麒麟
その弐 麒麟を探し,高星,姫を知る。
「ああ、おれも聞いたよ。妙な人妖が出るらしいなぁ」
「なんでも麒麟のような姿をしているらしいぞ? 吉祥かと思ったんだがな、その麒麟、人を襲うらしい」
「おれも聞いた。なんでも人の死肉を食らうそうだぞ」
市井の酒場での庶民の会話だ。だが、内容が空恐ろしい。
麒麟が人を食らう。
あってはならない、ことである。
麒麟は、聖獣。
命を絶つことは、ない。ましてや、死肉を食らうなどとは。
尋常なことではないのだ。
麒麟が現れること、これすなわち吉兆。
古来、中華ではそう呼ばれてきた。
だが、聖獣ではない『麒麟』、それはすなわち人妖に他ならぬ。
『人妖の麒麟が現れた、これは清朝の治世に天が異を唱えているのではないか』
噂は、早い。
支配階級の満州族。
被支配階級の漢族。
民衆、漢族たちは、満州族の支配が早く終わることを願っている。だから、こんな噂話にも飛びつく。
尋常ならざる早さで、噂は京師を駆けめぐる。
肉饅頭で酒を飲みながら、高星は渋い顔で花咲く噂話を聞いていた。
久しぶりに、宮殿から出た。
嫌がる高晋に身代わりを頼んで、出てきたのはよかったが、噂話だけが駆けめぐっていて、側耳を立てているだけでは、麒麟がどこに出るのか分からない。
『京師に麒麟の人妖が出る。その噂、尋常ならざるものあり。早急に、対処さるるべきと願う』
伝文に書かれた要請書。
確かに、噂の内容が噂だけに、高星は気になっていたのだ。
しびれを切らせた高星は、重い腰を上げた。
「ちょっと、哥さん。その麒麟とやらはどこに出るんだろうな?」
「ああ?」
噂話に花を咲かせていた男たちは、高星の言葉に振り返り、
「……そうだなぁ、なんでも宮城の東側だって言ってたな」
「おお、おれもそう聞いたぞ。さてはおまえさん、見物に行くな? やめとけやめとけ、お前さんも喰われてしまうぞ」
「まぁ、気を付けておくよ」
京師の中央に、宮城はある。
その名は、紫禁城。
その閉ざされた世界には、中華全域を支配する『龍』がいる。
……やがて、高星もその龍となる。
だが。
その龍の住まう紫禁城の傍らで、『人妖』が出るとは如何なることか。
高星は、辺りに注意しながら、もの想いにふける。
『帝さまに、ご報告したほうがおよろしいのではありませんか?』
高晋の言葉ももっともだったのだが。
病に倒れた父に、余計な心配事を増やしたくなかった。
自らの余命を削ってまで、民草を、中華を導こうとする、帝。
そんな父に高星は尊敬し、崇拝し、だが一方で嫌悪している自分を冷静に見ている。
やがて、父は死ぬ。否、やがてではなく、その時は近いはずだ。
そして、中華は自分が受け継がなくてはならない。
その言葉の意味を、改めて噛みしめようと、高星がしていた時。
「何奴!」
鋭い誰何の声。それも若い女性のものが、十六夜月に沈む薄暗闇に響いたのだった。
冷え冴えた空気に、張りつめた女の誰何の声。
続いたのは、やはり女の悲鳴。空気を裂く声を聞きながら、高星は声の在処を捜した。
これほど、ユニコーンに変わりたいと思ったことはない。
ユニコーンに変化して、空を駆ければ、瞬く間につけると言うのに。
か細く続く悲鳴が、次第に大きくなることで、高星はその場所に近づいていることを知る。
大通りから路地に入ろうとした瞬間。
一人の老婆が、這いながら現れて、高星とぶつかった。
「どうした、大丈夫か」
「ひ、ひ、姫さまがぁ」
泣きながら、老婆は丁寧に手入れされた身なりをしている。おそらく老婆の語る『姫さま』の侍従だろう。
ならば、襲われているのは、どこぞの貴族か。
「分かった、落ち着け。いいか、近くの八旗の家へ飛び込め。助けを求めるのだ。分かったか!」
半ば叱責も混じる高星の言葉に、腰が抜けたような老婆は立たぬ腰を強引に動かして、よたよたと、しかし必死な形相で走り出した。それを見送ってから、高星は腰帯に指した短剣を手にする。
路地を一歩一歩奥に進むと、何か嫌な音がする。
戦場に赴く者なら、一度ならずも聞いた音と似ている。
高星は、思った。
血煙の中で、聞く音。巨大な青竜刀がその身に刺さると、肉が裂ける音とともに聞こえる、骨の砕ける音。
似ている。というより、そのものだ。
遅かったか!
高星は思わず走り出し、すぐに路地を抜けた。
路地の向こうは、小さな広場になっていた。
昼間なら幾つかの露商が立ち、ささやかな賑わいを見せるその場に、薄い十六夜月が光を注ぐ。
そこにあったもの。
白い馬に乗る、女。否、まだ少女の域を脱しきれない初々しさを残す、少女が沈黙の中で、何かを見つめている。
音を産み出していたのは、やはりそこにあった。少女の一心な視線を受けて。
薄い光は、しかしそれを高星に見せる。
そこにあるのは、確かに、麒麟。青黒く、鈍く輝く麒麟の姿をした、モノ。それは、足下に転がる何かに熱心に顔を寄せている。
「なっ……」
喰らうらしいぜ、人を。
それじゃ、麒麟とは言えないよなぁ。
酒場の噂話が、脳裏をよぎる。
「そこなひと、お早く逃げられよ。あのもの、私の従者を襲いました。次は私でしょう」
落ち着いた声。
それが高星の驚愕を、確かに現実に引き戻した。
その声が少女が発したものであることに気づくのに、半瞬かかったのは、あまりにその容貌と声の落ち着き振りが一致しなかったからだ。
「お姫さん、あんたは逃げないのかい?」
「……馬が動きません。恐怖のあまりでしょうが。この馬は見捨てられません。そのために、私が犠牲になるのなら、致し方ないでしょう」
思いもしなかった、言葉。
自分が動けないのではなくて、馬の為に動かないとは!
「……お姫さん、そりゃ無駄死にだぜ?」
「ここで死ぬばかりの運命なら、それまででしょう。それは天が定めた命です。天に逆らうは、愚かなことです。もし私が為さねばならぬことがあるのなら、天は活かされるはずです」
投げやりと言うより、確信に満ちた言葉。まるで、自分は助かる、と信じているような……だがそれは無知故の愚かさではなく、純粋故の賢さのように、高星は感じた。
「しゃあねえな。じゃ、ちっと下がって待ってろ」
「?」
麒麟に気取られぬように注意しながら、高星は少女の馬の近くまで来て、軽く馬の首を叩いてやる。
すると、緊張が少しは解れたのか、馬は軽く身震いをして、後ずさりする。
ブルル。
馬の鼻息に、麒麟が微かに反応を示す。
伝説の聖獣。
確かに二本の角と、豊かな体毛、全身を覆う鱗は、見慣れた彫刻の麒麟と同じだ。
だが何より色が違う。彫刻に見える麒麟は深みがかった青色なのに対して、あの麒麟はなぜ青黒いのだろうか。双眸は爛々と深紅に輝き、口元には犠牲者の血がこびりつく。
『……ナニモノ』
確かに、声だった。
嗄れた、男の声。否、男なのか、女かは分からぬ。ただ微風が微孔を撫でたような、奇妙な声が、確かに麒麟から発せられた。
『ナンジノ、キハ、ツネビトトハコトナル。ナンジ、ナニモノゾ……ワガシュクガンヲジャマスルカ』
「……お前、何者だ。麒麟の姿をしているが、そうじゃない。麒麟どころか、お前の気は邪気そのものだ」
高星の低い誰何に、麒麟は微動だにせず、応える。
『マンゾクカ! マンゾクハ、メッスルノミ! ミンノタミニアケワタセ!』
動かぬ麒麟から、激したかとばかりの激しい言葉。そして、その言葉の内容に、高星は思い出すものがあった。
『滅びよ! 清の龍族ら!』
そう叫んだ男がいた。紙人形を操り、コーニーとの間を裂こうとした、道士がいた。
漢族と、満族。
また。
また、繰り返すのか。
互いが争っても、なんの得もないというのに。
「……あれは真の麒麟ではないのですね、恐らくは麒麟の彫刻を使う、漢族の道士、ではないですか?」
端的な、指摘。
この少女にこれほど分析できようとは。高星は驚きを隠さず、しかし先程から気になっていたことを問う。
「お姫さん、さっきそこで婆さんにあったんだが、あんたの知り合いかい?」
「私の乳母です。ここから逃がす為に、近くの叔父の家に助けを求めさせましたが、途中で失神してはいないでしょうか。気が小さい者ですから」
「……その心配はない。さっき近くの八旗の家に駆け込めって、言っておいた」
「そうですか、ありがとうございます」
その一言にも、驚かされる。
決して際だった美貌ではない。乳母以上に美しい衣服を身に纏ってはいるものの、しかし彼女の柔らかな雰囲気は消していないのだ。
そして何より。その柔らかな雰囲気の奥に潜む、一瞬人に息をのませるほどの、尖烈なまでの、知性に満ちあふれた表情が、彼女を、彼女たる存在にしているのだ。
高星は不意にそう思った。
「……とりあえず、あいつを退治しないとな」
「あなたは、あの麒麟を鎮める術をご存じなのですか?」
「……出来る、とは断定できないな。ただ、善処を尽くそう」
「あの麒麟ですね。夜な夜な人を喰らうとは」
途中で彼女の声が途切れた。
高星が瞠目したのが、見えたからだ。
身体に染み込むような、沈黙の中で、荒れ狂う麒麟の鼻息だけが聞こえる。彼女の座する馬ですら、雰囲気を察して息を殺しているというのに。
コーニーに出会って、乙女に教わったことは、気は、鎮めるものであり、荒ぶるものであるということ。今までだって使いこなしているつもりでいた。なのに、コーニーの出現は、気というものが二面性を持つものだと、認識させてくれたのだ。
鎮まる/荒ぶる。
壊す/作る。
二つの顔は、互いに通ずる顔。
高星は、コーニーのことを思いながら、自らの気を練る。
厚く、深く、広く、大きく!
『シヌガイイ! マンゾクメ!』
麒麟が空虚な眸をカッと開き、駆け出すのと、高星が走り、麒麟の身体に自らの両手を押しつけるのはほとんど同時だった。
閃光が、走る。
広がる。
辺りを白く、埋めていく……。