夏の日に。01






颯爽と、風が吹く。
一陣の風を巻き起こすのは、少女。
そのスピードに誰もが振り返り、必死の形相の彼女を見る。
『まあ、元気な女の子ね』
『可愛らしいわね、いくつくらいかしら』
英語でにこやかに交わされる言葉に、少女が聞いたら、否、理解出来たらどんな表情を浮かべただろう?
「ほぇぇぇぇ、あたし、16歳だよぉぉぉ」
東洋人は幼く見られがちだが、少女は輪にかけて童顔だから仕方ないと言えば、仕方ないのだが。
「遅刻、遅刻、遅刻!」
ローラーブレードで器用に人並みを避けながら、さくらは進む。
「なんで、李くん、起こしてくれなかったのかなぁ!」





木之本さくら、16歳。
星條高校1年生。バトントワリング部所属。
そして、『さくらカード』を持つ、『魔術者』である。





「遅い……」
いつもギリギリに駆け込んでくることは分かっている。
それでも、いつも、同じようにヤキモキさせられる。
同じことの繰り返し、それでも、いつも違う。
この感情の繰り返し、そして違う感情の紡ぎあい。
李小狼は本日28回目のため息をついた。





李小狼、16歳。
星條高校1年生。サッカー部所属。
稀代の魔術師『クロウ・リード』の血脈を受け継ぐ者である。





「さくらちゃん、間に合いましたかしら?」
「ま、いつものことや。多分ギリギリか、ちょうどやないか?」
「そうですわね」
腰よりも長い黒髪が、彼女が微笑みとゆるりとたなびく。
黄色いぬいぐるみ。背中に翼がある、犬のようなぬいぐるみが窓の外、どんよりとした空気を見つめている。





大道寺知世、16歳。
星條高校1年生。合唱部所属。
さくらの従姉妹にして、幼なじみでもあり、深い洞察力でさくらを支える。





封印獣・ケルベロス。
クロウ・リードによって生み出されたクロウ・カードの守護者にして、主を『選定する者』である。





クロウ・カードをすべて集め、
『審判者』ユエによる『最後の審判』を切り抜け、
クロウ・リードの生まれ変わりである柊沢エリオルの、試練を受けながら、
さくらカードを生み出した、
あの日々から4年近くが過ぎた。
3年前、さくらの前に香港に帰った小狼が現れ、
魔術の戦いはなかったが、それまでの生活に戻った。
お互いの『思い』を伝えあったさくらと小狼は、星條高校でも有名な『おとぼけカップル』で。
知世は『大道寺グループのお嬢様』で。
さくらの兄・木之本桃矢は某一流出版社に就職し、
ユエのもう一つの人格・月城雪兎は絵本作家となり、
それぞれの路を歩みつつある。





それは夏休み少し前。
「お母様が、パリに家を買いましたの。で、夏の間好きに使っていいって仰りましたから、みんなでパリへ遊びに行きましょうよ」
いつになく積極的に知世が進めた、話だった。
高校が夏休みに入って、知世とさくらと雪兎(ケルベロスは荷物に隠れて)、サッカー部の合宿を終えたその足で小狼が、パリに向かうことになった。
呼び鈴の音に、スリッパをパタパタ鳴らしながら、さくらが重厚な玄関の扉を開くと、
「お父さん! 李くん! なんで二人が一緒に?」
小狼が来るのは予定どおりだった。サッカー部の集中合宿を終えてから、来るといっていたから、その通りだったのだが、父の木之本藤隆まで来る予定はなかったはずだが?
「飛行機で一緒になったんだ」
「桃矢くんがね、行っておいでって。ちょうど大学は夏休みだしね」





「はっくしょん!」
盛大なくしゃみに、編集部にいた全員が振り返った。くしゃみの主は、もう一度小さくくしゃみをしてみせて、
「おい、木之本風邪か? 無理すんなよ!」
「はい」
桃矢は軽く鼻をこすってみせて、
「予想通りにならないように、父さんに行ってもらったんだからな……頑張ってくれよ、父さん」
知世の母・園美が買い取ったアパルトマンはパリ市内の一等地に立つ建物の最上階すべてで、部屋数は20以上だから、さくらたちの個室もあるわけで。
「明日は市内観光に二人で行ってらっしゃいな」
「ほええええええ」
「それ、いいな。じゃ、明日9時に三角広場で待ってるからな」
ひとり慌てふためくさくらに、微笑みながらそれを見ている知世、あっさりと予定を決める小狼。
「こいつら、つきおうてる自覚あるんかいな?」
「……でも、いいコンビじゃない?」
「ゆきうさぎ、それを言うなら『カップル』ちゃうか?」
「あはは、そうだね」
なんだか眠れなかったさくらは、小狼が出かける時間にも、朝食の時間にも起きて来ないで、
「今日はさくらさん、遅刻しそうなくらい、ゆっくりですねぇ」
藤隆が食後のカフェオレを楽しみながら、言う。
「そうですね。李くんはもう出かけたのに」
「それにしても、李くんはなんでここで待ち合わせしなかったのかなぁ」
「恥ずかしいからですわ。みんなに見送られるのが、ですわ」
そんな朝食が終わりかけた時。
「ほぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ、なんでぇぇぇぇぇぇぇ」
「起きられたようですわね」
「起きましたね、さくらさん」
アパルトマンに響き渡る、さくらの絶叫だった。





「そうですか、パリに」
『なんなら、住所教えようか?』
桃矢の声に、エリオルは相手には見えないが微かに微笑んで、
「いいえ、いいです。ご存じでしょう? お父様がおいでているなら、私には簡単に見つけることが出来るでしょうから」
『……そうだったな』
「ありがとうございました。お二人に何か伝言は?」
『かまわないが……パリで何かあるような気がするだけさ』
「ええ、そうですね」
かつて成長を止めていたエリオルだったが、魔力を分けて以降、確実に成長している。一層大人びた容貌に、微かな苦渋を込めて、エリオルは答えた。
「そう……何かあるかもしれない、ですね」





「あ、小狼くん!」
フランス語ばかりの中に響き渡る、日本語。
遠くで、手を振っているのが見える。
安堵のため息をついて、小狼は手を挙げた。
「こっちだ、さくら」
「ほぇぇぇぇ、ごめんねぇぇぇぇ!」
人混みを避けて、小狼の近くまで着いたさくらだったが、今度はブレーキが間に合わず、
「ほぇぇぇぇぇぇ!」
「危ない!」
小狼が慌てふためくさくらの体を抱き留めて、ようやく止まった。
もっとも勢いついたさくらを受け止めたことで小狼は尻餅状態、その上にさくらがへたり込んでいるという、みっともない姿ではあったが。
「あ、ごめん、小狼くん」
「さくら、お前なぁ……」
ため息混じりにさくらの顔をにらみつけた小狼だったが、すぐに苦笑に変わった。
「なんだよ、それは」
「ほえ?」
「変な頭してるぞ?」
「ほぇぇぇぇ?」
大爆笑している小狼と、髪の毛を直すのに必死なさくらの、微笑ましい光景がそこにあった。





「桃矢も気づいていたのね」
「彼の魔力は、ユエによってすべてなくなったとは、言い難いのかもしれないね。だから、何となくでも、未来に起こることを予想できるのかもしれない……私はもう、出来ないけれど」
「エリオル」
心配そうに自分の顔をのぞき込む愛妻に、エリオルは微笑み返して、
「大丈夫だよ、歌帆。彼女には、無敵の呪文がある」
「……そうね、さくらちゃんには『絶対、大丈夫』があるわね」
「準備を始めようか。スピネルとルビーにもついてきてもらった方がいいな」
「ええ」
そのとき、歌帆の腕の中の赤子がむずがる。軽くあやす歌帆から、エリオルは赤子を受け取って、微笑みながら、我が子のすべやかな頬に触れる。
「ルシエルも連れていくんでしょう?」
「そうだな。やはり、その方がいいと思う」
「さくらちゃんと小狼くんに見せつけてあげるの?」
「歌帆、二人はまだ子供だよ?」
「ええ、私と結婚した時、エリオルは戸籍上は16歳だったわね」
「……そうだな」
あわただしく部屋を出ていく妻の背中に、エリオルは微かに微笑んで、小さくため息をつく。
「……再び、戦いの災いが、二人に降る……か。惨いことにならなければよいけれど」





「で? 二人でどこ行っとったんや?」
「えっとね、オープンカフェでお昼を食べて、エッフェル塔に登って、公園散歩して、お茶して、帰ってきたの」
「なんやそりゃ〜」
ぬいぐるみのケルベロスが関西式つっこみをしてから、がっくりと頭を垂れた。
「お前ら、何年つきおうとるんや」
「楽しかったかい? 二人とも」
「うん!」
「楽しかった」
ケルベロスのつっこみには気づかない二人が、藤隆の言葉ににこやかに頷く。
「あ、ケーキを焼いたんだよ。ブルーベリーのタルトだけど」
「食べる!」
「では、私はフォションのアール・グレイを入れますわね」
「あ、手伝うよ」
パタパタとスリッパでダイニングキッチンに消えていくさくらの後ろ姿を見送る小狼をケルベロスがつっこむ。
「おい、小狼」
「なんだ、ぬいぐるみ」
「むっかー、相変わらず腹立つやつやな! ほんまのところ、どうなんや、さくらと上手いこといっとんのか?」
「なんでお前にそんなこと報告しなきゃならねぇんだよ」
「わいか? わいは、保護者や」
「保護者は、藤隆さんだろが」
「あぁぁ? 相も変わらず屁理屈こねくさって!」
ケルベロスの体がほんわりと光ったのを見て、小狼は慌ててその場から離れようとするが、遅かった。
「さくらに手ぇ出したら、わいが許さへんで。分かっとるんか? 小僧が」
元の体、封印獣ケルベロスに戻ってしまったら、魔力でも、体力でも、小狼はケルベロスにかなわない。
背中の上にケルベロスの全体重を感じて、小狼は息絶え絶えに声を振り絞った。
「重たいってば、ぬいぐるみ!」
「そやないやろ! ケルベロスさま、ぐらいは言えんのかい!」
「仲良さそうだねぇ」
緊迫した雰囲気を割って入ったのは、雪兎だった。肩につく寸前まで伸ばされた髪が柔らかそうにふわりと動いた。
その瞬間、
ケルベロスと同じく、ほんわりと雪兎が輝いた瞬間、雪兎がいた場所に、ユエが立っていた。銀色の双眸を憂鬱そうに辺りに走らす。小狼を踏みつけたまま、ケルベロスが声を上げた。
「どないした、ユエ。最近はあんまりなかったんとちゃうか? ゆきうさぎ押しのけて出てくることは」
「少しは休まさないと、こいつは寝ない。仕事を持ち込んだら、強引にでも出てくるようにしている。あいつがそれを望んでいるからな」
「あいつ? ああ、兄ちゃんのことかいな」
「そうだ。しかし……」
ユエは近くの窓辺により、勢いよくカーテンを開けた。
入ってくる明るい陽光に、ユエは目を細めて、
「何か、来るような気がする」
「何かてなんや?」
「さあな。懐かしいもの、禍しいもの、幸福を招く者、災いを招く者、どちらかか、両方か、だな」





打ち鳴らすは、鎧か、槍か。
聞こゆるは、妙なる調べか、我を呼ぶ詠唱か。
時は既に熟し、
力も既に得たり。
我を、呼べ。
我の名を、詠唱せよ。
我が名は、クレイメネス。
力在りし者を、打ち倒す者。
それを望む者、我が差し出す救いの腕を、掴むが良い。





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