凍れる雪の狭間で 02
「話を元に戻しましょう」
憧憬の視線が、強く、きつく、君主の冷徹な視線になっていく。
「男子、ということだけで、私はアルディシン大公になりました。女子ということだけで公位を奪われたと思っている先大公妃と、ルクレースイ姫は千載一遇のきっかけを捜しています……彼女は近々結婚します。我々の従弟にあたるハレシュン伯爵と」
「……つまり、大公殿下に対抗する勢力圏を築こうとしているわけですね」
「ええ。最近、ハレシュン伯爵の屋敷の周りを妙な空気が覆っていると、忠告してくれた魔女がいまして」
「魔女」
輝の視線が厳しくなる。それに気づいた公が慌てて訂正する。
「悪魔と契約する魔女でありませんよ。代々郊外の森に住んでいて、時折宮殿に姿を見せて、助言を与えてくれます。かつては公家の存続を助けたとか、あのトル・ビフィリアを見つけるきっかけを与えたとか、何かと役立つ魔女なんです」
「……そう、ですか」
「ええ。それで魔女が言うには、悪魔と契約している者がいる、ということなんです。ハレシュン伯爵の屋敷にそのような者がいるとしたら……」
「わかりました」
輝は大袈裟に頭を下げて、
「お引き受けしましょう。しかし、私にも用事が差し迫っておりますので、早急にことを行います。よろしいですね?」
「結構です。それで、成功したときの報酬は?」
公の言葉に、輝はにこやかに、そして高らかに告げる。
「トル・ビフィリアを。双つの輝きを頂きたい」
公の答えも早かった。
「よろしい、わかりました。良い品を用意しておきましょう」
「なるほどな、あやつが来たか」
「神楽坂輝か……」
漆黒の部屋。
闇ばかりが広がるその部屋に、椅子が二つ。
それに悠然と座る者が、小さく嗤った。
「愉しみが、一つ増えたか」
「ふむ、そうともいえるな」
「はーん、なかなか理想的な『公家の関係』ちゅうやつかいな?」
依頼とともに送られてきていたアルディシン公家の家系図を見ながら、輝はぼやく。
面倒なことにならんようにせんとな。はよ、帰りたいわ。
内心、焦っている輝である。
アルディシン大公直々の依頼、高額の報酬、輝の食指を動かしたのはそれらもあったが、何より『伝説の貴石』トル・ビフィリアの産地であるということ。
サファイア。
ルビー。
双つの貴石を混ぜ合わせた、神秘の輝き。
もし手に入るのなら、麦子への『結婚指輪』にと考えていたのだが……。
『もうしわけありません、ここ何年もトル・ビフィリアは扱っておりません』
どこの宝石商に問い合わせてもとってつけたような返事。
そんな折りの、依頼だったのだ。
トル・ビフィリアに魅せられて雪国まで来てはみたものの、
「こりゃ、かなり厄介なことに足つっこんでもうたなぁ……」
後悔、先に立たず。
「……ロナルフ、ハルディナントが妙な外国人を招いたわ」
「ああ、聞いた。東洋の実業家、らしいな」
「いいえ。エクソシストですって。かなりの力を持っているらしいわ。マリエラが……警告してきたの」
「マリエラが!」
予想もしなかった言葉に、青年はその翠色の双眼に驚愕を浮かべた。
「……何のつもりだ、ハルディナントは」
「分からないわね」
女性は、小さく微笑んで、
「……けれども、ハルディナントには何も出来ないわ。そう、本来ならしてはいけないのよ。大公位を争うなんて……時代錯誤もはなはだしいんだから。でも、私たちはしなくちゃいけない……」
うら若い女性が浮かべる微笑みは、しかし微かな哀しみを含んでいた。
「ああ、なんでこの国にはないんや!」
思わず日本語で吠えても、誰もそれに応える者などいない。
一面の雪世界。ふわりと舞い降りる雪たちの中で、一本の路。輝を乗せた橇馬車は賑やかな鈴の音をふりまきながら、進んでいく。
アルディシン大公が告げた『魔女』のことが気になって、輝は魔女に直接話を聞くことにしたのだが、時間が惜しい輝は、輝の世話を専属で行う執事に聞いた。
「急ぎたいのです。車はありますか?」
「ございますが、この雪では無理でしょう。橇馬車を用意いたします」
「……スノーモービルのようなものは?」
「それはどういうものでございましょうか?」
結局、輝は不精不精ながらも、執事が用意した公家用の橇馬車の、ふかふかの座席に身を委ねることにしたのだが。
「……遅い、遅い、遅すぎる!」
「何か、神楽坂さま?」
御者席から、御者が覗き込む。彼らに分からないように日本語で吠えていた輝は、いつもの営業用笑みを浮かべて、
「いえ、何も。ちょっとしたお祈りです」
「そうでしたか、失礼いたしました」
恭しく礼を尽くして、御者は橇馬車を進める。
馬車の中、輝しかいない豪奢な部屋の中で、輝は考えていた。
どこの王家でもありがちな、権力闘争。
同じ君主を夫とした、姉と妹。
二人から生まれた、争いの種。
伯爵家に澱むという、空気。
そして、伝説の貴石トル・ビフィリア。
あまりにも明確な糸が見えすぎて、輝はかえって疑問に思ったのだ。
……なぜ、そこに『悪魔』が介入する?
悪魔。
人に破滅につながる誘惑を囁く、蛇。
人間の悲哀と、憎悪を糧とする、神より分けられた黒き存在。
そう、今度のような『家庭内関係の縺れ』は悪魔にとって、つけいるには簡単なことだっただろう。
だが、一体なぜ?
何に、興味を示した?
何かきっかけがなければ、悪魔といえども、動かない。
悪魔の食指を動かす、そう、何かがあったはずなのだ。
それが分かれば、悪魔を打破することは、容易なはず。
何が?
「……麦子」
輝は、その整い過ぎる容貌に、安堵と後悔を軽く滲ませて、遠い愛しき人に言葉を投げた。
はよ、帰るからな。待っとれ。
「ん?」
ふと顔を上げた麦子は、キョロキョロと周りを見回す。
「……ん、まさかねぇ」
「どうかした?」
里子がホットミルクを入れたマグカップを麦子の前に置いて、問いかける。麦子はしばらくキョロキョロとしてみて、
「なんだかね、テルちゃんの声がしたような気がしたんだけどね」
「神楽坂君? なんで?」
里子も同じように見回してみるけれども、当然分からない。
「あは、気のせいかな?」
「そうじゃないかもよ、麦ちゃんのことが気になって気になって、幽体離脱してきてるとかね」
それなら、麦子にも見えるはずなのだが。
「違うよ〜、だっていないもん。一体、どこほっつき歩いてんだか」
怒ったようなふりをしても、決してそうではない。クドクドと輝への愚痴を並べてみても、どこか憎んでいない体が見える。
「早く帰って来ないかなぁ〜」
そう、早く帰って来て。
待ってるからね。
外は純白の、世界。
中は無明の、闇。
漆黒。純粋なまでの、禍々しい、世界。
だが、その中で会話は続いてく。
『知っている。とうの昔に、な。我等の企みどおりではないか。何を躊躇う、何を戸惑う?』
問いかけに、男は僅かの沈黙に続いて重く口を開いた。
「だが、思った以上の、男ではないか?」
『そうかもな。だが、我等によっては何とも嬉しい者が来たものよ』
「嬉しい、だと?」
『如何にも。あの者、神楽坂輝は我等にとって、もっとも忌まわしき者。我等を虐げることに喜びを感じる者』
「……なれば、なおさら」
『勘違いを起こすな、召換者よ』
呼び出された者の、怒りに満ちた声が響く。
『我等は、受けた痛みを大いなる讐として返す。この者にも、そうして返そうぞ……我等を、我等の力を思い知るがよい。我等の力をの』
召還者と呼ばれた男の左手首にはめられたバングルが鈍く光った。
『忘れるでない、召還者。そのバングルの意味を。今さら、我から離れられぬ。そうであろ?』
地に響く低い声に、召換者は小さく身震いした。
自分が招いた、大いなる禍にか?
輝に降り注ぐ怒りにか?
声が告げた、『バングルの意味』か?
たった一つ、召還者に分かっていたのは、『神楽坂輝』の訪れは、これから始まる何かの一端でしかない、ということだけだった。
「こちらです。私どもは外でお待ちしております」
「ありがとう」
御者の指し示す先に、大きな屋敷が見えた。だが、公家の橇馬車というのに、この距離はなんだろう? あそこまで、新雪で覆われた数百メートルを、客人に歩けというのか?
あまりのことに、輝は御者を振り返る。人の良さそうな御者が申し訳なさそうに、
「すみません。我々はここから先は行けないのです」
「?」
「白い魔女は、人に見られることを嫌がるそうで、公がお越しの時でも、私達はここでお待ちしている次第で……」
「……わかりました、歩いていきましょう」
不精不精に、輝は足を進めた。
「アルディシンには、魔女がいます」
魔女について教えてくれたのは、執事だった。
魔女。
キリスト教では、忌まわしき存在、悪魔を招く者、悪魔と契約し、キリストを辱める者として、その存在を全否定されたが、実際はそうではない『魔女』もいた。
古代シャーマニズムの中で、精霊を感じる者がシャーマンつまり巫女となるのは必然的であったし、シャーマンとしての能力を周りの人間が信じていた。加えて、魔女とは本来医者としての役目をも担っていた。
『人を癒す』という人とは違う能力。それ故、彼らシャーマンは尊敬され、畏怖され、結果、キリスト教によっては異教の忌み嫌われた者として『魔女』となった。
だが、執事の話ではキリスト教が根付いた現在にあっても魔女は昔と変わらず、尊敬されているという。
白い魔女と、紅い魔女。
アルディシンで尊敬と畏怖を受ける魔女の地位は2つあり、それぞれをそれぞれに相応しい能力を得た者が継承していく。
ワイリエ・マリエラ。『白い魔女』マリエラと呼ばれる老女の屋敷が、目前に広がる。輝はコートを通して染み込んでくる、壮絶な寒さに思わず溜息をついた。
内心は不満と愚痴でいっぱいなのだが、それをここで披露しても、どうしようもない。
聞く者すら、いないのだから。
なんとか、屋敷の玄関まで辿りついた輝だった。
「だぁ……まったく、なんで俺がこんな思いまでして……」
ぼやいた輝のすぐ側で、声が聞こえた。
「いらっしゃいませ。ようこそワイリエの屋敷へ。神楽坂輝さまですね?」
突然の声に、輝はギョッとした表情を浮かべて振り向いた。
「あ、はい」
「大公殿下よりお知らせを頂いております。どうぞ奥へ。ワイリエ・マリエラがお待ちしております」