さわさわと揺れる木の影に囲まれて、アルフォンスは揺らめく炎をぼんやりと見つめていた。
なる必要なんて、ないんじゃないか。
くわえタバコの、ハボックが言った。
『もう教えることは、ないよ。行くがいい』
病床で、2度目の修行が終了したことを告げて、イズミは微笑んだ。
日に日に痩せていくその姿に、アルフォンスはなんとかしたかったけれど、何もできなくて。
微笑んだ師匠が、呟いた。
『エドを、探すかい?』
旅立ちの日、イズミは穏やかな微笑みで中央に向かうアルフォンスを見送ったけれど。
中央でホークアイ中尉から聞いたのは、イズミの死だった。
喉の奥からこみ上げてきそうな哀しみをこらえて、アルフォンスは中尉に言った。
『国家錬金術師って、僕、なれますか?』
軍の狗。
蔑まれ、しかし特権が大きかった国家錬金術師は軍縮の波を受けて、大きく規模を縮小して、その特権も軍人とほとんど変わらなくなっていたけれども。
それでも、アルフォンスは国家錬金術師になることを望んだ。
貶され、得るものも少ない。
だからハボックが言ったのだ。
しかし、アルフォンスは微笑んで、
『兄さんは……国家錬金術師をやってた。国家錬金術師って目立つんですよね……きっと、兄さんを捜し出すのに、役立つんじゃないかな』
だが国家錬金術師の募集は既に2年行われておらず、募集の予定すらなかった。
中尉は、アルフォンスを軍属扱いにできる手続きをしてくれた。
『エドワードくんは、国家錬金術師だからその捜索任務をアルフォンスくんに与えます……これで軍のある程度の協力は得られると思うから』
大佐がいない今、決して高位とはいえない中尉の位階でできるのはこのぐらいのこと。
思わず自嘲したくなる中尉を慰めたのは、アルフォンスの笑顔だった。
『ありがとうございます!』
『エドワードくん……見つかるといいわね』
「中尉さん、まだ見つからないよ……」
兄が国家錬金術師になり、ともにアメストリス中を『賢者の石』を求めて旅した4年間の記憶が、アルフォンスにはない。
見舞ったマスタング大佐は、穏やかな微笑みで言った。
『全てのことに等価交換が大原則……と鋼のは言っていたが、もしかしたら君の記憶は人体錬成で等価交換に使われてしまったのかな……いや、そもそもこの世界は不完全なのだから、記憶はただしまわれてしまっただけなのかもしれない。戻らないものではないかもしれない。足跡をたどるといい……2人で歩いた4年の道程を』
記憶がない分、親しかったはずの大佐や中尉に、少しだけ違和感を感じてはいるけれど、頼るべき人はこの人達なのだと、なんとなくわかっている。
アルフォンスはぼんやりと、揺れる炎を見つめている。
結局日のあるうちにエランダムには着けず、野宿する羽目になったけれど、アルフォンスは苦にする様子が見えない。このくらい幼き頃、兄弟で受けた『修行』に比べれば、なんてことはない。
「死ぬかと、思ったからねぇ」
アルフォンスの独白を、しかし聞く者はいない。
「兄さんと一緒、だから頑張れたんだよね」
黄金の双眸、黄金の髪。
自分より少しだけ背の低い、兄。
いつだってアルフォンスの前を走っていて、アルフォンスは追いかけるだけだった。
『アル……母さんを戻そう』
兄のその言葉の、本当の意味をアルフォンスはのちに知ることになる。
だけど、あのときは。
気付けば、広間にいた。
ぼんやりとしていると、自分のことを知っている少女に手を引かれて、明るい場所に出た。
『アル、大丈夫?』
『……ここはどこなの?』
途切れた記憶は、兄の姿とともに消え去って。
与えられたのは、錬成陣なしでの錬成で。
『お前は、やはり真理を見ていたんだな……』
嘆息しながら、イズミが告げた。
篝火の中、アルフォンスは自分の右手を見つめる。
母の錬成は、上手くいかなかった。
結局アルフォンスは身体を全て、失った。
消えゆく身体。
手を伸ばした先には、必死に止めようとしている兄がいて。
不意に。
世界が変わり。
そこは、巨大な扉だけの白い世界。
不気味な音ともに、扉は開き。
恐怖のあまり絶叫するアルフォンスを、扉の中から現れる黒い触手がからめとり。
次に覚えているのは、ロゼが自分を誘っていたこと。
ウィンリィから聞いた話。
あの『母の錬成』で、兄は、エドワードは右手を失ったという。ウィンリィとピナコが装着させた機械鎧で失った右手を補って、自分と旅を続けていたという。
今度は、自分が探す。
「兄さん……」
エルンストはふと気付いた。
今日、往診するはずだった老人の治療薬に必要な薬材がない。
薬棚をのぞいても、在庫はきらしていた。
「そうか、昨日、レビの治療に……」
残しておいた最後の薬材を使ってしまったことを不意に思い出したのだ。だからといって老人の往診をしないわけにはいかない。
エルンストは、重い腰を上げた。
行くしか、ない。
からんころん。
扉が動くと鳴るベルの音に、ゲルハルト・ヒュンラーは顔を上げた。
入って来た客は、よく見知った顔で。そのうえ近いうちに顔を出さなくてはと思っていた相手だった。
「いらっしゃい」
「……こんにちわ。あのさ、サリアイスあるかな……乾燥でいいから」
「サリアイス?」
ゲルハルトはメガネの奥の細い目を少し大きく見開いて、
「あるけど……君がサリアイスを切らすなんて、珍しいね」
「来週取りに行くつもりだったけど、フォーンさんちのレビに使ったし、これからガリナム爺さんに使わなきゃいけないから」
「そうか、分かった。ちょっと座っててくれ。倉庫に乾燥があったと思うから出してくる」
ゲルハルトの言葉に、エルンストは安堵の溜息をつく。
「よかった……」
安心したように近くの椅子に座るエルンストを穏やかにみつめて、ゲルハルトは地下の倉庫に降りていく。
アルフォンスは困っていた。
正直、簡単に『エレノア・ランスドル』が見つかるとは思っていなかった。昨日の農夫の話では、随分と揉めたのだったら、名前を出すだけでも不審がられる可能性は高かった。とはいえ、訪ねるのに、『エレノア・ランスドル』を探す以外に手立てがないのも事実だ。
エランダムに入ってすぐ、アルフォンスは試しに、声をかけてみた。
「すみません、エレノア・ランスドルって人を探しているんだけど……知りませんか?」
ほとんどの者が名前を聞いただけで、アルフォンスをにらみ付けたり、あるいは完全無視に切り替えるのだが、唯一答えてくれたのは初老の女性だった。
「あんた、エレノアに何の用だい」
「えっと……ちょっと聞きたいことがあって」
「あんな、疫病神には近づかないことだね。それでもいいって言うんだったら、ヒュンラー薬局か、フォードン診療所に行きなさい……ああ、あたしに聞いたなんて言うんじゃないよ」
ぶつぶつと呟きながら、老女は姿を消した。
これでアルフォンスの目的地は第一候補ヒュンラー薬局、第二候補フォードン診療所になった。先ほどまでのエレノア・ランスドルよりも、遙かに好意的に人々が目的地を教えてくれる。
言われるがまま、ヒュンラー薬局と書かれた扉をくぐった。
「はい、サリアイス」
思いがけない量を渡されて、エルンストは戸惑う。
「ちょっ、これ量が多すぎ」
「おまけだよ」
穏やかな微笑みのまま、ゲルハルトは言う。
「お代はいつものでいいから」
「……すいません」
「それはそうと、話があるんだけど」
来た。
間違いなく、エレノアの話だ。
思わず身構えるエルンストに、ゲルハルトは苦笑する。
「随分戦闘態勢だね」
「いや、そんなこと……」
「そう? じゃあ、あのね」
そのとき。
「すみませ〜ん」
扉のベルとともに響いてきた幼い声。
思わず緊張の糸が切れたエルンストに、ゲルハルトは小さな声で言う。
「少し時間あるかい? 待っててくれないかい?」
「え、はぁ」
結局、逃げられない。
うんざりしたエルンストの表情にふたたび苦笑して、ゲルハルトは店の入り口に立ち尽くしている少年に声をかけた。
「何か、ご用?」
「え、あ、はい」
とてとてと、カウンターの前に現れた少年の風体を、ゲルハルトは少年に気付かれないように観察する。
黄金の長い髪は、背中で束ねられている。
黒い衣服を赤いコートで覆い、少年はその赤いコートを脱いだ。脱ぐ瞬間、背中に『フラメルの十字架にかけられた蛇』の紋章が見えた。その紋章を身につけているのは、錬金術師だけだ。
少年はコートを手にかけて、ゲルハルトに言う。
「えっと、エレノア・ランスドルって人を探してます。聞いたら、ここに伺えって教えてくれた人がいて」
「……」
思いもしない名前に、ゲルハルトは黙り込む。
カウンターの隅っこでぼんやりとしていたエルンストは厳しい視線を、少年に向けた。
「あのね、君。人に尋ねる時は、名乗るのが普通じゃないかい?」
穏やかだが、有無を言わせないゲルハルトの口調に、一瞬呆気に取られた少年は、しかしすぐに答える。
「僕、アルフォンス・エルリックです」
その瞬間。
抱えていた、サリアイスの袋が床に落ちた。
ゲルハルトがエルンストの様子に気付いた。
「エルンスト?」
愕然とした表情を浮かべているエルンストが、ゆっくりと歩を進める。
「……お前、アルフォンスなのか?」
少年、アルフォンスは突然カウンターの端から現れた青年を、見上げる。
「はい……あのう、僕のこと、もしかして知ってます?」
「……身体、取り戻したのか……」