Collapsed Family 09






嚆矢。
戦いの始まりを知らせる、矢のこと。
それは、ガイセリックだった。
鼻先を横切る風に鼻をくゆらせていた茶毛のレオンベルガーは、次の瞬間、低く低く唸り始めた。
「……ガイ?」
「来たわね……ガイ、どっち? 叔母様?」
「うおん」
その声は、肯定だったんだろうか。すぐに答えは分かった。
公園入り口に黒塗りの、無駄なまでに長いベンツが横付けしたかと思うと、助手席からやくざ風の若衆が飛び出てきて、後部座席のドアを開けた。
入り口近くにいたG-guardiansのメンバーが手にしたトランシーバーに低い声とともに、ちらりとあたしの横に立つタカシを見つめる。
「瑞穂」
「いいわ」
低い問いかけに、あたしは同じように短く応える。タカシが左手を挙げて、メンバーに招き入れるようにジェスチャーすると、メンバーは小さく頷いて、視界から消えた。
そうこうするうちに、若衆が開けたドアから、ゆったりと姿を見せる、マダム。
いかにもカネかけてそうな格好に、肩こりになりそうな重いカンジのネックレス。耳長族になりそうなイヤリング。
どうみても、友紀子叔母だった。
ヒールの音も高々に、友紀子叔母はウエストゲートパークに入ってきて、あたしたち一行を見つけた。
まず、一番長身の尚にい。それからマコト、タカシ、高沼さん。ガイを見て、最後にあたし。
なぜあたしがここにいるのか。そんな顔をしてから、友紀子叔母はあたしを完全無視することにしたようだった。とにかく尚にいに接近した。そんなところまで、姉妹はそっくりだった。あたしという存在を認めようとしないところまで。
「尚彬、どうしたの? 雅紹は来てないの?」
「これは、叔母様。ご機嫌麗しく」
「……なに? なんで、この子がいるわけ?」
何がなんでも、あたしの名前を呼ばないのは、やっぱり姉譲りかな? どうでもいいけど。
「雅紹は、来られないそうです。それはそうと、瑞穂から話があるそうです」
尚にいが身体の位置をずらして、あたしを見る。友紀子叔母も思わずつられてあたしを見て、汚いものを見てしまったような表情を浮かべて、ハンドバックから総レースのハンカチを出して、顔の下半分を隠してしまう。
「あら、何かご用かしら?」
「……単刀直入に申し上げます、叔母様。東京から手を引いてください。松本組は今、拡大を考える時期ではないでしょう。若頭同士の抗争が発火手前だとか」
「お前に言われたくないわね」
明らかに、尚にいとあたしと話す時では、話し方がまったく違う。それは鈍感なマコトでも気づいたようで、あたしの横顔をちらりちらりと見ている。あたしはそれをあえて無視して、
「今日、麻薬一斉取り締まりがありました。ファルコンの売人、ずいぶん捕まったみたいですね。1人や二人じゃなかったから。その中でどれくらいゲロするでしょうね。松本組とのつながり」
「……なにを?」
「でなければ、フクロの抗争に持ち込みますよ。叔母様。ご存じなければ、私の現在の立場をご説明しましょうか? 口で? それとも、態度で?」
あたしがちらりとタカシに視線を送ると、タカシは左手を軽く挙げて、それから軽く振った。
一斉に空気が動く。
ホントにそんなカンジだった。ウエストゲートパークの周辺を、G-guardiansのメンバーが取り巻いた。それもあたしたち、特に友紀子叔母から確認できるように。
「このクソガキ、何様のつもりじゃあ!」
ひどいだみ声に、一瞬視線が動いた。友紀子叔母の乗ってきたベンツ。その周りもG-guardiansが取り囲み、無言の力に耐えきれなくなった若い衆が吠えたのだ。それをあえて放っておいて、少し唖然としている友紀子叔母を見つめ直した。
「どう、されますか?」
「私を、脅すの? 実の叔母を?」
「そうですね。でも、少なくとも、都合の良い時だけの、叔母よりも、私はフクロで独自の組を作ろうとしている、松本組の姐さんに話があるんです」
さらりと、友紀子叔母の毒のある問いかけにあたしは応えず、そして表情すら変えず、応える。
「東京進出というより、ご自分の組をお作りになるつもりだったんですよね。松本組の進出なら、これほど勢力が拮抗している場所を選ばないでしょう。松本組進出と言うより、新たな組の立ち上げ。そんなカンジが強いんですけど」
尚にいが信じられないものを見たようにあたしを見て、それから友紀子叔母を見つめている。
「さっきも言いましたように、ここ池袋は三つどもえの拮抗戦です。それに松本組の名前だけで、反応するような逼迫した状況です。ですから、今回は刀を鞘に納めてもらえませんか? 他にも、話がありますし」
友紀子叔母の目が細くなった。
そして、言う。
「……尚彬」
「え?」
「……とんでもない、娘だわ。この子。やっぱり、父親の血を引いているわね」
決してあたしに、話を向けようとはしないけれど。でも、少しあたしのことを憎むような視線はなくなった。
それから友紀子叔母はくるりとあたしたちに背を向けて、ウエストゲートパークの入り口で吠えているベンツの若い衆に声を上げた。
「朝井!」
「は?」
「うるさいのよ、しばらく黙ってなさい」
「……はい」
それからもう一度振り返り、今度はあたしの目をみつめて、
「ファルコンの売人を上げさせたのも、あなたの仕業ということね」
「……」
あたしは小さく頷いた。友紀子叔母は小さく溜息を吐き出しながら、下を向いていたけれど、
「……資金源は断たれた。抗争を引き起こすつもりなんて、さらさらないわ。とりあえず、ここでは出来ないわね。残念だけど、引き上げるわ」
「……叔母様、ありがとう」
尚にいの深い一礼に、あたしも慌ててつこうとしたけど、間に合わなかった。苦笑しながら、友紀子叔母は
「フクロでなければ、瑞穂もこんなに止めないでしょうしね」
その時初めて気づいた。
友紀子叔母があたしの名前を呼んで、あたしと面と向かって話したこと。
でも、気づいていないことも。
そう気づかなかったことが、一つだけあった。
ガイセリックのうなり声だった。





あたしがガイセリックの警告に気づかなかったのが、最初だった。
ずっと、うなり声を上げて、歯をむき出しにして、怒ってたガイセリック。でもあたしは友紀子叔母に母親の状態を説明するのに、精一杯だった。友紀子叔母は目を見開いて、
「本当の話なの?」
「……ええ。三浦のおじさまから聞きましたから」
あたしたちにとって良かろうと悪かろうと、三浦のおじさまは正直者なんだ。あたしたちは良く知っている……だから、かあさんはずっと一緒にいることを望んでる。
次の間違いは、タカシに頼んでG-guardiansを撤収させたこと。
あたしと尚にいが、母親の現状を友紀子叔母に説明している最中。タカシはG-guardiansを呼び集め、何かあったら頼むと言いながら、でもメンバーを撤収させた。
「信じられないわね。姉様が直正さんを置いて出ていくなんて」
友紀子叔母は眉を顰めて、それからあたしの顔を見た。
「……決着を、つけるつもりなのかもしれないわ」
「決着?」
「そうね。瑞穂との。というより、瑞穂という存在を」
その時。
ガイセリックが声を上げた。
今まで聞いたことのないような、激しい吠え方で。
そこにいた全員が、ガイセリックを見た。
全身の毛を逆立てて、ガイセリックは吠えている。今まで見たことないような形相で、公園の一角を見つめながら、前足を突っ張って。
次の瞬間。
全員が理解した。
何がいるかってことを。





それは一瞬だった。
あたしの左側に、何かが激しくぶつかった。
あたしは思わず蹌踉めいて、尚にいに支えられてようやく立っていた。
自分の姿勢が何とか確保できてすぐに、あたしは左側を見た。
立っていたのは、高沼くん。さっきまであたしの背後にいたのに、今はあたしの左側で、あたしに背中を向けて、立っている。その向こうに誰かがいるのが見えていた。そして、微かな水音。
ポタン、ポタンと、何か滴が落ちる音。
高沼くんの足下、ウエストゲートパークの蛍光灯に照らされているのは、真っ赤な……血だった。
「姉様!」
友紀子叔母が叫んで、高沼くんの向こうに回り込んだ。そして、高沼くんの向こうにいた誰かを、高沼くんから引き離した。それと同時に、高沼くんが崩れ落ちる。
「おい!」
尚にいがあたしから離れて、崩れ落ちた高沼くんを抱き起こす。あたしも慌てて、高沼くんの前に回り込んだ。
「救急車、呼べ!」
マコトの声が響いた。
引き上げ始めていたG-guardiansが戻ってくる。
高沼くんの顔色は、少し青ざめていたけど、まだ血色が良かった。
尚にいが身体を起こすと、高沼くんが声を上げる。
「……大丈夫です……抜いてもらえませんか」
見ると、高沼くんの腹部に、異様なものが刺さっていた。蛍光灯に照らされている、ナイフ。そう、食事の時に使うナイフ。だけどそんなに深くは刺さっていないけど、刺さった周りは次第に白いワイシャツを紅く染めている。
「待て、今抜いたら出血がひどくなる」
マコトが高沼くんに言って、左手でナイフを上手に避けながら、止血する。それから尚にいの耳元に囁いた。
「血が赤い。動脈やられたかも。動かさない方がいい」
「分かった」
尚にいはすぐに冷静さを取り戻して、高沼くんに言う。
「大丈夫だ。救急車を呼んだ。がんばれ」
そのすぐ脇で、悲鳴が上がった。
「何するの、この獣! 離しなさい」
「姉様!」
獣と言われたのは、ガイセリックだった。
相変わらず形相を変えて、血まみれの両手を自分に向ける人間のスカートの裾に噛みつき、左右に振って、絶対に逃がさないようにしている。
ガイセリックが噛みついている、それは。
見たこともないほど、醜悪なものだった。
……それは、あたしの母親だったかもしれない。
でも、今は違う。
何か、違ういきもの。
醜悪に、憎悪だけで生きている、いきもの。
山内紗江子と言う名前すら、捨てようとしている、いきものだった。
あたしは思わず呆気にとられて、そのいきものを見ていた。
……これって、なに?
「姉様、姉様、落ち着いて! 瑞穂、この犬を離しなさい!」
友紀子叔母の声に、そのいきものは初めて、あたしの顔を見た。
ガイセリックのうなり声と、救急車のサイレンの音だけ。瞬間静まりかえったあたしたちの間を、そのいきものはその一言で切り裂いた。
「お前は、だあれ? お前は、だれなの?」





救急車は、ナイフが刺さったままの高沼くんと、子供のような表情の母親を乗せて、走り去った。尚にいと友紀子叔母が付き添って行った。あたしはガイセリックを連れているから、救急車には乗れない。だから、とりあえずガイセリックを連れに来る雅にいを待って、病院に向かうことにした。
「……マコト」
あたしの声に、驚くぐらい反応したマコトは、
「なに!」
「いや、そんなにかしこまられても困るんだけど……」
「あ?」
「タバコ、一本くれない?」
「ああ、なんだ……」
肩の力を抜いて、マコトはポケットからタバコを出す。
久しぶりの一服が、体中に浸透していくカンジ。なんか、一息つけたってカンジで、あたしは深く息を吐き出した。
マコトも、タカシも黙ってあたしを見ている。あたしは一本しっかり吸いきって、マコトの差し出した携帯灰皿に残りを捨てて、
「久しぶりに吸った」
「そうだよな、見たことねぇもん。瑞穂が吸うところ」
「だろうね。もう何年も禁煙してたし。これから吸おうかな」
「……あのさ、姉さん?」
タカシが、ケータイを片手に声を上げた。
「……イマサラなんだけど、ベンツがモースピードで走り回ってるみたいなんだけどさ」
「え?」
忘れてた。
そうなんだ、結局母さんはいつも乗ってるベンツでサナトリウムを出た。運転手の松永、母さん個人の執事である榎本、それから看護婦さん。プラス母さんの3人でサナトリウムを脱走したはずだったから。
それに、やっぱり三浦のオジサンにも連絡を取った方がいい。
ようやく気がついて、あたしは相変わらずケータイに向かっているタカシに声を上げた。
「教えてあげて。病院」
「リョーカイ」
その時、ウエストゲートパーク入り口に、黒いベンツが乗り付けた。
「噂をすれば、かい」
「違う。あれは雅にいの」
ベンツと続けようとするあたしの言葉を遮ったのは、
「瑞穂さん!」
運転席から回り込んで、あたしの前に走ってきながら声を上げているのは、三谷原さん。すぐあとに後部座席のドアも開いて、テオドリックが飛び降りた。すぐにあたしの所に駆けてきて、おとなしく座っていたガイセリックと鼻をこすりあわせて、会話をしている。
ジークフリードの方は、おとなしくご主人の雅にいと一緒に降りてくる。
「高沼が刺されたって」
「ごめん、あたしを庇ったの」
「……いえ、責めてるわけじゃないんです。俺たちSPは、身体を張って守るのが仕事です。万が一でも、自分の身体を庇うよりも、対象者の身体を庇うことが出来るように、している……というよりされているんですから」
三谷原さんは肩で大きく息を吐いて。すると、雅にいが軽く肩を叩いて、
【で、高沼くんは大丈夫なの?】
「さっき、尚にいから電話が来た。手術に入ったけど、お医者によると、大腸に達しているかもしれないって」
雅にいとあたしの手話を見て、マコトとタカシが目を丸くしている。でも、あたしにそういう兄弟がいることはとっくに教えていたから、一瞬だったけど。
次の瞬間。
雅にいのベンツの後ろで、ゴツンと音がした。
その場にいた雅にい以外の全員が振り返る。
ベンツの後ろに、ベンツ。
そう、ベンツにベンツがカマ掘ったわけ。
「ありゃー」
「あれ? あのベンツ」
すぐに助手席のドアから結構な年寄りが飛び出してきて、あたしと雅にいはようやく顔を見合わせて、大笑いした。三谷原さんも苦笑している。年寄りは周りを見回して、爆笑しているあたしたちを発見するとフラフラと歩いてきて、目の前で突然土下座をかましてくれた。
「申し訳ございません! 雅紹さま、瑞穂さま!」
続く変なことに、もうマコトとタカシは反応しなくなっていた。ただ手を一生懸命舐めるテオとガイにだけ構ってる。
「榎本さん、どうかしたの?」
「……雅紹さまのお車を見つけたので、急いで止めさせましたら、あの仕儀……どうぞ、お許し下さい!」
「それはいいんだけど。榎本さん。母さんを捜してるんでしょ」
そう、ウエストゲートパークの大してキレイじゃないタイルにはいつくばってるこのお年寄り、母さんの生まれた時からのお守り役、いわゆる執事ってやつ。榎本武士つーたいそうなお名前がある。だけど、ホントに母さんのことが大切なのか、よく分かんないけど、とにかく母さんの言うことはよく聞く……でも、あたしにはあんまり接点がないから分かんないけど。
「瑞穂さま、ご存じなんですか?」
「ご存じもなにも」
あたしは、思いっきり冷たい表情をしてみせて、
「あたしのSPに、ナイフ突き刺したのは、母さんよ。友紀子叔母様が付き添って病院に行ったわ」
「なんと!」
あっという間に、カエルみたいにはいつくばっていた榎本老人はあたしが病院の名前を告げるなり、素早くベンツに乗り込んで去って行った。
やっぱり、母様が一番なんだから。





榎本に遅れて、あたしたちは病院に着いた。
マコトとタカシは、手術が終わり次第、連絡を入れることにして、ウエストゲートパークで別れた。多分、デニーズでたむろってるんだと思う。
病院の事務所に、一応聴導犬だということを知らせて、ジークとテオとガイを預け、尚にいが電話で言っていた手術室に向かうことにした。
だけど、手術室の前で、あたしたちはとっても意外な人に会うことになった。
「……あれ?」
手術室に向かう扉は、当然ながら関係者以外立入禁止で、仕方なく家族用の控え室に入ったけど、そこには尚にいだけじゃなくて、なぜかオヤジ殿までいたから、あたしたちはびっくりしてしまった。
「……なんで?」
「なんでって、いちゃ悪いのか?」
「いや、そういう訳じゃないけど」
オヤジ殿に、急を知らせたのは、意外にも友紀子叔母だった。それもちょうど、東京での仕事を終えて、雅にいの泊まってるホテルに向かっている途中だったらしい。だから、雅にいよりも動きが早かったんだ。
「紗江子は、今は鎮静剤を打って寝てる……オレの顔を見ても、反応しないからよほどだな」
待ち時間の間、オヤジ殿はほとんど独り言のように呟いていた。
「……紗江子の病気のことは、主治医の松前先生から話が来てた……ガンだ。それももう全身に回ってる。多分、脳も侵食されてる。記憶の退行はその可能性を示唆していると、ここの医者が言っている。榎本からの話だと、ここ数日幼児語が頻繁に出てくるようになってたらしいからな……」





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