ゴリアテ 01






ゴリアテ。
旧約聖書に登場する、巨人の名。
巨人ゴリアテは、人々を苦しめた。
やがて英雄となる、ダヴィデ少年が投じた石によって倒れるまで。
ゴリアテ。
愚かな、巨人の名である。





「今日は楽しかったですわ!」
「そうか、良かったな」
「ええ。A-Sが一緒だからなおのこと楽しゅうございましたの。今年の秋冬ものはとっても素敵♪ お兄さまにもお似合いになるものが多うございましたわ」
「俺様はこれでいい。洋服よりも、着物の方が着やすいしな、しっくりくる」
「残念ですわ♪」
小鳥がさざめくようにはしゃいでいる妹。
落ち着いた受け答えを返す、兄。
一見するならば、ごく日常にみえる兄妹なのだが。
会話が展開されている場所が、電脳空間であり、上位空間であり、電脳図書館《ORACLE》であると、話は変わってくる。
「師匠ぉ、待ち合わせにORACLE、使わないでくださいよ。こっちは仕事、してるんですから」
マホガニー風に造られた豪奢なデスクに向かいながら、ヴァイオレットの双瞳をコードに向けて、オラトリオがぼやくように言う。
「そうか。それは悪かったな。しかし、お前の相棒は我々を歓迎してくれているようだが?」
棘しか見えない言葉が師匠から帰ってきて、オラトリオは慌てて、オラクルを捜す。
いた。
カウンターの向こうで、中国茶を煎れている。
「ちょっと待ってね。大紅寶は少し蒸らした方が美味しいからね」
「うむ」
「エモーションはカフェ・ラ・テでいいんだよね」
「お構いなく」
「いいよ。ついでだから」
すっかりもてなしを始めてしまったオラクルを見つけて、オラトリオはがっくりと肩を落とす。そして、一つのことに気づいた。
「おい、オラクル。この仕事は誰が片づけるんだ?」
「え? だってそれってもう終わりじゃない。あとは」
オラトリオがやっといてね。
同じ容貌、しかしオラトリオには絶対に出来ない極上の微笑みを浮かべて、オラクルは言下に命令を下す。
一層脱力してしまったオラトリオは、しかし素直に命令に従うことにした。





「そう言えばエモーション。シグナルと一緒に行ったんじゃなかったのかい?」
オラクルの指摘に、エモーションはその緑色の大きな双眸を数度パチクリさせて。
「あら、こちらに来ていませんの?」
「いや?」
「どういうことだ、エレクトラ」
「……途中まで一緒でしたの、A-Sと。でも、A-Sが疲れたと言ったので、先にこちらに帰るようにと……じゃ、わたくしが先に帰り着いてしまったのかしら?」
電脳空間に早く適応しなくてはいけませんからね。
そう理由を造って、エモーションはよくシグナルを引っ張り回す。しかし結局行く場所はファッション関係のサイトをネットサーフすることになる。
いつの時代も、デパート巡りは女性には楽しいものだが、つき合うだけの男性には暇を増大させている時間でしかない。暇が増えるだけなら良いが、次から次へと荷物をその腕に積み重ねられることも多い。
『女性の買い物』につきあうには、男性には覚悟がいる。
シグナルは、その覚悟なしにエモーションにつきあったわけで。
途中で、精神的にも肉体的にも疲れ果てて、途中帰還を願い出て、ようやく許可されたのだが。





「大変ですわ、わたくし、A-Sに《ORACLE》への路を教えていませんわ」
エモーションがパニック寸前になる。コードが何とか宥めて、
「……あいつ、またやったか」
「そのようですね、どうしやスか? ここにはアナウンスはありやせんぜ」
オラトリオとコードの会話が理解出来なくて、ポットを抱えたオラクルが首を傾げる。
「アナウンス?」
「ちびの時にな、アトランダムで迷子になったんだよ、あいつ」
「へえ」
4人の脳裏に、迷子アナウンスが浮かぶ。





 迷子のお知らせを致します。
日本からおこしのえーす・しぐなる君。えーす・しぐなる君。
お姉さん、お兄さんがお待ちです。
お近くの係員まで……。





「放送はされてないぞ」
「……なっさけねぇ」
4人が4人それぞれの反応を示した。
コードは、軽蔑の溜息。
オラトリオは、笑い飛ばす。
エモーションは、初めて知った驚き。
オラクルは、苦笑している。
「……でもさ。放送は出来ないよ」
「あほ、出来るか。えーす・しぐなる君、《ORACLE》までお帰り下さいってか?」
「……無理かな」
「無理だな」
「無理に決まってるだろ」
のほほんとしたオラクルの言葉にオラトリオとコードが素早く返す。オラクルは軽く頭をかいて、
「そっか・・・」
「とにかく、捜しますわ。またアンダーネットにでも落ちてしまったら、A-Sが心配ですわ」
「……そうだな」
あたふたと《ORACLE》を飛び出て、エモーションはぐるりと周りを見回した。
完全無音の、世界。
闇よりも深い漆黒の基面と、硝子色の格子だけの世界。
どう見ても、この上位空間にはシグナルはいない。
「A-S……私の責任ですわ。捜さなければ……アンダーネットになど、落とさせませんわよ!」





『育ての母』の典雅な決意を、全く露知らず。
シグナルは、とぼとぼと歩いている。
いつものように姿勢を正して、とはいかない。いささかくたびれた表情がシグナルには見えている。
「……ここ、どこだろ……」
どこまで行っても、シグナルには同じ風景が続いているように、見える。輝くポリゴンの数々、走り抜ける光、店先に展示されたウインドウ。
『すいません、エモーションさん。そろそろ帰っていいですか?』
『そうですわね。よろしいですこと。《ORACLE》はあっちですか、間違わないように』
確かに、エモーションの指差した方向を目指してきたのだけれども。
どこまで行っても、同じポリゴン、同じ光、同じウインドウ……にシグナルには見えている。
「やれやれ」
小さく溜息をついて、シグナルはウインドウに背中を凭れて座る。
「ああ、疲れた……」
見上げれば、無限に広がるかのような無数の格子が輝くのが見える。
足を伸ばすと、少し足が楽になったような気がする。もちろん、気だけだろうが。
「もう少し、捜してみようかな」
プリズム・パープルの髪を揺らめかせて、シグナルは立ち上がり、また歩き出す。
《ORACLE》に帰ったら、オラクルに美味しい紅茶を煎れてもらうのだ。そう心に決めて。





「シグナルが?」
「迷子、ですか?」
プロジェクターから現れた人型のコードに告げられた事実に、カルマとパルスが顔を見合わせる。
「あいつ……ちびじゃなくても、迷子になるのか」
「確かに、電脳空間には迷子アナウンスは出来ませんねぇ」
カルマが少し考え込んで、
「アンダーネットに落ちたのなら、私が捜しますけど……まだそうと決まったわけではないでしょう?」
「そうだが……エレクトラが必死になって捜しているのでな」
結局、シスコン・コードは憎ったらしいヒヨッコのためではなく、かわいい妹のために動いているようだが。
「もしオラトリオの検索が上手くいかなかったときは、頼む」
電脳空間で唯一、攻撃的守護者。
自らに触れる者、全てを灼きはらうことのできる、電脳空間で制約を受けない、《A-K》KARMA。困った時のカルマ頼み、とでも言えようか。
オラトリオがダメなら、カルマ。
コードはさっさと姿を消す。
何をも映し出さなくなったプロジェクターを尻目に踵を返したカルマに、パルスが声をかける。
「どうする?」
「とりあえず、見張っててくださいな。私は信彦くんたちのお昼ご飯を作らなくてはいけませんから♪」
「……そうか」
「そうですね、このことは信彦くんには言わない方がいいでしょう」
「?」
パルスが首を傾げると、カルマはその『絶世』とも表現しえない容貌に、極上の微笑を浮かべて、
「心配なさいますでしょう?」
「そうだな」
「……万が一のことも考えて、正信さんには私からこっそり伝えておきますね」
「それがいいだろうな」
しかし。
パルスの脳裏には、ちびシグナルが迷子になって、『のぶひこぉ〜』と彷徨い歩く姿が浮かぶ。
「ちびならともかく、でかい方が迷子になるなどとは……」
「確かに想像出来ませんでしたね」
コードが連絡するといったコンピュータのディスプレイの前に、どっかりと腰を下ろして、パルスは呟く。
「まったく、MIRAの学習機能を使うということがあいつには出来ないのか?」
「無理ですよ、シグナルくんはまだ起動してから日が浅いんですから。これからおいおい覚えていくでしょうよ。私たちより遥かに学習機能は高いんですから」
「……そうだろうか?」
「何せ、教授が作った最新型ですよ。MIRAもSIRIUSもこれから本領発揮するはずですから」





MIRA。
SIRIUS。
人に命を与えられた、ロボット。
もしかしたら、MIRAとSIRIUSはロボットを人の手を借りずして、進化させるかもしれない。
オラトリオが言っていた。
《A-S》SIGNALには、それだけの可能性が秘められている。
カルマはそのブリリアント・グリーンの双眸に、未来への思いを含んで続ける。
「どう、なっていくんでしょうね。シグナルくんは」
「とにかく」
パルスはピジョン・ブラッドの眸をカルマに向けて、
「未来はどうあれ、シグナルがいないことでは、話にはならんな」
「……そうですね」
「昼飯、早く作ってきてはどうだ?」
「ええ、そうさせてもらいます」





結局、シグナルは。
また同じ風景の繰り返しで。決意も新たに歩き始めても、すぐに足が進まなくなる。
「困ったなぁ……」
トボトボと歩いていたシグナルだったが、突然浮遊感に襲われた。
身体が、沈む。
落ちていく。
奈落の底へ。
この感覚。覚えがある!
『アンダーネットなんか行くんじゃねぇぞ。あそこは師匠みたいな慣れたプログラムしか行けないんだからな。あそこでウイルスでも拾ってみろ? 悲惨なことになるのは、シグナル、お前だからな』
オラトリオの、長兄の忠告が、脳裏を過ぎる。
やばっ、アンダーネットへの穴に落ち……。





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