「ねえ、エルンスト。これでいいかな?」
目を輝かせて、子供が問う。
エルンスト・ランスドルは、子供の書いた錬成陣を覗き込んで微笑んだ。
「うん、上手に書けたね」
「ホント? やった、エルンストに褒められたよ」
子供は嬉しそうに錬成陣を書き込んだ紙を大事そうにしまって、立ち上がる。
「お母さんに見せてくる」
「途中で錬成しないようにね」
エルの呼びかけに、子供は笑顔で答えて駆けていく。
駆けていく子供を見送りながら、エルは空を見上げた。
赤い夕陽が、沈み始めていた。
「エルンスト。今日は随分遅くまで頑張るのね」
姉の声に、エルは自分が時間を忘れていたことに気づいて顔を上げた。部屋の入り口で姉が夕食を運んできたのが見えた。
「姉さん、ごめん」
「いいのよ。ここに置いておくから。食器は台所に運んでおいてね」
「うん」
「今日は……何をしてるの?」
「子供用に鎮痛剤を処方してたんだ。大人用の鎮痛剤だと、合わない子供もいるからね」
てきぱきと調合している弟の後ろ姿を見つめて、エレノア・ランスドルはゆったりと微笑んだ。だが、弟は問いかけたのに答えが帰って来ないことに疑問を感じて振り返る。
「どうかした?」
「ん? 何もないわよ」
穏やかに微笑む姉の様子に、しかし違和感を感じてエルンストが聞く。
「何もないって……」
「エルンスト。あのね……」
笑顔で言い淀む姉の様子に、エルンストも笑顔で聞き返す。
「何か、あったんでしょ?」
「ん……」
少しだけ言葉を探して、エレノアは言う。
「ゲルハルト・ヒュンラー、知ってるでしょ?」
銀髪を結い上げた姉が出した名前は、エルンストがいつも薬材を買いに行く薬局の若旦那の名前である。エルンストはいつも穏やかでメガネの奥の細目を一層細めて笑う少し年上の男を思い出していた。
「薬局の若旦那だよね。どうしたの?」
「……結婚、申し込まれちゃった」
「……え?」
「プロポーズされたの」
うっすらと頬を赤く染めている姉の様子は、初々しい乙女を見るようで。
そんな姉の姿を、ここ何年もエルンストは見た記憶がなくて。
「ホントに?」
「ええ」
「よかったね」
心から祝福を口にする。
姉は満面の笑顔で、それに答える。
その様子から、断るつもりなどないことを察したエルンストだったが、
「あのさ、姉さん」
「?」
「その……姉さんの昔の話、若旦那は知ってるの?」
一瞬、エレノアの微笑みに翳りが見えたが、すぐに立ち直り、
「うん。知ってる。話したから……それでも、結婚したいって言ってくれてるの」
苦しんだ、過去。
消しても、消しきれない、罪。
姉は罪を一生背負い続ける決意をして、そして全てを失った。
そのすべてを、ゲルハルト・ヒュンラーは知っているという。知った上で姉との結婚を望んでいるのだと。
「じゃあ……本物だね」
「え?」
顔を上げた姉の片頬を、エルンストは笑顔で撫でた。
「姉さんを……任せても、大丈夫だね」
少年は聞く。
「すいません、エランダムまであとどれくらいですか?」
「エランダム?」
農夫は、訝しげに顔を上げ、声をかけた少年を見る。
「エランダムに用事ってことは、お前さん、錬金術師かい?」
「ええ」
「ちょうどよかった!」
少年は突然農夫に腕を取られた。
「な、頼みがある。聞いてくれたら、エランダムまで送ってやるから」
「はぁ……」
ぐいぐいと引っ張っていかれたのは。
「これは、派手に壊しましたね……」
「先週、この辺りで大雨が降ってな。もう古かったから、こわれちまったのさ」
すぐ脇の柵の中で、相槌を打つように牛が鳴いた。どうやら牛小屋だったその残骸を前に、少年は首をかしげる。
「やってみます」
「無理しなくてもいいぞ〜、柱とか釘とかを治してくれたらいいからな」
農夫は少し残念に思った。
修理をしなくてはならないと思っていた矢先に現れた『錬金術師』。
もし、もっと大人であったなら2時間ほどで完全な牛小屋を造り出してくれるが、まだ年端も行かぬような少年に、それを期待するのは酷というもの。
錬成陣を書くぐらいは出来るだろうと、背中を向けた時。
背後で、乾いた音がして。
青い光が、輝いた。
驚いて農夫が振り返ると、そこにあったのは。
「えっと、残っている部品だとこのぐらいしかできませんけど、それでもいいですか?」
「はぁ……構いません」
前よりも遙かに立派な、牛小屋がそこに建っていた。
牛が、大きく一声鳴いて、新しい我が家の完成を喜んでいた。
「エレノア・ランスドル? どっかで聞いたなぁ」
少年が告げる名前を、農夫はどこかで聞き覚えがあった。
少年は、続けて聞く。
「知ってますか?」
「う〜ん……エランダムってことは錬金術師なんだろ? 錬金術師は出稼ぎが多いからなぁ、だから知ってるのかな……あ、思い出した」
農夫は記憶の片隅から、何とか目的の名前を引きずり出した。
「エランダムで唯一の国家錬金術師だろ? 何年も前に国家錬金術師を辞めて帰ってきたけど、随分揉めたんだよな、確か」
「揉めた?」
少年、アルフォンス・エルリックは長くのばした後ろ髪が前に降りてくるのを後ろに放りながら聞き返す。
「なんで揉めたんですか?」
「う〜ん、又聞きだから正確なことはわかんねぇけど……ほら、国家錬金術師は軍の狗とか呼ばれてるんだろ?」
軍の狗。
何度聞いた蔑称だろう。アルフォンスは内心大きくため息をつきながら、
「錬金術師よ、大衆のためにあれ……それに反するからでしょ?」
「それにしてもエランダムは元々軍に反撥しやすいところだからなぁ」
のんびりと言ったその言葉の意味は重くて。
アルフォンスもエランダムに向かう前、セントラルで幾つかの話を聞いた。
一つ。エランダムは錬金術発祥の地と呼ばれるほど錬金術と密接な関係を築いている村である。
二つ。エランダムが属する北部は元々アメストリスに併合される前は独立国であり、数百年前併合される折には、強硬に併合に反対し、エランダム内乱と呼ばれるほどの紛争を起こし、国軍からは未だにもって監視対象であること。
三つ。かつては大都市であったために、住民の多くが自給自足を行えず、錬金術を身につけてアメストリス各地に出稼ぎに飛び回っているということ。
『決して豊か……とは言えない地域よ』
顔を出したアルフォンスに情報を与えてくれた中尉がため息混じりに言う。
『だから、何が起こるかわからないわよ』
『それでも……行きます』
そこに、兄の情報があるかもしれないから。
『もう一度、旅をしてみるつもりなんです』
穏やかな、見守るような表情のホークアイ中尉にアルフォンスは力強く言った。
『そうすれば……きっと何かみつかる気がして』
それは、姿を消した兄、エドワード・エルリックのことなのか、あるいはなくしてしまったアルフォンス・エルリック本人の記憶なのか。
しかし中尉は、ただ笑んでアルフォンスを見つめていた。
『あ、そういえば……マスタング大佐は?』
その名前に中尉は一瞬目を細めたけれど。
『怪我が直ったので、復帰してるわ……今は伍長で北部にいるの』
『そう、なんですか……』
世間に疎く、軍の記憶がないアルフォンスでも、大佐から伍長という位階の落差はなんとなく分かる。
本当は公表されていないが、アルフォンスはかつてあった『事実』を中尉から聞かされていた。
マスタング『大佐』が、『反乱の首謀者』であったこと。
出世することで、自分を生かそうとしていた男が、その夢を捨ててまで、追い求めたこと。
共にあると約束した親友の死が、それを促してしまったことを。
『アルフォンスくん、一度時間が出来たら……大佐、伍長に会ってあげてくれる?』
穏やかに微笑んだ中尉の表情が、どこか悲しげに見えたことが、アルフォンスには悲しかった。
「だからなぁ、軍の狗になったもんは、村に入れないとか入れるとか……だけどなぁ、帰って来たその娘を見て、村人はあんまりひどい仕打ちが出来なくなったんだとさ」
「え?」
不意に、現実に引き戻されて、アルフォンスは首をかしげる。
話の先が予想出来ない。
「出来ないって? どうして?」
「ひどくボロボロの状態だったらしいぞ。ま、噂で聞いた話だからな。確か……弟がいたはずだ。え〜と……エルンスト・ランスドルだったかな……?」
「エルンスト・ランスドル……」
「お前さん、まさか国家錬金術師じゃないよな? 俺はイヤだぞ。あそこの村の国家錬金術師に対する恨みはすごいからなぁ……何年か前に国家錬金術師が来て、ずいぶんかき回していったらしくてなぁ……それ以来、よそ者は嫌われているぞぉ」
「そうですか……じゃあ、降りないといけないですね」
アルフォンスは身軽く、荷馬車から飛び降りた。
目を丸くしている農夫に、力一杯頭を下げる。
「ありがとうございました。僕、国家錬金術師じゃないけど、錬金術師だから。迷惑かけたらいけないから、こっから歩いていきます……まっすぐでいいんですよね」
「あ、ああ」
とてとてと歩きながら、アルフォンスはもう一度振り返って、農夫に手を振った。
農夫は呆然とアルフォンスを見送ったが、やがて深いため息をついて、呟いた。
「あ〜んなちっこいのが、錬金術師だなんてなぁ……」
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