麒麟

その参 靄琳とのこと、高星悩みつつ、コーニーを想う。






「また、危ないことをぉぉ……」
「いいじゃねぇか。怪我は無いんだから」
非難と、心配を複雑に視線に絡めて、高晋は高星を見る。ふてくされた表情で高星は、
「ま、お嬢さんも助けられたしなぁ」
「そのお姫さまですけど」
「?」
麒麟が跡形もなく、高星の気で消し去られて。
乳母が駆け込んだ通り向こうの八旗の家から、手勢を引き連れてくるのを見た高星は、慌てて姿を消そうとした。
『もし、御名を!』
馬上の女性の言葉に、高星は応えた。
『高星!』
『私は李靄琳! 察哈爾総官の娘です。何かありましたら、お助けいたします!』
『ありがとよ!』






「察哈爾総官の娘御ということでしたよね」
「ああ」
「確かに、李栄保さまにはご息女がいらっしゃいます。とても聡明な姫君と、引く手数多のようですが」
「そうか……」
「なんなら、私がお話申し上げましょうか? 叔父の名前でも使って……」
その時、高星は高晋の表情に、何やら複雑なものを見たような気がした。
「おい、高晋。何がおかしい?」
「え? いえいえ、おかしくなど……」
「何を嗤う?」
「滅相もない!」
「……俺が女の行方を捜すことに、問題があるのか?」
「いえ! ただ、この姫君なら、フンリさまの福晋には相応しいと」






福晋。
思いもしなかった、一言に、高星は動きを留めた。
そうだ、福晋。
先日も父帝が言っていた。一刻も早く、福晋を、と。
福晋とはすなわち、妻の総称である。皇帝の夫人ともなれば、数限りなくいる上に、いくつもの階級を分けられている。
一番上は皇后だが、貴妃、貴人などなど分ければきりがない。それらを称して福晋という。 今のところ、高星の福晋は一人もいない。






『永遠の愛を約束する』
コーニーに、そう告げた高星に、嘘はない。
許されるなら、乙女一人を愛して、生涯を共にしたい。
だが、それで皇帝の努めは果たせるか?






『子孫を、龍の血を受け継ぐ者を』
それは父帝の望み。






「私を、ですか? 父上」
靄琳は信じられない言葉を聞いて、思わず聞き返した。父・李栄保は小さく頷いて、
「そうだ。お前を、とのことなのだが……突然のお声をいただき、私も困っているのだよ。帝さまは、お前にその気がなければ断ってもらっても構わぬとは仰られたが、そういうわけにもいくまいて……」
「はい」
突然、父が宮廷より呼び出された。
慌てて参上した父に、帝は直接言ったという。
『そなたの姫、靄琳を我が弘暦の福晋、それも嫡福晋として貰うわけにはいかぬか』
嫡福晋ということは、いずれは皇后になる路が開けたということだ。しかし栄保にしてみても、突然の申し出に戸惑うばかりで、恐縮の態度で御前を辞したのだが。思いもしない申し出であったのは、本人も同じだった。
「なにゆえでございましょうか?」
「わからぬ。もしや、そなたが麒麟に遭遇したことを、どなたかから聞いたやもしれぬ」
確かに、李家は八旗・鑵黄旗に属するものの、決して皇族や宦官・士大夫とつながりがあるわけでもないのだ。あるとしたら、『麒麟の一件』で偶然にも生き残った、その幸運を買われたやもしれぬというのが、栄保の分析だった。
「……なにゆえ」
「とにかく返事を聞きに、内閣大学士輔、高晋どのが、明日の夕刻おいでになるという。返事をそれまでに考えておくれ」
「はい」
部屋から出ていく、娘を父が呼び止める。
「なにか?」
「お前がどんな結果を選んでも、それがお前の選んだ路なら、私も従うよ」
幼くして母を亡くし、男手一つで育てた娘ほど、可愛いものはない。
だからこそ、出た言葉だった。靄琳は楚々と微笑んで、
「ええ。明日までに答えを出しますわ」
ゆるくたなびく麝香の馨が、娘の動きにつられて動いた。






「なんだと!」
「ですから、帝さまのお言葉で……」
「お父上がどうした!」
「えっと、フンリさまぁ」
怒り狂う高星には、高晋が言葉を尽くしても耳には届かない。
勅命。
皇太子・弘暦に、嫡福晋を迎える。
突然の勅命に呆気に取られた高星が、我に返るのに大して時間は必要なかった。皇太子府の宦官歴々がオロオロとしている中で、高晋はあまり効果のない説得を続ける。
「お願いですから、御静まりください! フンリさま!」
「うるさい! 父上にお目通りし、勅命を撤回していただく!」
「賑やかだな。如何致された」
その場の喧騒にあまりにも合わぬ、のっそりとした口調で姿を見せた男性に、高晋は救いを求める。
「親王殿下、お助けください。フンリさまがお怒りのあまりに」
「……すさまじい、様相になっておるな」
呆れ返った様子で、果親王は荒れ狂った高星が無茶苦茶にした部屋の残骸を見回す。それから、扇子を広げて、
「フンリ、弘暦どの。嫡福晋を娶られる幸福者が如何なる仕儀かな?」
宦官たちがぎょっとして、果親王を見つめた。今まで『嫡福晋』の一件で高星は荒れているというのに。
「なんと、仰せだ……礼叔父ともあろう方が!」
「察哈爾総官の愛姫を、帝に推挙したのはこの私だよ。靄琳姫は、私の養女として後宮に上がることになるだろうね」
高星はあまりのことに、呆気に取られた。ようやく動きが止まる。
「礼叔父……」
「『偽の麒麟』に遭遇しながらも、命を絶たれることなく、生還した強さ、加えて八旗に名だたる才女とのこと。弘暦どのには相応しいと感じてな。帝さまに奏上さしあげた。帝さまが、内閣大学士によって調査をされた結果、問題なしとなったわけだ。それ以上に問題があろうかな?」
「……その才女は、納得されたか?」
落ち着きを取り戻しつつある高星が、果親王に問いかける。親王は深く頷いて、
「そこな高晋どのが、李家に赴いた。靄琳姫は承諾したと、聞いている」






「まあ、あなたは……」
「私の顔に、見覚えがございますか?」
思わずまじまじと見つめてしまって、靄琳は先に詫びた。
「……私の存じ上げている御方に、良く似てらっしゃいますので……」
そういえば、あの夜会った少年も『カオシン』と名乗っていたではないか? この男も、『カオシン』。同姓同名ということがあるだろうか?
娘の突然の会話をさっぱり理解できない、李栄保はとりあえず、高晋に詫びた。
「失礼致しました」
「いえ。私は、ある御方に恐れ多くもそっくりであるとのことです……もしや、こちらにお邪魔したのも、その為やもしれませんね」
叔父・高斌から、決してフンリ皇子の名は出すな、と厳命を受けている。だから、ここまでしかいえない。ボーダーラインを高晋は守った。不思議そうな表情をしていた靄琳姫が、不意に目を輝かせて言った。
「そう、そうですの。そういうことでしたか」
「靄琳」
「失礼致しました。あの時の欠礼を、どうぞあなた様に良く似ている御方に、お伝えください。そして、嫡福晋の件、確かにお受けいたしますと、帝さまにお伝えくださいまし。私で出来ることがあるのであらば、天が導いてくださいますでしょう」
「はい。確かに、伝えましょう」
その日の内に、靄琳姫承諾の吉報は帝に伝えられ、高晋には『勅命』として告げられたのであった。






「欠礼を、詫びると?」
「はい、そのように仰いました」
「……」
「弘暦どの、また城内に行かれましたな。さては、『偽の麒麟』の一件も」
鋭い果親王の指摘に、高晋が何とかいいわけしようとあたふたする横で、高星は考えこんでいる。
つまり、『高星=皇太子』が結びついたのだ。高晋のたった一言だけで、それを理解できるとは。なんという洞察力、なんという聡明さ。
確かに、皇后として国を治める者の補助者としては、優れた能力を持っている。
「……高晋」
「はい」
「お父上に、使者を立てよ。勅命の件、今しばらくの猶予と」
「え、はい」
「礼叔父」
「何かな」
「その靄琳姫は、私の妻に相応しいと?」
相変わらず肥った身体に扇子で風を送りながら、果親王は言葉を選んだ。
「聡明さ、洞察力、その知性。いずれをとってもこれほどの逸材は二度とあるまいての」
「……高晋、お前の衣装を借りるぞ」
「えええええぇぇぇぇ、またですかぁぁぁ」
高晋の悲鳴が、皇太子府に響いた。






「申し上げます、ご主人さま。門前に、先日おいでになられた内閣大学士輔、高晋さまがおいででございますが」
「こんな時間に?」
李栄保は、完全に闇夜となった内庭を見る。
よほどの用か? このような、時間に来るとは……。
「靄琳はどうしている?」
「はい、書室にいらっしゃいましたが」
いつもの通りだ。書物が好きな栄保の影響で、靄琳も次から次へ書物に没頭する。中でも史書は一番のお気に入りで、一度読み出したら、なかなか書室から出てこない。
「すぐに準備をさせるように。それから、高晋どのは客間へお通しせよ」
「はい」






「失礼いたします。靄琳、入ります」
「入れ」
父の言葉で、格子扉を開ける。慌てて見繕いをしたから、大して普段と変わらぬ装いで、靄琳は現れた。ただ、紅だけはさしてある。上座に座る高晋と目が合う。
何かが違う。
靄琳は思った。以前、初めて高晋が来た時、靄琳の顔を見ると、高晋は微笑んでくれたのに。今は仏頂面でいる。
何かが、違う。
「失礼いたします」
「先日は、突然の来訪を暖かくお迎えいただき、光栄でした。本日は、帝さまより皇太子・フンリさまに、勅令がくだされました」
『勅令』の言葉に、栄保の背筋が伸びる。
「嫡福晋として、李靄琳を迎えるとの宣命にございます」
「ありがたき、仰せ」
栄保が答え、靄琳は無言で頭を下げた。結い上げた髷に指された簪がシャランと鳴った。
「数ヶ月後、姫君は果親王殿下の御屋敷にお移りいただきます。そののち、宮中の作法などの所作について学んでいただき、親王殿下の養女として宮中に入られることになりますが、よろしいですね」
「はい」
口調は、高晋と同じ。
でも、何かが違う。
その時、靄琳の脳裏に幾つかの言葉が過ぎった。






『高星!』
『私の顔は、恐れ多くもある御方にそっくりです』
まさか。
でも、市井に姿を見せられたということは、そういうことではないか。
靄琳は思わず高晋を見つめた。高星が靄琳を見つめ返す。
「なにか?」
「……」
そうか。この方は、私を見に来られたのだ。
靄琳は、静かに最敬礼の姿勢をとった。驚いたのは、栄保だ。
「靄琳?」
「……皇太子殿下を存じ上げぬとは申せ、あの夜のこと、誠にお許しくださいませ」
シャララン。
簪の音。深く下げた靄琳の視線には、床しか見えない。しかし、整えられた革靴が見えた。
「頭を上げられよ。あなたを騙すつもりではなかったのだが……緊急のことであったし、あのような場所に私のような者がいたのでは、みなが混乱しようと思って、失礼した。許してもらわねばならぬは、こちらだな」
「……高晋、どの?」
突如変わった高晋の言葉づかいに、栄保だけが理解できない。靄琳が説明する。
「父上、高晋どのではございませぬ。皇太子殿下です」
「な……」
「今夜の訪れ、内密にしてもらいたい。何せ、華燭の典を上げる前に嫡福晋に会ったと知れれば、顰蹙を買うからな」
「は…」
「席を外してくれぬか? 姫に話があるのだが」
「あ、はい」
「殿下、庭の四阿に参りましょう。お話はそこで伺います。誰か、白湯でよい、四阿に持て」
栄保だけが、混乱の嵐の直中にいた。






「姫君なら、分かるだろうと思ったが、正にその通りだったな」
二人だけになって初めて、高星はくだけた口調になり、整えられた首もとを軽くはだけた。その様子を無言で見ていた靄琳は軽く目を見開いた。
「私なら、分かると」
「礼叔父、あ、果親王のことだがな」
「はい」
「世に稀なる才女、幸運の持ち主と絶賛だった」
「……恐れ多いお言葉にございますが、私はそのよう器ではありません……。何故皇太子さまは、私をお選びになられたのですか?」
一番聞きたかった問いかけだった。しかし、もし皇太子が『高星』でなければしなかった問いかけでもある。
靄琳は静かに、高星の応えを待った。
「……そうだな。なんで、だろうな? 実は、ここへは『なかったことにして欲しい』と言うつもりで来た……違うな、お姫さんを試しに来たんだ」
「私が、高晋さまと皇太子さまを見分けられるか?」
「そうだな。もし分からぬのなら、その程度のものだろうと思っていたが」
高星は強い口調で言った。
「靄琳姫」
「はい」
「俺には、心に決めた女がいる」
「……はい」
「姫はそれでも幸せになれるか? 俺の後宮に入って、それでも幸せか? 権力だけが幸せではないぞ」
「……一つだけ、お聞かせください」
「なんだ」
「皇太子さまが心に決めた方とは、如何なる方でございましょうか? 中華の『麒麟』であられるあなた様が福晋と成せぬ御方が、あなた様のお心の方、なのですね」






鋭い、指摘。高星は渋い表情で頷いた。
権力だけが、幸せを生むのではない。
そう言ったのは、自分ではないか。結局、自分も『権力なしでは幸せになれない/ならない』のか。






「そう、ですか」
「姫さん。あんたが嫌なんじゃ、ないんだ。ただ、俺は『永遠の愛』を違う女に誓った。もう、お姫さまには誓えないんだ」
「では、私は嫡福晋にはなれぬのですね」
「否」
高星は、強く、低く告げる。
もしかしたら、高星の言葉は鋼よりも重く、鋭く、靄琳を切り刻んでいるかもしれないのに、高星は真実を告げなくては鳴らないという、半ば強迫観念に捕らわれたように、次々に言葉を紡ぐ。
「『永遠の愛』はあなたのものにはならない。だが、いずれ皇帝になる者は、子孫を残さねばならない。愛だけでは、子は成らぬ。そして、皇后となる者は、聡明、知性を兼ね備えた者でなくてはならない……お姫さんは、ぴったりだ……だが、お姫さんがイヤだというなら」
「私は、そんなことは申し上げておりませんわ。皇太子様」
重い言葉を、靄琳は微笑みで受け止める。
「すべては、天がお決めになられたこと。後宮に、私が天命を受けても為さねば成らぬことが、あったからこそ、私に後宮への路が開けたのでしょうね……私は天命に従います。天の思うがままに、天の人形として、生きることを決めております……先年、流行病より甦った時から、決めております。この靄琳の命、お望みどおりにお使いください」
驚くほどの、謙虚さ。純粋さ。そして、『天命』を信じる強さ。高星は無言のまま、深く、頷いた。
「わかった……お姫さんには負けた。いつでも来るがいい」
「はい」






翌年、高星と靄琳の華燭の典が行われた。
ともに16才の春である。
高星、24才で亡き父帝の跡を襲い、皇帝として即位。在位60年の間に中華は一層の繁栄を迎え、10回に渡る遠征の結果、領地を大きく広げた。
皇后となった靄琳は、37才の時病死。
高星は、88才の天寿を全うした。




乾隆帝と、皇后富察氏の、話である。











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