな。
『はじめまして。タケナガ・ミカと言います。よろしくね』
にっこりとほほえんでいたその人は、サクライさんが『治療してやってくれ』の言葉に、てきぱきと動いた。メグミの熱を計り、心拍を数えて、聴診器であちこちの音を聞いて。研究室の先生たちより、もっと素早かった。そしてすぐに、僕に笑いかけたのとは違う顔で、サクライさんに言う。
『間違いないわね。心配した通りだったわ。許容量を超えているわ』
『場末の医者がしたことだ。それに、もちろん親切だったんだろうが、仇になったな』
意味が分からない会話に、でも僕は黙って見ていた。そうすることしか出来なかったから。
ミカさんは、もう一度僕を見つめて、
『あのね、これからワクチンを外すわ』
『え? ワクチンを?』
『そう、あなたたちには毒になっちゃうの。だから、メグミちゃんのワクチンを薬で消してしまうわ。点滴をするから。そうねぇ、2時間くらいかかるかも』
眠っている、メグミの傍らに、僕は座った。
「……僕の……せいだ……」
独り言のはずだったのに、答えた声があった。
「お前のせいじゃない。ノゾム」
サクライさんだった。
無言のまま、時間が流れた。
でも、声を上げたのは、サクライさんだった。
「……ノゾム、お前のフル・ネームを知っているか?」
「僕の名前? ノゾムだよ」
「そうだな……名字は? つまり、ファミリー・ネームだ」
意味が分からず、僕は首を傾げた。サクライさんは小さなため息をついて、
「さっき、メグミを見ていた医者」
「女の人?」
「ああ。名前はなんと言った?」
「タケナガ・ミカさん」
一つ一つ確かめるように、サクライさんは言った。
「本当は自分の名前は、一つだ。タケナガ・ミカなら、ミカ。ファミリー・ネームはタケナガ。家族の名前を表している」
「そうなんだ」
また、自分の無知を実感。
でも、サクライさんの続いた言葉に、僕は眉をひそめた。
「お前のファミリー・ネームはタケナガ。お前のフル・ネームはタケナガ・ノゾム。メグミも同じだ。タケナガ・メグミ」
「え?」
どういう、こと?
僕のファミリー・ネームが、タケナガ。
メグミのファミリー・ネームも、タケナガ。
ミカさんのファミリー・ネームも、タケナガ?
「時間はある。メグミの点滴が終わるまで、話をしてやろう、な」
サクライさんの提案に、僕は混乱した頭のまま、頷いた。
「『大感染』のことは?」
「マサキさんから聞いた」
「そうか。じゃ、そのあとから話をしよう」
サクライさんは、ぽつりぽつりと話し始めた。
『大感染』がもたらしたのは、世界人口の5分の3を殺した、という直接的結論を見いだしただけではない。
世界規模での、政治・経済・流通……すべてが混乱した……というより、構築されたネットワークすべてが亡くなったに等しかった。多くの国が、姿を消した。国と国との争いは姿を消したけれども、結局巨大な企業コングロマリット同士の争いが生まれた。
それは、一般の目に映る、『兵器を使った戦争』じゃあない。
経済力をぶつけあう、見えない戦争。
「ある、会社がある。アジア圏一体でシェア97%を誇る製薬会社だ。名前はRC社。アジア・北ユーラシアを本拠地とする、AJCグループの中核を担う、会社だ」
「……製薬会社ってことは、薬を作っている?」
「ああ。病気の研究をして、病気に効く薬を研究、製造ってことだ」
「うん」
「このRC社に、一人の研究者がいた。名前は……タケナガ・ミノル。優秀な研究者、だった」
「だった?」
サクライさんの言葉の語尾に、何か妙なものを感じて僕は繰り返したが、サクライさんは苦笑して、
「細かい話は、最後まで聞けば分かるさ」
「……分かった。続けて」
「タケナガ教授の奥さんは、病気だった。珍しい病気で、全身の筋肉が動かなくなっていく病気だったそうだ。でも、治すというより、病気の進行を抑える薬が出来た。タケナガ教授のいる、RC社でだ。タケナガ教授は、上司に訴えた。その薬を奥さんに使ってほしいって。上司は、いいと言った。ただし、条件があるって」
「条件?」
「ああ。自分の核細胞を、RC社の研究に使ってよいという、誓約書を出すこと」
「?」
僕には、分からない話になってしまった。