夏の日に。02






ちゃぽん。
水面に広がり、消えていく水紋。
だれ、泣いているのは?
誰? 悲しいの?
『そう……あなたはまだ苦しんでいるのね、クレイ』
黄金の髪が、揺れる。
蒼碧の瞳から零るるは、大粒の涙。
水面に自らの姿を映しながら、女性は呟く。
『誰か、助けて。あの人を。私の対なる者を』
……誰を助ければいいの?
『私の……愛しい半身を』





「おそよう、やな。さくら」
「ほぇ? こんな時間なの?」
いまいち視点の定まらないさくらは、それでも視線の高さまで浮かんできたケルベロスを見つめる。
「おはよう、ケロちゃん」
「おそよう、やで」
「ふにゃぁ」
「……眠そうやな」
「うん、夢、見たからかな」
「夢、かい」
「うん」
さくらの夢は、只の夢ではないときがある。
さくらの魔力が見せる夢は、時として未来夢であったり、過去夢だったり、時には
「単なる寝ぼけやったりもするんやけどなぁ」
「ほえ?」





「おはよう、さくらさん」
「おはよう、お父さん」
知世のアパルトマンには執事もいれば、メイドもいるのだが、せっかくのバカンスシーズンだからと、藤隆の意見を入れて、(ケルベロスとユエの姿を見せるわけにはいかないこともあって)彼らにはアパルトマン利用の間、休暇を与えているから、だいたいのことはみんなが分担してやっている。今日の朝当番は藤隆で、ほかほかのクロワッサンとカフェオレがさくらの前に差し出された。
「いただきます」
「はい、どうぞ」
そのうち、朝食を済ませた小狼も姿を見せて、さくらの夢について話していたのだが、やがて藤隆が思い出したように声を上げた。
「そうだ。今日、エリオルくんが来ますよ。多分、みんなを連れて」
「へ?」
「お父さん、分かるの?」
「魔力を分けてもらってから、魔力らしいことは何にも思わなかったんだけどね。朝、なんだかふっと思ったんだよ」
「すごいなぁ、ちゅうことは間違うのうエリオルは来るな」
「そうかな」
「双子は自分の半身がどこにおっても、分かるちゅうもんらしいからなぁ。そういう意味ではお父はんも、エリオルも双子になるな?」
「そっか……」





「残念だなぁ、木之本くんが来てないなんて」
「仕事みたいね。でも、月城くんは来てるらしいわよ」
「月城くんだけじゃ、面白くないんだって! 二人揃わなきゃ」
後部座席でパタパタと暴れているルビーを見て、ルシエルがキャラキャラと笑っている。
ハンドルを握りながら、エリオルはミラー越しにそれを見て微笑んでいたが、瞬間、眉をひそめた。
歌帆がすぐに気づく。
「エリオル?」
「……いや、気のせいかもしれない。なんだか、邪悪なものがいたような……」
「気のせいではないかも。私も感じました。なにか黒いものが近くを駆け抜けて行ったような……」
スピネルが警戒しながら周りを見回す。
しかし、高速道路の上、停車するわけにもいかない。
しばらく静まった車内で、ルシエルだけがにこやかだった。





『すまない、お前たちを世に出すことが出来なくなった……師は亡くなられたのだ』
『モーリー、どういうことだ!』
『師は……異端審問にかけられた。お前たちのために、口を閉ざした……マルグリットのためにも』
『いやだ、俺はどうなるんだ!』
思い出せば、心の内奥が涙を流す記憶。
男は、二の腕の半ばからない、左手を見つめる。
「クレイ?」
女が、ない片腕をじっと見つめる男に声をかけた。
「腕が、痛むの?」
「……いや、そうではない」
「そうね、あなたには痛覚はないはずだから」
さらりと、非現実的事実を述べて、女、マルグリット・アグラスは、男を見つめた。
マルグリットが、男を見つけたのは、数十年前に閉店した骨董品屋の倉庫だった。代々、魔女を多く生み出してきたアグラス家の末裔だけに、生まれ持った魔力は強かった。
しかし、彼女にアグラス一族の誰もが、その魔力の引き出し方、使い方を教えなかったのだ。
理由は、一つ。
「あの子は、マルグリットは、アグラスの人間ではないんだよ、半分はね。残りの半分は、娼婦なのさ」
父はアグラス家の統領、しかし母は有名な舞台女優であったこおとが、マルグリットへの蔑みの起因だった。
認められたい。強くなりたい。
そう願うマルグリットの前に現れたのは、





我を、呼べ。
我の名を、詠唱せよ。
我が名は、クレイメネス。
力在りし者を、打ち倒す者。
それを望む者、我が差し出す救いの腕を、掴むが良い。





結果がどうなろうと、マルグリットには関係なかった。
力が、ほしい。
その一心で、不思議な魔力を発する小さな銅像に触れて、
「目覚めよ、クレイメネス」
封印の呪文は解かれ、小さな銅像は凛々しい壮年の男になった。





片腕の男。
強い魔力を発する男、しかし、人ではない。
人の姿をとって以降、クレイメネスはマルグリットに魔力について教え始めた。
しかし、マルグリットが独学してきた、魔術とは全く違う。
反論の声を上げるマルグリットに、男は静かに諭した。
『そうだ、これはヘブライ古来の魔術とも、ドルドイ魔術とも、ケルトでもない。私を作った私の創造主たちが編み出した魔術体系だ』
『編み出した? そんなことができるの?』
『高度な知識と、それを支える魔力があれば、出来ないことはない。だが、魔術体系まで完成させていたのは、私が知る限り、5人にも満たないはずだ』
『難しいんだ』
『私の創造主は、高度な知識をある学者が、魔力はある女性が持ち合わせて、力を合わせて体系を完成させた。加えて、魔力を持っていた女性は、あなたの先祖にあたるから、魔力の系統は近いものがあるから、魔術も扱いやすいと思うが』
『どういう人たちだったの?』
『マルグリット……あなたと同じ名前を持つ、少女だったよ』





「エリオルくん!」
「やあ、さくらさん。お元気そうですね」
小さな小さな、何かを抱えたエリオルが、いつかのように微笑みながら、アパルトマンのドアの向こうに立っていたのを見つけて、さくらは思わずアパルトマンの中に叫んだ。
「みんなぁぁぁ! エリオルくん、来たよぉ!」
「おや、まるで分かっていたようですね? 驚かせようと思ってきたんですが…ああ、そうか。藤隆さんですね」
「そう、お父さんが言ってたの。もしかしたらみんな来るかもって」
その時。
エリオルの腕の中の、何かがもぞもぞと動き、
「? エリオルくん、何持ってるの?」
「ああ、この子は」
「この子って」
「ふぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
思いもしない大音量に、さくらは思わず耳を塞ぐ。
「ほぇぇぇ、何……」
さくらの呼び声と、その声に驚いた何人かが玄関にそろい、タクシーから荷物を下ろした歌帆と、奈久留が追いついた。
「あらあら」
「さくらさんに初めて会って、びっくりしたのかな」
エリオルの腕から、歌帆の腕に。何かが移って、声は小さくなり、甘える笑い声が聞こえ始めた。
「まあ、かわいい赤ちゃんですこと」
いつの真にやら、知世がカメラを回している。幼子はカメラをじっと見つめて、にっこりと満面の笑みを湛える。
「まあ、かわいい♪」
ずずいと接近する知世と、赤子をあやす歌帆に呆気にとられていた一同が、小狼の声で我に返った。
「エリオル……、この子、もしかして」
「ええ、私と歌帆の子です。名前は柊沢璃帆。私たちはルシエルと呼んでいますよ」
「えぇえぇえぇぇ!」





清涼なミントの香りが、部屋いっぱいに広がる。
「どうぞ」
「ありがとう……ミント・ティーですか?」
藤隆の差し出したティー・カップを受け取ったエリオルに、知世が笑顔で答える。
「スペア・ミントに少しだけレモングラスを入れていますの。ほんの少しだけですけれども」
「……良い香りです」
アンティーク調のテーブルに、少しだけ口を付けたカップをソーサーごと置いて、エリオルは笑顔で藤隆を見つめた。
「気づいてらっしゃいましたね」
「そうだね、今朝、とても君が来るような気がしていた」
藤隆は軽く目を閉じて、
「きっと、来るだろうと、強く感じた」
「そうですか。私は、あなたがいると感じた方向に車を走らせただけですが……。相変わらず、繋がっていますね」
姿形こそ違えど、誰もが似ていると感じるその二つの微笑みは、言葉を交わさずとも会話として成立していた。
「さくらさん、それではルシエルが少し苦しいようですよ」
「ほえぇぇぇ、ルシエルちゃん、ごめんねぇ」
スピネルの指摘で、あたふたしながら紙おむつをゆるめようとしていたさくらの横から手が伸びる。
「俺がやる」
小狼は、いとも簡単におむつを良い具合にゆるめる。奇妙な表情をしていたルシエルが満面の笑顔に変わる。
「きゃは!」
「見てみぃ、さくら。あかんぼは正直やなぁ。不器用なさくらより、器用な小僧の方がええんやなぁ」
「ケロちゃん!」
「上手ね、李くん」
「……別に。姉上たちのこどもを見たことがあるからだ」
それは、『見た』というより、『世話を押しつけられた』というんじゃないのかしら?
事情を知る知世は心の中で呟いた。





「夢を、見たの」
エリオルの近況説明が終わった頃、さくらはぽつりと呟いた。
『夢は、力が見せる、未来か、過去か……それは起こった事実、起こるであろう真実』
故に、さくらはエリオルの言葉を、常日頃から気にしていた。
そして、見た夢。
「……その女性の顔を覚えていますか?」
一通り話した夢の話を、反芻するようにエリオルが声を上げる。眼鏡に軽く左手を添える、エリオルが真剣な表情で考え込む。
「えっと……とってもきれいな人だったよ。でも、ずっと泣いていたから」
「……助けて、と言ったんですね? 私の対なる者を、と」
「うん」
「エリオル、それって……」
珍しく、スピネルが声をあげる。エリオルは小さく頷いて、
「間違い、ないでしょうね。さくらさん、あなたが見た女性は、おそらく『ホムンクルス』で、二体あるうちの一体でしょう」
「え?」
「つまり、わいとユエみたいな『対なる存在』なわけやな」





「クレイ、どうかしたの?」
マルグリットの声に、クレイは我に返った。
「……いや、強い力の存在が一同に会しているようだが……それもこのパリに」
「え?」
「なぜだが、分からないが……一つは知っている力だ」
「知って、いるの?」
クレイの顔をのぞきこんで、マルグリットは言葉を失う。
何という、表情だろう……。今まで見たこともないような、厳しさ……。
否、見たことがある。
クレイを銅像から甦らせた時、見た。
悲しげで、苦しげで、そして決意に満ちた表情……。
「ああ、これは……クロウ・リードの力の気配だ。稀代の魔術師と呼ばれた……」





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