collapsed family 10
オヤジ殿の話によると、こういうことになる。
母さんの、脳に出来たガン細胞は確実に成長していた。
もともと精神的に不安定だった母さんは、最後のリミッターをガン細胞で壊されてしまった。
だから、あたしを『必要じゃない子供の瑞穂』を殺してしまわなければならないと、思いこんだ。
……そこに、友紀子叔母からあたしの居場所をつきとめたことが知らされた。
サナトリウムの看護婦を買収して脱走したのは良かったけれど、母さんの病状は、どんどん進んだ。
……そして、退行現象。
でも、『瑞穂を殺す』って想いだけは消えなかった。
もっとも、間違えて高沼くんを刺してしまった瞬間、それすら母さんの中にはなくなっていたんだ。
もう、『山内紗江子』は存在しない。あるのは、三浦のオジサンと知り合う前の、『東四条紗江子』。だから、今分かるのは友紀子叔母と榎本くらいだ。
その二人以外は、怖がって近づけさせない。
高沼くんの手術は、10時間以上かかって、ようやく終わった。
結局ナイフは大腸まではぎりぎり達してなくて、高沼くんのSPとして鍛えられた筋肉と反射神経で、何とか内臓損傷まではならなかったけど、それでも医者には、
『とは言うものの、動脈まで達していたんですから、ホントに制止の境目だったんですよ!』
と怒られてしまった。で、全治4ヶ月。
警察も、一応事情聴取に訪れたけれど、意識が戻った高沼くんが被害届を出すつもりがないことを告げると、おとなしく姿を消した。
1週間経って、集中治療室から出されて、高沼くんはオヤジ殿が用意した特別室で、居心地悪そうにベッドに横になっていた。あたしは『真島フルーツ』で仕入れてきたリンゴを、高沼くんに見せた。
「お見舞いのフルーツです。マコトからの差し入れね。今日から食事していーんでしょ? むいてあげる」
「ありがとうございます」
果物ナイフで、あっというまにむきあげたリンゴに爪楊枝をさして渡すと、意外そうな顔をしている高沼くんだった。
「なに?」
「……いや、お嬢様なのに、リンゴむくの、早いですね」
「あのさ、高沼くん」
あたしは少し怒ったように、むくれてみせる。
「お嬢様だったら、包丁持っちゃいけない?」
「いや、そういうことじゃなくて」
「分かってる」
そんなことはわかってる。多分、高沼くんのイメージは昼下がり、家のバルコニーで紅茶なんかを飲みながら、読書か刺繍なんかをしてる、『お嬢様』なんだって。もっとも、それを地でやってたのが、うちの母さんだったんだけど。
「……そうなんですか」
「うん。悪いけどね、母さんにはもう何かしたってことはわかんないのよ」
「え?」
高沼くんが、目を見開く。
もともと細めだから、あまり気づかなかったけど、男前。
あたしは心の中だけでそう想いながら、「そうなの。夕べ、昏睡状態になった……呼吸停止で、ほら喉に穴開けて、呼吸を助ける装置。あれが入ったから、話すことも出来ないし、それ以前に意識がないもの。もう、ずっと眠ってる」
「そうなんですか……」
「オヤジ殿から、伝言」
というと、小さくなってた高沼くんの背筋がぴりっと伸びた。
「有休とは別に公傷休として、今回の事件を認める。その日数は退院後、通院が終了した日にちから2ヶ月を加える……だって」
「え?」
想いもしてなかったみたいで、高沼くんの目がもう一度ぱちくりとなった。あたしは思わず微笑して、
「高沼くん」
「はい」
「いくつ?」
「えっと、26歳です」
「あれ? あたしより、年上なの?」
「はい」
意外。今まで気にもしなかったけど。
「で、ね」
「?」
ずずいっと、顔を高沼くんの顔に近づけて。
「下の名前は?」
「……晰仁。明晰の晰に、人偏に漢字の二です」
「あきひと。うん、良い名前だね」
近くで見ると、意外に睫毛、長かったりする。
「もひとつ、質問」
「はぁ」
「……彼女は?」
「いません。ここ4年ほどは」
「じゃ、あたしとつきあって」
「え?」
さすがに最後の一言は、かなりびっくりしたみたいで、瞬きすら忘れてる。あたしは少し顔を離して、にっこり笑ってみせて、
「ま、考えておいてね」
意識を失った母さんは、二度と戻って来なかった。
それでも3ヶ月生き延びて、でも、全身に広がったガン細胞は増殖し続けて。
結局、山内紗江子の身体は、多臓器不全を引き起こして、いつでも付き添っていた三浦のオジサンがトイレに席を外している間に、脳死状態に陥った。
最後の最後、オヤジ殿はもう枯れ木のようになってしまった母さんの頬に触れて、小さく呟いた。
「もう……いいか?」
そして、病院から脱走したサナトリウムに移送され、3日後に生命維持装置を外して、息を引き取った。
その瞬間、あたしと母さんの『和解』は二度とあり得ないものになった。
火葬場で、オヤジ殿はただ黙って、煙突から微かに出ている煙を見上げていた。あたしも黙って、オヤジ殿の横に立つ。
突然、オヤジ殿が言った言葉に、あたしは言葉を口にする前から、それを失った。
「……ホントはな、ずっと前から愛していたんだけどな」
「……」
オヤジ殿の独白は続いた。
「初めて紗江子を見たのは、紗江子が中学1年生の時だったな。三浦さんと知り合う前だ。なんだか睡蓮のような、そんな可愛い子だと思った。だが、それからすぐに紗江子はいつでもスキャンダルの中にあった……紗江子が困っているのを、オレは知っていたから、助けるつもりで妻にしたんだ……確かに、尚彬も雅紹も、遺伝子上はオレの子供じゃない。でも、オレは分かっていて戸籍に迎えた。だから、戸籍上はオレの子供だ。それは変わりない」
「……じゃあ、なんであたしは生まれたの?」
そう、知りたかったこと。
一番、知りたかったこと。
なぜ生まれたのか。
それは、母さんだけじゃない、オヤジ殿に聞いてもいいこと。あたしは不意に、そんな簡単なことに気がついた。
「紗江子は……オレの気持ちに気づいていたよ。もっとも、中1の時、オレが見かけた一目惚れなんて、知るはずもないがな。それでも、あいつは言ったんだ。何の利益もないのに、私を妻に迎えて、直正をそのままにしているのは、結局私を愛しているからでしょうね? オレは黙っていた。あいつは続けた。『いいでしょう、これからも、直正とのことを黙認してくれるなら、一度だけあなたにこの身体を提供してもいいわ、そう、これはボランティアよ』」
「ボランティア……」
ボランティア、つまり無料奉仕。残酷な響きに、あたしは小さく溜息をついた。
「オレは聞いた。じゃあ、お前のボランティアを受け入れたとして、もし子供が出来たら、どうする? その時は生むのか、堕ろすのか? 『そんなこと、なってみないと分からないでしょう?』」
「……で、あたしが出来た」
「そうだな。あいつは……言ってた。『尚彬や雅紹のように、この手で育てることなんて、できないわね。私だって忙しいんだから。あなたにお任せするわ』……結局、お前のためには、何にもしてやれなかったな」
「……いまさら」
それは非難でも、肯定でもなかったけれど。
ただ静かにもう一度、煙を見上げていたあたしとオヤジ殿に近づく影があった。視線を向けると、そこに尚にいが立っていた。
「オヤジ、三浦さんが出ていった」
「なんでだ。あいつの墓の近くに、家を構えてやったぞ。あいつの遺言だったから」
「……その遺言、いろいろあるらしい」
「なに?」
眉を顰めるオヤジ殿、それからあたしにも、尚にいは沈痛の面もちで何か入った封筒を取り出した。
「?」
「三浦さんが渡して行った。母さんの……遺言だそうだ。全員にあてて」
政臣さま。
今日、松前先生から、ガンの告知がありました。
もって、3ヶ月との診断です。既に脳にまで達しているとのことです。
まもなく、常軌を逸してくるだろうと、思われます。
……いいえ、既に私は常軌を逸しております。
あなたに初めてお会いした時、私は既に尚彬を懐妊しておりました。
あなたの結婚の申し出を、違う意味で嬉しく、一方で訝しく感じておりました。政略的な意味だけで、あたしとの結婚を望んだのか、分からなかったからです。
……そうではなかったんですね。
私は、気づいてしまいました。
あなたが、大切に私の写真を、そう、結婚式の写真を眺めていらっしゃるところを。
違う男の子を身ごもっている女を、しかし妻として迎え入れるその、懐の大きさに、私はいつしか気を許しそうになっていました。
しかし、私は一方で直正の人生の全てを、その手の中に握り込んでいました。もう、尚彬、雅紹、二人もの子を成してしまった今となっては、直正と別れても、直正は生きていくことが出来ないでしょう……私の思い過ごしだけでなく、直正自身、それを感じているようです。
あの頃から、雅紹が生まれる少し前から、私の心の均衡は崩れ始めているようです。
あなたを、愛しいと思う私と、
あなたを、憎いと思う私と。
あなたを愛しいと思う私が勝ったのは、間違いなく瑞穂を身ごもった時です。
ですが、胎児であった瑞穂が育つにつれて、私の心の均衡はもうとれなくなっておりました。あなた1人を悪者にして、私は被害者であるかのような……物言い、今となっては許しを乞うのも無駄なことかもしれませんが。
そのために、私は望んで生んだ子であるはずの、瑞穂に辛くあたりました。
悔やんでも悔やみ切れません。
あの子の、人生を変えたのは、私ですから。
自分が自分であるうちに、これを書き残しておきます。
それでは、あなた。
さようなら。そして、お許し下さい。良い妻でなかったことを。
もしかしたら、母さんの都合良く書かれた遺書だったのかもしれない。
そんな気がした。
三浦のオジサンを悪く言ってはないけど、自分が正直になれなかったのは、オジサンがいたからだと書いてあったから。
あたしは、遺言書から目を離して、もう一度煙突を見上げた。
もう、煙は出ていなかった。
……嘘でも嬉しかった。
望まれて生まれてきた子。
その文字を見れただけで。
高沼くんを刺したあの日、醜悪な様子だったいきものは、ようやくきつい表情の母さんになったような、そんな気がした。
……聖母マリアとは、無理だから。
ハシブトガラスの泣き声。
スズメの密やかな、泣き声。
ハトの器用な泣き声。
フクロにいる全種類の鳥がいるみたいだった。
昼下がり、ウエストゲートパークにいつも来る、腰の曲がったお年寄りが、パン屋で分けてもらった食パンの耳を餌にしているんだ。それに鳥がたかってる。
あたしはディバックから眼鏡を出して、かける。それから一眼レフを構えた。
何枚かとって、いきなり鳥たちとは違う視界がカメラの中に広がった。
顔を上げると、そこには何やら紙袋を抱えた、私服姿の高沼晰仁。
「昼、食う?」
「ありがと、晰仁」
少し遅めの昼食にぱくつきながら、晰仁が言う。
「オレな、瑞穂のSP、外れる」
「え?」
想いもしなかった言葉だった。
そう、いろいろあったあと、あたしと晰仁はつきあい始めた。それと晰仁は雅にいのSPじゃなくて、あたしの単独SPになった。母さんのことがあったのと、オヤジ殿の会社がこれまで以上に海外展開することが決まったので、一応警備を強化するためも、ってことだったから。
「三谷原主任にも伝えてきた」
そう、親族SPの中で、もっとも責任者は相変わらず雅にいのSPをしている三谷原さんなのだが。
「なんで?」
「……なんでって……」
ぽりぽりと頭をかいてみせて、晰仁が何か言おうとしたとき、
「およ、でーとですくわ?」
と目の前に顔を出して見せたのは、タカシだった。なにやらスーツを着ている。
「……タカシか」
「か? ってボク、お邪魔なのねぇ」
しおしおと泣いて見せて、タカシはウエストゲートパークの入り口をちらりと見て、
「あらら、まこちゃんも来た」
確かにマコトが、眉を顰めながら汚れたタイルを見つめながら歩いてくる。タカシが大きく手を振った。
「まっこちゃん!」
「なんだよ、全員集合かい。高沼さんまで」
「やあ」
「どうしたの? 人相悪いじゃない」
あたしの言葉に、マコトは一層人相悪くして、
「原稿、しあがんねぇの」
「あっそ、がんばんなさい」
恨めしそうにあたしの顔を見て、
「あー、いいねぇ、売れっ子カメラマンは」
そうなのだ。
最近出版した、池袋の自然というか、カラスとかを撮った写真集(実はタカシやマコトも写ってる)が大好評で、増刷に増刷、印税も結構な金額が振り込まれている。マコトはそれを皮肉ったけれど、あたしは無視して、
「ひがむヤツは知らない」
「あっそ。で、タカシはなんでスーツなんか着てるわけ?」
「……ボクちゃんは、尚彬にいちゃんに呼ばれたんだよぉ」
想いもしなかった名前に、今度はあたしが眉を顰めた。
「どういうこと?」
「あれ? 瑞穂ねえさん、聞いてなかったの? ほら、うちも一応警備会社なのよ。で、尚彬にいちゃんと話ししてたら、うちへ研修みたいにおいでってさ」
「オレが、連れていくようにって言われてる」
「そうなんだ」
意外な人脈。
それはそうと、さっき晰仁がいいかけた一言が気になって、あたしは真っ直ぐ晰仁を見つめていた。その視線に、マコトが気づく。
「なによ、高沼さん睨んでんの?」
「晰仁が、あたしのSP外れるって」
「お?」
「ということは、本社勤務?」
YMGC株式会社の東京本社は市ヶ谷の一等地に、どでかいビルを建ててある。もちろんテナントなんかじゃなくて。
「じゃ、いよいよ栄転だ」
「……そうかもしれないけど、あたしから外れたいって、三谷原さんに言ったって言った」
「ほー、自分から外れたいって?」
「なんだ、高沼さん、ちゃんとセオリー踏んでるじゃん」
意味が分かんない会話で、男どもが盛り上がっているのを見て、あたしは思いっきりむくれてみせる。
「なに? あたしの分かんないところで、盛り上がってさ」
「そうじゃなくて」
と切り出したものの、一向に言葉が出てこない晰仁の背中を軽く叩いて、マコトが言った。
「だからさ。奥さんの警備ってことは、仕事じゃないだろ」
「は?」
は? 今、なんて言った?
「真島くん!」
「あ、ゴメン……いっちまった」
目が点になってるあたしの前で、マコトは必死に晰仁に謝ってる。
「晰仁……」
「ん?」
「今の……今のって、そういうことなの?」
「ま、そういうことになるな……」
何とも言えない空気に、タカシとマコトが逃げ出した。
「じゃ、高沼さん、電話してねぇ」
「すまねぇ、高沼さん!」
なんだか、どこを見ていいのか、よく分かんないから、パンの耳に群れる鳥を見ていた。
そう、晰仁も。
なんだか、可笑しくなった。笑いたくなった。
笑い出したあたしを、驚いたみたいに見てた晰仁も、笑い始めた。
おっきな声で。
ハトがびっくりして、逃げ出すくらいに。
腹を抱えて、涙を拭きながら、あたしはようやく晰仁に向き返った。
「なんだか、おかしいよね」
「ああ、そうだな」
「……突然、こんなに笑い出すよ」
「構わない」
「主婦も出来ないよ、カメラマンやらなきゃいけないし」
「もちろん」
「子供は多いほどいいから、五人くらいは欲しいな」
「……お互い、がんばらないとな」
ようやく笑いが収まって。
涙に濡れたあたしの目元を、少し大きい晰仁の手が触れる。
「いつだって、家族みんなで笑いあえる家庭を作ろうな」
「うん」
しっかり鍛えられた晰仁の首に抱きついた。晰仁もしっかりあたしの身体を受け止めてくれる。
首に顔を埋めていたあたしが、目を上げると、ウエストゲートパークの入り口で、マコトとタカシが立っていた。
にっかり笑いながら、ブイサイン。
あたしも右手でブイサイン、そしてウインクを返した。
end...