凍れる雪の狭間で 01
……どこに、いるの?
……ど、こ?
帰ってきて……。
寂しいよ。
怖い、よ。
不安、なんだってば。
テルちゃん。
テルちゃんがいないと、私、一人でなんか出来ないよ。
……助けて。
「麦子!」
自分の大声に驚いて、青年は飛び起きた。
飛び起きて、鈍い痛みが全身に広がったことで、青年は自分が生死の境を行き来するほどの重傷だったことを思いだし、その整った容貌が歪む。
「……つ」
「ダメよ、起きては! 自分がどんな怪我をしたか、分かってないの?!」
悲鳴のような声を上げて、中年の女性が青年のベッドに近寄ってくる。青年は女性によって、半ば強引にその身体を横たえさせられた。
「いいこと? 無理に起きてはいけないわ。1週間も意識がなかったのだから」
「……ですが、自分は行かなくては……」
「ここには電話がないの。吹雪が収まってから、息子を近くの電話のある家まで行かせるから。ここ1週間、吹雪で動けないのよ」
「……すみません」
「いいのよ。それより、どうしたの? 夢でも見たの?」
「……ええ……妻の夢を」
「あら、奥様がいたのね。さぞかし心配してらっしゃるでしょうね。早く連絡してあげないと……でも、吹雪が止まなければどうにも……」
「……」
青年は、唇を軽く噛んだ。
麦子、すまん……。
「テルちゃん?」
夫に呼ばれたような気がして、麦子は辺りを見回してみる。
「あれ、気のせいかな?」
キョロキョロと見回して見ても、夫の姿はない。
「う……気のせい、か。それにしても、テルちゃん! こんなにも連絡寄越さないなんて、何考えてるのよ!」
「麦子さん、そう怒らずに……」
大魔神に変身しようとする麦子を、副長の神田がまあまあと押さえている。
ぷんすか怒ってみても、愛らしい少女の怒りは、周りからは微笑ましく見えるらしい。まして、少女のお腹は大きく、その横には笑顔で宥める青年がいるのだから、微笑ましい夫婦喧嘩くらいにしか見えないのだろう。もし、この少女が『抱かれたい男No.1』と呼ばれた神楽坂輝の妻だと知ったら、周りの人間はどんな顔をするだろうか? 神田は時々、そう考えてしまう。
怒り狂っていた麦子だったが、瞬間表情が固まった。神田はそれを見逃さない。
「麦子さん?」
「……蹴った」
「は?」
「赤ちゃんがね、お腹を蹴ったの。うん、とっても元気な子よね」
あっと言う間に、大魔神が聖母に変わる。
「元気な子、みたい。母さんがね、お腹をぼかすか蹴る子は、男の子だって。この子も、男の子なのかなぁ?」
「麦子さんは、男の子がいいんですか?」
「うーん、どっちでも」
麦子の妊娠が発覚したのは、高校卒業を間近に控えた頃だった。大学進学も考えていたが、妊娠発覚後、トントン拍子に、否、輝に上手い具合に丸め込まれたと麦子は思っているけれども、妊娠5ヶ月の頃には微かに目立つお腹を輝の父親・デザイナーの山藤が特別にデザインしたウェディングドレスで包んで、『米倉』麦子から『神楽坂』麦子になったのだ。
新婚2ヶ月。そして、妊娠7ヶ月。大きなお腹の麦子を置いて、輝は北欧に『仕事』に出かけたのだ。
『5日で帰るわ』
確かにそう言ったのに、一度到着したという連絡以降、音沙汰なしだ。約束の5日はとうに過ぎている。
どうかしたのだろうか?
神田が気を揉む一方で、麦子は鼻歌まじりに、拙い針裁きで産着を縫い上げていく。
「まったく、テルちゃんなんて、向こうの美人といちゃついているに決まってるんだから」
それは、ない。
神田は断言できる。
なぜなら、今度の仕事に行くのを、最初もっとも嫌がっていたのは、輝自身なのだから。身重の麦子を気遣って、輝は仕事を『産休』にしようとまで言っていたのだ。だから空港で見送った時、飛行機での往復で3日もかかるというのに『7日で帰る』と言い残し、何度も何度も振り返りながら、去っていたのだ。いくら、そういくら、ハチャメチャな先生でも、麦子さんの言うようなことは絶対にあり得ない。
「……大丈夫ですよ、先生だったら絶対大丈夫ですから」
一体何度、同じ台詞を吐いただろうか?
『大丈夫』
言ってはみたものの、輝とは全く連絡つかない状態が続いていることは事実なのだ。そう、完全無欠の行方不明。神輝会ヨーロッパ支部から人を派遣して捜してはいるものの、輝がいるはずの地域はここ何日も猛吹雪が続いていて近づけず、一向に良い報告が入って来ないのが現状だ。
その事実を、麦子は知っている。
なのに、表面上は明るく振る舞っている。その健気さが、神田には一層惨く見える。
「……麦子さん」
「あ、そうだ。今日ね、久しぶりに実家に帰ることにしたの。具合がいいから、鈍行で」
「なに仰るんですか!」
思わず大声になる、神田。その勢いでまくし立てる。
「いいですか、安定期に入ったとはいえ、麦子さんは7ヶ月なんですよ、一人の身体じゃないんですよ! 一体、ご実家まで何時間かかると思ってらっしゃるんですか! 万が一のことがあったらどうするんです!」
「大丈夫だって」
「大丈夫、じゃないんです!」
そう、輝は大丈夫でも、こっちは大丈夫じゃない。
「だって……」
豊かな黒髪が、微かに震える。
自分を見上げる大きな黒い眸が、喩えようがないほどの哀しみと、不安とを抱えている。その様子に、神田は思わず息をのんだ。
「麦子、さん?」
「一人でやってると、終わらないの!」
ぐいっと差し出されたのは、縫いかけの産着。
「手作りでやりたいんだけど、私一人じゃ進まない! 母さんに手伝ってもらうの!」
「……麦子さん」
「このまんまじゃ、赤ちゃん生まれた時には袖無しの産着になっちゃうし……」
「……わかりました。先生の車を回しますから」
その国の名は、アルディシン大公国。
北欧の国々の中で、ひっそりと、本当にひっそりと続く、公国。人口は2万人ほど、領地は東京都よりも小さな国である。
純白の雪に覆われたこの小さな国は、実は知る人ぞ知る、有名な国でもある。
数百年前のこと。
公国唯一の鉱山から、見たこともない鉱石が出た。
紅、そして蒼。
ルビーとサファイアをマーブル状に配した、石。地質学上あり得ないその石は、当時のアルディシン大公ロールン3世によって、『トル・ビフィリア』、アルディシン語で双つの輝きと名付けられた。
だが、トル・ビフィリアはアルディシン大公国以外からは産出されず、加えて公国においても非常に産出量は希少であり、その価値は瞬く間に跳ね上がっていった。
今では、唯一産出していた鉱脈からもトル・ビフィリアは全く産出されておらず、故に価値は鰻登り、そのおかげでめぼしい産業がない公国は、過去の遺物であるトル・ビフィリアで何とか生活しているのだ。
「ようこそ、いらっしゃいました。神楽坂先生」
「お招きに預かり、恐悦至極です」
アルディシン大公の言葉に、恭しく宮廷式挨拶を行った輝だった。
「恥を忍んで、というべきでしょうか?」
若干17歳のアルディシン大公、ロールン7世ハルディナントは溜息まじりに呟いた。
謁見室で、しきたりである拝謁式を行った輝だったが、すぐにロールン7世の私室に通された。
今回の依頼主は、若きアルディシン大公である。
北欧系種族の典型的な風貌で、透けるような白い肌、薄い金の巻き毛、純青の眸、北欧王家の中でも、トップクラスの『美貌』で誇り、大した産業を持たないアルディシン大公でありながら、大公妃希望者があまたいると、噂されている。その美男子が溜息をつき、長い睫毛に憂いを重ねている。それを見つめるのは、また違う『美貌』の青年。2人にコーヒーを運んできた侍女は思わず退室するのを忘れて見惚れてしまう。
それに気づいた公は手振りで退室を促した。
名残を残しながら侍女が退室したのを確認して、公が続ける。
「まったく、哀しいことです。アルディシンの中に、悪魔と契約したものがあるとは」
「……大公殿下、それは事実ですか? それとも、憶測?」
輝は、憂う若き君主を、特に感慨もなくみつめている。
「事実でなければよい……と思います」
「……詳しくお聞きしましょう」
トル・ビフィリア。
美しく、妖しい双つの輝きは、それまでつましい生活を、そう国民と交わって生活してきたアルディシン公家の運命を大きく変えた。
贅沢な暮らし、北欧王家との繋がりを求めての政略結婚。生まれた醜い争いは、起こるべくして起こったのだ。
「公家の家系図を一緒にお送りしましたが」
「はい、拝見しました……失礼ですが、先のアルディシン大公にはお二人の大公妃がおられたのでしょうか?」
鋭い輝の指摘に、公は一瞬躊躇してから頷いた。
「本来の大公妃は、マレローネイ妃。しかし、妃には男子がなかったのです。生まれたのは姫君が三人……ルクレースイ姫、ミリスークィ姫、マシーリエ姫です……アルディシン大公国では、公になるのは唯一男子だけ、女子のみとなった場合は、直系の女子の夫が大公となること。公家典範にて定められています」
「……なるほど」
なんと時代遅れか。輝は心中の言葉を口にはしない。
大公の話は続いた。
貴族の出身ではなく、一介の国民でありながら望まれて大公妃となったマレローネイ妃。彼女には妹がいた。その未婚であるはずのヒルディーシエが夫もなく子を成した。
相手は誰か。
アルディシン大公国中が注目したが、意外にも名乗りをあげたのは、ヒルディーシエの姉の夫であり、先代のアルディシン大公、シュレオン2世だった。
『この者が孕みし子は、我が子である、つまりアルディシン公家の血を受け継ぐ者。女子なれば降嫁させ、男子ならば公家に入れる』
信じていた夫の裏切り。
相手は、妹。
マレローネイ妃の衝撃は、いかばかりであったろうか?
初産を控える身であった妃は、胎内の子が男子であることを望んだ。もし、妹の生んだ子が女子で、自分の生んだ子が男子であれば、自らの子は公太子となる。だが、万が一にも妹の子が男子で自分の子が女子であるなら?
「裏切った者の子が公太子となり、裏切られた者の子は不遇の身となる」
「そうです。結果、ヒルディーシエの子は男子。マレローネイ妃の子は女子。それがルクレースイ姫です」
「……ということは、大公殿下は」
「私はヒルディーシエの子。母は罪の意識からか、私を産み落としてすぐに亡くなりました。産後の肥立ちが悪かった……ということですが」
公はチラリと私室の壁の隅にかけられた絵に目をやった。輝も公の視線を追う。
楚々とした美しさの公に良く似た女性がたおやかな風に立っている。
「母です。懐かしんだ父が一枚だけ書かせたものです……」
「……」